ボストン美術館にもいろいろ怖い絵がありますが、なかでも強烈だったのがこれでした。
英国の画家ターナーの『The Slave Ship(奴隷船)』。
1840年の作品ですが、1781年に起きた実際の事件を題材にしています。
限度を超えて奴隷をぎゅうぎゅうに詰め込んで船出した英国籍の奴隷船Zong号が、途中で飲料水が足りなくなったために、主に女性と子どもの奴隷132名を海のまんなかに投げすてたという事件。
水が足りなくて奴隷が衰弱死すると「自然死」とみなされて保険金が下りないために投げ棄てた、ということで後日保険会社とのあいだで裁判となり、世間の知るところとなって、英国での奴隷制廃止運動を後押しすることになった事件だそうです。
英国で奴隷制が廃止されたのは1833年。
ほかの国、とくにアメリカではまだまだその後30年以上も奴隷制が続いていた時代に描かれたものです。
ターナーというと水彩画で有名ですが、これは油彩画。
ダイナミックな波と夕陽の間に去っていく船の手前には、よく見ると波間にたくさんの手と鎖が目に入って、ぞっとします。
そして画面の右手手前には、まぎれもなく人の足が。女性のものらしい足が、足首に鎖をつけられたまま、一斉に寄ってくる魚たちの餌食になっています。
昨年ボストンに見に行ったときには、この絵にインスピレーションを受けて制作されたハイマン・ブルームの『Sea Scape II』という絵が、同じ部屋に展示されていました。
ふだんはボストン郊外のダンフォースアート美術館に所蔵されている絵。1974年制作。
このときは、ボストン美術館で開催されていたハイマン・ブルーム展のために貸し出されていました。
こちらはターナーの魚たちよりさらに凶暴さを増し、必死に肉を喰らう、命の恐ろしさが画面いっぱいに描かれています。
ハイマン・ブルームという人は全然知らなかったのだけど、50年代、ポロックと同時代に抽象表現主義で注目された人で、その後、皮を剥がれたり腐乱した動物や人体という独特の主題に入り込んで独自の境地をひらいた人。
ユダヤ系で、東ヨーロッパのリトアニアから第二次大戦前に迫害を逃れてアメリカに移住し、ボストンにずっと住んでいたようです。
ハイマン・ブルーム展は、全部で20点かそのくらいだったかと思います。わりあい小規模の展覧会だったけれど、題材がどれもこれも生々しくて、点数のわりにかなり体力を消耗しました。
たしかに恐ろしく引き込まれる題材ではあり、美しさがないかといえばこれも美しさであるけれど、日常的な感覚から「そちらの感覚」へよいしょと移行するには、やはり気力と体力を使います。
なぜこんな不快なものを見せるのだと怒る人も当然いると思う。それは責められるべきじゃないし、これを美しいと思えと強制すべきでもないかわり、こんなものを展示するなと規制すべきでもない。
アートは、ルノアールみたいにひとをキラキラ幸せにするだけでなくて、ときに異物を口につめこまれるような違和感や恐怖を催させるものですね。
何十年という時間をかけてそれを真剣にやっているひとの作品には、それなりに真剣に対峙するとなにかしら得るものが必ずあると思います。
そうしたくなければ対峙する必要もまったくないわけですが。でもそういう幅がひろくあることが、社会の豊かさなのだろうなと思う。
この足の絵は個人蔵で、どこかの美術館のキュレーター宅で食卓の上に飾られていたそうです。いい趣味ですね…。
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