2018/02/08

さまよう猫のタマシイ



やっと、長いトンネルを抜けて放心状態。

先週までの2週間は翻訳稼業をやってきた中でも一番ハードだった。もちろんスーパーボウルも見れず。

そんななか半分寝ながら書いたデジタルクリエイターズの回です。

自分ではけっこう気に入ってたんだけど、70歳の柴田編集長には完全スルーされ、しかも知らないうちにタイトルが「さまよう猫のタマシイ」から「猫シッターで考えたワンダーラスト」とかに変わってた。あら。

よほどつまらなかったのか、やばい系だと思われたのか。まあいいや。

でもそのかわり、「猫を2ダース飼っている」という方からメールをいただきました。

では以下、「さまよう猫タマシイまたはワンダーラストについての考察」です。




年に何度か、猫シッターに行く。

知人のご夫婦が日本にセカンドハウスをもっていて、年に1度か2度長期間日本に滞在する。そしてシアトル近郊のひろびろした邸宅に4匹の猫たちが残されるので、その皆さんのお世話をするのがわたしの任務である。



2匹はメンズ。

繊細で好き嫌いが激しいお公家さん的な性格のリンタロウ君と、耳が聞こえないためかまったく空気が読めないシンノスケ君である。

この子たちはもう10年以上この邸宅でのびのび暮らしている。



そこに去年加わったのが、2匹のガールズ。ふたごの(ほんとは多分五つ子か六つ子だったのだろうけど)ハナちゃんとノラちゃんで、まだ1歳未満のぴちぴちギャルズだ。

この4名の間に繰り広げられる猫ドラマは、かなりのエンターテイメントだった。

特にふたごギャルのハナちゃんとノラちゃんのキャラクターの違いには瞠目すべきものがあった。



今回は、その猫ドラマの一端をご紹介したいとおもう。

まずハナちゃん。この子は、満腹中枢がどうかしてるのかねと思うくらい、よく食べる。

ほかの子たちは、缶のフードをめいめいのお皿に少しずつあげても、ほんのちょっと食べるとどこかに行ってしまう。彼らが集中して食べている時間はほんの1分足らず。そしてしばらくするとまた戻ってきて思い思いの時間にちびちびと食べる。

リンちゃんなんかは、ほんのちょっと上澄みをなめただけでぷいっと中庭のドアのほうへ向かい、「まろは散歩に行くでおじゃる」と外遊を要求する。そして、しばらくして戻ってきてからまたフレッシュな気持ちで残りを食べるのがルーティンである。

でもハナちゃんだけは、完璧な集中力を発揮して目の前のごはんに取り組み、ほぼ完食するまで食べ続けるのだ。ハナちゃんの注意がごはんからそれるのは、自分が食べ始めた後で他の猫がごはんをもらっている時だけだ。

みんなが自分とまったく同じものを食べているのにもかかわらず、この娘は人の皿めがけて突進し、頭をにょっと横から割り込ませて食べ始めようとする。

この攻撃を受けると他の3名はすごすごと退散してしまう。特に王子様のように繊細なリンちゃんは、ハナちゃんが近くに寄って来ただけで食べる気を喪失するらしく、即退場する。

そのまま放っておくとハナちゃんは他人の皿に盛られたごはんを余すところなく順番に食べ尽し、最後に自分のお皿に戻って、これもまたきれいに食べる。まるで『千と千尋の神隠し』に出てくる「カオナシ」を見ているかのような、圧倒されるような食べっぷりである。



もちろんそれには結果が伴い、持ち上げてみるとまだ8カ月という小さい身体に見合わないずっしりとした重量感がある。そのままでは異常に巨大化してしまうのが目にみえているため、食事時間にはハナちゃんが他人のごはんの近くをうろつかないよう隔離しておく方策を取らねばならない。

ごはんのみならず、ハナちゃんは何に対しても躊躇がない。猫たちはみんなヒモの先に羽根のついたおもちゃが大好きで、これをリビングの真ん中でブンブン振っていると皆がたちまちそわそわしはじめるのだが、真っ先に飛び出してくるのはやっぱりハナちゃんである。

ギャルズがあまりにパワフルにリビング中で破壊活動を繰り広げるためヒトが眠れないこともあるので、夜の間二人だけを別の部屋に隔離しておくこともある。朝迎えに行くとドアのところで待っていて飛び出してくるのはハナちゃんで、姉のノラちゃんは必ず数メートル遅れて、妹の後を追う。


リビングにはプラスチック製のおやつディスペンサーがある。40センチくらいの高さで、3階建ての丸い立体駐車場みたいな形になっていて、ヒトがてっぺんの穴からカリカリおやつを入れると、まわりにいくつも開いた穴から猫が手をつっこんでそれぞれのレベルの床の穴に次々におやつを落としていき、最後に一番下からおやつが外に出てきて食べられるという仕掛けになっている。

このディスペンサーに入ったおやつが食べられるのはハナちゃんだけである。

というか、敢えて挑戦するのがハナちゃんだけなのだ。
おやつを取り出すと皆わらわらと寄ってくるのだけど、ディスペンサーに入れたものにはハナちゃん以外見向きもしない。ハナちゃんも、まず床にあるおやつをしっかり食べてから、ディスペンサーに向かう。

で、このディスペンサーは一見パズル的な、ちょっとした知力を要求するもののように見えるのだが、そうではない。必要なのは、食えるまで絶対にあきらめないという強い意思だけなのだ。ハナちゃんはとにかく怒涛の勢いであらゆる場所から手を突っ込み、やみくもにかき回している。すると、そのうちおやつが下から出てくる。彼女にとってこれは、上段>中段>最下段という段階のあるパズルではなくて、「ひとかたまりの障害物」にすぎないようだ。

常に忖度も斟酌も躊躇もなく目の前のものを全力で追い求めるハナちゃんは、まるでシリコンバレーのスタートアップ企業の人か、投資ファンドのマネージャーのようである。

資本主義社会で勝ち残っていくにはこういう何をも顧みないドライブが必要なのかもしれないなあ、と思わされる。

ハナちゃんが人間だったら、きっと中学生の時からビットコインで5億円くらい儲けてると思う。



ノラちゃんにはドライブがないかというと、決してそんなことはない。

でも、そのドライブは明らかにハナちゃんとはタイプが違う。

何が違うかというと、ノラちゃんには、いってみれば想像力みたいなものがあるのだ。

そしてこの娘には「ワンダーラスト」がある。



猫は好奇心が強いといわれるけど、ノラちゃんの好奇心は筋金入りだ。

キッチンで料理をしていて、キャビネットの扉をほんのちょっとでもあけっぱなしにしておくと、閉めるときにはたいてい猫がはさまっている。

これは必ずノラちゃんである。

彼女は、普段は閉まっている扉がたまに開く瞬間を決して見逃さない。



キッチンのごみ箱は引き出し式になっている。そのごみ箱の入っている引き出しの下に手をつっこんで空ける方法を知っているのはノラちゃんだけ。

そもそもごみ箱の後ろに入り込んで探検しようとするのもノラちゃんだけだ。



大きなシダの鉢植えの中に飛び込んでいってしまうのもノラちゃんだし、スパイス棚の下にいつのまにか挟まっているのもノラちゃん。

ディスペンサーのおやつには興味を示さないのに、カウンターの上に置いてあるおやつの入った箱をかじったり床に落とたりして、なんとかフタをあけて食べようとするのも、ノラちゃんだけ。

あれだけ食べることに貪欲なハナちゃんは、そういう斬新な試みを思いつくことはない。しかしノラちゃんがカウンターから落下させてフタを開けることに成功したあかつきには真っ先に走ってきて中身を一緒に食べている。

そしてノラちゃんは、外の世界に激しいあこがれをもっている。


この家の周りは自然環境が豊かでコヨーテやアライグマもいっぱいいるし、何にでも無鉄砲に突撃していくノラちゃんは気の毒ではあるけど、とてもじゃないが心配で外には出せない。




わたしがリビングに座って仕事をしていると、時々世にも哀しげな声でノラちゃんが啼いているのが聞こえる。世界のすべてが自分を置き去りにして別の次元に旅立ってしまうのを目の当たりにしているかのような、悲痛な声である。自分はガラス窓のむこうの世界にどうしても行かなくてはいけないのだと切実に感じているのがわかる。

この悲しいほどのあこがれは、きっと人間の中に呼び起こされるものと基本的には同じ作用なんだろうなと思う。ただ言語化されていないだけで。

ハナちゃんとノラちゃんには明らかな指向性の違いがある。
すごくよく似た遺伝子を持って、ほとんど同じ条件で育っているはずの姉妹なのに。

見たことのないものに死ぬほどあこがれて全力で追い求める人と、目の前に置かれたものにすべてのエネルギーを注ぐ人。


人類には旅に出たがる個体と安定を求める個体があって、全体として種の存続に役立ってるという話を聞いたことがある。その状態にい続けるのが好きな保守的なグループと見知らぬ土地に旅立っちゃうグループがいるから、新天地に突撃していって全滅する人びとも多いなかで何割かは生き残り、種は全体としてより広い土地に広まっていったのだ、という説だったと思う。

遠くのものをあこがれてやまない気持ちを「ワンダーラスト」という。ドイツ語が語源だそうで、「WANDER」(漂泊する、ふらふらする)ことへの「LUST」(渇望)。病的なまでに強く、遠くに行きたくなっちゃう気持ちである。

こういう傾向を持っている人は、つまりホモサピエンス中の「突撃隊」的存在だってことなんだろう。

わりに最近の研究で、ある遺伝子がこのワンダーラストに関連しているのがほぼ確実だというのが実証できたという話を聞いた。人類の20%は特定の遺伝子「DRD4-7r」を持っていて、どうやらその人たちはワンダーラストが強いという説だ。


これはドーパミン受容体の感度を決定する遺伝子で、これを持っている人はほかのグループに比べてリスクを取るのが好きで新しい刺激を求める傾向があるので、旅好きなだけでなくアル中やヤク中にもなりやすく、精神疾患にかかる傾向も強いらしいという。
(『Telegraph』紙の記事はこちら)





この遺伝子「だけ」がそういった特性を決めると結論するのはちょっと単純すぎるんじゃないですかと思うけど、わたしたちの志向や嗜好はその多くが生まれつき埋め込まれたものだっていうのは、まあそうなんだろうなと思う。

人間の生活にはほんとうに沢山チョイスがあるから、成長していく間にミュートになるものや活発になるものもあるんだろう。殺人鬼になりやすい遺伝子構造、お坊さんになりやすい遺伝子構造、会計士になりやすい遺伝子構造というのもあるのかもしれず、でもそれにたいする適切な環境のはたらきかけがなければ殺人鬼もお坊さんも会計士もできあがらないという、そういうことなんだと思う。

まだ誰にもわからないすごく複雑なしくみによって、わたしたちはいろんなものを、人や場所や香りや味や音や感触や、さらには思想や信条も、致命的に好きになるように運命づけられている。

個性というのは、究極的には「自分は何が好きか」っていうことだ。何ができるか、よりも、きっと何が好きかのほうが、要素として大きい。

その志向のほとんどが遺伝子で決定されているにしても、わたしたちは「好き」に引きずられて喜びを感じ、湧き上がる願いを切実に生きずにはいられない。

ノラちゃんの切ない啼き声は、紛れもなく「ワンダーラスト」の表明だとおもう。

はてしなく大きな空間、遠くで飛んだり動いたりする不思議なもの、見たことのない色や形や感触。窓の外に見えるものや、ごみ箱のウラにあるかもしれないなにものか(なにもないけど)に、ノラちゃんのタマシイが引き寄せられているのだ。

人間の2割にさまよい系の人がいるなら、猫にもさまよい系がいないほうが不思議だ。

もしかしたらもっと単純な生きもの、爬虫類とか昆虫の中にも、安定を志向する個体と遠くへ行きたがる個体が同じくらいの割合で存在してるのかもしれない。

「タマシイ」がアミノ酸の雲のどこかにしまわれているのなら、タマシイ構造が単純なものから複雑なものまで、生命体の間で共通しているのは当たり前な気がする、と最近よく思う。「何がしたいか」「何が好きか」だ。

これは仏教的な考え方につながっていくのだと思う。もっと言うなら、きっと植物にだってそういう指向のスイッチはあり、感受性のモトがあると思う。

ショウジョウバエもドーパミンを持っているということを忘れてはいけない。わたしたちの知っている嬉しさや恐怖のエッセンスのコアである原始的ななにかを、ハエたちも知っているのだ。ましてや猫たちは。

言葉の檻、主観の檻、ロジックの檻に閉じ込められていない猫や犬たちは、人間のタマシイの真ん中にあるものを、そのまんまのかたちでみせてくれる。だから犬や猫といるのがこんなに面白いのだ。

言語獲得以前のワンダーラストを、ノラちゃんがかいま見せてくれる。




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2018/02/06

座敷わらしとの夜


このあいだ、といっても2週間以上前ですが。1月21日の土曜の夜、SODOに舞踏を見にいってまいりました。
引きこもっていたので、久しぶりのお出かけでした。そのあとも更に引きこもってましたが。

去年も開催された、暗黒舞踏の祖・土方巽さんのメモリアル。今年は三十三回忌だそうです。去年のはこちら

場所も同じ、Teatro de la Psychomachia(テアトロ・デ・ラ・サイコマキア)。

セーフコ・フィールドのすぐ近く、派手なストリップクラブのすぐ並び。
景気の良いシアトル、まわりはどんどん開発されてSODOもだんだんキラキラになってきたものの、ここはまだ変わりません。

こんな待合室のようなスペースを抜けて、うなされる夢に出てくるみたいな狭い階段を二つのぼった先に、不思議な空間が開けています。



ここの主、ヴァネッサさんのアトリエ兼住居でもある広々したシアター。

壁際には、ブードゥー祭壇が健在でした。


入り口には去年とおなじ、土方巽メモリアルのオブジェ。たぶん棺桶をイメージした枠のなかに、写真やメモがコラージュされています。


あちこちに骨のイメージ。そして薔薇。


前回聞いたのだけど、ここのあるじ、ヴァネッサさんは長年ニューオーリンズの住人だったそうで、ヴードゥー実践者なのだそうです。
美しいお母様の写真も飾ってあった。
お仏壇みたいなものなんですね。


ややとぼけたメデューサちゃん。それよりさらにすっとぼけたヘビたち。
「あ〜やだ、また頭からヘビが生えちゃったわ。んもー!」
みたいな感じ。
メキシコ製かな。


この子もかわいかった。んーどっちに行くぅ?て二つの頭で相談するもののどちらも譲り合うので方角がきまらなくて足が踏み出せないみたいな。

演目も、去年と同じ、3つでした。
ジョアン・ラーゲさんのソロ、薫さん&Aoi Leeさんのデュオ、そして休憩をはさんでここの女主人ヴァネッサさんのソロ。


薫さん&Aoiさんのデュオは、真っ暗な部屋の中へ、ロウソクの明かりを手にして登場。

これは本当に恐かった。

今回は iPhone (7 Plus)だけの写真です。最初の部分は暗くてこんな感じだったけど、今年はこのテアトロにLEDのスポットライトが配備されていて、このあとから結構ばっちり明るく撮れたのだった。とはいっても拡大に耐えるほどのディテールはもちろんないですけど。


暗がりからゆっくりと、さまよい出て来る魂。 


ゆらゆらと絡まり、ほどける、生まれたばかりの生命体。

胎児たち、または、海の中の生きもののようでした。

未明の世界をさまようタマシイ。


何かを見つけたり、ふわりと反応してみたり。



薫さんはちょっとますますヒトの世界を離れてきた感じ。

LEDのシャープでドラマチックなライトが、この演目にはとても合っていた。


舞踏のプログラムは、ここ何年か主に薫さんたちの演目をいくつか見ているだけで、ほんとうに何も知らないのだけど、演者と音楽だけしかないぶん、くっきりしたストーリーがセリフや背景で説明される演劇よりも、舞踏というのは伝わるときにはとても直接的に伝わるものなのだなあ、と最近やっと腑に落ちるようになってきた。

匂いとか音楽とかと同じように、直接伝わってくるカタマリ。



抽象的なものは分かりにくい、と思われがちだけど。

この人の表現しているこの感覚、この気持ち、この意思のかたちを、わたしも知っている、と思えた時に、それは具体的なストーリーのある表現からつたわるよりも、ずっと強くつたわってくるものになる。


それは、どんなコミュニケーションにもあるように、単なる勘違いであることもあるかもしれない。

でもそういう共感は、言葉によるよりも、ずっと強くずっとたしかに、深く届く。


この部分がすごかった。
Aoiさんは、ほんとうにイノセントな小さなこどもになりきっていた。

そして後ろに控えている薫さんの恐いこと! 
うっかり見えてしまった、人が見てはいけない存在みたい。古い神社の奥に住んでいるものみたいな、別の世界のオーラに包まれてました。

舞踏では俳優の演じる力とは別の、たぶん技術でもない、まるっとそのものの、演じる人のタマシイが見えることがある。
演者と見る人のあいだにストーリーを間に挟まない舞踏というカテゴリーは、小説ではなくて詩に近いのだと思う。

そして、古い時代の呪術に近いのかもしれない。 死者や神や精霊が、すぐとなりにいた時代の。

いまの時代は、近代の個の時代をすぎて、またそういう時代にすこし戻っていっている気がする。



音楽の向こうにサイレンが鳴る。
「ああこの子は、戦争でなにもかもなくしているんだ」

というのが、急にわかってくる。このサイレンが唯一の、物語のヒント。
 


Aoiさんが、孤児になっていた。

恐怖とかなしみ。知っているすべてをなくすこと。理不尽な世のなかの、とどかない思い。


二度と手にはいらないものに向かって叫ぶ。なにもかもを失わせた大きな力。

『鉄コン筋クリート』のこどもたちも思い出した。クロとシロ。

世界が終わったあとのこども。この絶望的な寂しさに、涙でる。



あとから「戦災孤児、海の生き物がみえました」といったら、Aoiさんからこんなメッセージをもらった。

*******
今回の舞台は、ユニセフの"子供の、戦災を含め災害にあった数が過去最高値"という発表を受け、"陽炎"というタイトルで作りました。 シーンを4つのパートに分けて、パート1 " 座敷童" 、パート2 "生まれなかった子供たち" 、パート3 " 焼け落ちた橋"、 パート4" 陰陽" と。 特に、2と3は、土方の舞踏譜をベースにしました。 沖縄戦、ベトナム戦、そしてシリア内戦の写真の子供たちが、今回の舞踏の先生です。
*******

 このパートの「焼け落ちた橋」というのは、土方巽さんのつくった「舞踏譜」(というものがあるのね。知りませんでした)に沿ったものだったんですね。


最後のパートはまた静かに、海の中にもどっていくような。


この場面も好きだった。ゆらゆら水の中で揺れる生物。


そしてまた二つのタマシイが、ゆっくり周りはじめ。


なにかを手にして、それをどこかに返す。


ふわり。


なにかが出ていった。


演目のあとは、観客もいっしょに自由に踊ろうの時間。


この気持ち良い音楽にのって。


素敵なパフォーマンスでした。行ってよかった。


お衣装の一部、赤いおまもりは東大寺のでした。鳥がかわいい。

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2018/02/02

バスルームに見知らぬ人が!


サンディエゴからKちゃんがシアトルに戻ってきて、いつのまにかうちに住んでいる。

それはいいんだけど、ある日バルスームに入ったらバスタブの中にこんな人が!

U-HAULでカリフォルニアから持って帰ってきた半分くらいは植物だったんじゃないのかしらまじでと思うくらい、植物長者のKちゃんのおかげで息子の部屋にもリビングにも新人が増えました。


きのうの満月。 おとといだっけ? 月蝕は曇りでみられませんでした。

先日の日記読んだ恵比寿マダムが心配してLINEのメッセージくれた。ごめんなさーい、生きてます!ありがとうー(涙)

単にドラマクイーンでした。すみません。自分にできる以上の仕事を抱えて一体全体どうするつもりなのと思ってたんですが、なんとかヤマはひとつ越えつつあるよ。生還するよ。

泳げないけどいろんな浮き輪を投げてもらってなんとかゴールにたどり着きそうです。

3週間くらい前、車を運転してたらその車高がどんどん高くなり、ビルの5階ぶんくらいの高さの超大型トラックになってしまい、右折しなくてはならなくて、ええっこんなもの操縦したことなかったよねわたし、と思った夢を見た。

正夢でした。

今週前半はまぢで今まで生きてて一番焦ったくらい忙しかった。運転したことなかったよこれ。忙しすぎてハイになってる。

乗ってるうちに自転車がどんどん高くなってしかも一輪車になってるという夢も見たことがある。のりものが変形していってしまうという、焦る夢のパターンのひとつです。

さてなんとか右折できるんでしょうか。なにか内輪に巻き込んでないといいけど。


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2018/01/31

あなたは危ないところに立っている


たとえば、目の前に犬のフンが落ちていて、このまま足を踏み出したら0.5秒後に踏むのがわかっていても踏んでしまう。

あるいは、なにかさわったらすぐ感電するものが目の前にあるのにさわって感電してしまう。

わかってて当然なのに意識にレジスターされてませんでしたというそういう症候群になにか名前はあるのだろうか。

さいきんその傾向がとてもひどくなってきた気がします。

ちょっと先週から、耳までどころじゃなくて頭のうえ3メートルくらいのどつぼにはまりこみ、泳げないのにトライアスロン大会にでちゃってる感じです。

泳げない−。

この琺瑯のカップは、実家にあったもの。
たしかうちの父がヨーロッパ旅行で買ってきてくれた謎のお土産の一部だった気がする。
あとロシアの熊とかマトリューシカとかもあったな。

船舶信号のセットで6つくらいあったんだけど、これだけしか残ってない。

このカップだけ生き残ったところ、いったい何かのお告げでしょうか。

来週まで生き残れたら、書きかけの舞踏レポートを書きます!


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2018/01/23

追悼。魔法使いの母


SF作家のアーシュラ・K・ル=グウィンさんが亡くなった。

オレゴンのセーラム在住でいらして、わたしがシアトルに引っ越してまもなく、シアトル中央図書館でも何度か講演に来てた。

告知を見たのに、仕事が詰まっていたかなにかで行くのを見送ってしまったのがほんとうに悔やまれる。それも2度までも!

人生にそんなに大切なことは他にないでしょう、と今、あの時の私に詰め寄りたい。

プリンス殿下の生涯最後のコンサートになったオークランドでの公演も、殿下の大ファンのチェリーちゃんに誘われてたのにちょっとばかし忙しかったもんだから「また次があるさ」と見送ってしまった。


次はなかった。



それと同じくらい悔しい。

人生、差し出されたものを断ると、次はないことがけっこうある。

10代のころル=グウィンさんの『ゲド戦記』シリーズにはまりこみ、『闇の左手』と『所有せざる人々』を読んでSFにこんなことができるんだ!と衝撃を受け、以来、わたしのもっとも愛する作家ベストテンの中で不動の位置を保っている(なんて、そんなに読書家でもないんですけどね)。

うろ覚えなんだけど、ジブリの宮崎駿さんもル=グウィンさんの大ファンで、『ゲド戦記』をぜひアニメ化させてほしいと頼み込みに行ったのだという話をインタビュー記事で読んだ覚えがある。

ジブリを立ち上げる前の話。

でもその頃(いつだかわからないけど、『未来少年コナン』のころかな。70年代後半〜80年代初期かな)はまだ、もちろん宮崎さんの作品も世界に知られてなかったし、ル=グウィンさんは自分の作品がアニメなんてとんでもないと、きっぱり拒絶されたそうです。

それで、「仕方なく」ナウシカを作ったんだ、というような話だったと思う。これはけっこう衝撃的な話だったので強い印象を受けた。

そして時は流れ、ジブリが世界の隅々まで知られるようになったあと、こんどはル=グウィンさんが宮崎さんを招いて、ゲド戦記をアニメ化してくれないか、あなたなら出来る、と、頼み込んだという。

でも宮崎さんはもう引退を考えているころで(『崖の上のポニョ』の前で、『ハウルの動く城』の後あたりかな?)、もう自分にはその気力はない、と断ったんだって。

でもそこであのプロデューサーの鈴木さんが、これやりましょうよ、と、宮崎さんの息子さんを監督に据えて作っちゃったのがジブリ版の『ゲド戦記』。

わたしあの映画は日本で見たんだけど、そしてかなり期待して見に行ったんだけど、今まで見たジブリの中で一番ダメな映画だった。
好きな人ごめんなさい、でもこれは胸をはって言えます。だって原作の大ファンだから。

ル=グウィンさんも気に入ってはいなかったようだけど、当然だと思う。
キャラクターに存在感も説得力もなく、ストーリーに迫力がなく、原作とはぜんぜん別の話になっちゃっていました。


ル=グウィンさんの『ゲド戦記』はアメリカのテレビでミニシリーズとしても制作されたけど、これもちょっとどうなの〜、という出来の代物で、大変残念だしル=グウィンさんが気の毒だった。

あんなに素晴らしい作品なのに、映像作品に恵まれなかったためもあって、知名度はハリポタに圧倒的に負けている。 
ハリー・ポッターより100倍以上優れた作品だと私は思うけど。

運命を感じますね。

宮崎さんの『ゲド戦記』が出来ていたら『風の谷のナウシカ』が生まれなかったかもしれない!というのも、運命だなあ。

本や映画は、読むべき人が読むようにできているのだろうな、と思う。

そして、人と会う機会と同じように、出会える時はほんとに限られた1回きりなのかもしれない。

ル=グウィンさん、88歳だったそうです。
ほんとうにたくさんの素晴らしい作品を書いてくれてありがとう!

あなたの作品が私の人生を変えました。

と伝えたかったです。

RIP。



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2018/01/20

褒めなくてもよい


朝ごはん。Kちゃんがサンディエゴからシアトルに戻ってきて、しばらくうちにいるので、うちの息子はまめまめしい。
朝からキッチンに立っていそいそごはんを作っていましたよ。

ポテトをずいぶんちっちゃく切ったな!

きのうの、日経DUALの相良さんのモンテッソーリ教育の記事のつづきで、もうひとつ、いやふたつ、おぅ!と思ったことがありました。

それは

(ここから引用)
モンテッソーリが言うのには、子どもは褒め言葉を必要としない、かえって褒められるとがっかりする。内面からの充実感や自信を持っている子に変に褒めたり、ご褒美をあげたりするのは、子どもの内面からの尊厳を無視することだって。


一つの認識が欠落していると思うんですね。手を使うことがとっても大事。その手を頭で理解するんじゃなくて、手を使うことがとっても必要な時期だし、手を使うことが脳へとつながるわけでしょ。だから言葉でするのではなくて、正しい使い方をできるようにして見せてできるようにしてあげるほうが、ちょっと時間はかかるけれど本質的ですよね。

(ここまで)

内面が充実している子は、褒めても喜ばない。

「できた」っていう実感があると、それだけで嬉しい。

なるほどなあ。力強いなあ。

10代の頃うちの子は、わたしがあまり褒めないので不満だったようですけど。
アメリカの親はまた、やたらに自分の子どもを褒めるのよね。

でもやたら持ち上げるのではなくて、出来たことを一緒に心から喜べるのはいいよね。
 ウソじゃなく。

親が「ここで褒めておかなきゃ!」とか思っていたら、そのわざとらしさは必ず子どもに伝わるし、非言語のコミュニケーションで伝わったそういうものって、関係の中に少しずつ積み重なる。

しかし10代くらいになると、周りの評価が100%気になって不安で夜も眠れない年頃だから、親も白々しくでも褒めるしかないときもある。
ウソでもいいからオレのことを褒めろって、潜在意識が飢餓状態になってるっぽいときは。

 幼児のときから充実してて、10代になっても飢餓状態にならないほどブレない育ち方ってできるのかなー? 
ものすごーく人間ができてそうな10代の子たちもいるけどね。
 
あと、バイリンガル教育のことを書いたときにも頭にあって、でも学問の裏付けがなかったしちゃんと言えてなかったんだけど、幼児期に必要なのは絶対!第二言語とか読み書きとか変な技術を覚えることじゃなくて、手や体の筋肉をつかったり五感をつかって直接的な情報をたくさんインプットすることですよね!モンテッソーリさんが太鼓判を押してくれてたのを読んで嬉しくなった(子どもをモンテッソーリのスクールに通わせてから17年後にね……)。

言語より論理より、情感と運動能力と感覚をしっかり鍛えておくと、多分、その後のインプットと処理と演算がうまくいく土台ができるんだと思う。

それには野山に放り出すのがいちばんいいみたいな気がする。
自然の世界は、人工物にはマネのできないほど情報量が多いですから。




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