2014/11/26

ファーガソン




To be a Negro in this country and to be relatively conscious is to be in a rage almost all the time." -James Baldwin

(この国にいて、ニグロであって、そうしてどちらかというと目があいているほうだ、ということは、ほとんどいつも怒りでいっぱいだ、ということである。ージェイムズ・ボールドウィン)

きのう、ツイッターで流れていた文章。ボールドウィンのどの文章なのか、裏は調べてないけれど、ぐぐったらほかでも3万件以上引用されていた。

ボールドウィンは1924年生まれの黒人作家だけれど、この言葉は21世紀の若者たちにも、まだこれほどに共感されている。半世紀以上前にボールドウィンが感じたのとあまり変わらない感想を自分の国に抱いて暮らしている人が、それだけいるということ。

火曜日のミズーリ州ファーガソンの大陪審の評決で、18歳の黒人少年マイケル・ブラウン君を射殺した白人警官が有罪にされなかったことにとても多くの人ががっくりして、怒っている。ファーガソンで車が燃やされたり、まったく関係ない店が燃やされたりの映像が流れていました。シアトルでもダウンタウンでデモがありました。

ネットでたまたま見たテレビ東京のニュースのアナウンサーが「この評決を受けて波紋がひろがっています」と紋切り文句を言っていたけれど、いや波紋はもう200年前から広がりっぱなしなんですって。

アメリカは奴隷制度というとんでもない矛盾をかかえて出発した国。

南北戦争を経て公民権運動を経て、それでもまだまだ傷はナマのままぱっくり口をあけている。社会のシステムや代々受け継がれる生活感覚に組み込まれている憎しみや格差は、100年やそこらじゃぜんぜん解消しない。

ボールドウィンが文章で表現したこの怒りは、ずっとメタンガスのように社会のそこのほうにたまっていて、こういう事件を得て急激に爆発する。

アメリカに生まれたアフリカ系の男の子は、成人するまでに「戒律」を教えこまれる。警官に車を止められたり職務質問されたりしたらおとなしく従うこと。腹が立っても、逆上して危険な人に見えるような言動や行為を警官の前で絶対にしないこと。

黒人は警官に撃たれる可能性や逮捕される可能性が白人よりもずっと高い。

たとえばおんなじように酔って道で騒いでいたとしても、白人の男の子グループと黒人の男の子グループでは警官の対応がまったく違うことは、だれでもが知っている。

黒人が逮捕されて収監される確率は、白人の6倍。いま現在、アメリカの刑務所人口は230万人で、そのうち100万人近くが黒人。


射殺されたマイケル君は、うちの息子とほぼ同じ年。まったく他人ごとではありません。

うちの息子は半分アフリカ系だから、中身はハワイでのほほんと育ったアジア系であっても、キケンな人物に見えて射殺される可能性は、たぶん同世代の白人の男の子よりもずっと高い。


ファーガソンの事件は、特殊だったからこれだけ注目されているのではなくて、あまりにも典型的で、よくありすぎるからこそ、注目を浴びている。

問題になっているのは、人種による偏見で有色人種が撃たれやすいということだけじゃなくて、警官があまりに簡単に発砲してるんじゃないの、ということもあります。

いったい年間に何人が警官によって射殺されているのかというと、ワシントンポストの記事によると、アメリカにはきちんとしたデータがまったくないのだそうです。

なにしろアメリカの警察は市とか郡とかの自治体が運営していて、17,000も警察組織がある。そして、警官が民間人に発砲しても別に届け出とかの義務はない。

ニュースをしらみ潰しに調べた人の研究では、2011年だけで607人が警官に射殺されている。
ちゃんと報告させたら1000人にはなるはず、と言われてるそうです。

シアトルでも数年前、小さな彫刻刀を片手に持っていたネイティブ・アメリカンの彫刻家がパイオニア・スクエアで警官に撃たれて亡くなったし、ほかにも警官による過度な暴力で死んでる人は毎年のように出ているけど、どの件でも警官はもれなく無罪放免されてます。

ちなみに、FBIは撃たれて殉職した全国の警察官の数は把握している。その数は、2012年で44人。

そして警察の武装は、全国で年々、ますます重装備になっています。

息子が間違っておまわりさんに撃たれませんように、と祈らなきゃいけないなんてほんとに冗談じゃないと思うけど、アメリカっていまも割合にそんな国。




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2014/11/20

趣味のマリファナ園芸?


先日、Barnes&Noble 書店にきのこの本を探しに行ったら、園芸本のコーナーにこんな一角ができてました。

『ノースウェストのガーデニング』などに並んで、『マリファナ園芸』『マリファナ新流派』『素晴らしいマリファナ栽培法』『マリファナ栽培の基本』『マリファナ栽培家ハンドブック』…そして『カナバイブル』(これはカナビス=大麻とバイブルをあわせた「かばん語」ですね)。


2012年に米国で初めてレクリエーション目的のマリファナを合法化する「イニシアティブ502(I502) 」が住民投票で支持されてから、早や2年。

なんだかすっかり、ほかの州でももう大麻は合法になっているかのような錯覚をしてしまいますが、違いましたねー。

先日は日本の山の中で大量に大麻を栽培していた2人組が逮捕されたというニュースを読みました。自分で使うためにこっそり栽培を始めたら、あまりにも調子よく育ってしまったので、ついどんどん規模が大きくなった、という、なんだかマンガみたいな話でちょっと笑っちゃいました。

しかし実はワシントン州でもレクリエーション用に自分で大麻を栽培することは許可されていません。

レクリエーション用に所持して良いのは、
  • One ounce of useable marijuana:「ユーザブル(すぐ吸える状態)」な乾燥マリファナ、1オンス(約28グラム)まで
  • Sixteen ounces of marijuana-infused product in solid form 固形状のマリファナ製品、16オンスまで
  • Seventy-two ounces of marijuana-infused product in liquid form 液体状のマリファナ製品、72オンスまで
  • Seven grams of marijuana concentrate マリファナ濃縮エッセンス、7グラムまで
のいずれかです。

「固形状」製品はカップケーキからグミ、キャンディ、チョコレートなど、「液体状」製品にはソーダやシロップなど、濃縮製品はオイルやワックスなど、もうありとあらゆる製品が市場に出回ってしのぎを削っています。

こういう製品を売って良いのは州からライセンスを受けた業者のみ で、いまのところシアトル市内でライセンスを持った業者はたったの2軒しかありません。

ただし、医療用のマリファナは別枠なのです。
レクリエーション用の使用が合法化される以前に、すでに医療用のマリファナ使用者がかなりたくさんいたので、2つのシステムが共存というよりは競合してる形になってしまってます。

医療用マリファナが必要という医師発行の証明書を持っている患者は、「ユーザブルなマリファナ24オンス、または15本までの大麻草」を所持できることになってます。

州のウェブサイトでは、
「a qualified patient or designated provider has an affirmative defense to criminal prosecution if they possess up to 24 ounces of useable marijuana or 15 marijuana plants」
( 有資格の患者、または定められた提供者は、刑事告発に対して積極的抗弁事由を有する)
という言い方になってます。

そして、医療用マリファナを使う患者たちが、自宅で大麻草を栽培する代わりに、「共同農園」という形で栽培してるんだという名目なのが、シアトル市内にカフェより多いといわれる「ディスペンサリー」。

「ディスペンサリー」については単語帳のほうでまた改めて。
(追記:書きました。「ディスペンサリー 医療用大麻販売所」)

私は、マリファナは早く全面的に合法化されたほうが良いと思ってます。

理由は3つ。(タバコやアルコールよりも習慣性が低くて害が少なく、医療用にメリットもあるという大麻そのものについての論議と反論は横においておいて。)

第一に、需要がこれだけ普通にあってこれだけ普通に消費されているんだから、行政はそれが存在しないふりをしたり無意味な取り締まりをするよりも、タバコやアルコール同様、きちんとした規制下においたほうが良い。
第二に、 アンダーグラウンドに無駄に流れていくお金が税収になればそれに越したことはない。
そして第三、警察が大麻所持や使用を恣意的に犯罪として扱って、人をむやみに収監したり犯罪歴を付け加えたりすることがなくなる。

アメリカで大麻ほど社会的な許容と、法的なタテマエとがかけ離れているものはないと思います。この分裂は、社会にとって不健康な結果を生んでいると思う。

過半数の人が「あってもいいんじゃない?」と思っているものを警察が害悪として取り締まる社会、というのは、やっぱり無理がある。

でもなにより、ワシントン州やコロラド州で合法になっているものが、連邦法では今でも(レクリエーション用も医療用も同様に)違法、というのは凄まじい分裂です。

司法省管轄のDEA(麻薬取締局)は、今でも「医療用マリファナにメリットがあるなんて嘘よ!」と啓蒙するパンフレットを配布していて、頭から大麻を害悪とみなしてます。

現在では、連邦政府の司法長官は合法化された州での大麻使用について何もしない方針を表明してますけど、オバマ政権のあと、新しい大統領が保守的なほうに傾いたら、これがまた変わる可能性だってある。

 Huffington Post の記事は、ハーバード大教授の「大麻は連邦で合法化すべし」という論説とともに、連邦法での全面的な解禁を主張している上院下院の議員についても報じてます。

マリファナは現在の法律ではLSDやヘロインと同様、「乱用の危険が高く、医療的価値がない」というカテゴリーに入れられてますが、このカテゴリーを変えようという話も前からある。「医療的価値がある」カテゴリーに入れれば、すくなくとも医師が処方するのは連邦的にも違法じゃなくなる。

アメリカではほんの前世紀にウィスキーもワインも違法だった時代があったし、日本では薬局で覚せい剤が買えた時代もあった。

薬物と人類のつきあいは長いですが、ものの見方は時代とともに変わるものですね。



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2014/11/19

『三四郎』と『趣味の遺伝』の明治



この秋、『三四郎』『それから』『門』と、漱石の長編小説をたてつづけに再読してみました。

たしか10代か20代のときに読んでいるはずなのだけど、びっくりするほどなーんにも覚えていなかった。

20代のときにも確かに何かぼんやりとした感触の印象は残りはしたものの、はっきり覚えているのは「銀杏返し」という髪型といくつかの場面だけだった。(当時はインターネットでちゃっちゃと調べられる時代じゃなかったので、銀杏返しの画像を見て納得したのは結構後だった)。

結局耳かきでひっかくくらいの読み方しかしてなかったのでしょう。

今回あらためて読んでみたら、ものすごく面白かった。

『三四郎』『それから』『門』は三部作と言われていて、なるほど共通のテーマがあり、主人公は別人だけれども、そのテーマが変奏曲のように展開しています。

ドラマの中心に描かれているのは、三作とも恋愛の物語。
『三四郎』では初々しい恋だけれども『それから』『門』では不倫と略奪婚!

しかも友人の妻を横取りしてしまうという、センセーショナルな題材です。

でも、今回読んでみて、そのセンセーショナルな骨組みも、もしかしたら恋愛小説という形そのものも、漱石先生にとっては盛りたいものをいれる容れ物でしかなかったんじゃないか、と思いました。

もちろんそのドラマの渦中に翻弄される人びとの姿は抜群に面白いんだけど。

恋愛と略奪婚をテーマにした三部作に漱石先生が本当に盛りたかったキモは、簡単に言って「明治という社会の矛盾」だったんだと、今回読み通してみて感じました。

特に『それから』は、あれはもう全然恋愛小説なんかじゃなくて、明治に生まれた知識人の行く末を予告した、怖い小説だったんだと思う。

三部作のあちこちに、明治の社会に生きる人たちへの警鐘というか、告発に近い激しい批判が埋め込まれています。(でもこれを派手派手しい色で塗りたてず、ほとんど目につかないように背景に塗り込めているところがすごい。)

それから、近代社会の中で、社会の定めるオキテや一般的な考え方にあえて背を向けて生きる新しい「個人」の姿。

そして、宗教と「救い」に対する姿勢。

という3つが印象に深く残りました。

そうしてその後、漱石の講演筆記を集めた岩波文庫の『漱石文明論集』というのを読んでみたら、小説から感じた通りのことを漱石先生がもっとはっきり言ってました。

『三四郎』では、小説の冒頭から、この当時としては過激であったに違いない思想がさらりと表明されてます。

田舎出の三四郎は、初めて東京へ向かう列車の中で、のっけから「世間」を代表するような人びとに出会います。

急に誘ってくる謎の女、じいさん、そして後に「広田先生」として登場する「神主みたような」飄々とした男。

その謎の女と、隣席に乗り合わせた「背中にお灸の痕がたくさんあるじいさん」が話す場面。

<じいさんは蛸薬師も知らず、おもちゃにも興味がないと見えて、始めのうちはただはいはいと返事だけしていたが、旅順以後急に同情を催して、それは大いに気の毒だと言いだした。自分の子も戦争中兵隊にとられて、とうとうあっちで死んでしまった。いったい戦争はなんのためにするものだかわからない。あとで景気でもよくなればだが、だいじな子は殺される、物価は高くなる。こんなばかげたものはない。世のいい時分に出かせぎなどというものはなかった。みんな戦争のおかげだ。>

子どもを亡くした親の、率直な戦争批判。新聞連載の初回から、いきなりこれです。しかしこのじいさんの言葉を三四郎は聞き流すだけで、女のほうに気を取られている。

しかもその女に宿までついて来られてしまった三四郎の慌て加減が面白くて、読者も辛気臭いじいさんのことなんかはすっかり忘れてしまう。

そして数ページの後。浜松の駅に停車中、窓から西洋人のグループを見かけた後で、神主みたいなひげのある男(広田先生)が、西洋人は美しいですね、と三四郎に言う。

<「どうもお互いは哀れだなあ。こんな顔をして、こんなに弱っていては、いくら日露戦争に勝って、一等国になってもだめですね。もっとも建物を見ても、庭園を見ても、いずれも顔相応のところだが、――あなたは東京が始めてなら、まだ富士山を見た事がないでしょう。今に見えるからご覧なさい。あれが日本一の名物だ。あれよりほかに自慢するものは何もない。ところがその富士山は天然自然に昔からあったものなんだからしかたがない。われわれがこしらえたものじゃない」と言ってまたにやにや笑っている。三四郎は日露戦争以後こんな人間に出会うとは思いも寄らなかった。どうも日本人じゃないような気がする。
「しかしこれからは日本もだんだん発展するでしょう」と弁護した。すると、かの男は、すましたもので、「亡びるね」と言った。――熊本でこんなことを口に出せば、すぐなぐられる。わるくすると国賊取り扱いにされる。三四郎は頭の中のどこのすみにもこういう思想を入れる余裕はないような空気のうちで生長した。>

<「熊本より東京は広い。東京より日本は広い。日本より……」でちょっと切ったが、三四郎の顔を見ると耳を傾けている。
「日本より頭の中のほうが広いでしょう」と言った。「囚われちゃだめだ。いくら日本のためを思ったってひいきの引き倒しになるばかりだ」
この言葉を聞いた時、三四郎は真実に熊本を出たような心持ちがした。同時に熊本にいた時の自分は非常に卑怯であったと悟った。>

『三四郎』が朝日新聞に連載されたのは明治41年(1908年)。

日露戦争が終わってからまだ3年しか経っていない。日露戦争終結時の日本人がどのくらい熱狂的だったかは、たとえば勝利を祝う提灯行列の規模や、その後のポーツマス条約に激怒した群衆の暴動なんかの記事を読んだだけでも良くわかる。

日露戦争の勝利で日本中が狂ったように沸き返っていたときに、日本は「亡びるね」とさくっと言ってのける広田先生や、大事な子を殺されて「戦争はなんのためだったかわからない」と嘆くじいさんを、冒頭から登場させる。

そしてこの価値観はよくよく慎重に埋め込まれている。ものを知らない田舎もののじいさんや、まだ登場したばかりでどこの馬の骨ともわからない(名前もまだ出て来ていない) 通りすがりの謎の男の口から言わせることで、当時の読者の多くは「馬鹿げたことをいう通行人」くらいの印象で、スルーできたのだと思う。

三四郎の脳裏には

「日本は亡びるね」
「囚われちゃいけない。贔屓の引き倒しになるばかりだ」

という衝撃的な言葉が刻まれるけれども、その哲学を有する広田先生は、小説の中では社会的な地位を得ることのない一介の高等学校教師であり、その意見が世間を揺るがすことはない。

世間がなにか一つの色で染まっているときに、それと反対のことを口に出すのがどれだけ大変なことかは、2001年のテロの後のアメリカでさんざん見聞きしました。

あのときのアメリカ人たちの、「アメリカのあり方」に対して一切の批判を受け付けない態度、違う意見を口に出そうものなら、ほんとうに瞬時に、ミツバチの巣に迷い込んだスズメバチのように何百何千という露骨な悪意を一身に浴びることになる、何か化学的に変質してしまったような社会は本当に怖くてイヤだった。

日露戦争後の日本も、もちろん社会構造は現代アメリカとはものすごく違うけれども、それだけに、同じような圧力がきっともっともっと強い力で働いていたのに違いないと想像できる。
そして当時の日本では、昭和初期ほどまだ弾圧が激しくはなかったものの、完全な言論と思想の自由が保証されていたわけではなかった。

三四郎が言うように、そんなことを言ったら「すぐなぐられる。わるくすると国賊取り扱いにされる」場所のほうが、たぶん多かった。

その中で「日本は亡びる」と予言する広田先生を登場させる漱石の胆力と、それをエンターテイメントに紛れ込ませてしまう圧倒的な筆力には敬服せずにいられません。




 『三四郎』は、漱石自身が語るとおり、至極ストレートな小説です。

主人公が田舎出のまっさらなウブな青年で、都会で新しい思想や恋愛や人生を体験するというのがおおまかな筋であり、主人公がとにかく純粋であるので話がそれ以上こみ入りようがない。

読者は三四郎の純朴な目を通して明治の大都会と文明を体験し、新しい文明の中に生きる日本人に出会う。主人公がまっすぐな人間だから、読んでいてとても清々しい気持ちになれる。

特に年取ってから読んだら、もう三四郎がかわいくって仕方ない。
きっとそれは作者の漱石自身の、自分のもとに集まってくる文士青年たちへの温かく、かつ距離をおいた視線そのままなのだと思う。

故郷では秀才で、帝国大学生という身分を得て舞い上がっていた田舎出の三四郎は、大都会・東京の勢いに心のそこからびっくりし、自信を喪失する。

<今までの学問はこの驚きを予防する上において、売薬ほどの効能もなかった。……現実の世界は、かように動揺して、自分を置き去りにして行ってしまう。はなはだ不安である。>

大学生の三四郎は、猛スピードで変わりつつある社会と文明の勢いに目を白黒させながらも、その勢いを自分の未来に重ねて前向きに見ることができる。だから、この小説は明るい。

次の小説『それから』の主人公、代助は、30歳になっていて、社会に居場所を見つけられない。学問をきわめたために社会の矛盾を直視してしまって、その矛盾そのものを体現するような生き方をしている。
代助の悩みは三四郎よりもっとずっとずっと深く暗く、結局破滅に向かっているようです。

『門』の主人公宗介はそのまた数年後の姿。宗介はもう驀進する文明の機関車から降りてしまい、ひっそりと都会の片隅で生きていて、自分の罪だけに心を苛まれている。





日露戦争については、漱石先生は『趣味の遺伝』という短編で物凄くなまなましく描いてます。
青空文庫版はこちら

これは、戦争の凄まじさと、戦争による家族の喪失というきわめてヘビーな題材を、前世からの因縁がらみの恋愛話という耽美な話に落としこんでいる、奇妙な形の短編です。

ごっつい樫の木に優雅な牡丹かなにかが接ぎ木されているような感じの小説。

語り手(文士ではない学者、という設定)が、日露戦争が終わって旅順から引き上げ、凱旋してきた将軍(乃木将軍とおもわれる)を新橋の駅で大群衆に迎えられるのを見物し、その兵士の群れのなかに戦死したはずの自分の親友「浩さん」にそっくりな軍曹を見つける場面から始まります。

群衆のなかから出てきたちっちゃなおばあちゃんが、息子らしいその軍曹を見つけて駆け寄る。

<この時軍曹は紛失物が見当ったと云う風で上から婆さんを見下す。婆さんはやっと迷児を見つけたと云う体で下から軍曹を見上げる。やがて軍曹はあるき出す。婆さんもあるき出す。やはりぶらさがったままである。近辺に立つ見物人は万歳万歳と両人を囃したてる。婆さんは万歳などには毫も耳を借す景色はない。ぶら下 がったぎり軍曹の顔を下から見上げたまま吾が子に引き摺られて行く。>

戦争からかえってきた一人息子と再会する老母。泣ける場面だけれど、漱石先生は主人公である傍観者の目をとおして、飄々と、あくまでドライに書いている。

この軍曹の姿を戦死した友人に重ねて、息子を同じように迎えるはずだった老母の絶望的な悲しさが描かれます。

<親一人子一人の家族が半分欠けたら、瓢箪の中から折れたと同じよ うなものでしめ括りがつかぬ。軍曹の婆さんではないが年寄りのぶら下がるものがない。御母さんは今に浩一が帰って来たらばと、皺だらけの指を日夜に折り尽 してぶら下がる日を待ち焦がれたのである。そのぶら下がる当人は旗を持って思い切りよく塹壕の中へ飛び込んで、今に至るまで上がって来ない。……白髪になろうと日に焼けようと帰りさえすればぶら下がるに差し支えはない。右の腕を繃帯で釣るして左の足が義足と変化しても帰りさえすれば構わん。構わんと云うのに浩さんは依然として坑から上がって来ない。これでも上がって来ないなら御母さんの方からあとを追いかけて坑の中へ飛び込むより仕方がない。>

そして漱石先生の筆は、何万人という兵士がネズミのように死んでいった、旅順の恐ろしい阿鼻叫喚の場面を描き、一人息子を亡くした母の暗い絶望を書いた後で、墓参りをする美しい女と、女が墓にたむける白い菊を登場させる。

戦地から帰って来た男たちの姿と血みどろの戦場から急に転調して、しっとりとした美しい和の風景が広がります。

そして話は急に、江戸時代の悲恋話に。

浩さんと、彼が出征する前に一度だけ郵便局で出会った美女が、実は祖父母の代に愛しあいながら結ばれなかった恋を現世に再現したカップルだということを語り手が発見し、浩さんの残された老母とそのお嬢さんが出会って、まるで嫁と姑のように仲睦まじくなるというところで物語はぷつんと終わる。

最初に読んだ時はなんだか腑に落ちない小説だなと思ったのだけど、 こうして『三四郎』やその前後の作品と並べてみると、漱石先生の実験魂がありありと見える。

連日新聞で報道され、日本がそれ一色になっていた日露戦争について、当時、日本人の誰一人として心動かされなかった人はいないはず。

アメリカが9.11テロの後、しばらくそれ一色だったように。または、地下鉄サリン事件のあと、日本の報道がオウム一色だったように、いやそれ以上に、寝ても覚めても日露戦争がみんなの頭にあったはず。

漱石先生は、戦勝気分に酔ってバンザイを叫ぶ群衆を見ながら、旅順の山で無残に死んでいった何万人もの若者たちと残された家族の個人の物語に、深く心を動かされている。

死んだ若者たちを無批判に集合的に「英霊」とか「軍神」なんて奉るようなことは、漱石先生にはきっと我慢ならなかったはずだと思う。

でも漱石は小説で国家批判を展開したいわけではなかったし、政治的小説やリアルなだけの「自然派」小説を書きたいわけでもなかった。

戦争による個人的な喪失の話を描くための文学的いれものを探した結果、恋愛奇譚に着地させるというウルトラ技に辿り着いたんだと思う。 

こんなにたくさんの若者を死なせて、かろうじて判定勝ちを得ただけで一等国気取りになって浮かれている場合か、という覚めた視点は、だから、『三四郎』冒頭の田舎者のじいさんや、世間的には認められない脇役の広田先生の口を借りてでてくるのであり、『趣味の遺伝』のドライな傍観者の目を通してちらりとのぞかせるだけにとどめている。

自分の仕事は日本人のためにちゃんとした文学作品を作ること、というのが、漱石先生の信念だった。

『趣味の遺伝』の構成は、でもやっぱりちょっと力まかせにねじったような感じがして、何を読んだのかよくわからない混乱した感じがのこる。
戦争の理不尽と、美しい女と、幻想的な奇譚のとりあわせ。さらっと読んだだけでは消化しきれない短編なのです。

でも思うけど、この話は、力のある映画監督が映像化したらすごく良い映画になるんじゃないかなという気がする。旅順の戦闘場面は『指輪物語』なみのCGで再現して。いかがでしょうか。




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2014/11/13

360度の眺め Beckler Peak


どんより天気が続いた後、ひさびさに快晴の予報だった土曜日、中年ハイカーMといっしょに、ノース・カスケードの「Beckler Peak(ベックラー・ピーク)」に行ってきました。

シアトルからはクルマで2時間強。

インターステートハイウェイ5号を下りてから「ルート2」の国道をくねくね小1時間東へ入ったところで、スキー場のスティーブンス・パスよりもちょっと手前です。

もう3年くらい前、『ソイソース』に連載されていた山野愛さんのハイキング情報で読んでから、ずっと行きたかった山。2011年にできたばかりの比較的新しいトレイルです。


最近行ったハイキングコースといえば老犬向け的なお散歩コースばっかりだったので、ちょっとここらで「山に行った」感が味わえるコースを歩きたいなと思ってました。

ここは片道3.5マイル(5.63km)、往復で12キロ弱、標高差は689メートル。

「初心者でも4時間あれば往復できます」と山野さんのガイドに書いてあったので、まあ最悪6時間みればなんとかなるだろうと、ちょっと早めに出る、つもりが、なぜか。ようやくトレイルヘッド(トレイルの入り口、登山口)についたらもう11時。

冬時間になった今では午後5時にはもう真っ暗になってしまうので、5時間で往復しないと暗くなってしまう!と、ちょっとプレッシャー。


トレイルヘッドから30分ばかりは、ブナやメープルの落葉樹の林の間の道で、わりあい傾斜がきつめです。

暗くなる前に!とちょっと急ぎ足になる。ふだん運動不足なのでけっこうきつい。


ぜえぜえいいながら半時間ほどのぼると見晴らしの良い山腹にひょっこり出て、元気になります。



ここからはしばらく、針葉樹の森の中のなだらかな道とスイッチバックの登りが交互に続きます。


森の中にはきのこがいっぱい。




尾根に出ると、雪が薄く積もってました。
もうあと2週間くらいしたら、すっかり雪に覆われてしまうかもしれません。

ほんとにこの日は豪華な快晴で、その上まったく寒くもなく、セーターとジャケットも持っていったものの、全然要りませんでした。
コットンの長袖シャツ1枚でちょうど良かった。


きれいな苔と古い木と花崗岩の間の小道。とても歩きやすいトレイルでした。



だんだん視界が開けてくる。


森を抜けて、またちょっと傾斜がきつくなります。

神社の石段的な坂を3セットくらい登り切ると、頂上が見えてきます。


頂上のちょっと下にも、眺めの良い場所がありました。

「俺にかまわず先に行ってくれえ」というので、素直に森のあたりに置き去りにしてしまった中年ハイカーM太郎が登ってくるのを、ここで待つ。


これが頂上への道!(右端に人が立ってるところ) やったー!

ぜえぜえ言いながら、片道約2時間半で登ってこられました。



頂上はこんなパノラマ! 

標高5063フィート(1543m)とそんな高いところではないのに、360度のひろびろした眺めです。



北に見えるのはグレイシャー・ピーク(標高3,213 m)


すぐ目の前の隣の岩山もドラマチックです。

花崗岩が積み重なった頂上は10人も立ったらいっぱいの狭さ。後から来た人と場所を譲り合ってお弁当にします。



岩と地衣類がとても綺麗。

帰りは同じ道をひたすら下り、約1時間半くらいで駐車場に到着。
やっぱり正味4時間でした。

とても気持ちの良いハイキングでした。行ってよかった。

しかし翌日は中年ハイカーふたりとも、立ち上がるたびに「ぅおあああー」と奇声を上げるほどの筋肉痛に見舞われましたが。



しかし、何が一番チャレンジだったかというと、ハイキングそのものではなくてトレイル入り口までの道!!!

ルート2号からBeckler Road という林道へ(標識がないのでとても見過ごしやすいです。私も通り過ぎちゃった)入ってからトレイル入り口までが6.6マイルあるのですが、この林道は、もちろん無舗装道路。

単に砂利道ってだけなら全然オッケーなんですが、山の中をいい加減行ったところでボコボコと道の真ん中に穴がたくさんあいている。

穴をできるだけ避けて運転しようとするのですが、片側は急斜面。まるでビデオゲームみたいに無駄に神経をつかうチャレンジでした。

ジープなどの車高が高くて4WDのSUVなら何でもないんでしょうが、ウチの子(マツダ3、日本名はアクセラ)のように平らな舗装道路を走るために生まれてきたちっちゃなクルマを運転するには、かなり骨のおれる道なのです。

時速20マイル以下で穴をよけながら走るので、6マイルで30分くらい。ルート2号にたどりついたときには平らな道路が本当に嬉しかったです。

トレイル入り口は、こういう穴がボコボコの林道の先にあるところが多いんですよね。

この次にクルマを買うならば、車高の高い4WDにしたい、と山に来るたびに思う。





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2014/11/10

ゆずみそとは




ブログのタイトルを変えました。

ハワイからシアトルに引っ越してきて5年が過ぎて、このブログももう、いつのまにか丸4年が経過!

読んでくださっている方がた、本当にありがとうございます。


まったく大した情報はご提供できてませんが、少しでも気晴らしや何かのたしになっていれば嬉しいです。

シアトル周辺のいろいろ雑記として書き始めたブログですが、だんだんと内容がノースウェストにおさまらなくなってきたので、ちょっと箱の形を変えてみました。

なかみはたぶん、一緒です。
でももう少し、(食べたものと散歩情報のほかに)翻訳の周辺で考えたことやツール話とか、読んだ本や映画の話、日々つらつら思うこと、を書き留めておくメモ的なものが増えると思います。



ゆずみそとは、柚子の香りいっぱいのお味噌です。田楽にも、ふろふき大根にのせてもおいしいですね。

Yuzuwords は、シアトルに来てからフリーター、じゃないフリーランスの仕事を始めるにあたって作った会社(社員全1名)の名前でございます。

シアトルは日本の食材がほとんど何でも手に入りますが、柚子だけは、ほとんど見かけない。
会社登録をするんで名前を考えていたときに、ちょうど、ああ残念、柚子があったらお鍋がおいしくなるのに、と柚子で頭がいっぱいだったのです。

柚子の原産地は中国だそうですが、日本の食生活に深く根を下ろして、大きな風呂敷を広げると、日本の美意識の一端を代表するといっても良い食材ではないだろうか!と思います。

ゆずの香りはライムともレモンとも違う。ゆずがあるとなしとではふろふき大根もお雑煮も紅白なますも、洗練度がまったく変わってしまいます。

なくてもそれなりに料理にはなるものの、あるとなしでは大違い。柚子の香りは、平凡な一品にキリッとした華やかさを添えて、別次元のものにしてしまうのです。

翻訳での私の得意分野は広告、PR、ニュース記事、文芸など、幅広い人びとが読むものです。
だから、正確なのはもちろんですが、原文を本当に理解して、書いた人の意図を汲み取って日本語にするという過程で、キリッとした「ゆず的な要素」のある翻訳にしたいと思っています。


「なくてもそれなりではあるけれど、あると天と地ほど違う」要素というのは、文章でもデザインでも映像でも、ほかのあらゆる表現にも必ずあるものだと思います。

それは、やたらに華美なフレーバーや砂糖をこれでもかとふりかけてデコデコと飾ったりすることではなくて、その反対に、不要なものを削り、必要なものを徹底的に磨く、という作業を繰り返したのちに初めて活きてくる、素材をキラリと光らせる、何らかのエッセンスであるはず。そういう「ゆず的要素」は、思いつきでは駄目で、素材に精通していなければ使うことのできない、引き出し得ないものだと思うのです。

翻訳は原文という素材がある仕事ですから、料理に似てます。熱を通し過ぎたり味を濃くしすぎたりしてせっかくの食材を台なしにしないためには、よーく素材を観察して理解しなければなりません。
そうすると、最後に必要な量だけのゆず的エッセンスが自然に備わった良い訳文になる、はず。

まあ素材との相性もあることですし、濃い味にしすぎたり煮過ぎたり生煮えだったり焦がしてしまったり、たまに砂糖と塩を間違えたりも、ないあるのではありますが、こころざしだけはビシッと持っていきたいものだと思っています。


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こちらもよろしく! 今回は脳が幸せになる言語「ペアレンティーズ」について書いてます。


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2014/11/02

小さな子どもと老犬のためのFranklin Falls


またまた、きのこハイキング。

シアトルから東へ小一時間のスキー場「Summit at Snoqualmie」のすぐそばにある、Franklin Falls (フランクリン・フォールズ)に行ってきました。

カメラを持ってかなかったのでiPhone 写真です。


ハイウェイ90号の出口47を下りて、舗装のない道をすこしうねうね行った先にパーキングがあります。
ここはUS National Forest の管轄。無人のキオスクで5ドルを支払います。

とってもよく整備されたトレイルでした。雨模様だったけれど、トレイルはそれほどドロドロでもなく。

片道約1マイルで、たいしたアップダウンもなく、あっという間に終点の滝についてしまいます。
ガイドに書かれていたとおり、「小さい子どもと老犬にもぴったり」なコース。



パーキングから滝まで、すぐ左手に川を見下ろす道です。



滝に到着。

この先は岩場でかなり足場が悪いので、小さなお子さんや老犬は要注意。老犬は下りていきたがらないかもですが、小さなお子さんは引き止めるのが大変でしょうね。この地点まではほんとうにキッズフレンドリーな道なのですが。 

この岩場の手前で、1歳くらいのお嬢さんを連れた若いお父さんが逡巡してました。どうしただろうか。



急流にまわりの緑が映って、半透明の深い緑色がきれいです。




中学生くらいの元気な団体が来てました。



道の両側には、きのこや苔や地衣類の世界が広がっています。木の幹はびっしりいろいろな種類の苔で覆われていて、そこにきのこや地衣類も混ざって、ミニチュアの森のようです。

ハイキングと思うと短くて少々物足りないですが、滝あり川ありきのこありで、とても豪華なトレイルでした。

<菌は藻に安定した住み家と生活に必要な水分を与えるかわりに、 藻が光合成で作った栄養(炭水化物)を利用して生活します。両者の共生関係は非常に密接で、地衣体の形態、生理機能、分布などは単独の生物と同じように遺伝します。つまり、あたかも独立した生物のように見えるというわけです。>「国立科学博物館 地衣類の研究」より。

きのことか地衣類って本当に存在そのものがヘンですね。




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2014/11/01

なぜ人を殺してはいけないのか


別ブログで「なぜ」と「WHY」ででてくる検索フレーズの違いに驚愕!という話を書きました。

グーグル先生に「なぜ」と聞くと出て来る検索フレーズには、「なぜ人を殺してはいけないのか」というのがありました。

どういうわけでか、日本で「なぜ人を殺してはいけないか」の説明がブームになっていたようなのです。

そこで、もし自分の息子が今小学生か中学生で、「なぜ人を殺してはいけないのだ」と真面目に聞かれたらなんて答えるだろうか。

と、ちょっと考えてみました。以下、答え。

 

 なぜ人を殺してはいけないか。それは、今、わたしたちが住んでいるこの社会は、どんな人にも同じ権利があるという考えのもとに成り立ってるからです。

君の目から見てどんなにキモくても、臭くても、年取っていても、生まれたてでも、ブスでも、頭が悪くても、自分と違う外見でも、自分と考えが違っても、嘘ばかりついているやつでも、怠け者で一つも世の中のためになってないように見えても、人である以上は誰でも、君や君の大事な人とまったく同じ権利を持って生きている。というのが、この社会の前提です。

だから、どんな人でも勝手に殺してはいけないだけではなくて、人から盗んでもいけないし、殴ってもいけないし、嫌がらせをしてもいけないのです。

この社会の法律は、「人はみんな同じ権利を持っている」 という考え方をもとに作られてます。

そのきまりで、君も君の家族も、そのほかの君が大切に思う人も守られています。

でもこういう考え方は、わりに新しいものです。人間の社会がずっとこうだったわけではないし、今後もいつもそうとは限りません。

戦争になって兵隊にされたら、「人を殺してはいけない」というスイッチをオフにして、相手の国の人を殺すことが仕事になります。

奴隷や異教徒や罪人を猛獣に襲わせたり互いに殺し合いをさせてそれを見物していた国もありました。日本ではサムライの時代には名誉が人の命より大切だったので、サムライ的な名誉を傷つけた人は殺さねばならないことになっていました。

おおむね、ベーシックなルールとして、身分の高い人は身分の低い人を適当な理由で殺しても、傷つけても、あんまり何もいわれないという時代が、どこの国でもけっこう長かったのです。

奴隷制があった時代や国では、奴隷として所有されていた人には持ち主と同じ権利がなかったので、どんな目にあっても、殺されても、何もできませんでした。奴隷のある世界では、「人を殺してはいけない」という決まりの「人」の中に奴隷は含まれていなかったからです。

浮気をした女の人は石で打ち殺されるきまりになっている国もありました。その国の決まりの下では、女の人には男の人と同じ権利がなかったからです。

今現在でも、みんなに同じ権利が保証されていない国や地域はたくさんあります。国がきちんとした法律をもっていないところもあるし、その法律をきちんと守らせる力を誰も持っていない場所だってたくさんあります。

日本やアメリカやその他の多くの国では、これまでにいろいろあって、その結果「人が人である以上、みんなが同じ権利を持っているので、互いにそれを守らなければならない」ということを基本的な考え方にすることに決まりました。

何百世代もの人びとが苦しんだあげくにようやくこういう社会が実現した、と私は思います。

だから、この考え方を尊重して、私たちは勝手に人を殺したり傷つけたりしてはいけないのです。

私はこの決まりができて良かったと思うし、こういう決まりのある社会に住んでいることを幸せだと思います。
君はどう思う?

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