6月にIJETで参加したセミナーの報告、続きです。
<翻訳者は何ができるか、何をすべきか> 越前 敏弥さん(文芸翻訳者)
2日目の午後に参加した、楽しみにしていた講演。越前さんはダン・ブラウンの『ダ・ヴィンチ・コード』の翻訳者さんで、ダン・ブラウンものをはじめミステリーの訳書をたくさん出版されています。
翻訳業20年目という越前さんは、1994年から翻訳の勉強をはじめ、翌年に初の訳書を出版。2004年の『ダ・ヴィンチ・コード』の大ヒットを機に専業になられたとのこと。
『ダ・ヴィンチ・コード』は単行本と文庫本がのべ1000万部を超えるというあり得ないほどのモンスターヒットでした。現在では文庫でも初版1万部を切ることもあると聞きますから、それはそれは気の遠くなるような数字です。そんなヒット作を持つ翻訳者として、越前さんが出版翻訳の世界を牽引する責任を感じ、後進を育てるだけにとどまらず、読者をも育てようとしている、真摯な姿勢が理解できたセミナーでした。
出版翻訳の現状は、どこでも聞くことですが、厳しいものです。(翻訳物に限らず出版全体ですが)
15年前は文庫1冊の定価が700円で印税は8%が普通で、初版発行部数は2万部。単純計算で110万円くらいの印税収入だったそうです。
現在では定価が平均900円で印税は7%、発行部数は平均12,000部となっているので、これを計算すると67万円ちょっと。
1冊を訳すのにはどうしたって平均3ヵ月はかかります。重版がかからなければその3ヵ月の作業に対する見返りは、それだけ。月割にして20万円台??
厳しい現実です。定価や印税率などの要素は翻訳者には変えることができないので、唯一、影響を持つことができる発行部数に働きかけるしかない、と、売れる部数を伸ばすため、読者獲得のために、越前さんたちは色々な努力をしているそうです。
まず、翻訳にはスキルが必要であることを伝え、一般に理解してもらうように努める。
そして、「謙虚になりすぎない」。読者がいるところでは絶対に翻訳について謙遜してはいけない、 と越前さん。
人の誤訳/悪訳を公の場で叩かない。これは業界内の足の引っ張り合いになり、全体として良くないということなのでしょう。
また、質の低下に加担しないこと、そして、多少無理をしてでも締め切りを守り、たとえばシリーズものの刊行ペースを維持して読者の期待に応える、なども信条とされているそうです。
求められるスピードは出版翻訳の世界でも加速しているようです。
版元の要望する出版日に間に合わせるために、原書で300ページある作品を5人の下訳チームに割り振り、越前さんが監訳の作業を数日間で行なって、5週間ほどで納品したというケースも紹介されていました。これもチーム翻訳で、やはり用語統一のためにはGoogle Docを使ったそうです。
『
ヘルプ 心がつなぐストーリー』の翻訳は、それほどの短時間ではありませんでしたが、やはり出版決定から入稿まで3ヶ月もなかったので、下訳担当が2人でそれぞれ担当した部分の訳をGoogle Doc に上げ、メイン翻訳者の栗原さんが見直すという体制で、用語はエクセルの表をGoogle Docに上げて同期しながら使っていました。懐かしいです。昼間別の仕事があったので、夜間と週末とランチブレイクまで完全に潰れた3ヵ月でしたが、登場人物と向き合い、文字を通して声を聞くのがとても楽しくて、仕事から帰ってきてコンピュータをひらくのが待ち遠しい毎日でした。
(越前さんのブログで、
以前に『ヘルプ』のご紹介もしていただいたのでした。本当に嬉しい記事でした)。
さて、越前さんたちが牽引している読者獲得のための運動は、「翻訳ミステリ大賞」 の創設や、全国各地の読書会、小学生を対象にした翻訳文学の感想文コンクール、その他イベントなど。
本が「売れない」と言わないこと、も翻訳者に呼びかけているそうです。
売れない売れないと言っていても何もならないし、ますます出版全体のイメージが停滞してい見えてしまうので、ほんの少しでも本を読んでもらうための仕組みづくり、本が読みたくなる仕掛けづくりをするという姿勢。
人がものを学ぶのは「視野を広め、みずからを相対化するため」。そして翻訳という仕事は、「海外文化の受容をしやすくして、客観視、相対化の一助となること」だと言う越前さんは、ご自分の「使命」として文芸翻訳に淡々と取り組む、守護天使のような役回りを買って出ているようです。
最後に、奇しくもこの講演の日の前日に亡くなった翻訳家の東江一紀さんの業績を讃えていらっしゃいました。 「小骨のない翻訳」のお手本を示してくれ、越前さんが駆け出しの時から支えてくれた、恩師であったそうです。東江さんの築いた「翻訳道」を後進に伝えて行くのが自分の使命、と淡々と語る言葉の真剣さに心を打たれました。