2020/06/13

Defund the Policeと暴力装置



どよよーん。気分が上がりません。

耳鳴りみたいに世の騒乱が常に耳の中に侵入してきていて、毎朝目覚めるたびにかなり気分がまずい感じになっている。能天気だけがとりえのわたくしとしたことが、本格的にダウンしてます。

2001年の同時多発テロの後にも動揺したけれど、あのときとはまた全然違う気持ちのわるさがある。日本でもネトウヨと呼ばれる人たちがうようよしているのは似たような気持ちのわるい状況だけれど、ヘイトにまみれている人、コンテクストと痛みを理解しようとしない人、共感のない人たちが無神経な分厚い壁のように立っていることにいいようのない怒りを感じて、その怒りように自分で驚いてます。

これは自分の無力感へのフラストレーションでもあるんだろうと思います。

日本ではいまだに暴動と略奪ばかり報道されてるのではないか、またはそこしか伝わらなかったのではないかという印象を受けるのだけど、今回の抗議活動がほんとうに全米でたくさんの普通の人、白人の普通の人たちまでの感情を巻き込んで、大きな抗議運動になっていること、そしてその中からひとつの具体的な焦点として、「Defund the Police」(警察の予算カットを)の要求が早い段階で出てきていることが、どのくらい伝わっているのかな、と不安に思います。


警察というのは、力をもって暴力を制止する組織です。

市民を守るはずの組織的な力の行使を受け持つこの組織が、ときには弱いものに暴力をふるうこともあるというのは、わりと一部の人しか知らないで済んでいた問題でした。

日本の警察もそうとうにえげつない暴力を被疑者にむけてふるったりしますけれど、その対象はごく限られていて、めったに社会に知られることはない。
かなり昔ですけど、ケーサツにつかまって、取り調べ室で手錠をかけられて面白半分にボコボコに殴られて前歯を全部折った友だちがいました。15歳の少年でした。

不良少年や不良少女だったことがある人なら日本のケーサツがどのくらい陰湿ないじめをすることがあるかよく知っているけど、そういう子たちはリソースも知恵もないので訴え出ることなどない。

仮にひとつふたつ、そんな話が表沙汰になったところで、世間の大半の人からは「自分が悪いんでしょw」「学校行ってろww」とバカにされて省みられることはないというのを、そういう悪いおまわりさんはよくわかってて、絶対に表沙汰にならない人たちだけを対象にいじめをやる。

先日、渋谷でクルド人男性に対する警察の暴力が撮影されて、それに対する抗議活動が起こってます。「こういう奴」になら暴言を吐いても、蹴っても殴っても大丈夫、という了解がおまわりさんにはあったのでしょう。

アメリカでは、20世紀を通してまさにあれとまったく同じことが有色人種にたいして日常的に大規模におこなわれてきてて、そのために殺害される人も多かった。

この国でも今までは、そういう警察の暴力に対する抗議には
「自分が悪いからでしょw」「たまたま運がわるかった」
とかわすのが世論の主な反応でした。自分にはとりあえず関係ないから。

ブラックコミュニティやリベラルな大学の中で警察の刷新やミリタリー装備の解体が主張されても、けっしてメインストリームになることはなく、それこそ「極左」「社会主義者」の考え方とレッテルをはられてきました。

でも今回、あれだけの衝撃的な映像がこれ以上ないほどハッキリとその暴力を明るみに出したこと、それに先立って警察の暴力による死者が直近で何人も出ていたこと、それにたぶん、トランプのかき立てたヘイト文化に対する反動がこれだけの抗議活動につながって、先週あたりから「Defund the Police」が現実味を帯びて語られてます。

まだ具体的な結果につながっていなくても、これだけこの問題に共感が集まっていることそのものが、歴史的なことなのです。

アメリカの警察組織は市や町の自治体単位で完全に独立しているので、これは生活に密着した自治体の政治問題で、改革はやろうと思えば割合にすぐできる。

Defund the Police というと、おまわりさんが一人もいなくなってしまい、まるで『マッドマックス』の世界のような光景が繰り広げられるのではないか、という想像をしてしまう人が多いかもしれないのですが、そうではありません。

ニューヨーク・タイムズの論説記事によると、トランプもそういうイメージを掻き立て、「ドロボウや強姦魔がやりたいほうだいになる」と不安をあおっています。

でもそうではなくて。

警察に使われている予算の一部を、問題そのものを解決するために、社会的なサービスに使おう、というのが「Defund the Police」の主旨なのですね。

レーガンが勇ましく立ち上げたけれどまったく効果がなく、多くの人を刑務所に入れるだけに終わりむしろ問題を深化させた「ドラッグとの戦争」以来、どこの戦争に行くんですか?というような過激な装備を警察が導入するようになり、警察が装甲車を持つようになったりして、それと平行して警察による暴力もエスカレートしてきました。

市民を守るはずの警察が、軍隊の装備を持つようになるとどういった心理的効果があらわれるか。

結局暴力は暴力を生み、エスカレートさせていくだけではないか。
暴力で暴力は解決できないというのが今まででハッキリした教訓ではないか、というのが、Defund the Policeの背景となる考えかたです。

抗議活動している人にもそれこそいろんな考えの人がいるし、そうそう簡単ではないだろうけれど、わたしは「Defund the Police」の流れにはまったく大賛成で、これが今少なくとも注目を浴び、これまでよりも多くの人の共感を得て、まともに議論されているのがとても嬉しいです。

だからこそ、その論旨とその背後にある痛みの歴史に共感できない・しようとしない人、ましてやあからさまにそれを「弱さ」として攻撃する人々への怒りを感じてしまうのでした。

変わらない人は変わらない。

でも恐れを基盤にした社会よりも、共感と理解を求めようとする社会、懲罰よりも癒やしにフォーカスした社会のほうが豊かだと思うし、それはユートピアでなくてもある程度実現が可能だと思うし、これからの世代には今までにはなかったほどのスピード感と軽やかさでそれを可能にする力があるはずだと、わりとかたくなに信じています。




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