やっと、長いトンネルを抜けて放心状態。
先週までの2週間は翻訳稼業をやってきた中でも一番ハードだった。もちろんスーパーボウルも見れず。
そんななか半分寝ながら書いたデジタルクリエイターズの回です。
自分ではけっこう気に入ってたんだけど、70歳の柴田編集長には完全スルーされ、しかも知らないうちにタイトルが「さまよう猫のタマシイ」から「猫シッターで考えたワンダーラスト」とかに変わってた。あら。
よほどつまらなかったのか、やばい系だと思われたのか。まあいいや。
でもそのかわり、「猫を2ダース飼っている」という方からメールをいただきました。
では以下、「さまよう猫タマシイまたはワンダーラストについての考察」です。
年に何度か、猫シッターに行く。
知人のご夫婦が日本にセカンドハウスをもっていて、年に1度か2度長期間日本に滞在する。そしてシアトル近郊のひろびろした邸宅に4匹の猫たちが残されるので、その皆さんのお世話をするのがわたしの任務である。
2匹はメンズ。
繊細で好き嫌いが激しいお公家さん的な性格のリンタロウ君と、耳が聞こえないためかまったく空気が読めないシンノスケ君である。
この子たちはもう10年以上この邸宅でのびのび暮らしている。
そこに去年加わったのが、2匹のガールズ。ふたごの(ほんとは多分五つ子か六つ子だったのだろうけど)ハナちゃんとノラちゃんで、まだ1歳未満のぴちぴちギャルズだ。
この4名の間に繰り広げられる猫ドラマは、かなりのエンターテイメントだった。
特にふたごギャルのハナちゃんとノラちゃんのキャラクターの違いには瞠目すべきものがあった。
今回は、その猫ドラマの一端をご紹介したいとおもう。
まずハナちゃん。この子は、満腹中枢がどうかしてるのかねと思うくらい、よく食べる。
ほかの子たちは、缶のフードをめいめいのお皿に少しずつあげても、ほんのちょっと食べるとどこかに行ってしまう。彼らが集中して食べている時間はほんの1分足らず。そしてしばらくするとまた戻ってきて思い思いの時間にちびちびと食べる。
リンちゃんなんかは、ほんのちょっと上澄みをなめただけでぷいっと中庭のドアのほうへ向かい、「まろは散歩に行くでおじゃる」と外遊を要求する。そして、しばらくして戻ってきてからまたフレッシュな気持ちで残りを食べるのがルーティンである。
でもハナちゃんだけは、完璧な集中力を発揮して目の前のごはんに取り組み、ほぼ完食するまで食べ続けるのだ。ハナちゃんの注意がごはんからそれるのは、自分が食べ始めた後で他の猫がごはんをもらっている時だけだ。
みんなが自分とまったく同じものを食べているのにもかかわらず、この娘は人の皿めがけて突進し、頭をにょっと横から割り込ませて食べ始めようとする。
この攻撃を受けると他の3名はすごすごと退散してしまう。特に王子様のように繊細なリンちゃんは、ハナちゃんが近くに寄って来ただけで食べる気を喪失するらしく、即退場する。
そのまま放っておくとハナちゃんは他人の皿に盛られたごはんを余すところなく順番に食べ尽し、最後に自分のお皿に戻って、これもまたきれいに食べる。まるで『千と千尋の神隠し』に出てくる「カオナシ」を見ているかのような、圧倒されるような食べっぷりである。
もちろんそれには結果が伴い、持ち上げてみるとまだ8カ月という小さい身体に見合わないずっしりとした重量感がある。そのままでは異常に巨大化してしまうのが目にみえているため、食事時間にはハナちゃんが他人のごはんの近くをうろつかないよう隔離しておく方策を取らねばならない。
ごはんのみならず、ハナちゃんは何に対しても躊躇がない。猫たちはみんなヒモの先に羽根のついたおもちゃが大好きで、これをリビングの真ん中でブンブン振っていると皆がたちまちそわそわしはじめるのだが、真っ先に飛び出してくるのはやっぱりハナちゃんである。
ギャルズがあまりにパワフルにリビング中で破壊活動を繰り広げるためヒトが眠れないこともあるので、夜の間二人だけを別の部屋に隔離しておくこともある。朝迎えに行くとドアのところで待っていて飛び出してくるのはハナちゃんで、姉のノラちゃんは必ず数メートル遅れて、妹の後を追う。
リビングにはプラスチック製のおやつディスペンサーがある。40センチくらいの高さで、3階建ての丸い立体駐車場みたいな形になっていて、ヒトがてっぺんの穴からカリカリおやつを入れると、まわりにいくつも開いた穴から猫が手をつっこんでそれぞれのレベルの床の穴に次々におやつを落としていき、最後に一番下からおやつが外に出てきて食べられるという仕掛けになっている。
このディスペンサーに入ったおやつが食べられるのはハナちゃんだけである。
というか、敢えて挑戦するのがハナちゃんだけなのだ。
おやつを取り出すと皆わらわらと寄ってくるのだけど、ディスペンサーに入れたものにはハナちゃん以外見向きもしない。ハナちゃんも、まず床にあるおやつをしっかり食べてから、ディスペンサーに向かう。
で、このディスペンサーは一見パズル的な、ちょっとした知力を要求するもののように見えるのだが、そうではない。必要なのは、
食えるまで絶対にあきらめないという強い意思だけなのだ。ハナちゃんはとにかく怒涛の勢いであらゆる場所から手を突っ込み、やみくもにかき回している。すると、そのうちおやつが下から出てくる。彼女にとってこれは、上段>中段>最下段という段階のあるパズルではなくて、「ひとかたまりの障害物」にすぎないようだ。
常に忖度も斟酌も躊躇もなく目の前のものを全力で追い求めるハナちゃんは、まるでシリコンバレーのスタートアップ企業の人か、投資ファンドのマネージャーのようである。
資本主義社会で勝ち残っていくにはこういう何をも顧みないドライブが必要なのかもしれないなあ、と思わされる。
ハナちゃんが人間だったら、きっと中学生の時からビットコインで5億円くらい儲けてると思う。
ノラちゃんにはドライブがないかというと、決してそんなことはない。
でも、そのドライブは明らかにハナちゃんとはタイプが違う。
何が違うかというと、ノラちゃんには、いってみれば想像力みたいなものがあるのだ。
そしてこの娘には「ワンダーラスト」がある。
猫は好奇心が強いといわれるけど、ノラちゃんの好奇心は筋金入りだ。
キッチンで料理をしていて、キャビネットの扉をほんのちょっとでもあけっぱなしにしておくと、閉めるときにはたいてい猫がはさまっている。
これは必ずノラちゃんである。
彼女は、普段は閉まっている扉がたまに開く瞬間を決して見逃さない。
キッチンのごみ箱は引き出し式になっている。そのごみ箱の入っている引き出しの下に手をつっこんで空ける方法を知っているのはノラちゃんだけ。
そもそもごみ箱の後ろに入り込んで探検しようとするのもノラちゃんだけだ。
大きなシダの鉢植えの中に飛び込んでいってしまうのもノラちゃんだし、スパイス棚の下にいつのまにか挟まっているのもノラちゃん。
ディスペンサーのおやつには興味を示さないのに、カウンターの上に置いてあるおやつの入った箱をかじったり床に落とたりして、なんとかフタをあけて食べようとするのも、ノラちゃんだけ。
あれだけ食べることに貪欲なハナちゃんは、そういう斬新な試みを思いつくことはない。しかしノラちゃんがカウンターから落下させてフタを開けることに成功したあかつきには真っ先に走ってきて中身を一緒に食べている。
そしてノラちゃんは、外の世界に激しいあこがれをもっている。
この家の周りは自然環境が豊かでコヨーテやアライグマもいっぱいいるし、何にでも無鉄砲に突撃していくノラちゃんは気の毒ではあるけど、とてもじゃないが心配で外には出せない。
わたしがリビングに座って仕事をしていると、時々世にも哀しげな声でノラちゃんが啼いているのが聞こえる。世界のすべてが自分を置き去りにして別の次元に旅立ってしまうのを目の当たりにしているかのような、悲痛な声である。自分はガラス窓のむこうの世界に
どうしても行かなくてはいけないのだと切実に感じているのがわかる。
この悲しいほどのあこがれは、きっと人間の中に呼び起こされるものと基本的には同じ作用なんだろうなと思う。ただ言語化されていないだけで。
ハナちゃんとノラちゃんには明らかな指向性の違いがある。
すごくよく似た遺伝子を持って、ほとんど同じ条件で育っているはずの姉妹なのに。
見たことのないものに死ぬほどあこがれて全力で追い求める人と、目の前に置かれたものにすべてのエネルギーを注ぐ人。
人類には旅に出たがる個体と安定を求める個体があって、全体として種の存続に役立ってるという話を聞いたことがある。その状態にい続けるのが好きな保守的なグループと見知らぬ土地に旅立っちゃうグループがいるから、新天地に突撃していって全滅する人びとも多いなかで何割かは生き残り、種は全体としてより広い土地に広まっていったのだ、という説だったと思う。
遠くのものをあこがれてやまない気持ちを「ワンダーラスト」という。ドイツ語が語源だそうで、「WANDER」(漂泊する、ふらふらする)ことへの「LUST」(渇望)。病的なまでに強く、遠くに行きたくなっちゃう気持ちである。
こういう傾向を持っている人は、つまりホモサピエンス中の「突撃隊」的存在だってことなんだろう。
わりに最近の研究で、ある遺伝子がこのワンダーラストに関連しているのがほぼ確実だというのが実証できたという話を聞いた。人類の20%は特定の遺伝子「DRD4-7r」を持っていて、どうやらその人たちはワンダーラストが強いという説だ。
これはドーパミン受容体の感度を決定する遺伝子で、これを持っている人はほかのグループに比べてリスクを取るのが好きで新しい刺激を求める傾向があるので、旅好きなだけでなくアル中やヤク中にもなりやすく、精神疾患にかかる傾向も強いらしいという。
この遺伝子「だけ」がそういった特性を決めると結論するのはちょっと単純すぎるんじゃないですかと思うけど、わたしたちの志向や嗜好はその多くが生まれつき埋め込まれたものだっていうのは、まあそうなんだろうなと思う。
人間の生活にはほんとうに沢山チョイスがあるから、成長していく間にミュートになるものや活発になるものもあるんだろう。殺人鬼になりやすい遺伝子構造、お坊さんになりやすい遺伝子構造、会計士になりやすい遺伝子構造というのもあるのかもしれず、でもそれにたいする適切な環境のはたらきかけがなければ殺人鬼もお坊さんも会計士もできあがらないという、そういうことなんだと思う。
まだ誰にもわからないすごく複雑なしくみによって、わたしたちはいろんなものを、人や場所や香りや味や音や感触や、さらには思想や信条も、致命的に好きになるように運命づけられている。
個性というのは、究極的には「自分は何が好きか」っていうことだ。何ができるか、よりも、きっと何が好きかのほうが、要素として大きい。
その志向のほとんどが遺伝子で決定されているにしても、わたしたちは「好き」に引きずられて喜びを感じ、湧き上がる願いを切実に生きずにはいられない。
ノラちゃんの切ない啼き声は、紛れもなく「ワンダーラスト」の表明だとおもう。
はてしなく大きな空間、遠くで飛んだり動いたりする不思議なもの、見たことのない色や形や感触。窓の外に見えるものや、ごみ箱のウラにあるかもしれないなにものか(なにもないけど)に、ノラちゃんのタマシイが引き寄せられているのだ。
人間の2割にさまよい系の人がいるなら、猫にもさまよい系がいないほうが不思議だ。
もしかしたらもっと単純な生きもの、爬虫類とか昆虫の中にも、安定を志向する個体と遠くへ行きたがる個体が同じくらいの割合で存在してるのかもしれない。
「タマシイ」がアミノ酸の雲のどこかにしまわれているのなら、タマシイ構造が単純なものから複雑なものまで、生命体の間で共通しているのは当たり前な気がする、と最近よく思う。「何がしたいか」「何が好きか」だ。
これは仏教的な考え方につながっていくのだと思う。もっと言うなら、きっと植物にだってそういう指向のスイッチはあり、感受性のモトがあると思う。
ショウジョウバエもドーパミンを持っているということを忘れてはいけない。わたしたちの知っている嬉しさや恐怖のエッセンスのコアである原始的ななにかを、ハエたちも知っているのだ。ましてや猫たちは。
言葉の檻、主観の檻、ロジックの檻に閉じ込められていない猫や犬たちは、人間のタマシイの真ん中にあるものを、そのまんまのかたちでみせてくれる。だから犬や猫といるのがこんなに面白いのだ。
言語獲得以前のワンダーラストを、ノラちゃんがかいま見せてくれる。