『Ghost in the Shell(ゴースト・イン・ザ・シェル)』みてきました。
予告編を何度か観て、こりゃダメかも〜。うーん。でも観ないわけにはいかん、と思いつつ劇場に行ったんだけど、予想以上によかったです。
士郎正宗さんの原作コミックは、わたくし、崇拝しているのですが、情報量が多すぎて何度読み直しても完全に理解できない。
原作とも押井守監督のアニメ版映画とも全然別ものだけど、これはこれで了解いたしました。ふつうにいいと思う。
「草薙素子少佐」じゃなくて「レイチェル少佐」のスカーレット・ヨハンソンは本当によかった。
内省的な目ぢからがすごくて、アンドロイドっていわれれば、まあそうかも、と思えるような存在感。
義体(人工の肢体)を開発する科学者役のジュリエット・ビノシュも大好きな女優さんの一人。このひとが画面にいるだけで映画の格が上がるかんじ。
一人だけなぜか日本語を喋る荒巻部長役のたけしも。原作の部長のキャラとは全然違うのだけど、妖怪的な不気味な存在感があってこれはこれでよかったです。なんかでもヤクザっぽいな。
バトーさんはもうちょっと凶悪そうなほうが良かったなー。ちょっといい奴っぽすぎる。
そして、トグサ役が中国人(香港人かな)俳優というのは、少佐がスカーレット・ヨハンソンというよりもむしろ残念な気がする。俳優さん自体はとってもトグサらしくてよかったんだけど。
あと、フチコマが出てこなかったのがなんといっても残念でした。
フチコマまたはタチコマは、ネットワークにつながっていてうっすらと自我のようなものを持っているという設定の人工知能搭載の多機能のりものです。たしかに、フチコマちゃんを出すとお金かかりそうだし話がややこしくなるわね。
(以下マイルドにねたバレ)
原作の舞台は第4時大戦後、核戦争で東京が消滅した数十年後の日本の「ニューポートシティ」だけど、冒頭に画面に字幕で出てきた説明をちゃんと読まなかったこともあり、映画の舞台はどこなんだかよくわからない。日本にしては国際化しすぎていて、もはや東アジアの大陸に溶解してしまった日本国家の都市という感じ。もしかしたら韓国と北朝鮮と香港とマカオと台湾と日本で合併したのかもしれない。
たけしが一人で日本語で喋ってはいるけど、ほかの登場人物は英語。
日本語、韓国語、中国語の看板が入り混じり、キッチュな巨大人物や鯉のホログラフ映像がビルの谷間にびっしり立て込んでる景色は、なかなか見ごたえありました。
とにかくビルが多くて垂直にせせこましい混沌としたアジア都市は、どうみても近未来香港。
香港チックな漢字の看板いっぱいのゴミゴミした都市は押井守監督のアニメ版をそのまま実写化したかんじだけど、『ブレードランナー』の衝撃的なディストピアのアジア都市の延長線上にあって、ビジュアルでびっくりするようなところはあまりなかった。むしろクリシェな感じ。90年代的な近未来解釈。(ゲイシャロボットも、90年代的なセンスだなと思う)
義体を作っているのは、国家以上の権力がありそうな企業「HANKA」。この企業のロゴとか、ちらっと映る社屋とかもなんとなく90年代ふうであんまりウルトラオシャレじゃなくて、少し残念でした。これも香港風というべきなのか。
たけしが「首相と話してきた」っていう場面が2回あったけど、どんな首相のいるどんな国家体制になってるのかは謎。HANKAの白人男性社長は政府と癒着しているらしいけど、敵としてはうすっぺらすぎて怖さがない。
ハリウッドから見ると、結局中国も日本も韓国もひとまとめにアジアなのねというのが良くわかる。ていうかね、たけしの存在でかろうじて日本の原作に敬意を表してはいるけど、完全に舞台は中国に取られてしまっている感。
きっとコアな日本のファンには、もうそこだけできっと拒否反応のひとがいるのだろうな。
でもね、「俺たちの少佐をかえせー」と言ってももう無駄だと思うだよ。
DreamWorksなどに続いて、映画の冒頭に制作会社&配給会社のクレジットが何社も続くのだけど、最後の2社は中国のだった。ネットでちょっと調べても出てこなかったので何をした会社かわからないけど。
とにかく制作現場でのパートナーとしても、市場としても、ハリウッドが必死で見てるのは中国なんだな、もう日本は、映画でのたけしの存在が象徴するように、もっともバイタルな存在ではなくなって、シンボル的なものになってきたのかもしれない、とふと実感しました。
ヲタクのひとたちが微妙に右傾化しているらしいのは、世界が、そしてこの東アジアの一画が、もう取り返しのつかないほどグローバル化してしまったことの証明なのだな、と、映画とはまったく直接関係ないけどそんなことを思ったりもした。
グローバル化っていうのは「フラット化」なりと主張してたのはトーマス・フリードマンさんだけど、実際にはグローバル経済はこの映画のニューポートシティに描かれるような格差や荒廃を作り出している。でも、意匠や文化のフラット化は進んでいる。日本の「クール」が新しかったのは、きっと90年代までだ。今ではジャパニーズアニメの言語はもう世界のミレニアル世代の共通言語のなかに組み込まれているのだし。本当の「フラット化」というのはもしかしたらこの映画の町並みのような風景のことをいうのかもしれない。
(以下盛大にネタバレあり)
原作やアニメ版映画の草薙素子少佐は強くてハードボイルドで、感傷も他者への共感も強いて持とうとしない。これは、ジャパニーズアニメのキャラクターのひとつの典型。
だけど、この映画の「レイチェル」少佐は、ふつうに傷つきやすく、自分の出自に納得していない。
なので少佐の自分探しが映画の本筋になる。
原作世界では、ネットワークにつながる電脳の中に個性または「魂」というべき「ゴースト」がゆるく存在しているという非常にややこしくエキサイティングな設定なのだけど、この映画では、ひとの脳を人工の義体に埋め込み、完全に統合することに初めて成功したのが「レイチェル」ということになっている。
そしてレイチェルには時々、ジェイソン・ボーンのように、過去の記憶が一瞬戻ってくる。いったい自分はなにものなのか?
追っていた敵が、実は自分が作られる前の実験体として捨てられた人造人間だったということがわかり、いったい自分の前には何体実験体があったのか、とレイチェルは自分を作ったハカセを問い詰め、ついに真相を知る。
「テクノロジーの暴走に反対する革命分子」みたいな若者グループが、警察の襲撃を受けて国家に拉致され、その若者たちの脳がこのプロジェクトに使われていたのだった。レイチェルの脳は「モトコ・クサナギ」という若い女の子のものだった。
反乱分子が国家に拉致されてその肉体が国際企業の実験に使われる。中国を念頭におくと、何か妙に説得力がある話。
強欲な企業のCEOからレイチェルを逃がすために犠牲になるハカセ(ジュリエット・ビノシュ)と、モトコという娘を失った後、古い高層アパートに一人で住んでいる寂しい母(桃井かおり)という2人の「母」のおかげで、この映画の少佐はかなり人間らしい存在になってる。
原作コミックは、子どもにはちょっとみせられないエロ画像入りで、少佐のコスチュームもかなりエロい。でもこの映画(PG13)のレイチェルのボディは、かなりトーンダウンしていて、わざと作りものっぽい感じになってた。
全体に、映画としてすごく新しいところもなく、ものすごく尖ったところもなく、期待される中の妥当なラインで丸くおさまるように手をうったという感じがする。
映画そのものも少佐も、おっとりした印象だった。
せっかくなら、日本のヲタクたちも、世界のミレニアルたちもぶっ飛ぶような、金字塔的な映画になっててほしい。という淡い期待は裏切られたけど、優等生的にグローバル化した少佐も全然わるくなかった。ホールフーズで売ってる感じだけどな。
でも、本当にせつない近未来の絶望を圧倒的な映像で描く映画が観たい。
と思うと、押井守監督のバージョンをやっぱりもう一度観たくなるのでした。