さて、朝ごはんを食べて阿字観瞑想も終え、宿坊をチェックアウトしたあとで、まず奥の院へ。
奥の院というのは、空海、つまり弘法大師の「御廟」があるところ。
というのは、前日、高野山に着いてから初めて知った(・_・;)。
観光パンフによると
「弘法大師御廟は大師信仰の中心聖地です。各宗派の祖師の中でもただお一人入定信仰を持つ大師は、今でもあらゆる人を救い続けていると信じられています」
えっっ。
高野山公式サイト にはこう書いてある。
「921年、醍醐天皇はお大師さまに「弘法大師」の諡号(しごう)を贈られました。この時、東寺長者の観賢(かんげん)はその報告のため高野山へ登られました。奥之院の廟窟を開かれたところ、禅定に入ったままのお大師さまに出会われ、その姿は普段と変わりなく生き生きとされていたと伝えられています。
この伝説からお大師さまは、今も奥之院に生き続け、世の中の平和と人々の幸福を願っているという入定信仰が生まれました。」
ええっ。
つまり、この奥の院の一番奥にある御廟の中に、いまでも弘法大師が生きて祈っている。という信仰があるのだという衝撃の事実。知らなかった!
そしてさらに衝撃的なことに、この御廟に毎朝、弘法大師空海先生のためにごはんを!1日2回!届ける係のお防さんが(維那というそうです)いるのだそうだ!
御廟に入れるのはこの係の人ひとりだけ!
中で何を見たかは、死んでも口を割らないお坊さん。
この係の人は、いったい何年間くらいずつ、この役割をあてがわれるのでしょうか。
想像を絶する生活だなあ。
…という知識を仕入れたてホヤホヤで、宿坊から奥の院へ向かったMちゃんとわたくしでした。
入り口から奥の院までは、こんな苔むした杉木立の間の石畳の道が、2kmもつづく。
その両側には、みっしりと、お墓と、供養塔。
「加賀家」「島津家」「松平家」など、お大名やお公家さんの家の、囲いの中に苔むした背の高い墓石が人の住まないビルディングのようにひしめきあって立ち並ぶ墓所あり、武田信玄、明智光秀、上杉謙信、織田信長などの供養塔もある。
豊臣家の墓所もあり、一番奥の御廟に近い左手の、とくに大きな囲いの中に「歴代天皇陵」もある。
御廟の手前にある 「水向け地蔵」。お地蔵さんや不動さんたちが並んでいるところに水をかけて祈るしきたりらしい。
水をかけるひとびと。割合に思い切りかけている。
この「御廟橋」から先は、写真撮影は禁止。
奥にみえるのが「燈籠堂」。
弘法大師がいまも祈っているというのは、燈籠堂のさらに後ろの小さな建物。
燈籠堂の中では、信仰の篤い巡礼の人から、クウカイってなにそれラーメン屋?な観光客(わたしもほぼ同レベルだったですがね)までが列をなしてお香やお守りや御札やろうそくを買っている。
そのうしろには大きな祭壇があり、そこに座って拝んでいる人もいる。
追加料金で、個別の祈祷をしてもらえるのだそうです。
高野山奥の院での祈祷料は明朗会計で、3000円から20万円まで。
中に座って護摩祈祷をしてもらうには5万円、供養が1万円から。
そして納骨が5万円から、とある。
意外にリーズナブルな価格設定、なのでしょうか。
燈籠堂というだけに、天井や壁に一面にちらちらと火の燃える燈籠がかかっていて、幻想的です。
ここは消防法的にどうなのかという疑問が頭をかすめる。きっと黙認というか治外法権的な扱いなのかも。地震の多い関東じゃちょっと怖いけど。
燈籠堂の中はもちろん撮影禁止なので、和歌山県のサイトからお借りいたしました。
燈籠堂と御廟の前を通って、燈籠堂を一周。
御廟の前には「納骨堂」があり、ここに骨をおさめることができるらしいです。
燈籠堂には地下がある。
この地下室には、ちっちゃい空海先生が何千体も並んでいた!
身内の供養をしたい人が空海先生の像をここに並べる権利を購入してお参りをする、お墓のミニチュア版のようなシステムらしい。
なんだかここはとてつもなく重苦しくて、早く外に出たいと思った。
奥の院全体が重い場所に思えたのだけど、この地下の空気はさらに重くて、あまり長くいるのは堪えられない気がした。
わたくし、閉所恐怖症ぎみなので、地下とか洞窟とか窓のない部屋が苦手なのです。
なんだかスピリチュアルな牢屋みたい。いったい何が閉じ込められているのか。
たぶん、あのちっちゃい何千体もの像にこめられた願いや祈りを、重苦しく感じたのだと思う。
これは空海先生が望んだことなのか?
9世紀に生きた空海先生は、自分の開いた教えが1000年のちにこんな巨大なシステムに育つなんて夢にも思ってみなかったに違いない。
もちろん誰かの信仰にケチをつける気はさらさらないのだし、それがうまく働いているのなら素晴らしいことなのだと思うのだけれど。
高野山ができてから次々にお墓が集まってきて、数百年かけて、まるで珊瑚礁のようにお墓と骨が集積してきて、もうそれはたいへんな量のカタマリとなっている。
奥の院のお墓の数は、20万基だという。さらに、供養された人や納骨された骨の数を数えたら、何百万にもなるはず。
立石寺でもつくづく感じたけれど、お寺というのはつまりお墓であるのですね。
そんな当たり前のことと言われるかもしれないけど、立石寺と高野山を訪ねるまで、わたしにはそのことがいまいちわかっていなかった。
わたしも、毎回日本に帰るたびに、初日に父母の墓参りをブッキングする(自分と弟にブッキング)。
ふだん音信不通にひとしい上の弟にも声をかけて、下の弟に運転をたのみ、車で1時間以上かかる埼玉県大宮市のあたりにあるうちの墓まで行って帰ってくるのに、半日以上を費やす。
息子が行くときには、とりあえず息子も連れていく。
お墓は、まずもって、生きている人の思いを受けとめる器なのですね。
死者との関係の置き場所。
日本のお寺はそれの引受先として、機能しているのですね。それをここで、まざまざと感じてしまった。
奥の院には参道が2本あって、新しいらしいほうの参道には、企業の名前のついた立派な墓所がいくつも並んでいた。
これらには誰かの骨がはいっているのではなくて、亡くなった従業員や関連する人びとをまとめて供養するという供養塔なのらしい。
中でも一番古そうなのが松下電器ので、これは古いほうの参道沿いにあった。
昭和13年、45歳の松下幸之助さんが建立した。「建立誌」には、
「熱誠なる従業員の中で不幸傷病のため死没せし者」を出したことを「痛惜に堪えざる」思いで、「千古不滅の霊城に永代供養塔を建立し、これらの先人を弔うとともに、向後不慮の殉職または在勤中に死没せる人びとの霊を合祀して永くその冥福を祈り祀らんとす」
(原文は漢字とカナ)とあった。
大正から昭和初期の「熱誠なる従業員」たちは、ほんとうに掛け値なしに「熱誠」だったのだろうなあ。
今とくらべてずっと危険な工場などの環境で、命を落としたりした人もいたのかもしれません。
「痛惜に堪えざる」というのが胸に迫る。
幸之助さんは、まことに社員思いだったんですね。胸熱。
見慣れた形が!!
上島珈琲さんも!!
しろあり!やすらかにねむれ!!
白蟻駆除をなりわいとする人びとが建てた白蟻のための碑です!
いろいろと衝撃的な事物の多い奥の院でした。