うちにはテレビがありません。
なのでテレビ番組はシーズン遅れとか数年遅れにて、いつもNetflix で、ときにはまとめて「ビンジ」視聴。
夜、仕事も片付けものも終わってから、1話ずつ Netflix で見るのが最近日課です。
Netflix は親切にもどんどん次のエピソードを自動的に流してくれちゃうので、気を許しているとつい大夜更かしをしてしまいそうになるのが恐ろしいところ。
『Breaking Bad』を見終わってしまったこのごろ、(最後の8話分はまだNetflix で公開されてないので、ウォルトの運命はまだ知りません)はまっているのが『Mad Men』。
日本では『マッドメン』としてフジとケーブル局で放映されてるようですね。
60年代のマンハッタン、マディソン街の広告会社が舞台のドラマで、クライアントとの駆け引きや微妙な人間関係がたんたんと続いていくドラマ。
出てくる人物はそれぞれグラマラスで尊大で魅力的で、みんなどこかが徹底的に壊れている。
ドラマそのもののストーリーはトーンが抑えられていて、むしろ地味なくらいゆっくり展開するのだけど、時代背景が刺激的。
「こんなんだったんだ、60年代」と、追体験できる、そしてその時代を現代の視点から見てみることができるのが、このドラマの最大の楽しみ。
時代考証に異常なほどの労力を割いているそうで、小物や家具、衣服はもちろん、お天気がどうだったかまで文献にあたって確認してるんだそうだ。
女の子たちの着てるコートやワンピースがめちゃめちゃ可愛い。
時代が進むにつれ、オフィス家具にイームズやネルソンが登場したり、役員オフィスがすっかり未来的なデザインになったり。
キッチンにはもちろん、今ではビンテージのパイレックスが。
ファッションと家具を見るだけでもけっこう楽しいのだけど、このドラマで「当たり前」の前提として強調されてる60年代の日常が、すごい。
会社でも、家庭でも、映画館でもレストランでも、もちろん飛行機の中でも、ひっきりなしにタバコを吸い続ける人びと。
妊婦もママも、赤ちゃんを抱えて、または子どもがテーブルについているその隣で、きれいに口紅をひいた唇にタバコを挟んでプカ~。
窓際のドアのある個室のオフィスで仕事をするのはメンズのみ。
女子は皆、タイプライターを前に広いフロアやボスの個室の前に控えるセクレタリー。
メンズは何の遠慮もなく「女の子」たちを品定めし、セクハラ発言をする。
同じビルで働く有色人種は、制服を着たエレベーター係の黒人青年のみ。
スーツにネクタイの白人広告マンたちの、まったくセンシティビティのない発言を、苦笑さえできずに聞きながす。
南部で爆発していた公民権運動に対する、KKKによる教会襲撃などの暴力をテレビの画面で見ながら、白人主婦は黒人家政婦に「公民権運動って、問題を起こすばかりね」みたいなことをさらっと言う。
1960年から始まって、少しずつ時代が進んでくのもドキドキする。
マリリンが死に、ケネディ暗殺が起こり、今見てるシーズン4ではジョンソン大統領が選挙を戦ってる。これからベトナムが泥沼にはまっていくのだー。
ところで先日、20年ぶりくらいに読み返した開高健の『ロマネ・コンティ一九三五年』のなかの『黄昏の力』に、こんな描写があった。
「小さなモルタル張り木造二階建の二階の一隅で、毎日、ハイボールやオン・ザ・ロックの宣伝文を書きまくっていたのだが、誰かが歩くと床板がギシギシ音をたて、階段を速足でかけおりるものがあると、家全体にひびいて、部屋がゆれるのだった。家のまえは運河になっていて、団平舟がギッシリとつまって黒い水を蔽い、夕方になるとエプロン姿の肥ったおかみさんたちが舳にしゃがんでフンドシやズロースなどの洗濯物の下で七輪に火をおこすのが見えた。それが上げ潮どきとあうと、東京湾から真っ黒の水がおしよせてきて、ひどいどぶの匂いがたちこめる。腐って、ねびて、ねとねとからみつく、工場と海の嘔吐物といいたくなる匂いである。」
「名刺屋、オートバイ屋、ラーメン屋、下駄屋などがごたごたとひしめくなかで支店は入口のガラス扉に金粉で《世界の名酒》と書いている。 階下のトイレから階段をつたい歩きして消毒液の匂いがやってくることもしばしばだったが、そんななかで明けても暮れても『この一滴の琥珀の讃仰!』とか、『暮春に拍手がある!』とか、『コップの中の輝く嵐』など、新聞、週刊誌、月刊誌のために右から左へ書きまくる。」
「正午になるとオデン屋のラッパを聞きつけて階段をおりていく。そして名刺屋の娘さんやオートバイ屋のおかみさんなどが鍋を片手に群がっているなかにわりこんで、一本十円のツミレやアオヤギなど、どの串にいちばんダシがしみているかと、ちょっと夢中になって吟味する。毎日毎日時計のようにどれもこれも同じ味なのだが、ツミレがいつもはイワシの団子なのにときたまアジをたたいて作ってあったりすると、驚喜した」
開高健さんがサントリーの前身「壽屋 」のコピーライターだったのは1950年代なかばから数年間だから、これは『Mad Men』の時代よりは数年前ではあるけれど、同じ広告屋さんを描いていながら、この時代の東京とニューヨークの落差のすさまじさに、目がしぱしぱする。
この短編の中でも、もしニューヨークのコピーライターで同じくらいの実績をあげていたら、少なくともマンハッタンのペントハウスとマイアミに別荘が1軒くらいは持っているはず、と遠い目になる場面がある。
日本が戦争に負けて、まだ10年そこそこ、焼け跡から復興しつつあった時代の貧しさと侘びしさが、この『黄昏の力』にはたっぷりと描き込まれてて、迫力。
この人の文章はほんとに凄みがある。
50年代、『3丁目の夕日』の時代、焼け跡から再生しようとしていた日本からは、アメリカは途方もなく遠い目標であったはず。
それから60年後には、東京にもマンハッタン以上に洗練された高層ビルが立ち並び、日本のワカモノはもう海外に興味すら失っている。
『マッドメン』の栄光の60年代には、主人公の暗い少年時代の記憶として、大恐慌の30年代がときどき出てくる。アメリカだって、1世代前にはとんでもなく貧しかったのだった。
アメリカも日本も、半世紀かけて全く違う国になって行ったんですね。
現在の状態が当たり前だと思ってしまっているけれど、どっちの国の豊かさも多様性も、ほんのここ数十年の現象でしかないんだということを、『マッドメン』を見てると思い出すことができます。