例の京大受験カンニング事件の報道を見て、朝からどよよ~んとしてしまった。
やったことは本当に大ぱかだとは思うけど、こう国中で大騒ぎするほどのことでもなし…ていうか、国立大受験が日本ではどれほど重大イベントなのかを、改めて思い知らされた。
乗り間違えた受験生のために、急行列車が緊急停止したって話もあったなあ。
日本の受験って一回こっきり勝負なんだよね。
わたしは日本で受験戦争をくぐりぬけもせず、たらりんと生きてきて、なんとなく風にのってここまでたどりついたような人なので、日本の受験制度について何か言う資格はありません。
そしてアメリカがめちゃめちゃ優れた国だとも思ってはいない。とてつもない矛盾や格差が厳然とあって大変な国ではある。
でも、アメリカの良いところはすごく風通しが良いことだと思う。
アメリカの大学受験は、高校1年(日本でいったら中3)くらいから始まるといっていい。高校4年間の成績、リーダーシップ、SATの点数、地域社会での活動、スポーツ活動、本人のアピール、すべてがパッケージになって、選考対象になる。いってみれば、4年間の生活がすべてカウントされる。
高校2年のうちの少年も大学を目標にはしているが、 あと2年のうちにどのくらい勉強に前向きになれるか、大学の勉強についていけるほどの思考習慣が身につくか、夢中になれるようなサブジェクトが見つけられるか、なによりうちにはおカネがないから、自力で資金を見つけてこられるか、まだまだこれから…。
まあそんな4年間のうちに、格別に優秀な数パーセントの生徒はピックアップされて、奨学金つきでトップ校に招かれるシステムが組み込まれている。それ以外の生徒は、それなりに自分の実力と折り合いをつけながら、それなりに力を伸ばして自分の行き場所を探していく。
だんだんと時間をかけて、自分の実力や向き不向き、周囲の評価や好きなものを見つける。大学に入っても、大学間の単位互換で融通がきくから、A大に入って単位をそっくりトランスファーしてB大で学位、C大で修士をとる、ていうのもある。履歴書で一番大事なのは、最初に入った大学じゃなくて、最後に学位を取った大学。本格的に勉強を始めるのは大学に入ってからだし、いったん社会に出てから大学に戻る人も多く、法学部に入って弁護士になっちゃうとかも珍しくない。
もちろん、それ以前に高校自体をドロップアウトしてしまう子もたくさんいるわけだけど。
風通しが良いというのは、たくさんの道が用意されていて、進路の変更がわりに簡単で、ダイナミックなことと、同じだけ多くの価値観が平行して存在していて、「成功」や「幸福」の形が一つではなく、ものすごくたくさんあるのが当然だと受け止められているという意味。それに加えて、出自や性別、肌の色、年齢などを問わずに実力を評価しましょうというシステムが法律で守られていること。
たとえば高校をドロップアウトしてしまった子にも、大人になってから高校卒業資格をとって大学に通う、というような道がいくらでもある。わたしもそんな道を使わせてもらって、30歳過ぎてからコミュニティカレッジのクラスをたくさん取った。すんごく楽しかった。18歳から60代まで、クラスメートには本当にいろんな人がいて、いろんな誇りや夢を持っていた。みんなすっごく元気だった。
なにがいいたいかというと、日本の若い人は、あまりにも一度きりの機会に追い詰められてるのじゃないかしら。受験にしても、シュウカツにしても。
これがダメなら何もかも終わりだ、て20歳そこそこにして縮み上がってしまっているのかと思うと、胸が痛い。
アメリカの人が、特に学校の先生が生徒に良く言うセリフに、
It's not the end of the world.
ていうのがある。カレッジの講師も、息子の学校の先生も、口にしていた。
試験の前に青くなっている生徒や、頑張ったのに納得のいく結果を得られないかもしれないとおびえてる人に向かって。
…これが世界の終わりじゃないから。
「A」が取れなくても、思い通りの結果が今回は得られなくても、これで人生終わったわけじゃないから。世界は広い。地球は回っている。あんたはまだ若い。ほかにまだチャンスはある。まあそんな、思い詰めても仕方ないでしょ。
…というような。いたって単純なんだけど、ぽんっと広い世界に突き出されるような、視点の切り替えを促す言葉。
しかし日本の子達にこれを言っても、気楽なおばさんが何の寝言を言うかと思われるだけだろうか。抜け道がたくさんある社会だからこそ、説得力がある言葉なのかもしれない。
日本にももっと、抜け道が用意されると良いのに。ほんとに、試験は世界の終わりじゃないから。考えてもないような展開が待っているものです。