2017/11/04

イオラニ宮殿の悲劇(その2)


カラカウア王は新しもの好きで、宮殿に当時最新技術であった電灯をつけるため、私費を投じて蒸気発電機を設置したそうです。

電話や水洗トイレまで完備。

この宮殿は明治15年完成ですよ。当時、まだホワイトハウスにも電気は引かれていなかったそうです。


立派なトイレ。



この宮殿は、完成からほんの10年ほどで、ハワイ王国が乗っ取られる舞台となってしまったのでした。

今回、森出さんにツアーで案内してもらいながら、そのひどい話をあらためてしみじみと実感できました。

1887年、サトウキビプランテーションなどの事業でハワイのビジネスを牛耳っていたアメリカ人実業家を中心とするグループが、カラカウア王の顧問役で王国の首相をつとめていたアメリカ人を追放し、王の権限を大幅に制限する憲法、いわゆる「銃剣憲法」の発布を迫ります。200人ほどの武装した一般人(全員白人)のグループがうしろについていたのだそうです。

アメリカ人実業家たちのグループが最終的に目指していたのはハワイをアメリカの領土にすることで、それはその後10年ほどで実現しました。

カラカウア王の死後、1891年に王位についた妹のリリウオカラニ女王は王権の復活を目指したものの、1893年にこの白人実業家グループの「革命」が勃発。
王国は「共和国」となります。

このときのリーダーで、共和国の大統領になったのは、パイナップル王国を築いたドールさんの従兄弟、サンフォード・ドール。



ハワイ最後の女王となったリリウオカラニ女王は、今もハワイの人々に深く敬愛されています。

アメリカ人の手によって起こったこの「革命」の話を聞いてびっくりしたクリーブランド大統領は、この共和国は違法であるとして女王に王権を戻すようはたらきかけますが、太平洋の真ん中のこの実業家たちは聞く耳もちませんでした。

女王は宮殿を退きましたが、当然ながらハワイアンたちの間には怒りに燃えて共和国を王政に戻そうと画策する人が多かったことでしょう。

共和国の政府にとっては、そんな動きはむしろ、良い口実になってしまいました。

翌々年、1895年、王政派のクーデターが未遂に終わった後、自宅から武器が発見されたとして、リリウオカラニ女王は謀反罪で逮捕され、裁判にかけられて、イオラニ宮殿の一室に監禁されます。

リリウオカラニ女王は流血を望まず、クーデターにもかかわっていなかったといいます。

女王は自分の宮殿に幽閉され、正式に退位を表明する署名をさせられます。

その3年後、ハワイ共和国はアメリカの領土となったのでした。


音楽の間には、リリウオカラニ女王が作曲した名曲「アロハ・オエ」の譜が飾ってありました。


リリウオカラニ女王が幽閉されていた部屋には、女王を記念するキルトが展示されてます。
クレージーパッチワークの真ん中に、日付が刺繍された布。

一つの布には、生まれた日、王位についた日などが刺繍され、右下の青い布には退位した日付と証人の名前が刺繍されています。


これは、本当に寂しい部屋。2階の東南側の、とても小さな部屋です。
これほどの悲しい出来事が刻みつけられたキルトに思いが残らないほうが不思議かもしれません。
リリウオカラニ女王の無念が目の前にかたちになっているようで、とてつもなく悲しくなりました。

でも女王は、退位を表明してからは恨みの気持ちを表したりすることは一切なく、ハワイの人々の暮らしの向上のために尽くしたそうです。



王座があった謁見の間。リリウオカラニ女王が謀反罪で裁判にかけられたのもこの部屋なのだそうです。

宮殿は、ハワイがアメリカに併合されたあと庁舎として使われ、調度品のほとんどは売り払われてしまったのですが、1970年代に宮殿を歴史的建築物として保存することが決まって以来、かつて宮殿を飾っていた家具調度を文字通り世界中から買い戻し、少しずつもとの姿を取り戻しているそうです。

じゅんさんによると、宮殿のツアーに参加した人が、飾られていたかつての室内の写真を見て、「この家具は家にある!」と気づいたこともあるのだとか。


孔雀の羽根をつかったドレスはレプリカだそうです。

ちょうど、この宮殿が完成した年は、大平原で米国陸軍と戦ったスー族のシッティング・ブルが降参した頃でもありました。

シアトル酋長が亡くなったのはそのもう少し前ですね。

19世紀半ばまでにすっかり片隅に追いやられた米国本土のネイティブ・アメリカンの人々とは違い、ハワイは一世紀近く独立した王国を保ち、その後抑圧された時期を経たとはいえ、20世紀後半に文化がまた花開いて、世界中の人々からロマンチックな憧れを持って愛されています。

その後ハワイに住み着いたいろいろな民族の移民にとっても、ハワイが好きで遠くからやってくる観光客にとっても、一度も行ったことのない人にとっても、ハワイはなんだかすごく明るくあたたかくポジティブな存在でいてくれる。

でもこの宮殿は、大国にねじ伏せられた怒りと悲しみを忘れてはいません。
当然のことだけれど、その怒りはまだ、今生きている人たちの中にも静かに流れています。

ハワイはほんとうに明るいポジティブなパワーに溢れた場所なので、ついそのあたたかさにだけ浸ってしまうけれど、ふっと日が陰った瞬間には、そういう厳しい歴史がじっとこちらを見ている場所でもあるのですよね。忘れられて良いことではないし、それどころかアメリカ人の中にはこの事実を知らない人が多いので、ちゃんと学校で教わってほしいなあと思います。

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2017/11/02

イオラニ宮殿の悲劇(その1)


冷たい雨の降るシアトルですが、脳内では妄想ハワイに戻っています。

今回のホノルルでは、地元ライターの森出じゅんさんのご案内で、イオラニ宮殿ツアーに参加しました。

森出さんは『ミステリアスハワイ』『ハワイの不思議なお話』という著書を2冊出されている、ハワイのエキスパート。
ブログも書かれています。

イオラニ宮殿のドーセントのボランティアをずっとされていて、毎週水曜日の日本語ツアーがご担当です。

マダムMが森出さんの以前からのファンで、日本に講演に行かれたときに会ったのだそうで、この日はツアーのあと、いろいろとディープなハワイのお話も伺えてほんとうにラッキーでした。

イオラニ宮殿の中のツアーはずっと昔に一度だけ参加したことがあったけど、あらためて日本語ツアーでゆっくりお話を伺いながら見ていくと、ハワイのあまりにも悲しい歴史が胸に迫りました。



宮殿の全景を撮るのを忘れたので昔撮った写真を探してきました。

突然ですが、わたしは人の「想い」や「念」は、時々はるばる飛んで来ることがあるし、長い時間がたってもその場所に、なかなか消えない匂いや染みのように残ることがあるものだと思います。

なぜそんなことをここで言い出すかというと、もう今から20年ほど前、ハワイに引っ越してすぐの頃だったのですが、このイオラニ宮殿の前を初めてクルマで通り、宮殿を見た瞬間に、なんともいえない暗く寂しいなにかを感じたことがあるのです。

ちょうど夕方で、年末か年始だったのでこの前庭に提灯がたくさんつけられ、華やかなはずなのにほんとうに暗く、内臓がひやっとするほど寂しく、この宮殿がじっと睨んでいるように感じられました。

その後、ハワイの歴史を読むにつれ、この宮殿でなにが起きたのかを知って、ああ、そうだったんだ、と腑に落ちたのでした。

それでは、無念な気持ちがここに残っても当然だよね、と。


宮殿の外壁にはぐるりと、丸い鏡がつけられています。

ハワイの第7代目の国王、カラカウア王によって1882年に建てられた宮殿です。
日本は明治15年。

その翌年には日本で鹿鳴館が完成してます。

ところで鹿鳴館って、ちょっとイオラニ宮殿に似てる!

鹿鳴館(wikipediaより)

鹿鳴館がこんなに可愛いイタリアンルネッサンス風の建物だったなんて知らなかった。
戦前に取り壊されてしまったのは残念ですね。


イオラニ宮殿(Iolani Palaceウェブサイトより)

イオラニ宮殿は「アメリカン・フィレンツェ」様式という、ほかに例のない様式なんだそうです。
「宮殿」といってもいかめしさや重々しさはなく、南国らしい軽快な建物です。細めの柱に囲まれたバルコニーの廻り廊下、細身のアーチ型窓、屋根の上の飾りなどがフィレンツェ風ということなのか、全体に瀟洒で女性的な印象です。

イオラニ宮殿は、王と王妃の(最後には女王の)住居であり、執務用の公邸であり、鹿鳴館のように海外からの賓客をもてなす迎賓館でもありました。 

明治時代、どちらも西欧の列強に虎視眈々と狙われていた非白人の新興国という立場であり、太平洋を隔てた「おとなり」であったことから、ハワイと日本の縁はとても深く、カラカウア王は日本と強い絆を築きたいと切望していたそうです。

この宮殿が完成する前年、1881年(明治14年)カラカウア王は世界一周の旅に出ていますが、 その途上で日本を訪ね、明治天皇と会談して、当時5歳だった姪のプリンセス・カイウラニと山階宮定麿親王の縁組、そして日本とハワイを連邦にする計画をもちかけたと伝えられています。


のちのカイウラニ王女。ほんとうに美女ですね。


小さなときの愛らしいカイウラニ王女(ウィキペディアより)。利発そうですねー。
これは8歳くらいにみえますが、カラカウア王は明治天皇との会談にのぞんで、こんな写真をお見合い用に持っていったのかもしれません。

自分の国がアメリカをはじめとする白人の列強に呑み込まれる危険を切実に感じていたに違いないカラカウア王は、当時非白人の国で唯一、列強に対抗して植民地化を逃れ、軍備を増強していた日本帝国とタッグを組むことを望んでいたのでしょう。

もちろん、莫大な借金をしてフル回転で富国強兵し、帝国を絶賛建設中だった日本にはそんな余裕はなかったし、天皇を現人神にまつりあげた明治国家が南洋の小国の姫を皇族の嫁に迎えるなんていう話に乗るわけもありませんでした。



このガラス戸は正面扉。ヨーロッパから運ばれたものなのでしょうが、このすぐ後に来るアール・ヌーヴォーを予感させるような、優雅で軽やかなデザインですね。


1階の中央にあるホールの大階段は、ハワイ原産のコアの木だけでつくられている見事なもの。

建物保護のため、ツアーではエレベーターを使います。


玄関ホールには、各国から贈られた調度品と、王家の歴代の人々の肖像画が飾られてます。
左の壺は、日本から贈られた「白薩摩」だそうです。

肖像画は、どれもはっきりいってあまり上手な画家が描いたものじゃないです。どこのどんな人だったのかわかりませんが、専業の画家じゃなかったんじゃないかな。

ハワイ王国の歴史は、1810年にカメハメハ大王が全島を統一してから1895年にリリウオカラニ女王が退位させられるまでの85年間。

押し寄せてくる西欧列強の文化的・軍事的・政治的プレッシャーが徐々に徐々に強くなり、カラカウア王の懸念どおり、ついに米国に併合というかたちで滅ぼされてしまった小国でした。

在位わずか1年で世を去ってしまったルナリロ王はじめ、短命な人がおおかったため、85年間に王位は8回変わっています。


こちらは貴賓を招いて食事を出した、晩餐の間で、西欧諸国の王族から贈られた肖像画が飾られてます。

19世紀の王族たちは自分の肖像画をよその国に贈る習慣があったそうで、名刺みたいなものだったんでしょうか。

1848年にフランス王、ルイ・フィリップが送ってきた肖像画は、12人がかりでないと運べないほど巨大だったそうです。迷惑ww

長くなったのでつづきます。


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2017/11/01

ハロウィン、18年後


Happy Halloweenでした。1999年。


そして今年。
顔にタトゥーの「Dead Rapper」だそうです。


これはどちらかというと「#地味ハロウィン」ではないの?

お母ちゃんにはよくわかりませんよ。


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2017/10/30

今一番忙しい人たち


今日も良い天気でした。毎日言っているな。

でも予報では明日から雨みたい。気温も下がるようです。

今日は春みたいにぽかぽか陽気で、薄手のセーターに薄手のコートでも歩いてると、汗をかくほどでした。

なにかの常緑樹の花が満開で、気持ちよくあたたかいので外のベンチに座って本を読もうと思ったら、黄色の花粉の雲がどわっとやってきて、全身花粉まみれになってしまいました。
こんな時期に花が咲くんですね。何の木だか見てこなかった。



こちらは平和なソメイヨシノの広場(「クアッド」)。



この時期、この界隈で一番忙しそうなのは、


この人たちです。

芝生のあちこちで、一心不乱にお宝を埋めている姿が。

どんぐりを植えたことを忘れてしまうので、自然の森では若木が育つために役立っているそうですけど、実はドングリにはりすを貯食行為に駆り立てる麻薬が入っているのではないか。

そういえば、初めてシアトルに遊びにきた時もワシントン大学の構内をちょろっと見にきて、久々に見た紅葉に感動したのだった。2008年の11月でした。早いなあ。

その時には親子で同じ大学に通うことになるとは、まして息子が先に卒業するとは思ってもみななかった。


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今週のトレーダージョーズさん:薄切り肉の登場!


朝はどんよりの曇り空がお昼すぎには急にあかるくなってきて、午後にはさっぱり晴れわたる、というのがノースウェスト地方の秋から春にかけての典型的なお天気のいちパターン。

今日も午後から夕方にかけて、気持ちのよい快晴でした。


妄想ハワイ旅行の途中ですが、大切なお知らせがあるので共有します。

トレジョに牛薄切り肉が登場してたよ!

いままでセントラルマーケットかウワジマヤかHマートか、いずれにしてもクルマで片道20分以上の買い出しでないと入手できなかった薄切り肉が!近所のTrader Joe'sさんに登場してくれました。これはうれしい。

さっそく半分はなす(これはジャパニーズなすではなく、皮も種もごっつい米ナス。いたしかたなし)とパスタに、半分はセロリと炒めてみました。肉にくしいお肉で、なかなかおいしゅうございました。

そのほかのうちの必須食料品。

おやつ用ココナッツストリップ、1ドル99セント。

何にでも投入するルッコラ、1袋1ドル99セント。うちでは卵からおかゆからとりあえずルッコラ入り。

オーガニックパンプキンの裏ごし缶が今年もやってきていたので、パンプキンパイ用に。

あと、Trader Giottoさんのグルテンフリーのレッドレンティル(赤レンズ豆)のセダニー二。別にグルテンアレルギーではないけど、パッケージにやられてパケ買い。2ドル99セント。

今年後半は学校を2コマ取るという太っ腹なオペレーションを決行中なので、お財布のひもはしっかりしめて、つつましく暮らします。トレーダージョーズさんは倹約生活のうれしい味方。


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2017/10/29

サンセットビーチのサンセット


中間試験も終わったのでハワイ日記の続きを書いて思い出にひたります。

ハワイは仕事で行ったんですよ!ほんとですよ。クライアントさんと会合したり、取材したり、けっこう忙しかったんですよ。あーたいへんだった。

そしてこちらは、その合間の休日に息抜きでいきました。

私が世界でもっとも愛する砂浜です。サンセットビーチ。



ハワイなのでいちおう水着を持っていこうかと思い、10年以上前にハワイで買った一枚きりの古い水着を試しに着てみようと思ったら、プラスチックのバックルがバキッといって、割れた。

とマダムMに話したら、ハレイワで水着を買うようにこんこんと説得されました。

せっかくノースにいるのだし、水に入らないのは確かにもったいないと考え直して、比較的世の中の迷惑にならないような水着を探して買いました。


このビーチのなにが好きかというと、水の綺麗さ、砂浜の長さ、そして砂のきめの粗さ。

砂粒はみんな珊瑚や貝のかけらのままで、直径が1ミリくらいの大きさなので、足の裏に気持ちよいのです。



そしてこの水の透明なこと。

冬は世界的に有名なサーフィンの大会、トリプルクラウンのうちの一つが開かれるビーチで、もうすこしたつと大波が打ち寄せてプロのサーファー以外は入れない危険地帯になりますが、夏の間はこんなに静か。



とはいっても、引きがものすごく強く、岸の底がえぐれて、急にぐっと深くなっています。
泳げないわたくしは、ほんとうの波打ち際でアザラシの子どものように波に転がされてウキャウキャと喜んでいました。
大変不気味なおばちゃんだったことでしょう。



この波とたわむれ、メリーベスさんから借りた古いビーチチェアに座ってココナツもちを食べ、また波打ち際で転がる。
幸せすぎる午後でした。
説得してくれたマダムに感謝。



ほんとに眺めていて飽きない。
生まれ変わったらサーファーになろうと思います。



ハワイに住んでた間に一度だけ、ワイキキビーチで日系のおじいちゃんサーファーにサーフィンを教えてもらったことがあるんだけど、とにかくパドリングができなくって、とんでもない方向にぐるぐると回ってしまい、

「 おーい、どこ行くんだ―。モロカイ島に行っちゃうよー」

と呆れられたのでした。
でも波に乗れたときのあの爽快感!モーターのついたものに乗って動いているのとはまったく違う、自然のちからに乗っているというわくわく感は忘れられません。

あのおじいちゃん、まだご健在かなー。


サンセットビーチだけにサンセットが目の前に見えます。

水平線に沈んでいくんじゃなく、オアフの西の山に沈むんだけど、低い丘陵なのでほとんど水平線に沈むのと同じくらい。



サンセットビーチでサンセットに水に入ったのは初めてでした。

それはそれは豪華な世界だった。こんな世界に自分はいていいのかと思うような壮麗さ。


待っててね、サンセットビーチ。頑張って仕事して、また行くよー。

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2017/10/28

君だけではないのだ


今日も午後から晴れて、明るい1日でした。じゃなくて半日か。

うちの近所は東京杉並区なみに建て込んでるので、夜などブラインドを開けておくと、お互いに家のなかみが金魚鉢のように丸見えです。

今日は、夕方帰ってきてうちのドアを開けるときにふと隣のアパートの明るい窓をちらと見たら、カトリックの尼さんがいたのでびっくりした。

こんなところにシスターが住んでいるのか!?と一瞬思ったけどそんなわけはなく、ハロウィーンのコスプレでした。

ハロウィーン前の週末なので、街に出ればカフェの店員さんもバットマンだったし、窓の外は魔女やスーパーヒーローが行き交ってました。隣の家(尼さんのいたアパートとは反対側の)からも、今朝は恐竜とバレリーナが出てきたし。
うちの息子もさっき、ダウンタウンのどこかのパーティーに出かけていきました。

わたくしの予定?
チキンスープの残りでお粥を作ってワイマール共和国についてのリーディングアサインメントを読むでざますよ。ふん。

さて昨日のブレードランナーについて、あまりに色々謎が多くて、長い英語のモノローグが聞き取れなかったせいもあるので、今朝、朝ごはんのときに息子と謎の点を討議してみました。
そしてやっぱり、残った謎がいろいろ。


(以下盛大にネタバレ含みます)




まずそもそもレプリカントってモトがとれるのか?一体につきコストはどのくらいでいくらで売れてるんだろう。製造工程には誰が関与してるんだろう。あのハカセが一人で作っているのか?あんまりROIがよさそうな感じではないけど、経営状態はどうなのだろう。供給先は政府で独占だから安泰なのか。外国政府はどうなっているのか。そもそも外国はあるのか。

Kのモデルの寿命は何年なのか。メンションがあったかな?聴き逃した。
それがあるとないとではかなりジョーへの思い入れが違う気がする。
それはもうちょっとはっきり分かるようにちゃんと描いてほしかった。

LAPDがLAの中心組織であるのはわかったけど、ほかの政府組織はどうなっておるのか。
レプリカント関連とかの規制はどの局が担当してるのか。まったくないのか。

あの孤児たちはいったいどこから来たのだ。なぜみんな同じ年齢層なんだろう。
親たちはどこでどうやって死んだのだろう?

「ブラックアウト」っていつ何が原因で起きたの?

AIがどうやってレプリカントに同期できるんだろう?どうゆう仕組みなのだ?

レプリカントたちの地下組織は具体的にどのような革命を計画しているのか?

…などなど。

…と、こう鬱陶しいファンはほかにもいると思うけど、まあそんなことをいちいち考えているほど暇な人はそんなにいないのかもしれない。


どんなSF映画にも喧嘩を売るわけじゃなくて、深刻そうな顔してるやつだけですよ。
シリアスに見ろっていうなら、見てやろうじゃないの。でもちゃんと説明してよ。

全体に、まったくストレートフォワードな映画ではないし、親切ではないよね、という点で息子と意見が一致しました。

『インセプション』と同じくらい分かりにくい、と息子は言ってたけど、あの映画はもっと親切だったとわたしは思う。

でも本当に、映像は詩的でとても素敵でしたよ。




でもわたしはこの映画のメッセージがとても気に入った。それは、この主人公K/ジョーがマトリックスの「ネオ」のような「選ばれた人」ではないところ。

自分は特別ではなかった。まして救世主ではない。自分が持っている唯一の記憶も、自分のものではなかった。
それでも「なにかのために」 生命を投げ出すことを幸せに感じるのだった、終わり、という結末。

「自分がそれだと思っていたのね。私たちもみんなそうだった。君だけではない。でも、何か自分より大きなもののために死ねるなら、幸せなことではないかしら」

と、レプリカント団の首領に言われて、Kは怯むのだった。

だけどこの、ブレードランナーから革命の闘士に転向するところのトランジションがねー。
なんかもうひと押し、説得力がほしかったかなー。

「大義のために」じゃなくてさ。

たぶん自分のものではなかった記憶のために、ジョーは死んでいったのだろうけど、「大義のために」というその言葉が出てきたがために、なんかそれを鵜呑みにしてしまったかのような印象を残してしまって、ちょっと居心地悪いな。

「大義のために」ではなく、「僕の大切な記憶のために」のほうが、しっくり来るな。

あの巨大ホログラフ広告との出会いのシーンは孤独な彼の「ああそうか!」のシーンとしてとても胸に迫るものがあるんだけど、心動かされるほどではなかったなー。

思い出しては動揺するようなSF映画が観たいです!




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