2017/03/25
シアトル夕景のカード
BallardのダウンタウンにあるVenueというギャラリー&雑貨屋さんで、こんなカードをみつけました。
ここは地元アーティストたちのアート作品、ジュエリー、雑貨を主に扱ってるオシャレショップ。
ピュージェット湾で遊ぶらっこたちの絵と、ノスタルジックな色合いのシアトルスカイラインの夕暮れの絵に、がっちりわしづかみにされた。
このカードは2枚とも、ウォルター・シェアさんという絵描きさんの絵です。 サイトはこちら。
左手にキングストリート駅の時計台、スミスタワーの三角屋根とダウンタウンのビル群、右端にスペースニードル。ビル群の後ろにはフェリーが浮かぶ静かな湾。
インターナショナルディストリクトの上のほうから見た景色だけど、空港の方から帰ってくる時に見えるシアトルは、だいたいこんな感じ。
しばらく旅行してて数週間ぶりとかにシアトルに戻ると、このビル群を見て、あー帰ってきた、と思う。
8年住んで、すっかりこの景色が「おうち」の記号に刻み込まれた。
こぢんまりしたダウンタウンだけど、背景に海と山が揃ったドラマチックな景色に恵まれたきれいな街だと思う。
夕方はほんとに、この絵のとおりにキレイですよ!
ダウンタウンは今、いくつも高層ビルが建築中だから、もうすぐこのスカイラインもすっかり変わってしまうことでしょう。
このシアトル夕景のカードは、東京に引っ越してしまったCT夫妻に送りました。そろそろこの景色が懐かしくなってないかな。
東京のサラリーマンになったミスターCT、東京ではミルクも水も最大1リットルでしか売ってないのに、ウイスキーはガロン入りボトルで売ってる!と妙なことに感動しているらしいです。
2017/03/24
カタカナ語の抗弁
おおっという間に3月が終わろうとしています。(´・ω・`)
先日デジタルクリエイターズに書いたのをこちらにもアップします。
先月書いたのはものすごく久しぶりにぽんず単語帳のほうにアップしました。
御用とお急ぎのない方は、こちらもどうぞよろしく。
先日、デジタルクリエイターズの藤原ヨウコウさんの記事「コミュ障はぐれはカタカナ英語に躓く」を読んで、軽く衝撃をうけた。
藤原さんはこの記事で 「邪推かもしれないが、カタカナ英語の背後にボクは悪意しか感じない。特にバブル以降はそうである。「新しさ」や「進歩性」を演出するのに、こうしたカタカナ英語は悪用されているのではないか、とつい思ってしまうのだ」
と書かれていた。
デジタルでクリエイターな人のなかにも、カタカナ語にこれほどの警戒心をもっている人がいるのか! というのが、ちょっとした衝撃だったのだ。
わたしはふだん、英語を日本語にする仕事をしている。
英語で書かれた内容とニュアンスをできるだけもらさず汲み取って、それを日本語を母国語とする読者にできるだけ自然に、まるまると伝わるように書くのが使命である。でも残念ながら、もらさず丸ごと伝わることはすくない。
なぜ丸ごと伝わらないか。
それは、英語が話されている世界と日本語が話されている世界の常識が、かなり違うからだ。
言葉の世界というのは、それを話す人の世界である。
同じ言語のなかにだって違いはある。
たとえば、東京の女子高生、名古屋の中年の管理職、鹿児島で畑を作っている老人、東北の温泉宿の女将さん、…の言語感覚は、それぞれにかなり違うはずだ。
米国でも、サンフランシスコの国際企業の役員、中西部のトラック運転手、ニューヨークのお金持ち、南部の黒人コミュニティのティーンエイジャーでは、やっぱりそれぞれ言語感覚はかなり違う。
その世界で主に話されている事柄、生活を構成するもの、目に映る景色や耳に聞く音、皮膚感覚、常識、笑いのセンス、大切にされているもの、避けられているもの、蔑まれているもの、などが、その人の言語世界を作っている。
もちろん言葉の世界は個人によっても違う。たとえば、渋谷の女子高生と鹿児島の老人が、あるいは遠くの国の一度も会ったことのない人同士が、または何世紀も前に生きていた人と現代の人が、言葉を介してなにものかを共有できるのが言葉の素晴らしいところだし、逆に一緒に住んでいて同じ言語を話していてもまったく言葉が通じないということだって、ありますよね?
英語の文を日本語に(その逆でも、ほかのどんな言語でもそうだと思うけど)翻訳するときに、翻訳者はかならず、読者の言語空間を想定する。
なんていうと偉そうだけど、しょせんはボンヤリと想定する読者の世界でどんな言葉がどんなふうに使われているかというのをうっすら想像してみるだけにすぎない。
読者が想定上の不特定多数である以上、正しいかどうかは調べようもない。
とはいえ、IT企業の技術者向けに書く場合、ファッション誌に書く場合、高校生向け向けの媒体に書く場合、富裕層の高齢者向けに書く場合、ではそれぞれに使える言葉もトーンも違う。想定する読者の言語像と現実がズレすぎると翻訳者として仕事にならない。この媒体の読者にとっての日本語の正解ゾーンはこうだ、という自分の感覚を信じるしかない。
で、それぞれの場合にカタカナ語をどのくらい使うか。というのに、翻訳者はいつも頭を悩ませている。
これはほんとに、その媒体にもよるし、翻訳者の考え方も人それぞれ。私はほとんどの日本の読者には、ある程度のカタカナ語は寛容に受け入れてもらえるもの、とボンヤリと思っているが、その「ある程度」はいつも変動する。
ファッション、IT、金融などの世界ではカタカナ語が百花繚乱で、業界の外の人にとっては何いってんだかさっぱりわからないこともある。
たとえばネットワークセキュリティの製品のページでみつけたカタカナ語の例。
「マルウェアを解析することで、攻撃の第1段階で使用されるエクスプロイトからマルウェアの実行パス、コールバック先、その後の追加ダウンロードに至るサイバー攻撃のライフサイクルが明らかになります」。
エクスプロイトってなんだ。攻撃のライフサイクルって?しかしこれを無理に日本語に置き換えようとしたら意味不明な誤訳になってしまう。
ヴォーグジャパンの記事でみつけたカタカナ語の例。
「セダクティブなレースや、大きく開けたスリット。ランジェリーを思わせるセンシュアルなドレスが今、トレンドだ。共通するのは、ただのセクシーに終わらない、凛とした強さ。モダンな感性で纏う、大人のラグジュアリーがここに」。
これはきっと日本語ネイティブのライターが書いたものだと思うが、セダクティブとかセンシュアルとか、英日翻訳で使ったらたいがいの場合編集で訂正されるのは間違いなしである。
翻訳する時には、安易に英単語をカタカナに置き換えるのではなくできるだけ日本語で言い換えるのが良識ある英日翻訳者の態度、というのが、翻訳者の一般的な考え方だ。
それでもカタカナ語をやむなく使う理由の第一は、既に日本語になっている言葉には置き換え不可能な場合があるからだ。
たとえば、「コミットメント」「エンゲージメント」「インスパイア」「ベストプラクティス」「ウェルネス」「アカウンタブル」「デューデリジェンス」などには、どう頭をひねってみても過不足なくはまる日本語がないことが多い。
すでにある日本語に置き換えようとすると、文章での説明が必要になるか、なにか重要な要素が抜け落ちてしまう。
これはどんな言語でも、新しい概念をほかの文化から輸入するときには起こることのはず。
もともと日本語には文字がなかった。
隣にたまたまあった超大国から漢字を輸入して文字を書くことを学んだ日本人は、そこから仮名文字を発明していくわけだけど、その頃は文明国中国から渡ってきた学問や知識が超イケていた。というか学問のすべては大陸から来ていた。
文字通り命がけで超文明国にわたってありがたいお経を学んで帰ってきたお坊さんたちは、今の感覚では思い及ばないほどの、図抜けたインテリだったのだと思う。
日本は、地理的に特異な場所にできた特異な国で、20世紀の数年間をのぞいてはほかの国に占領されたこともなく、海を隔てた超大国とおおむね絶妙な距離を保ちながら独自の言語空間を育んできた、珍しい国なのだとつくづく思う。
遣唐使の時代から明治維新後、そして現在にいたるまで、日本の人たちは、新しい知識や概念を漢字、カタカナ、ひらがなの組み合わせで貪欲に吸収してきた。
すでにいろんな学者さんが指摘してることだと思うけど、3通りの表記システムを持っているというのは、日本の文化が柔軟にいろんなものを吸収するのにあたって、とてつもない利点だったはず。
カタカナ語を使う理由の二つめは、藤原さんが指摘しているように、演出効果、つまり「なんとなく新しくてかっこいい」オシャレ感をかもしだすためでもある。
文章には、「意味」と「論理」を伝えることに加えて、読む人にどう受け取ってもらいたいか、どのような感情や感覚を呼び起こしたいか、という書き手の希望と、そのためのプレゼンテーションが常にある。それは文体にもあらわれるし、言葉の選び方もその一部だ。
言葉は論理を伝えるものだけでなく、情緒の容れものでもある。
そして面倒なことに、どこからどこまでが情緒の範疇でどこからが論理、ときれいに割り切れるものでもない。
さらに面倒なことに、多くの人は自分の書いたり話したりする言葉に自分がどのような意図を盛り込んでいるのかを、あまり意識していないことも多いのではないかと思う。
翻訳者の商売の一部は、他人の書いた言葉のウラにある意図を汲み取ることである。
書き手がある言葉を特別に選ぶときには、情緒的な理由や、人にどう受け取ってほしいか、どのような効果を出したいかという理由がその背後にあるはずだ。
翻訳者は時に、文章を書いた本人よりも深くそれらの理由について考え、分析することも多い。
とくに広告やマーケティングの場面では、プレゼンテーションが論理よりも大切なこともある。
「老化防止」を「アンチエイジング」と言い換えるのは、まさに、「老化」といういろいろ手垢のついた言葉のネガティブな感触にさわらずに「老化を防ぐ」と言いたいからだ。
でもプレゼンテーションの面からは、「アンチエイジング」と「老化防止」は同一にしてまったく違うともいえる。
それは、シヴァ神と大黒天の違いのようなもの、といっても良いのではないだろうか。違うか。
たとえば、上記のヴォーグジャパンの記事を漢字の言葉で言い換えたらどうなるか。
「セダクティブなレースや、大きく開けたスリット。ランジェリーを思わせるセンシュアルなドレスが今、トレンドだ」
「誘惑的なレースや、大きく開けたスリット。下着を思わせる官能的なドレスが今、流行中だ」
下の例でも意味的にはぜんぜん変わってないのに、カタカナ語で書くと何かが変わる。それをオシャレと思うか、鼻持ちならないと思うかは、その人の考えかたと感じかた次第だ。
その言葉づかいがプレゼンテーションとして成功しているかどうかは、受け取り手がなにを常識として暮らしているか、なにをカッコ良くなにをカッコ悪いと思っているかによって変わる。
そして、書き手がちゃんとその言葉を理解していないとヘンなことになるのはどんな言語でも同様。
往々にして、まだあまり耳慣れない新しい言葉を使うことで、「新しいモノを良く知ってる頭の良い人」または「教養の深い人」、と自分をプレゼンできるという希望のもとに、あんまりよくわかってない言葉を使っちゃったりする人もいるわけである。そして本人にもその自覚があまりなかったりもする。
藤原さんが苛立っているのは、そういった、胡乱なカタカナ語の使い方に対してであろうと思う。
でも、なんとなくカッコ良い、感触の良い言葉が、あんまり意味も考えずに使われるというのは、カタカナ語の専売特許ではなくて、中国から輸入された漢字の熟語でも、万葉の時代のやまとことばにだって、きっとあったのだと思う。
紫式部が清少納言のことを
「したり顔にいみじう侍りける人。さばかりさかしだち眞字(まな)書きちらして侍るほどにも、よく見れば、まだいとたへぬこと多かり」
と、「(女のくせに)漢語など使ってえらそうに書いてるけどろくにわかっちゃいない」とこき下ろしているのをみても、まあそういう批判はどの時代にでもあるのだなと思わされる。
カタカナ語大氾濫の背後には、文化的なボタンのかけ違いと、ちょっと行き過ぎちゃったカッコつけが入り混じっている。
ん?
と思ったときには、その日本語を自分なりにもっとよく分かる日本語に「翻訳」してみると、面白いかもしれません。
2017/03/19
惑星チョコレートと鬼のグローバル講座
誕生日にカリフォーニア在住マダムから頂いた、惑星ふうのチョコレート。
食べるのがもったいない。
ああいそがしかった。忙しい忙しいといってるのはダメな人だというのは本当ですねぇ。
今学期はオンラインで、これなら楽勝だろうという下心でとった今学期の「Globalization and you」というカジュアルな名前の講座が、けっこう大変だった。
最近取った講座は提出物がかなりライトなのが多かったので、ちょっとびっくりしてしまった。
かなり後半になってからペーパーを書くのに参照資料をけっこう読まねばならないことに気づき、仕事も重なってきたので泣きながら仕事のあいまに資料読み。
なので誕生日どころのさわぎではありませんでした。いい年して一体なにやってんだ。
ペーパーがダブルスペースでなんと32枚という、卒論か!というボリュームで(中身はぜんぜん密度の濃いもんじゃないですけどね)、しかもそのあとに100問の最終試験があるという(オンラインだけど)、 鬼講座だった…。毎週にはこれに加えてディスカッションと小試験があるので、それに気をとられて、期末にこんな爆弾が二つも残っているのをきちんと認識していなかった。
たぶんインストラクターがまだ若くて博士号とったばかりの人なので、張り切りすぎているのではないかと。もしかしてこれが最初に受け持ったオンラインクラスなのかもしれません。
アメリカの大学は、期末に「このクラスはどうでしたか?」という学生による評価がある。今回は辛めの評価をさせていただいた。
課題のボリュームは大学のクラスにしては特別大変すぎるというわけじゃないけど、インストラクションがあんまり組織だってなくて、あちこちに矛盾があってイライラさせられた。
しかし内容は、グローバリゼーションとネオリベラリズムという、一度腰をすえてちゃんと考えてみたかったお題だったので、とてもおもしろかったです。
世界はたいへんだ。
しかしクオーター制って10週間で講座が終わるので、ほんと忙しい。 おばちゃんには、ついていくのがやっと。
来学期はオンキャンパスで講座を取ります。お題は「Religious Rethoric」これもたのしみ!
2017/03/07
ファイヤーキングのプリムローズ
このあいだのGoodwill Huntingのエモノ。
最近は近所のGoodwillも値上がりしてきて、オールドパイレックスやファイヤーキングの状態のよいものだと10ドルちかくすることもある。
そして、古いよいものの掘出しものはだんだん少なくなってきた。
やっぱり住人の入れ替わりが進んでるのね。
これはFirekingの「Primrose」パターン。1960〜1962年に製造されたものだそうです。
なぜかカップとソーサーの花柄の色が微妙に違うのだけど、3ドルだった。
この乳白色の半透明ガラスのぽってりした質感が好き。ええ、わざとらしく教科書をひろげてみました。
ふと、なにかのついでに日本のオンラインショップで売られてるオールドパイレックスを見てみたら、勢いで買ったもののしまい場所がなくてうちの冷凍庫で冷凍うどんや冷凍肉入れになっているボウルたちが5000円以上で売られてて目の玉とびだした。
思わず今すぐ売りにいこうかと思ったけど、買い付けにきて送る送料だの手間を考えたらまあそのくらいがビジネスとしてはリーズナブルな線なのでしょうね。
ファイヤーキングは、なんと最近日本でリメイクされているとか。手作りなのでリメイク品も1個5000円とかそういう値段。
ファイヤーキングのジェダイがいつか欲しいと思うけど、50ドルじゃねぇ。
この時代の食器や家具が好きな人は多いのね。
2017/03/03
15分以上かかる仕事はない
いったい私の時間はどこの4次元ポケットに入ってしまったのだろうと毎日思うわけなのですが、やはり気がつかないうちにぼーっとしていて、自分が4次元の世界に行ってしまっているらしい。
きょうの日経DUALの記事で、心理学ジャーナリストの佐々木正悟さんという方の時間活用メソッドが紹介されてた。
「重要」と「緊急」のタテヨコ軸で仕事の優先順位のマトリックスをつくる。
面倒な大仕事でも、15分のタスクに分ける。
1分単位の細切れ時間を活用して読書する。
そして、「今日やるべきことは終わった」感を1日の終わりに持つ。
…というのが簡単なメソッドの要約。
これはすごく納得できる。
「15分以上かかる仕事はない」と佐々木さんは言っている。分かる気がする。
15分というのは、分かりやすい、アタマで管理しやすい単位なんだと思う。
わたしも普段、自分の仕事を15分刻みで把握するようにエクセル表をつくってる。
もちろん、翻訳仕事やレポート書いたりする作業はがっつり1時間以上集中して取りくむことが多いけど、それも細かく区切ればたしかに15分単位に分けられる。
小さく分けることで、取り組みやすくなるし、「やり残してしまった感」の解消には確かにとても良いかも。
わたしの場合は、優先順位の振り分けがうまくいってないのと、スピードが上がらないのは自分にちゃんと締め切りをかしてないから四次元にいってる時間が増えちゃうんだな。
しばらく前から、ブログには1日15分を割り当てている。しかし15分で書けることはほとんどない。
時間切れになったら翌日にまわすようにしてるのだけど、面白くなってくるとつい1時間も2時間も費やしてしまう。
だらだらと読んだり書いたりぼーっとする時間も大切で、ほんとうは1日30時間くらいそういう時間があると理想的なのだけど。
本を読む時間を「緊急でないけど重要」な時間に割り当てて1日数分の積み重ねでもチマチマ読むというのは、実はもうここしばらく自分なりにやってみている。
積読本を毎日見ながら、生きてるあいだにこれを全部読むにはなにかを始めなければと1年くらい前から思い始め、朝晩と休憩時間に「すきま時間読書」をするようになった。
だけど、1分程度の合間に細切れに読める本というのは限られている。本をひらいた瞬間にその世界に入り込めるかどうかは、その時次第。
短歌集やエッセイ、ノンフィクションだと、数分でも一区切り読める。
フィクションは非常に微妙。
年末には、iPhoneの青空文庫で江戸川乱歩の『人間椅子』を、Fedexの行列に並びながら読んだ。椅子の中の空間と、クリスマス前のFedexの店頭の混雑が微妙に入り混じって記憶されています。
さて、では次の15分仕事にとりかからねばー!
2017/02/28
大混乱を仕切る人
ゆうべはアイロンをかけながら、アカデミー賞の最後の大きな賞だけちょこっと見てました。見た?
泣けた。
なにこのスーパーボウルの最後の1分でカムバック逆転大勝利みたいな展開は。
わたし『Moonlight』 はまだ見てないんだけど、最後の作品賞アナウンスを見て、これだけ黒人監督やキャストの映画がノミネートされててもやっぱり最後は『La La Land』かー、まあほんとうに素敵な映画ではあったけどね、と思って洗面所に行って帰ってきたら、画面がたいへんなことになっていた。
「Moonlight が受賞したんだ。ちょっと待ってくれ、すまなかった。手違いがあったんだ。Moonlight!勝ったのは君たちだよ!本当に冗談じゃないんだ、こっちに(舞台に)あがって来てくれ。ほら、『Moonlight』、作品賞!」
とウォーレンの手から本物のチケットをひったくって会場に向けてみせ、あの大混乱の舞台を仕切って、
「これ(トロフィー)を『Moonlight』の友人たちに手渡せるのをほんとに嬉しく思うよ」
と言ってのけた『La La Land』のプロデューサー、ジョーダン・ホロヴィッツに惚れた。
かっこええ。
本当に仕事ができる人っていうのはこういう人のことをいうんだよね。
主演女優賞を受賞したエマ・ストーンのインタビューもカッコ良かった。
エマちゃんは本当にアメリカンガールの一番素敵なところのエッセンスみたいな女優さんだとおもう。
ものすごく大げさな最上級の言葉を連発しても、カスワードを使っても、下品にならなくて、才気煥発でアタマの回転が尋常でないほど速く、まったく陰がないのに単純ではなく、スーパーに洗練されていて、感情の振り幅がとっても大きく、しかも理知的にコントロールされている。
ヨーロッパの女優さんも素敵だけど、こういうカラッとした爆発的なエネルギーはアメリカンガールならでは、だとおもう。
恵まれた場所で、心ゆたかな両親にしっかりしつけられて育った感じ。
ディズニー映画の主人公(『ズートピア』のうさぎちゃんとか)をそのまま人間にしたみたいなキャラクター。
来月、いろいろ一段落したらまっさきに『Moonlight』見なくてはーー。
ところで、ずっと楽しみにしていた遠藤周作原作、マーティン・スコセッシ監督渾身の『Silence』、なんとシアトルでは2週間くらいで上映が終わってしまったらしく、先々週くらいに探したらもうどこでもやってなかった。オスカーも小さな賞にノミネートされたほかはスルーだったし…。
公開時期が悪かったんでしょうか。 そういうめぐり合わせってあるよね。
しかたがないからDVDになるのを待とう。
2017/02/25
見ると変わるのプロセス
バタバタすぎる2月がすぎてゆくー。もう本当に自分のすべての回転数を上げたい。
今週はちょっと腰をすえて学校の課題をなんて考えてたら、いろいろと細かな仕事や用事が降ってきて、わたわたわたわた。何もすすまーん! 流れにさからって泳いでるみたいな気分です。ていうか陸がますます遠くなっているのでは…みたいな。たぶん実力以上のことをやろうとしすぎているのね。
先週、お天気の良い日に散歩に出たらカッコいい雲が。
写真じゃよくわからないのだけど、下のほうにほのかにプリズムが映っていてキレイな彩雲でした。
雲とかトリとか、こんなちょっとしたものが、泳げなくて流される一方のわたしを癒してくれて嬉しい。しかもタダ。
ちょっと外に出るとびっくりするような豪華な世界が広がっている。
なんて世界はゴージャスなのかと思う。
だいたい自分の足で歩けるってすごい。
もともと大変に欲が深いので、足りないよ今すぐ欲しい、と思うものは数かぎりなくあるけれど。
今の5倍くらいなスピードで何もかもこなせるようになりたいとか。
年収があと3億円くらい必要とか、九州とハワイとアリゾナに家がほしいとか、年間200日くらい旅行したいとか。
さらに、自分のバカさや人としてのダメさに、心底イラっとしたりアタマをかきむしったりそのへんを走り回りたくなることも、けっこう毎日何度もあるけれど。
まあそれはそれとして、とりあえず今目の前に広がってるこれ、の充足感で即、わりと幸せな機嫌に切替えるのが簡単になったのが、私にとっては「ワーク」の効用のひとつです。
欲は減らないけど、考えてみたら、悩みというのは実際あんまりなくなった。
ダメなことに開き直るのではなくて、とりあえず、今ここ、だけに集中すると悩んでいる時間がなくなるのです。
ところでこの間、
<<「ワーク」は、あまりにも慣れすぎて自分自身に牡蠣殻のようにくっついてしまっている、だから自分自身と切り離せない一部と思ってしまっている、その思考パターンをこそぎ落とすための、とても役に立つツールです。>>
と書いたのは間違ってました。
正確にいうと「こそぎ落とすためのツール」ではなく、じっと見つめるだけで、気づくと勝手に離れていくのです。
あっこれはもう要らないものだ。と思った瞬間に、その考えがパラリと取れてしまう。
これは不思議で実に気持ち良い。
自分の考えに、「meet with understanding (理解を持って向き合う)」という言い方を、ワークショップでケイティはしてました。
そして放っておけばまたくっついてくるけれど、何度も繰り返しているうちにだんだんくっつく期間が短くなって、そのうちくっつく前に目ざとく見つけて、ハイハイまた来たね、いらっしゃい、と迎えることができるようになってきます。
自分が万全に機能しているなら何をくっつけていたっていいわけだけど、もし、その考えによって辛くなったり機嫌が悪くなったり、人にあたりちらしたくなったりするのであれば、
「それは本当に本当?」
「それが本当に真実だと言い切れる?」
「それがあると自分には何がおこる?」
「それがなければ自分はどんな人になるだろう?」
という質問を試してみると、きっとびっくりしますよ。保証します。
ケイティはこの「ワーク」のプロセスを、瞑想だと言ってました。
今まで慣れていた思考のパターンにじっくり向き合ってみるのは、たしかに瞑想といえるのかも。普通の瞑想とはちょっと違いますが、世の中が本当に後戻りできないほどに変わってしまうのは事実。
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