芭蕉先生が
「閑かさや 岩にしみ入る 蝉の声」
の句を詠んだところです。
仙台からは電車で一時間弱。
立石寺はシンプルに「山寺」とも呼ばれていて、駅の名前もシンプルそのもの。
ついでに隣が「面白山」ですよ。
駅のすぐ前にあるこのこんもり山に、お堂が散らばっています。
ここから参道。
ふもとから奥の院まで、石段の数、1015段。なのだそうだ。
メキシコのテオティワカンに登った翌日、全身硬直して階段が降りられないほどの筋肉痛だったので、ここに来る前にはトレーニングしましたよ。といっても散歩を早足にしただけだけど(ゆる)。
参道の最初の階段を上がると、まず本堂があります。
ブナ材でできた日本最古の建築だそうで、14世紀半ばの建物。
道の両脇には数えきれないほどのお地蔵さまが。
かなり年配の方も奥の院まで登ってらっしゃいました。
ゆっくり登れば、それほど大変でもなかったです。
立石寺は「たていしでら」だと思ってたら「りっしゃくじ」が正解でした(恥)。
さらに正式名称は「宝珠山立石寺」。天台宗のお寺です。
残念ながらまだセミは鳴いていませんでしたが、山門をくぐるとすぐに緑に包まれ、清々しいヒノキの香りが。お風呂桶の香り!
『奥の細道』には
「岩に巌を重ねて山とし、松柏年旧り、土石老いて苔滑らかに、岩上の院々扉を閉て、物の音きこえず。
岸をめぐり、岩を這て、仏閣を拝し、佳景寂寞として心すみ行のみおぼゆ」
とあります。
芭蕉先生の時代にすでに、「松柏年旧り、土石老いて苔滑らか」だった(柏はヒノキ類のことだそうです)だった山道。いまある松やヒノキのうちどのくらいが当時のものなんでしょうか。
参道の両脇にはお墓もたくさんありました。地元の名家なのか、かなり立派な墓石もあれば、日露戦争で亡くなった方の碑も。
「後生車」という車輪がついた卒塔婆のようなものもたくさんありました。古くてもう朽ちたものから真新しいものまで。これは東北地方独特のもののようです。
「若くして死んだ人の供養のために、車を回すと転生が早くなる」というような説明がありましたが、ミニチュアサイズのお地蔵さんや風車と同じく、水子供養のためなのかもしれません。
仁王門。これは1848年、幕末に造られたもの。けやき材だそうです。
中には運慶の弟子作だという仁王像と、閻魔像が入居してます。
仁王門から上は森を抜けて、空気が少し変わります。
ようやく着いた奥の院。ここが終点です。
岩は火山性のもので、わりに柔らかそう。岩屋にも昔の僧侶たちの骨が納められていると説明が書いてありました。
これは奥の院の少し手前。お堂にアンテナがついている。
美しい木壁とお掃除用具。
奥の院。
「岩上の院々扉を閉て、物の音きこえず」「佳景寂寞として心すみ行のみおぼゆ」
…という時代ではなくなり、(私達も含め)無遠慮な観光客がカメラを下げて行き来する参道ではありますが、それでも下界にくらべれば、「佳景寂寞」。
芭蕉先生の時から比べれば、色とりどりの建物と電線が増えていますが、山の形や木々の色は、たぶん同じ。
こういう岩にうがったたくさんの穴に、お骨が納められているのでしょう。
860年開山だから、それ以来の1250年間!に、どれだけの遺骨が集まったことか。
山全体が巨大なお墓ともいえるわけですね。
とても不思議な形に岩が組み合わさっていて、たしかに石が立っている。
開山堂。開山の祖、円仁(慈覚大師)の像を納めているそうですが、これは非公開。
円仁さんのお墓もこの下に。
中国を思わせる風景。最後の遣唐使で、唐に9年以上もとどまって長安も見た円仁さんは、この当時の都人にとっては北の果ての国の山中のお寺に、もう二度と見ることのない唐の風景を重ねていたのかもしれないですね。
見晴らしの良い「五大堂」。
そしてその後ろにはこんな立て札が。
この「修行の場所入り口」の一画は格別に清々しく、もみじと竹が茂る静かな場所でした。
セミの声は聞こえなかったけれど、うぐいすやそのほかの鳥の声が降ってきます。
下りは、もときた道をさくさくと。森の中は下りと上りの参道が整備されていました。
あじさいの中の道。こんなに緑が多くても、まだ蚊はほとんどいませんでした。
本坊の中。広い玄関に、なぜか世界各国のお面が飾ってありました。