Suquamish Museum (スクアミッシュ博物館)に行こうと思ったのは、Seattle Times に載ったオルカの記事をみたからだった。(先月のソイソース記事でも紹介しました。)
ワシントン大のBurke Museum(バーク博物館)に保管されていたSuquamish(スクアミッシュ)部族の遺物500点ほどが、部族が運営する新しいミュージアムに返還されることになって、ピュージェット湾を隔てたシアトルの町からその遺物を載せたフェリーがスクアミッシュの居留地に近いベインブリッジに近づいた時、どこからともなくフェリーをオルカの群れが出迎えた、という記事。
3ダース近い群れが現れたって。
フェリーには何度も乗ってるけど、オルカなんかそうそう見られるものじゃない。アザラシなら見たことあるけど、オルカなんか一度も見たことがない。
ピュージェット湾に住んでいる群れがいくつかあって、そのうちの2つだったと記事にはあった。
オルカ出現の時、たまたま別の用事で同じフェリーに乗り合わせていた部族の長老は、
「We believe the orcas took a little break from their fishing to swim by the ferry, to basically put a blessing on what we were on that day.
(オルカたちは漁をちょっと休んで、フェリーに祝福に来てくれたんでしょうね)」
と言っていた、という。
先祖の遺物を運んできた船をそんなにたくさんのオルカが出迎えるなんて、これは部族の人にとってはどれほど嬉しい祝福だっただろう。
スクアミッシュは、ベインブリッジ島とキトサップ半島に挟まれたせまい Agate 水道に面したあたり、白人がポート・マディソンと名づけた地域に集落を持っていた部族。
ここです。
ちょうど、バラードのちょっと北、ブロードビューのあたりからまっすぐに湾を横切ってキトサップ半島につきあたったあたり。
シアトルに名を残したシアトル酋長の父方の部族が、スクアミッシュ。
シアトル酋長の母方の部族は、その対岸、今のシアトルダウンタウンの南からワシントン湖、サマミッシュ湖のほうまで勢力が広がっていたというDuwamish(ドゥワミッシュ)族だった。
19世紀半ばに白人の政府が「テリトリー」の総督を送って来て、この辺一帯のインディアンに、白人の使いたい土地を明け渡して平和裏に居留地に移れ、そのかわりに無料の医療や教育やその他いろいろ文明的な援助をしてあげましょう、という条約を交わそうとした。
その時に、ドゥワミッシュとスクアミッシュを両方代表していたシアトル酋長が語ったというのが、有名なシアトル酋長のスピーチだった。
この2部族は戦わずに合衆国政府の差し出す条件を呑んだのだけど、大規模ではないけれど戦争を選んだ部族もあった。…もちろん、あっという間に殲滅された。シアトル酋長は、その運命をよく理解していた。
全滅か、白人に土地を明け渡して細々と生き延びるか。ほかには選択肢がなかった。
戦おうにも、ほかの大陸からもたらされた疫病で、数十年のうちに人口激減していた。
博物館の展示では、このへんのSalish 言語を話す部族は18世紀末には200万人いたのが、 1855年には7000人か8000人になっていた、と説明されていた。 285分の1だ。
何度聞いても、とにかくその人口激減のすさまじさに、愕然としてしまう。
スクアミッシュの部族の土地には幸いまだ白人が町を建てようとしていなかったので、祖先が代々住んできた土地を追われずに済んだ。これは18世紀から19世紀にかけて徹底的に土地を追われたアメリカインディアン史上、非常に珍しいケースじゃないかと思う。
ドゥワミッシュの人々はそんなにラッキーではなく、スクアミッシュの土地へ行って一緒に住めと命じられた。
スクアミッシュの部族も、めでたしめでたしで終わったわけではなくて、合衆国政府が約束したはずの補償は結局期待したほど得られず、「家族単位で小さな家に住み、土地を耕す」というアメリカンスタンダードな生活を押し付けられて、それに馴染めないというかきっと理解できなかっただろう家族が、次々にせっかくの土地を手放してしまい、居留地が目減りしていくという現象も起きたという。
町から近いウォーターフロントの地面をデベロッパーが放っておくはずはなかったのだった。
しかも19世紀の「無料の教育」というのは、「同化」の強制を意味していた。
アイヌの人もハワイの人も同じ時代同じような目にあった。
祖先から受け継いだ言葉も文化も、「未開で野蛮」とひとくくりにされて、いけないものとして禁止されてしまう。
スクアミッシュの子どもたちは、ほかのインディアン部族同様、遠い寄宿舎に送られて、アメリカンな文明生活を身につけることを最上として教育された。
ノースウェストのネイティブ部族の社会には「ロングハウス」という、そのまんまだけど「長い家」というのが中心的な役割を果たしていたという。
スクアミッシュの人たちの村にも、水辺にOldman House と呼ばれた巨大な集合住宅兼集会所があって、近隣でも有名だったらしい。
さしわたし、60メートルもある長い家だったと記録されている。
これが、条約締結から10年か20年後、アメリカ政府の手で焼き払われてしまった。
「オールドマンハウス」に住みついて昔ながらの生活様式を捨てようとしない住民に、白人の役人たちはイライラしていたようだ。
ワシントン大学に保管されていて、今回このミュージアムに還ってきたというのは、その焼けたオールドマンハウス跡で1960年代に発掘された遺物。
このミュージアムも、ちょっとその「ロングハウス」を模したかんじのデザインだった。
スクアミッシュ部族は90年代以降にカジノを建設し、おそらく主にその収益で、オールドマンハウスのあったあたりに、去年、昔の様式を模した近代的なコミュニティセンターを建てた。
このミュージアムも80年代に建った旧館から去年、この新しい建物に引っ越した。
展示もタブレットで立体的。
デザインも最先端で、ほんとにちっちゃいけど、気概を感じる博物館です。
工芸品の籠がとっても素敵。
カヌーをかつぐスクアミッシュの人々の像。手前が現在の人たち、真ん中が昔の人たち(先祖)、そして最後が「かわうそ」。
かわうそ君。
いにしえの万物はすべて自由に姿を変えられた、というのがスクアミッシュの人たちの信仰だったそうです。だから、カワウソは「太古の、始まりの時の人」を代表してカヌーをかついでいるのだそうだ。
奥のほうに見えている年表の展示は、レッドシダー(米杉)の板に印刷してある。
レッドシダーはこのへんの住民にとって、なくてはならない貴重なマテリアルだった。
もちろんロングハウスだってカヌーだってレッドシダー製だし、
服も出来たのだった。
レッドシダーの木の皮を何時間も気長に叩いて、赤ちゃんのおむつにもなる、ガーゼのような柔らかい布も作ったという。
スクアミッシュ博物館、祝日以外は今のところ年中無休です。「来年はちょっと変わるかもしれないけど」と、受付嬢かと思ったらディレクターだったJanetさんが言ってました。
開館時間、入館料などはこちら。
シアトルから来た遺物たちは、来年夏ごろに展示にお目見えの予定だそうです。