2018/04/25

わかりあえない犬が島!



『犬が島』観に行ってきましたよー。

おもしろかった。

見に行く前の日に、LAの恐るべきヒーラー、みぽりん隊長がニューヨーカー誌のコラムのリンクを送ってくれた。

フジイさんという日本人のライターさんが書いた、 「ウェス・アンダーソンの『犬が島』が日本を正しく描いているところ」という記事。

「この映画は、ユニバーサルな言語としての英語の立場を突き崩そうとするものだ」というような主張なのだけど、そ、そうかなあ?

there is no such thing as “true” translation. Everything is interpreted. Translation is malleable and implicated, always, by systems of power.
「『本当の』翻訳などというものはない。すべて、「翻案」されているのだ。翻訳されたものは、いつもかならず、力を持つシステムの影響下にあり、その意思を含んだものなのだ」

…うん、そ、それはそうだとは思うが、しかし。
この映画に関して、監督はそこまで正面切って言語の役割を扱ってはいない気がするな。

とくに英語の、国際世界における役割とかは。
ふつうに英語人に親切だったし。

たしかにこの映画は、英語しかわからない人と日本語しかわからない人と、英語と日本語の両方がわかる人とでは、かなり受け取る情報が違うとは思う。

でも、それはウェス・アンダーソンが国際世界における英語の覇権に疑問を投げかけたかったからではなくて、もうすこしざっくりした目的のためではないかと思うんだけどな。

それは何かというと、たぶん、世界再構築の野望だと思う。

私は実はウェス・アンダーソンさんの大ファンではない。ハッキリいってよくわからないのだ。

彼のギャグがあんまり面白いと思えない。笑えない。
たぶん私の映画的教養が低いせいだと思う。

でも映画そのものは、途中ですこし退屈しながらも、全体は面白いなあと思い、いいとこに連れてってもらったなあと思って映画館を出て来る。

まるで意味のわからない豪華な建物がたくさん並んでいる町へバス旅行に連れてってもらったような、そんな感じで帰ってくる。

たぶんウェス・アンダーソンさんの映画が好きな人は、彼の世界再構築の方法とその緻密さがツボでたまらないのだと思う。笑いのツボもきっと似てるのだ。

もちろん彼の再構築したその世界は現実の世界とはまったく違う。

メガ崎市はぜんぜん日本ではない。
謎の昭和30年代風スチームパンクな別次元の日本だ。
でも偏執的なまでに細かくリアルに作り込んでいるから、存在感があり迫力がある。

その世界は色も質感も、美意識だけで無理矢理に統一されている。

この無理矢理感が、お好きな方にはたまらない感触なんだろうなあ、と思う。
 
ウェス・アンダーソンにとって、「言語の覇権」とかはバックグラウンドの問題にすぎないのだと思う。

言語はカルチャーだし、カルチャーにはわかりあえない部分が必ずある。

そしてどんなカルチャーにも悪の勢力はあるし、他人をふみつけにしてのさばりたい希望をもつ人がいる。そのような希望と実力を持った独裁者と、ふみつけにされて困っちゃってる人たちや犬たち、そしてその闘争をアンダーソンさんはドライにコミカルに描いている。

生きる場所が違うなら分かり合えないのはきっと当たり前なのだ。

この映画でも犬たちと人間たちは決してわかりあえないし話は通じてないしお互いに誤解したままだ。でもお互いを大切に思っている。


わたしはむしろ、英語と日本語の言語としての立場うんぬんというよりも、言語も含めて、違うカルチャー(犬含め)の分かり合えなさの描き方がすごくリアルで、おかしいけど愛があってステキだと思った。

言語で分かり合える事柄というのは実はとても限られている。私たちはそのことをよく忘れてしまうけど。

とはいえ言語は世界の基本でもあるんだよね。そんなことも実感できるほど、よく作り込まれた映画でした。


にほんブログ村 海外生活ブログ シアトル・ポートランド情報へ






0 件のコメント:

コメントを投稿