2015/12/01

モネの肖像、Intimate Impressionism


シアトル美術館の「Intimate Impressionism」展に行ってきました。

Intimate も訳すのが難しい言葉です。「距離が近い」という意味だけれど、それは実際の距離である場合もあり、心の距離であることもある。うちとけてくつろいだ、というニュアンスがあることも。

インティメイトというだけに大作はなく、小さな肖像画や静物などが多い、静かな印象の展覧会でした。ナショナルギャラリー収蔵品。


一番に目についたのはこれ。
ルノアールさん筆の、クロード・モネさんの肖像。1872年。
モネさん32歳。いい男!晩年のモネ爺さんの写真は有名ですが、若い時からヒゲはこのスタイルを貫いていたんですね。

この肖像が描かれた72年は、「印象派」という名前のもととなった「印象・日の出」をモネが描いた年。

のちに印象派と呼ばれるようになった画家たちの作品を集めた最初の展覧会が開かれたのはこの2年後。

当時の権威あるアカデミーに反逆する若い画家たちが夜な夜なカフェに集まって革命を起こそうとしていたころの、血気盛んな画家による血気盛んな画家の肖像画。


ルノアールさんといえば光の中に溶けかかっているようなゆるふわな女性たちですが、親友を描いたこの肖像画でも、ヒゲの部分のふわふわ具合が素晴らしい。

そして、革命の旗手だけにゆるふわではないくっきりと鮮明な黒い画面の真ん中に、モネさんの手ががっしりと、乱暴なほどのストロークで描かれてます。

とても「intimate」な肖像画であると同時に、二人が共有していた、時代の担い手としての強烈な自負が溢れているようです。


セザンヌのかっこいい立体的洋梨。


マネのスタイリッシュな牡蠣とレモン。

様式を打ち壊す様式が新しい美しさを見つけた時代の、まばゆい野心に満ちた幸せな絵画たち。

(会期は1月10日までです。)

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2015/11/29

濃霧


今朝は深い霧でした。いつもは対岸にシアトルの街が見えるカークランドの湖畔。
こんなに小さな湖が、中国の大河みたいに見える。


気温は氷点下ぎりぎり。車の窓に霜が降りていました。


もうすぐ師走! クリスマスライトを飾り付けた家が増えてきました。

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2015/11/28

3センチ


サンクスギビングの日の新聞は日曜版並みにずっしり。中身をあけると、ほとんど翌日のブラックフライデーのセール広告でした。

重ねて測ってみたら、その厚さ3センチ。

年々エスカレートしているブラックフライデー、もはやフライデーですらなくサンクスギビング当日の午後6時から開けてる店もある中で、シアトル地元のアウトドア用品店REIは数週間前にブラックフライデーの休業を宣言して話題になっていました。

金曜日にスターバックスに行ってWiFiを使ったら、最初に出てくる画面にアンケートがあって、「Black Friday : Yay! or Nay!」という設問。

このインスタント調査のインスタント結果では60%以上の回答者が「Nay」と答えてらっしゃってました 。母数は謎。


10年くらい前、ブラックフライデーという名のセールが始まったばかりの頃にハワイのアウトレットの深夜セールに友人と子どもたちと一緒に一度行ってみて、夜中のお祭りみたいでおもしろいー!と子どもと一緒になって興奮してましたが、もはやお買い物競争(闘争?)に参加する元気はありませぬ。


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2015/11/27

今年のサンクスギビング


今年のサンクスギビングは、息子のガールフレンドKちゃんのおうちに招かれていきました。
わたしは例によって、南部ふうのカラードグリーンとヤムを持っていったのだけど、余計なことをした。反省。


七面鳥にスタッフィング、グレイビー、ヤムとリンゴのオーブン焼き、おばあちゃまのレシピだというテーブルロール、クランベリーと砂糖がけペカンののったサラダ、マッシュポテト、グリーンビーンズ。デザートはパンプキンパイ、ペカンパイ、手作りのクランベリー&チーズのアイスクリーム。

東海岸出身のKちゃんパパが全部いちから作った、伝統的なディナーをたらふくご馳走になりました。

Kちゃんママは一度パスタを作っていてキッチンを破壊しそうになったという逸話の持ち主で、キッチンを仕切るのはいつも旦那さんの役目。

でも食卓の上にはKちゃんママの作った美しいキルトのテーブルランナーが敷かれていました。


テーブルの脇でおこぼれを待つミカちゃん。

今年も健康に平和にあたたかく過ごせていることに感謝。


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ゲイの街と波止場


世間は感謝祭の休日です。
シアトルもすっかり冷え込み、山には雪が積もって冬仕様になりました。
…ということには全く関係なく、金門橋で思い出した、真夏のサンフランシスコ。


一日観光に同行してくれたB嬢がサンフランシスコの街で見てみたいといった場所は、カストロ通り。


ゲイの街として世界に知られるカストロ通りです。でっかいレインボーの旗が翻っていました。町中がレインボー。
ちょい頭の薄いおっちゃん同士のカップルが手をつないで歩いているの姿もあちこちに見られて微笑ましかった。

数年前に法律で禁止されるまでは、真っ裸で路上を歩いている人もけっこう普通にいたというタウンです。たしかにアダルトショップや男性用ビキニショップもあることはあるけど、普通にスタバやラーメン屋さんや食料品店も並んでおります。

私はツーリスト向けのペット用品屋さんで友人の犬たちにお土産を買いました。

横断歩道もレインボー。
世界中から巡礼のように観光客が来るゲイの聖地。みるからに観光客なゲイのおっちゃんカップルがけっこう多かった。
私たちもアジア人女性カップルにみえたのかもしれません。


砂糖菓子のような外壁と装飾タイルが素敵な映画館、カストロ劇場では、ヒッチコック特集をやってました。


そして次にはフィッシャーマンズワーフ/ピア39という、黄金のツーリストスポット。
夏の終わりの見事な快晴の週末でしたのでもうそれはそれは大変な人出でした。

観光客の数でいったらシアトルはまったく比較にならないですね。とにかく人が多い。


ここの名物はアシカの団体。いつもこの場所はこんな感じだそうです。1989年から突然アシカが集まりだしたのだとか。


波止場に重なる団体。
時々シマを巡ってバトルが繰り広げられます。

そしてカニたち。フィッシャーマンズワーフに屋台が並んでて、チャウダーとか海老カクテルとかゆでカニのサンドイッチなどに観光客が群がってます。
私もカニいりコロッケとチャウダーを食べました。うまかった、でも高い。


混み合うフィッシャーマンズワーフ。この界隈はTシャツとか帽子とかショットグラスとかキーホルダーとかを売ってるオミヤゲ屋さんがずらーっと並んでて、日本のどこかの観光地みたい。


クルマでちょろっと一周してみたら、やっぱり坂道がダイナミックでした。波打っている。
AT車でなければ涙でたと思う。
サンフランシスコ名物トロリーにはツーリストが鈴なりになってました。


トロリーがごうごうと通りすぎていく坂道の素敵窓。


古い建物も多いけど、昔風のデザインを真似た新しいビルも多いのが面白い。
また機会があったらゆっくり歩いてみたいです。

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2015/11/23

金門橋


この夏、サンフランシスコの街に初めて行ってきました。ほんの1日の観光でしたので、とりあえず橋を見にいくことに。

ゴールデンゲートブリッジのビューポイントをいくつかハシゴしました。

超快晴の9月の休日だけに、めちゃくちゃどこも混んでいて、橋を渡るのに小一時間かかりました。都会じゃのう。観光客が多かった!

まずはサンフランシスコ側のベイカービーチの上にある古い砲台跡から見る橋。
広々した眺め。やっぱり太平洋に直接面しているだけに、景色のスケールがピュージェット湾よりも大きい。


そして橋をわたった北側の丘の中腹にある、ビューポイントからの眺め。ザ・金門橋!

なぜ今になって急に思い出したかというと、先日『ターミネーター・ジェネシス』をDVDで見てたら、この橋が舞台のひとつになってて、まさにこの場所からシュワちゃんが出撃したからです。

老人になったターミネーターが、なかなか味わい深かった。あの殺人マシンがこんなに良いおっちゃんになるとは…。

1937年建造。大変な時代にできたんですね。
ただの橋じゃん、と思っていたけど、このスケールはやっぱり実際に見ると、圧倒される。

端正な直線と優雅な曲線。綺麗な形。綺麗な赤。


日が傾くと、この赤がますます綺麗になります。大きなカメラは持ってかなかったのでまたもや、iPhone写真。


この橋もシアトルの520号の橋と同様、有料だけど料金所がなく、事前に支払うか、後から請求が来るシステム。料金所は数年前に廃止したそうです。
高いです。2015年11月現在、7ドル25セント。
520号の橋と長さは変わらないんだけど。さすがサンフランシスコ、なんでも高い!
と思ったけどよく考えたら520号の橋もピーク時だと片道4ドルくらいすることもあるし、両方向で課金するから似たようなものですね。ただ時間帯で無料になったりする分、ワシントン湖のほうがお得 (比べてどうする)。

自分の車ならオンラインで事前に支払っておくこともできるそうです。
レンタカーの場合は1ヶ月以上たって忘れた頃に請求がやってきますよー…(´Д` )

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2015/11/20

反逆の神話


ジョセフ・ヒース&アンドルー・ポター著『反逆の神話』。訳者は栗原百代さん。

この本は今年の初めに東京の友人Nちゃんに送ってもらい、すごく面白かったから速攻感想を書こうと思っていて、ふと気づくと、11月(白目)。

前の『資本主義が嫌いな人のための経済学』も本当に面白く、目からウロコを落としてくれた本でしたが、こちらはそれにも増して刺激的でした。

ただ、主張がすこし複雑なため、誤解されやすい本でもあると思う。「後記」で、主に誤解による非難に対して反論しているのもさもありなん。

本書の主張は、<進歩的左派は、60年代以降のカウンターカルチャーの影響で、消費主義批判に名を借りた大衆社会批判の袋小路にはまりこんでしまっており、ラディカルな意識の改革を標榜するあまり、本当に有効な政治的解決策を否定してしまう愚挙にでている。もうそういう役に立たない批判はやめて、面倒でもまっとうな政治の場で解決する方向を目指そうではないか。結局のところ、人間の社会はルールなしにうまくはいかないんだから>というもの。

戦後、半世紀以上にわたって西欧のインテリ層がはまりこんできたカウンターカルチャーの勘違いを、丁寧に、すっぱりと、軽快な口調で解剖しています。

カウンターカルチャー論者の勘違いは、ドゥボールの理論などに端を発した

「文化全般がイデオロギー体系にすぎないのだから、自己も他者も解放する唯一の方法は、文化にそっくりそのまま抵抗すること」

という考え方に基づいているというのが大テーマ。

「進歩的」な人びとの多くは、これまで、消費主義や画一化、環境問題をはじめとする社会のさまざまな問題は企業とか資本とかの巨大「システム」が仕組んだものであるからシステムそのものに抵抗しなければならない、という観念に縛られてきたために、既存のシステムそのものを覆そうとするくらいの過激さのない方法論は、それが役に立つものであってもシステムにおもねるものとして拒絶してきた、というのです。そしてそういう「反逆」のやり方は、これまで半世紀の間、百害あって一利なしだったと。

特に面白かったのは映画『マトリックス』と『アメリカン・ビューティー』の分析。

『マトリックス』が表しているのは、ドゥボールとかボードリヤールなどが論じた
<広告とマスメディアを通じて我々は「スペクタクル」という表象システムに引きずり込まれている。スペクタクルの悪夢から目を覚ますため、革命には「欲望の意識と意識の欲望」が必要>
という、政治思想のメタファーだというのです。

わたしたちは「システム」に催眠術にかけられたような状態になっているから、個人の意識改革をもってしか、世の中は変えられない、という考え方。

これはものすごくよくわかる。意識の改革によって世界を変えよう、という考え方に夢中になった覚えのある人はものすごく多いはず。
ビートルズも、他のたくさんのミュージシャンも同じようなことをいってましたね。

でもこの考えに凝り固まった「反逆」活動は、実際の社会を良くするためには何の役にも立たない、と筆者たちは言います。

「この見方では、敵は、目覚めることを拒む人間、文化への順応に固執する人間だ。つまり、敵は主流社会なのである。…われわれの生きる世界は、マトリックスのなかでも、スペクタクルのなかでもない。実は、この世界はもっとずっと平凡なものだ。 …すべてを統べる単一の包括的なシステムなどない。文化は妨害されえない。 …あるのは、ほとんどが試みに寄せ集められた社会制度のごたまぜだけだ。それは、正しいと認められることもあるが、たいていは明らかに不公平に社会的協力の受益と負担を分配するものだ。この種の社会では、カウンターカルチャーの反逆は無益なだけではなく、確実に逆効果だ」(14)


そして映画『アメリカン・ビューティー』は、「まったく再構築されていないカウンターカルチャーのイデオロギー」だというのです。
あの映画がなぜ好きなのか、うまく説明できなかったのだけど、これにはああなるほどー!と思わされました。

『アメリカン・ビューティー』の登場人物たちは2つのグループにはっきりと分けられる。ひとつはカウンターカルチャーの反逆者たち:「麻薬をやり、のけもので、周囲の美に深く感謝している人たち」。 もう一方は体制側の人たち:「神経質で性的に抑圧されていて、他人にどう思われるか気にしてばかりいて、ピストルをいじるのが好き」なファシスト的な人たち。 ファシスト型の登場人物たちは主人公を順応させようとさせ、失敗すると「体制に特有の暴力」が現れる。(64)

「『アメリカン・ビューティー』で明示される世界観では、この社会によく適応した大人になることは絶対に無理である。…青年期の反逆を保って自由なままでいるか、「裏切って」ルールに従い、神経質で中味のない順応主義者となり、本当の喜びを味わえなくなるか」。その中間はない、という。(67)

なるほどー。あの映画に心惹かれたのは、たぶんそういう臆面もない傷つきやすさ、自由、美への憧れといったものの描かれ方に共感したのだと思う。愚鈍で無味乾燥的で抑圧的な「体制」とか「社会一般」には理解してはもらえない価値を自分たちは知っている、そのゆえに傷つかねばならない、というのは永遠に青春のテーマであって、年代を超えてとてつもない求心力を持っていますね。この映画がどれほど支持されたかにもそれは明らか。

筆者たちは、そういったカウンターカルチャーの背景にはナチスの行ったファシズム下での大量虐殺という行為が社会に与えたトラウマと、フロイトの精神分析理論があるといいます。

フロイトの「抑圧」理論は、社会は精神を抑圧する機構だと考える下地になり、ナチスへの恐怖は、それが文明の自然な流れであるという考え方により、体制への不信を育てたと。

そして、『アメリカン・ビューティー』や『ファイト・クラブ』などの映画や『ブランドなんか、いらない』といった書籍にみられる消費主義への批判というのは、実は「大衆社会批判」にすぎないと、すっぱり。

これはほんとに言われてみればその通りだ!

そして、「反逆の消費者」が大企業のシステムに一撃を与えるためにと新しい消費形態を打ち出すたびに、それがますます「競争的消費」の火に油を注ぐことになってしまう、と指摘します。

ナオミ・クラインなどはこの「消費主義」そのものを批判し、すべて企業と資本主義のせいにしようとしているけれど、消費主義の原動力になっている「競争的消費」は、別にだれかが仕掛けなくても人間社会の中に基本的な性向としてプログラムされているものなので、容易になくなるものではない、と。そりゃそうだ。

「僕ら二人とも60年代の思想に強い影響を受けた家庭で育った子供として、自分が育った環境の包括的なイデオロギーを、たんに宇宙の構造の一部ではなく理論と見ることに気分が高揚した」と著者たちは「後記」で語っていますが、こうしたイデオロギーの解読は読者にとってもワクワクさせられるものです。

ただ、これはDQN左派を笑うためのシニカルな本だと思ったら大間違いで、著者たちは大真面目にごくごくまっとうな「進歩的左派」らしい提言をしています。

著者たちの提言は、資本主義経済をツールとして使い、グローバル経済を否定するのではなく「完成させる」ことによってのみ問題が解決できる、というもの。

「20世紀の福祉国家の歴史は、市場の論理との戦いというよりも、むしろさまざまな形の市場の失敗の克服として解釈されるべきだ。…反市場のレトリックはせいぜい無用の長物であり、悪くすると知力の減退を招きかねない。僕らは市場を廃止するのではなく完成するように努めるべきである」(380)

そして、きわめてはっきりと「大きな政府」を支持しています。
グローバル化する世界で、政府の必要性はますます強まっており、グローバル市場で最も重要なプレーヤーとなるのは国家だと。

理想を掲げる「進歩的左派」は、システムとしての国家権力への信頼を欠いているのでリバタリアン的なユートピア思想に走りがちだけど、それはうまくいかない、といいます。

「現代の社会が直面する深刻な政治課題は集合行為の問題で、分権型のローカル民主主義では解決できない。無力な政府という神話をやめなければ、悪循環を断ち切ることはできない」(379)

著者たちが提言する「集合行為の問題」への処方箋は、例えば、労働時間の強制的な短縮、グリーン税、累進所得税など本当にまっとうな左派レシピ。

「僕らはファシズムについてくよくよ心配するのをやめるべきだ。この社会に必要なのは、ルールを増やすこと、減らすことではない」(366)

そうして、「そろそろ大衆と和解することを学ぶべき頃合い」とも。

大衆と和解する、というのはつまり「多元主義の事実」を受け入れる方法を学ぶこと、という。

自分にとって最も重要な問題についてほかの人と意見が合わない、不和とともに生きるすべを学ばねばならない、ということ。「60年代のユートピアは、みな途方もなく高度に共有される価値観と責務を前提としていたことがたやすくみてとれる」(371)。うんうん、たしかにそうですね。

著者たちはアメリカの理想主義は『スター・トレック』に現れていると指摘します。みんなパジャマみたいな個性のない服を着て、一つの理想と価値観でまとまってる団体。

多元主義の世界で唯一、有効なシステムは市場経済であり、ルールにのっとった社会の運営だ、というのが本書の結論。なんて真っ当な!


消費主義批判への批判、大衆社会批判への批判の文脈で、オーガニック野菜、ホリスティック医療、インドなどのエキゾティシズムへの傾倒、テクノロジー批判、ディープエコロジーまでをすべてバシバシと切って捨てているので、所どころ、意地悪な皮肉が先走っている感じは否めません。
その口調は面白いのだけど、それが多分、誤解のもとなのでもある。

特にオーガニック製品やスローフード運動、代替医療までを一緒くたにカウンターカルチャーの世界観が産み育てたものとして、二分法的に切り捨てたことで、かなりの数の人びとを激怒させたようです。

オーガニック製品についての記述はほんのすこしで、有機農業は農業の悪習を標的にしておらず、その「イデオロギーは…農法の環境に与える影響と持続性についての偏りのない評価を踏まえたものではない」(385) とすっぱり斬っているのだけど、それ以上の詳述はない。

ちょっと通りがかりについでに殴ったというような感じがする。

オーガニック食品と代替医療は課題の範囲があまりにも広く、とっても複雑なので、ついでに殴るようなモノじゃなかったのでは。そしてちょっと簡単にひどく殴りすぎたのではないかと思います。これで本論に対して無用の反感を招いているならもったいない。

わたしはこれについてほとんど何の知識もないけれど、スローフード運動にしても有機農法にしても、まったく意味がないとか悪習だけだとも思えない。
特に、「ニワトリは小屋の隅にいるのがもともと好きなんだから、放し飼い鶏の卵なんていうのは消費者自身の食品に対する願望の投影にすぎない」(270)というのはちょっとあんまりにも雑な議論だと思う。

生まれたときからまったく歩いたこともなくカゴの中ですごし、病気にならないように薬を与えられている鶏の肉や卵よりは、その気になればうろついて足をのばすこともできる「平飼い」鶏の卵を買いたいと心から思うし、実際に、残念ながら高い卵ほど、割ったときの見た目も殻の厚さも味もはっきり違う。そしてその卵を買うことでシステム打倒とかその他の何かをしたつもりになっているわけじゃなく、おいしいものが食べたいという純粋な欲望にのみ動かされて私はそれらの卵を買っている。

たしかに、オーガニックスーパーでウォルマートの10倍くらいの値段で卵や牛乳を買って意識高いつもりで思考停止しているお金持ちは、「進歩派」にとって目の上のたんこぶなのかもしれない。

でも、明らかによりおいしく、大量生産品よりも安全と環境に配慮していることをうたう食品は、確かに「プレミアム」ではあるかもしれないけれども、「衒示的消費」ではないぞよ。

何が本当にフェアトレードで、生産から消費まで全地球的に見たときに何がもっとも環境に良いのかは、丁寧に議論していかなくてはいけないのだろうけれど、消費者の立場ですべていちいち検証するのは無理だから、なにかしらの「ブランド」か目印を信用するしかないということになる。

著者たちが市場経済についていうように、食物の生産と流通や医療に関して、システムの行き過ぎを正す形でオルタナティヴが出てくるのは健康なことじゃないんでしょうかね?

医療についても、ちょっと風邪をひいたときには何の役にも立たない抗生物質をしこたまのむよりも、生姜湯を飲んで早く寝てしまったほうがいい、みたいな、アロパシーのみの医療を見直すべきところは結構あると思う。

「ホリスティック」医療も有機食品もあまり行き過ぎると確かに困ったことになるしそれが唯一の解決策では絶対にないのはわかるけど、アロパシーの薬品と並行して薬草やアロマセラピーを試してみなさいというお医者さんや、小規模有機農業の農家の人たちがみんな体制を打倒しようとしているわけじゃない。
代替医療も有機農業も、宗教やその他と同じく信条とライフスタイルの選択であって、ここでいま戦うべき相手じゃないと思うんですけど。

という小骨はいくつかあったのだけど、でも全体として本当に面白く、エキサイティングな本でした。次にも期待!

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