先日(もう随分前だけど)、インターナショナル・ディストリクトの
ウィング・ルーク博物館に行ってきました。
今月のソイソースのほうにも書いてます。
現在の建物には2008年に転居したそうで、20世紀初頭建設の古いホテルを徹底的に改装した、きれいなミュージアム。
1階のシアターには、その昔ニホンマチにあった「日本館劇場」(『
あの日、パナマホテルで』にも出てきました)で使われていた緞帳が、ばーん!と再生されていて、椅子に座ってこの緞帳を見ているだけで、ニホンマチの賑わいが伝わってくる。
この中にある「まねき」レストラン、今でも営業してるんですよね!
ウィング・ルークさんは、中国生まれアメリカ育ちのとっても優秀な青年で、シアトルの高校に通い、高校在学中に第二次大戦に招集され、勲章を貰って帰って来てワシントン大学で学び、弁護士となって、1962年に30代半ばでシアトル市の市議になった人。
意外な気がするんだけど、西海岸で、アジア系が公職に就いたのは彼が初めてだったそうです。
ハワイではまさにその頃、テリトリー(準州)から州になるのと同時に、若きダニエル・イノウエ議員が州代表としてワシントンDCに入ったんでした。イノウエ議員もウィング・ルークさんと同様に大戦で一兵士として戦い、帰還後GIの奨学金で大学からロースクールに進み、政治家を目指した人。同時代の同じくらい優秀な民主党のホープ同士として、太平洋をはさんで交流もあったことだろうと思います。
イノウエ議員が州代表として国政に参画していた同時期に、この米国本土西海岸ではルークさんが州の議員どころか市議になるのもおおごとで、61年の選挙では人種差別的な中傷が繰り広げられていたのに対して、若い人(たぶんワシントン大学の関係者が多かったと想像)を中心に1000人規模のボランティアが後押ししたなんてところ、規模は小さいけど2008年のオバマさん陣営みたいな熱気があったんでしょうね。
きっとそのまま活躍していたら、いずれは州や国政にも進出していたに違いないルークさんでしたが、市議になって3年後、わずか40歳で、飛行機事故で亡くなります。
カスケード山中に墜落した遺体が見つかったのは3年後だったそうです。
館内ツアーのガイドさんは、そのルークさんの甥御さんだそうで、この博物館はルークさんの捜索のために集まった資金をもとに創設されたんだと話してくれました。
1階の乾物屋さんは、ちょっと数週間バケーションで休んでましたっていう感じの、すぐに主人が戻ってきて営業を再開しそうな風情で、干しえびまでそのまま。
ここは、20世紀初頭からほとんど改装されずに営業していた中国人の家族経営のお店がそっくりそのまま、売りものの干しえびまで含めて寄付されて、ミュージアムの一部になっているというライブな展示です。
この建物、中国人有志が株式会社のように資金を出し合って建てたという、アジア(日本、フィリピン、中国)からの出稼ぎ単身労働者向けのホテルで、インターナショナル・ディストリクトが寂れていた70年代以降、放置されて鳩やネズミの巣になっていたのを大改装したのだそうです。
復元された宿泊者用の部屋。館内ツアーで見られます。
どの部屋に窓があって、意外に居心地よさそう。単身労働者の部屋っていうと「蟹工船」みたいな環境を想像してしまうけど、20世紀初頭とはいえ、そこはさすがアメリカというべきか、建築基準によって各部屋に窓を備えなければならなかったため、建物の真ん中に明かり取りの「light well (光井)」が作られてます。
労働者の仕事の場所は鮭の缶詰工場などが多かったようです。
最上階にあるのは中国人アソシエーションの集会場。
白人の銀行は移民を相手にしてくれなかったため、事業経営におカネを出し合ったり、人や仕事を斡旋したりという互助会のような組織がたくさんあったのだといいます。
ユニークな顔をした獅子? なんだか誰かに似ている。
うちの息子はこの獅子を異常に怖がった。
当然ながら雀卓も。
気づいてみると、インターナショナル・ディストリクトの古い建物の最上階には、こういうアソシエーションのものらしい立派な出入り口がほかにもいくつかあるのでした。
1階の展示には、さまざまなアジア諸国からの移民のアメリカでの歴史や生活のひとこまがフィーチャーされていて、日系移民の大戦中の収容所生活についても展示があります。
Wing Luke Museum of the Asian Pacific American Experience という長い名前にこめられているのは、なかなかひと言では説明しきれない複雑な歴史。
ウィング・ルーク博物館
719 South King Street, Seattle, WA 98104
(206) 623-5124
入館料:大人12ドル95セント
10am-5pm (月曜休館)