2017/01/09
3ドルのステキ椅子
冬休みにうちの息子がガールフレンドのKちゃんとワシントン大学のサープラスストアに行ってこんなものたちを買ってきました。
大学のキャンパスでいらなくなったものたちを放出するストアで、カヌーから血球計算器までいろいろ売っている。
この成形プラスチックの椅子、さいきんのとは違って分厚くてしっかりしていて、シートの形が身体にフィットして本当に座りやすい。
脚部は学校のものだけに質実剛健で色気もなにもないけど、このシートは色も形もキレイだし、デザインほんとに素晴らしい。
この椅子はKちゃんがサンディエゴのお部屋用に持っていきました。
ちなみにお値段は3ドル!
このスチール棚も、6ドルとか7ドルとかそんな値段だったらしい。
この「燃える液体」入ってるよというステッカーがキュート。
なんか一見それらしい実験道具を並べているけど、うちの青年は科学青年じゃないんだな。 単にコーヒーを淹れる道具なのである。
ハリオのコーヒードリッパーをクリスマスにKちゃんからもらったそうです。
ドリッパーをのせてるスタンドは、サープラスストアで買った実験用具らしい。
無意味にフラスコまで揃えているw これはわざわざアマゾンで買ったようです。
あっという間にまた新学期が始まって、Kちゃんはサンディエゴに(椅子持って)帰っていきました。
福岡ハカセは、時の流れが速く感じられるのは代謝が遅くなり、体内時計がゆっくりになるので一年の感じ方が長くなり、時間の経過についていけなくなるから、という説をとなえています(『動的平衡』「脳にかけられたバイアス」)が、代謝だけでなくてすべての回転が遅くなってる気がする、新年。とほほ。
2017/01/04
華麗なおせちと黒豆の惨事
元旦は、Yさんのお宅で開催された「おせちの会」にお招きをいただきました。
これはですね、一品作るのでもかなりの手間と熟練を要するおせち料理を何品かずつ作って持ち寄り、その総力を結集させて一大豪華おせちをつくりあげ、みなでほのぼのと満足するという会。
お元日はすこし雪が降って、Yさんちのお庭にはご息女Rちゃん作のゆきねこちゃんが。
おせちのみならず、お雑煮も超豪華。
こちらはY家のシェフMくん作の新潟風、鮭と大根のお雑煮。
おもちは焼くのではなくとろりと茹でもち。
こちらは舞踏家薫さんの、福岡風お雑煮。
白身魚と椎茸、青菜に、やはり茹で餅。お出汁は昆布とアゴ(アゴ風の干し魚をコリアンマーケットで発見したそうで、そちらを使用)。やっぱり豪華ですね!
わたくしは東京風お雑煮(さといも、かまぼこ、小松菜のかわりに水菜、とりにく)と、たたきごぼう、黒豆、つくねで参戦したものの。
たたきごぼうは、なんか微妙に酸っぱくてよ!
つくねは…丸くならなんだ!団子ちゃう!かわいくない!
そして黒豆は…いちおう柔らかくなり、味はしみたものの、
黒くなかった。
左下がわたくしの。右上はYさんのと市販の、正しい黒豆。
うちのは、黒豆ではなく海老茶豆である。
しかも行く途中のクルマの中で豆の容器をかたむけてしまい、砂糖たっぷりの煮汁をクルマの床に500ミリリットル以上ゴボゴボと注いでしまうという大惨事も引き起こした。
年の瀬から新年そうそう、自分のデクノボウぶりを嫌というほど思い知った2017年。
心して気をつけろということですね。
本当に、事故とか火事とか出さないように気をつけます。
お雑煮のお餅もYさんち自家製(パン焼き器でできるのだとな!)。
Yさん、お仕事明けに大晦日から24時間以上寝ないでご子息&ご息女とあれこれと完璧に用意したという、まるでトライアスリートのようなタフさ。器がちがう器が。
日本の美、花蓮根と花人参。
昆布巻き、錦玉子、きんとん、伊達巻、酢蓮、紅白なます、田作り、数の子、黒豆(海老茶豆)、たたき牛蒡、海老のうま煮、ごぼうといんげんの肉巻き、鮭の西京焼き、鰤の照り焼き、ローストビーフ、煮しめ、つくね。
「錦玉子」というものをわたくしは存じ上げませんでしたことよ。
花にんじんはKさんの作なり。
そして伊達巻も!
平目と海老とあともう一つ白身魚(忘れた)のすり身から、Kさんがご自分でお作りになられたというこの美しい伊達巻。「生涯初の伊達巻クッキング」とは思えない、毎日伊達巻作ってかれこれ10年といわれても納得するような仕上がりでござるよ。
お重に詰めるのもけっこう難しくて楽しい。
決まりは無視して各自好きなように詰めるので、それぞれ個性が出る。
小鉢を入れるときれいにまとまりますね。Yさんは飾りの枝まで用意してくれた!
ずらりと並んだお重。
うちのは、いつだったか実家からもってきたシンプルな春慶塗の。
たぶんまだ2回くらいしか使っていないし、こんなに立派なおせちを詰めたのは、たぶん初めて。お重くんもやっと出番がまわってきて、お重冥利につきたことでしょう。
お酒はYさん秘蔵の日本直送「鍋島」と「鶴齢」。どちらも麗しく美味。
ひととおりみんながおせちを食べ終わったあたりで、さらに怒涛のデザートが登場。福砂屋のかすていらにとらやようかん、バクラヴァに干菓子に焼き菓子に。
この上なく贅沢なお元日でした。世界が広がった。
Yさん、ご参加の皆様、美しくおいしいものをほんとうにありがとうございました。
また顔を洗って出直します。黒豆めー。
2017/01/03
2016/12/31
年の瀬のごちそう
こずも食堂主人Kさんのお宅のイヤーエンドパーティーにおまねきいただきました。
すばらしいごちそうの数々。
Kさんはお料理講師&ケータリングも対応可能なスキルの持ち主。とにかく半端ないメニュウに圧倒される。
すごーく味のしみた角煮、大根、玉子。スパゲッティナポリタンは「深夜食堂」がテーマのメニュウなのだそうです。日本風ポテサラ。 揚げなす。おにぎり。卵サンドイッチ。豚汁。特製からあげ。パエリヤ。揚げ海老トースト。デザートのカスタードプリンとライトなティラミス。
このメニューをこのボリュームで一人で作れといわれたら頭が真っ白になること間違いなし。どうしたらこんなに大量のごはんをテキパキ作れるようになるのでしょうか。
からあげは、ただいま「CIA」(スパイ学校ではなくてシェフの学校、Culinary Institute of America)で修行中のMくんが揚げ担当。素晴らしい手際のよさでしたよ。
味つけはKさん。みりん、醤油、酒、しょうがだけだっていうんだけど、ほんまか!
揚げ粉は、米粉と片栗粉を半分ずつだという。メモメモ。
いかすみ特大パエリヤくん。
ティラミスも遠い目になるほどおいしかった…。メレンゲを使っているのでふつうのよりもライトな仕上がり。なのでつい安心しておかわりを。
このほかにも、続々とゲストがオクラのサラダとか、お好み焼きとか、ばらちらしとか、チャプチェとか、煮物とか、美しくおいしい料理を持ってくる。
逃亡を企てていたダンジネスクラブたち。
しかし見事に蒸しあがり。
ご馳走さまでございました。
今年も終わっていきますね。
自分の浅はかさや杜撰さにあらためて気の遠くなるような思いばかりではあったものの、ほんとうに素敵な人びとに会う機会もたくんさん恵まれて、おいしいものを一緒にいただいたり、面白いものを共に見られた、よい年でした。
来年が平和な、充実した一年になりますように。
2016/12/30
オフィーリアの本屋
となり町、フリーモントの小さな古本屋さん、Ophelia's Books。
店に入るとすぐ目の下に、この狭いらせん階段があって、地下室に続いてる。
地下にはSFやミステリ本が。
1階は哲学本や文学系や古い地図帳とかがある。
そしてときどき猫もいる。
こないだは、モルモットがいた。
オシャレで高そうな店ばっかり増えつつあるシアトルだけど、こういうオシャレでもなんでもなくて時代が変わっても変わる気は微塵もなく、棚のうしろに異次元トンネルがありそうな店はほんとになくならないでほしい。
2016/12/28
Arrival:YOUは何しにこの惑星へ?
『Arrival』を観てきました。邦題は『メッセージ』。
おもしろかった。
湿っぽい感触で、繊細で、静かな映像がすばらしかった。
キャラクターがよかった。
ゾウのようなタコ型エイリアンも素敵だった。
そして彼らが大気の中に描く「Zazenメディテーション・タイマー」のアプリみたいな丸い言語がほんとうに素敵。
主人公は言語学者という、SF映画にしては地味な役どころ。というのもよかった。
主人公の住んでるミッドセンチュリーなかんじのレイクハウスも素敵。
でもなあ。
この映画、好きになりたいのだけど。
わたしにはつまづきが大きすぎて、どうにも丸のみできなかった。
でも、本当に綺麗な、数あるエイリアン映画の中でも指折りのビューティフルな映画。
おすすめです。見る価値は絶対にあり、できれば大きなスクリーンで。
この映画の予告編には、「お互いに言葉の通じないランダムな他人が、共通のことがらをみつけて心を通じ合わせる」というバージョンもつくられている。
これを見ると「異文化、異世界とのコミュニケーション」というのがテーマの映画みたいだけど、この予告編ははっきりいって、まったく映画の主旨とは関係ないと思う。
以下、盛大にネタばれありです。
主人公のルイーズ(エイミー・アダムス)は、スーパーに有名な言語学者で、スーパー通訳者でもある(中東の言語と中国語もネイティブレベルらしい。すごいですね)。
ある日とつぜん、世界の12箇所にへんな形のUFOが来る。
このモンタナの草原のシーンがほんとうにひれ伏したいほど綺麗。
エイリアンたちが 何しに来たのかわからないので、まずその意図を知るために、言語学者や科学者がコンタクトチームに任命される。 有名言語学者で外国語に堪能なルイーズに、この案件担当の(空軍?)大佐(フォレスト・ウィテカー)がじきじきにお迎えにくる。
12カ国が最初は協同してコンタクトに取り組んでいたのに、「武器をもってきた」という言葉が人間の言葉に翻訳されてから、急にどの国も互いに疑心暗鬼になって、協力を取りやめてしまう。
それまで協力してエイリアンの意図を解析しようとしていた12カ国の代表が政府に命じられて次々にシャットアウト。モニターが次々に暗くなっていく悲しさ。
世界各地では民衆が恐怖にかられ、政府のやりかたがまずいと暴動が起きている。
タカ派のアジテーターは「エイリアンをやっつけろ!政府は腰抜けだ!」とたきつける。
そんな中で中国政府はエイリアン船への攻撃を決める。
アメリカも、他の国も、そのあとに続こうとしている。
コミュニケーションのミッションは打ち切られ、戦いのために皆が退避を始める中で、ひとり宇宙船の中に取り込まれていったルイーズだけは、エイリアンのほんとうの目的を知る。
かれらは人類に贈りものを持ってきたのだ。3000年後に、かれらを助けてくれることとひきかえに。
このエイリアンたちの時間のとらえかたは人間とはちがう。
その言語は音声では人間の聴覚ではうまくとらえられないゾウやクジラのような響きをもっている。
書き文字は、宇宙船のなかの重そうな霧の中に、かれらの星型の触手からイカスミのようなものを噴出して描く。
美しい文字は、自分のしっぽをのみこもうとする大蛇ウロボロスのような円形をしている。
ルイーズは、宇宙船のなかでのエイリアンたちとのコンタクト場面で、自分から防護服を脱いで近づいていくことで、かれらの言語を少しずつ習得する。
同時に、だんだんとルイーズはかれらの世界観を共有するようになり、過去と未来と現在を、同時に体験するようになっていく。
エイリアンの意図を理解し、未来の知見を得るようになったルイーズは、人類がエイリアンに無意味な戦争をしかけようとしている瀬戸際に、その愚かな行為をやめさせる方法を予見する。
中国の将軍に直接電話をかけて、「やめて!」というのがその方法。
自分がエイリアンの本当の意図を知っていることを将軍に伝えるために、彼の妻が死ぬ前に言った言葉を伝えるのだ。
映画の冒頭に、ルイーズの娘が生まれ、成長を見守っていく幸せな時間と、その子を病気で失う喪失の時間が、静かで繊細な美しい映像でつづられる。
エイリアンとのコンタクトの途中にも、娘と過ごした時間の断片がたくさんはさまれる。
映画の最後に、その時間はほんとうは未来にあり、ルイーズが同時に体験していた現在でもあったことが示される。
結末を知りながらも、自分に与えられた人生を喜び受け取ることを、彼女は選んだのだった。
この映画は「サピア=ウォーフの仮説」という言語学の説を下敷きにしているそうです。
これは、簡単にいうと「思考は言語に影響されて組み立てられるものだ」という説、といっていいのだと思う。
はじめに言葉ありき。というわけですね。
ウィキでみつけた引用だけど、サピアはこういってます。
The fact of the matter is that the "real world" is to a large extent unconsciously built up on the language habits of the group. No two languages are ever sufficiently similar to be considered as representing the same social reality. The worlds in which different societies live are distinct worlds, not merely the same world with the different labels attached.
<「現実世界」というのは、大部分、その人が属する集団の言語がもつ習慣の上に、無意識に構築されているものだ。どのような言語でも、まったく同じ社会的現実を言い表しているといえるほどに似ている、といえるようなものは二つとしてない。異なる社会が体験している世界はそれぞれに独自の世界なのであり、たんに違うラベルが貼られた同じ世界ではないのだ>(拙訳)
わたしは、これはまったくもって自明のこととだと思うんだけど、反論もある。
実はこれに反論しているスティーブン・ピンカーの本(『言語を生み出す本能』)を、今年の夏日本に帰ったときにたまたま京王デパートの書店で見つけてピンカーが誰だかも知らずに買ってきて、いま読みかけなのだった。
まだ上巻を読み終わったばかりだけど、ピンカーの反論にはあまり説得力を感じない。部分部分ではなるほどと思うところもあるのだけど、おもにテクニカルな面での 重箱の隅をつつくような反論に終わっているかんじがする。
言語は現実を創造する。というのは本当ですよ、たぶん。ある程度。
同時にチョムスキーが言うように、「言語のたね」のようなものが人類にうめこまれているのも事実だと思う。
どちらも補完し合う論であって別にぜんぜん対立してないと思うんだけど、わたしがよく理解していないのだろうか。
またいつか機会があったら(下巻を読み終わったら)ゆっくり考えてみる。
エイリアンに戻ると、エイリアンの言語を習得するにつれ、ルイーズの世界観が変わっていく、というのはこの仮説を下敷きにしたものだろうけど、強引ではある。
時間の感じ方を規定しているのは、たぶん言語による思考というだけではないでしょう。
仮にコウモリの言語があるとしてそれが解読できたらコウモリと同じ時間的体験ができるかというと、きっとそうではないだろうという予感がする。
なぜならわたしたちは夜中に飛ばないし、超音波で蛾をつかまえる技術ももたないから。
わたしたちは皆特定の「社会的現実」を生き、時間の感覚もそのなかに埋め込まれている「現実」の一部なので、テンポラリーなものではある。
その「あたりまえ」の枠のそとにある時間の捉え方は、人間の生理的限界のなかにも、たぶん可能なのかもしれないけれど。
(それこそ禅の悟りとかは、その境地なのでしょうか)
とりあえずそれは言語とはまたちょっと別の話だよね、と思いますよ。 言語も世界観の一部ではあるけれど、ごく一部にすぎないのだし。
仏教的にいうと、言語とは煩悩であるのかな。
だいたい西洋のインテリは言語をかいかぶりすぎなのだ。
原作はテッド・チャンの『Stories of Your Life』。ネビュラ賞受賞作だそうです。
翻訳タイトルは『あなたの人生の物語』。
キンドル版があったので読んでみた。(短編)
すごく面白かった!
そして、やっぱり映画への違和感が納得できたのだった。
わたしはこの映画がどうにもすっきりのみこめなかった。
どこにつまづいたかというと、「こうだったらいいのにね」というわたしたちの願望があまりにも簡単に準備されて、実現されているところ。
原作は、ルイーズの個人的な話だった。
エイリアンの言語を学び、かれらの世界観を共有したことで、彼女には未来が見え、体験できるようになってしまう。
過去と未来と結末を同時に体験しながら、その苦さと美しさ、絶望と幸福をなんども味わうという、切なく悲しくて静かに明るい話だった。
原作ではエイリアンたちは謎を残して突然去ってしまうのだった。
ルイーズにだけ、彼女の残りの人生のすべての時間がすでに体験されている、という内的感覚の置き土産をのこして。
それが映画では、ルイーズが「現実に」世界を救う話になってしまっている。 しかも一人で。
正確には、ルイーズの個人的な物語と(何度もはさまれる未来への回想シーンが、しっとりした静かな画面でリリカルに語られる)、アクションムービー的な展開の世界平和の実現がつぎはぎされていて、そのふたつのストーリーの語り口がどうも妙にかみあっていない気がしたのだけど、原作を読んで納得した。
世界平和のほうの話は、映画のために書かれた、付け足された部分だった。そしてこの部分に、わたしはどうにもならない違和感を感じるんですね。
映画では、この話は、よいエイリアンとバカな人類の覚醒の機会の物語になっている。
『インデペンデンス・デイ』や『エイリアン』の、話が通じないどころかハローも言わずにいきなり襲ってくる海賊のようなエイリアンを極悪エイリアンの右翼、人となかよしになりたい『未知との遭遇』や『E.T.』 の平和的エイリアンを左翼とすると、この『メッセージ』のエイリアンは、左翼のさらに斜め上をいく超優良なエイリアンです。
だって友好をもとめてくるだけではなくて、役に立つ「ツール」をプレゼントしに、しかも内輪でいがみあっている人類が仲良くなれるようにわざわざ12個にわけてもって来てくれてるんだから。 (三千年後に助けてくれることと引き換えに)
それを理解しようとしない、理解できないタカ派の役人たちに仕切られた世界が人類毎度おなじみのカオスに陥り、せっかくの人類飛躍の機会を永遠にうしなってしまうところを、言語学という地味なインテリジェンスをもつルイーズが一人、真摯なとりくみによって異世界のタマシイとのコミュニケーションに成功し、頑固な中国人の軍人までをヒューマニズムにめざめさせ、世界を一瞬にして統一して、ふたつの世界をひとりで救う。
という筋書きが、もうどうにもこうにも居心地悪い。
そんなに簡単だったらいいよね。( ´Д`)=3
いつもはかなりあてになる映画レビューサイトの「Rotten Tomatoes」のスコアが94点という、驚くほど良い評価だったのは、もしかしたら公開日が11月11日で、あの大統領選挙の直後、全世界のリベラル知識人たちの多くが大ショックを受けていたすぐあとだったからではないのか、とも思う。
たしかにこれはすてきな夢ではある。
そしてこんなふうに提示されると、悲しくなる夢でもあるのだ。
『ニューヨーカー』のレビューアーもこう書いている。
The Sunday after the election, I watched this and wept. What a dream—to perceive instinctive purpose in what happens around us, to submit to that teleology, to enact it. What a fantasy, to imagine that we’ll be around to help anyone in three thousand years.
(選挙のあとの日曜日、わたしはこの映画を観て、泣いた。なんという夢だろう。わたしたちの周りで起きていることを直感的に知覚し、その目的を受けとめ、それを実行する、という夢。そして、なんという幻想なのだろう。わたしたちが三千年後にまだここにいてだれかを助けるのだ、と思い描くというのは。)
ついでにもうひとつ言うと、映画では言語学者のルイーズが通訳に使われているのも、ええっと思った。
英語で「Linguist」 というと、ふたつ意味がありまして、
1. a person skilled in foreign languages. (外国語に堪能なひと、通訳翻訳者含む)
2. a person who studies linguistics.(言語学を研究するひと)
なんだけど、これ、一般には「どっちも言葉の人でしょ」とばかりに混同されてることがある。この映画でも、大学で言語学を教えてるハカセのはずなのに、「ちょっとこの中国人何言ってるのか教えて」って。
大佐、それは通訳者の仕事ぢゃ!(# ゚Д゚))
もちろん言語学者でものすごく語学の才能があって数か国語につうじてるひとだっているのだろうけどね。国の防衛がかかってるときにはやっぱり専門の通訳にお願いするでしょう。
ていうか諜報機関にも軍にも、言語のスペシャリストはいっぱいいるし…。
原作では「まさか院で研究しているときには陸軍の通訳として使われるとは思わなかった」みたいなことをルイーズが言うけど、これはエイリアン言語の「通訳」の役目をおおせつかったということ。
と文句はたれながら、好きか嫌いかといえば、だんぜん好きな映画です。
ものすごく好きな部分と、もうちょっとどうにかしてくれたら私の生涯ベスト30位内の映画になったのにという残念な部分が同居する映画。
この映画のドゥニ・ヴィルヌーヴ監督は、このつぎ『ブレードランナー』の続編をいま製作中! 映画館で予告編観たけどイカしてる!超期待!
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あの人が蘇ったわけとイースターエッグ
うちの息子21歳が冬休みに机に向かってなにをやっているかと思えば、折り紙でした。
なにか自分なりのプロトタイプをあみだしたらしく。
ところで、先日観た『ローグ・ワン』でもうひとつ、何がびっくりしたかというと
(以下ネタバレありです)
(RIP プリンセス・レイア。涙)
なにがびっくりしたかというと、あのもう本当に見るからに意地悪そうな、ナチス・ドイツの将校みたいなキャラ、「グランド・モフ・ターキン」。
デス・スターといえばこの人。ダースベイダーと並ぶ、帝国の悪の権化の総督。
俳優さん(ピーター・カッシング)はもう20年以上前に亡くなっているのだけど、『ローグ・ワン』には1977年の『スター・ウォーズ』のまんまの姿ででてくる。
デス・スターはこの人のペットプロジェクト。この人なしには話にならない。
最後のシーンのレイア姫とこのターキン総督のおかげで、第一作の『エピソードIV』につながる感が涙でるほどリアルだった。
あの「よみがえらせ」の術は本当にすごかったなあと思っていたら、今日のニューヨーク・タイムズに「『ローグ・ワン』がおなじみの顔を蘇らせた方法」という記事が載ってましたよ。
How ‘Rogue One’ Brought Back Familiar Faces (NYT 2016/12/27)
どうやって故人をスクリーンに呼び戻したかというと、英国の俳優さんが顔にマスクをつけて演技した上に、『エピソードIV』のフィルムから採取したターキン総督の画像をもとに加工したCGをくっつけたのだそうです。
レイア姫も同様で、別の女優さんの上にキャリー・フィッシャーのCGがコラージュされている。
フィッシャーさん、完成した『ローグ・ワン』のレイア姫の姿は観たのかしら。
故人をいたずらにスクリーンに呼びもどした焼き直し映画を作るのは倫理的にいかがなものか、という批判もあるらしいけど、この映画のクリエイティブオフィサー氏は、この映画のこの役だったから意味があるのだし、もうそれはそれは大変なおカネと手間がかかるのだから、技術的に可能とはいっても、今後どんどん死んだ俳優をフィーチャーする映画が作られるとは思えない、と言っている。
うん、でも技術がすすんで手軽に作れるようになったら、ほんとうにその人が演じた映画とCG合成された映画の区別がつかなくなってどっちだったかわからなくなってくる時代はくるのかも。わりとすぐに。
この記事のインタビューに答えてた効果スタッフは子どもの時に『エピソードIV』を観て感動した人ばっかりらしくて、すごく楽しそうだ。
このほかにも、『エピソードIV』であまり使われなかったXウィング戦闘機のパイロットを、新しく作ったXウィングの映像にフィーチャーしたりもしてるのだそうだ。
コアなファンが注意して見れば分かる、映画やゲームの中に隠されたネタを「Easter egg」と呼ぶらしい。
『ローグ・ワン』にはEaster eggsがいっぱいあるみたいです。
わたしはそんなダイハードなファンではないけど、あっ( ;∀;)!!と思ったシーンが4つか5つくらいはあった。
忘れてかけてあつい埃をかぶったオタク魂を呼び覚まされた気がするよ。
もう1回観に行っちゃおうかな。
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