2016/07/05
わんこそば、目の絵馬、金色堂(奥の細道/平泉 中尊寺)
南三陸から谷あいと北上川沿いの道をくねくねと一ノ関〜平泉へ。
この辺でおなかが空いてきたので、中尊寺の近くに「芭蕉館」というお店をみつけて、わんこそば。
ワンコ Uo・ェ・oU そば?(・・;? と息子の頭にははてながたくさん浮かんだようでした。
平泉のここのは、あらかじめ小盛りにしたお椀12個をのせたお膳が2枚来るというプレゼンテーション。
足りなければもう1セットも無料追加できるそうですが、いやいやいやいや。2枚食べきるのが精一杯でした。
頑張った。
蕎麦湯がうまかった。
『奥の細道』をたどるならば平泉の中尊寺には行かねばなりません。
芭蕉先生は
「兼て 耳驚かしたる二堂開帳す。…
七宝散り失せて、珠の扉風にやぶれ、金の柱霜雪に朽ちて、既に頽廃空虚の叢と成べきを、四面新たに囲みて、甍を置いて風雨を凌ぐ。暫く千歳の記念(かたみ)とはなれり」
と書いておられます。
平泉の金色堂にはお堂の上をすっぽり覆う「覆堂」がかなり古い時代から造られていて、元禄2年、1689年に芭蕉先生たちが訪ねた時に見たのは室町時代の覆堂の中に納められた金色堂だったそうです。
黄金と珠でできたお堂もそのままであればとうに朽ちていたものを、屋根と壁でもって風や雨をしのぎ、無限の時にくらべればほんのしばらくの間ではあるが、昔日の記念となっていることよ、と17世紀に芭蕉先生がうち眺めた金色堂。
「五月雨の降りのこしてや 光堂」
金色堂と宝物をおさめた博物館は撮影禁止。
博物館(「讃衡蔵」)にあった銅製の華鬘はすばらしかった。
繊細な植物の透かし彫りの中に、女性の頭を持つ極楽の鳥、迦陵頻伽がいる。
植物と迦陵頻伽の尾がなんともあやしく美しいオーガニックで無駄のない曲線を描いています。 どんな人が作ったんだろう。
金色堂は、たしかに黄金でした。
そして混んでいた。観光バスで来るツアーの団体さんが次から次へと到着してせわしない。
山寺の立石寺にもツアーの団体さんはいたけれど、数はもっと少なかった。
やはり世界遺産パワー。
当時、この地域の国を治めていた藤原氏が、この世に理想の浄土を描こうとした「浄土思想を体現している古都」ということで、中尊寺だけでなく周辺の遺跡も含めての世界遺産登録だったんですね。知らなかった。
「仏国土(浄土を表す建築・庭園および考古学的遺跡群」という資産で登録されたそうです。
薬師さんのお堂の前にはこのようなシュールな絵馬が。つげ義春??
ここの薬師さんは、目の病にご利益があるというので、「め」の絵馬や同じように「め」と書かれたお守りが売られています。
薬師堂の前には小さな池があり、そこはモリアオガエルの生息地!
池の上に張り出したもみじの枝に、泡のような卵がたくさんぶらさがっていました。
泡の中でオタマジャクシが卵から孵って、雨とともに池に落ちるというのを、子どもの頃に何かで見ましたが、実物を見るのははじめて。
小さな木の板をこすり合わせるようなカエルの声もしていましたが、姿は見えませんでした。
中尊寺は、行くならまだ団体さんのいない朝早い時間(8時半からオープン)が良いかも。
私たちが行ったのは午後2時頃で、参道はとても賑やかでした。
金色堂へと向かう境内の参道の両側には、薬師堂、不動堂、 地蔵堂、本堂、それに弁財天までいくつものお堂があるのだけど、その一つ一つの門前でいちいちおみくじやお守りなどが売られていて、神仏もなかなか大変だ、と思わずにいられません。
開運グッズや招き猫もたくさんあって、あまりの多さに息苦しくなってくる。
なんだか欲望が渦巻くエネルギーに当てられた感じ。
お寺の奥には白山神社が併設されてます。
ここの参道の竹林がいちばん清々しかった。
境内には古い能舞台があり、屋根の吹き替え工事が行われてました。
ここで毎年薪能が行われるそうです。
2016/07/03
未来に生きるモアーチョ。
南三陸町にあるモアイ像。
イースター島から贈られたものだそうです。詳しいお話はこちら。
世界で2体しかない、目のはいったモアイ像なんだそうだ。
モアイはイースター島のラパヌイ語で「未来に生きる」という意味なんだと。知らなかった!
もちろん、モアイキャラクターも各種揃ってます!インパクト超強!
モアイ像のあるのは「南三陸さんさん商店街」の横です。
流されてしまった町の代わりに復興までの間、32店舗が営業しているプレハブの仮設商店街。
この日は火曜日の朝で、あまり人がいませんでしたが、魅惑的なものがいっぱい…。
ホテルで朝ごはんをたらふく食べたばかりで、まだ全然お腹が空いていなかったので、残念ながらウニとイクラの載った「南三陸キラキラ丼」は涙をのんで見送ったものの、わかめとかコンブとか海苔とか、抹茶ソフトクリームとか、パンとか、いろいろ買い込む。
「南三陸ポータルセンター」という施設には、震災直後からの記録や仮設住宅での生活のようすが再現されてました。
小学校5年生の女の子が津波の被害にあった直後に書いたという「(津波で)失った物、または買う物」リストに目が吸い寄せられた。
「アップライトピアノ、テレビ、テレビ台、ウォークマン
ビデオカメラ、たいこのたつじん、miフィット
デンワ、ぜんざいさん、家、ポケットティッシュ
ぬいぐるみ、ドライマンゴー、グミ
ミニチュア、なべ、フライパン、すいはんき
れいぞうこ、たまご、ウインナー、きのうののこりのたまごやき
…
じてんしゃX3、ばあちゃんじいちゃんの写真
ママのぬいもの道具、ミシン、お風呂、ハミガキ
…」
まだたくさん書いてあって、最後に
「つなみめ〜 このやろう」
と大きな文字で書かれてた。
もうこのリストの買いたいもの、全部揃ったかな。揃っていますように。
仙台から平泉まで走ってくれた日産マーチちゃん。
南三陸から山の間の緑濃い道を、平泉へ。 途中から北上川に沿って北上。
快適なドライブでした。
谷あいに真っ白なマタタビ(だと思う)の葉が目を惹きます。
マタタビって和歌には詠まれていないのだろうか。別名「夏梅」だって。
木陰のすがすがしい白色です。
幸福のウニ街道
鹽竈神社から松島を通って、南三陸へ。
松島をスルーするつもりじゃなかった。
松島の駅の近くにクルマを停めて、最初に目についた店で穴子フライを食べ、津波はここまで来たという張り紙が店の戸口付近にあったので会計の時に「大変でしたね」と言ってみると、店主さんは東松島に家があり、津波警報を聞いて家にいる犬を連れて来ようとクルマで家に向かったものの、津波が来たので途中でクルマを捨てて走って内陸に逃げて間一髪助かったけれどもクルマは水にのまれ、家は流され、村の人が600人以上も流されて亡くなり村はほとんど壊滅した。という話を聞いて、呆然としてしまい、うっかり松島をろくに見ずに通り過ぎてしまいました。
ちょっと高台の松島を見晴らすハイキングコースに行こうと思っていたのだけど、急にどこからともなく大雨がやって来て、それでは海沿いに行こうと思ったら女川の仮設住宅付近に迷い込んでしまい、その先あちこちでまだ復旧の道路工事が続いているようなので、いったん石巻に戻ってひたすら、南三陸をめざす。頭は夕飯のウニでいっぱい。
上の写真は途中の北上川の落日です。
南三陸についたのは日もとっぷりくれた7時近くでした。
お湯に入る間もなく、夕飯へ急ぐ。ウニがわたしを待っている!
ウニとの遭遇。
まだザワザワと動いておられる殻付きウニ様。 すぐ近くで穫れたものだそうです。
ウニ初遭遇のうちの息子は、初ウニがいきなり動いている殻に入っていたのでややヘビーな体験だったらしく、2個のうち1個をわたしにくれた。
もちろんありがたく、ひとさじも残さずに頂きました。
幸せとはこういう形もしているのだ。
なんとこの日は満月でした。
南三陸ホテル観洋という温泉ホテル。ウニつきオーシャンフロントの畳の部屋で2名22,222円なり。 お買い得でした。
浴場は2フロアあって、海が見えるサウナと露天風呂つき。浴衣でエレベーターを下りて大浴場に行くシステム、夕飯の部屋の隣から聞こえてくる宴会の演歌カラオケ、などなど含め息子には新鮮だったようす。朝食バイキングには地元のお刺身もついていた。
母は露天風呂の岩にけつまづいて足の甲をすりむき負傷。
どこかに行くと必ず何かしらアクシデントなしには済まないらしい。
翌朝、4時になぜか目が覚める。もう空が明るくなっている。
日本の朝は早い。デイライト・セービング・タイムの利点は朝、明るくなるのが遅くなることなのだということに初めて気づいたw
かもめとウミネコはとっくに起きてミャアミャアと活動中。
夏至の日の日の出。
薄曇りだったので太陽がまんまるに見える。モネの『印象 日の出』みたいな日の出でした。
ウミネコ君の参加により、自動的に『リターン・トゥ・フォーエバー』が頭に鳴り響く。チャ〜チャララ〜。
この志津川湾の杭は、手前がわかめ、その奥がホヤなど、そして一番遠くのは鮭の養殖の囲いなのだそうです。
「やっと去年くらいから、復活できたんです」と、フロントの女の子が教えてくれた。
フロントの前には、津波の直後の南三陸町の映像が流されています。まだたった5年。
すっかり流された町はまだ、土盛工事の最中。
高台にあるこのホテルは、震災直後、家を流された町の人たちの避難場所にもなっていたそうで、電気も水もなかった時から営業再開までの記録が部屋にも置かれていました。
平和な一日が奇跡だということをついうっかりと私たちは忘れてしまうことがありますね。
2016/06/28
謎の鹽竈神社(奥の細道/塩竃)
仙台からクルマを借りて三陸方面へ向かう途中でまず、鹽竈神社へ。
陸奥の国一の宮。
鹽竈(しおがま)って、書くのはおろか読めませんでした。画数いくつあるんだ!
常用漢字だと「塩釜」。 鹽竈と塩釜では、たしかにまったく違いますね。漢字の世界は奥深い。
ここの表参道は直登202段だそうです。両側はこんもりとした檜の森。
時代劇にそのまま使えそうなたたずまいです。
でも、ピラミッドとは違ってウェルカムな階段、のような気がする。ここはそんなに怖くありませんでした。
とはいえ、自分が足を踏み外し下まで一気に後ろ向きに落ちていく金田一耕助の冒険に出てきそうな映像が一瞬、脳裏をよぎりはした。
遠足か修学旅行の生徒たちが来てました。こわごわ降りる女子中学生。うん、降りるほうが恐いよね。
途中3回休んで息を整えようやく頂上に。これは狛犬のようだが、うちの息子です。
てっぺんから見たところ。
松尾芭蕉先生は『奥の細道』の旅でここに立ち寄っています。
「国守再興せられて、宮柱ふとしく、彩椽きらびやかに、石の階九仞にかさなり、朝日あけの玉がきをかがやかす。かかる道の果、塵土の境まで、神霊あらたにましますこそ、吾国の風俗なれと、いと貴けれ」
都から見れば「かかる道の果、塵土の境」であったにもかかわらず、神社のサイトによると、平安時代にすでに朝廷から手厚い祭祀料をもらっていたのだそうです。
いつ頃のものか説明はなかったですが、狛犬?獅子?像が素晴らしい。
なんだこの歯!!
眉毛がぐるぐるしてるし!
なんというか親しみやすい顔です。
ていうかうちの息子にやっぱ似てるかも!
肩幅ががっちりしていて肉付きがよろしい。
後ろ姿も素敵。ドーナツのような巻き毛がチャーミング。
チャイナな感じが漂っています。いったいどんな人が造ったんだろう。
ちょうど、神前結婚式が始まるところでした。
絵巻物のようです。なんと素敵なタイミング。
拝殿できりりとした巫女さんが新郎新婦を迎え、神主の横で鈴を振って儀式を執り行っておられました。
いかにも港町の神社なのだからか、「献魚台」というものが別宮の前に。
実は正面にある拝殿ではなくてこちらの別宮のほうが主祭神なのだそうです。
神社のウェブサイトが面白い。いろいろ謎の多い神社みたいです。
江戸時代まで祭神がはっきりしていなかったとか、破格の祭祀料を受けていたにもかかわらず、全国の格の高い神社リストである『延喜式』神名帳というものに記載されていなかったとか。
「国家的に篤い信仰を受けていたにも拘わらず『延喜式』神名帳にも記載されず、その後も神位勲等の奉授をうけられていないというこの相反する処遇はどう解すべきなのでしょうか」
と、神社のサイト自ら「謎」として問いかけています。
日本国の伊勢神宮とかそういう系統の神社とはまた全然関連のない神社であり、都からすれば僻地にありながら、異常なまでの存在感をはなっていた神社だったということなのでしょう。
大祓のための「形代」が置かれてありました。
本当はこちらがメインの拝殿であるという「別宮」。
主祭神は「鹽土老翁神」。寡聞にして聞いたことのないお名前でした。
「『古事記』『日本書紀』の海幸彦・山幸彦の説話に、釣り針を失くして困っていた山幸彦に目無籠(隙間のない籠)の船を与えワダツミの宮へ案内した事で有名ですが、一方博識の神としても登場しています」
だそうです。日本のポセイドンともいうべき、海の神なのらしい。
主拝殿のうしろに石庭があり、そのさらに後ろには本殿が。
こちらは朱塗りではなく「素木造檜皮葺」の落ち着いた造りです。
朱塗りの門とがっしりした狛犬さんの後ろ姿。素敵。なにもかも行き届いている感でいっぱい。清潔なお社。
この手拝殿の右側にあるのが、芭蕉の時にも既にあり、『奥の細道』に
「神前に古き宝燈あり」「五百年来の俤、今日の前にうかびて、そぞろに珍し」
と書かれている宝燈です。
門と拝殿の間に、すごい桜の老木がありました。
境内は塩竈桜という種類の桜の名所でもあるそうです。
古風でおおらかな感じがとても素敵な神社です。
陸奥の国一の宮。
鹽竈(しおがま)って、書くのはおろか読めませんでした。画数いくつあるんだ!
常用漢字だと「塩釜」。 鹽竈と塩釜では、たしかにまったく違いますね。漢字の世界は奥深い。
ここの表参道は直登202段だそうです。両側はこんもりとした檜の森。
時代劇にそのまま使えそうなたたずまいです。
でも、ピラミッドとは違ってウェルカムな階段、のような気がする。ここはそんなに怖くありませんでした。
とはいえ、自分が足を踏み外し下まで一気に後ろ向きに落ちていく金田一耕助の冒険に出てきそうな映像が一瞬、脳裏をよぎりはした。
遠足か修学旅行の生徒たちが来てました。こわごわ降りる女子中学生。うん、降りるほうが恐いよね。
途中3回休んで息を整えようやく頂上に。これは狛犬のようだが、うちの息子です。
てっぺんから見たところ。
松尾芭蕉先生は『奥の細道』の旅でここに立ち寄っています。
「国守再興せられて、宮柱ふとしく、彩椽きらびやかに、石の階九仞にかさなり、朝日あけの玉がきをかがやかす。かかる道の果、塵土の境まで、神霊あらたにましますこそ、吾国の風俗なれと、いと貴けれ」
都から見れば「かかる道の果、塵土の境」であったにもかかわらず、神社のサイトによると、平安時代にすでに朝廷から手厚い祭祀料をもらっていたのだそうです。
いつ頃のものか説明はなかったですが、狛犬?獅子?像が素晴らしい。
なんだこの歯!!
眉毛がぐるぐるしてるし!
なんというか親しみやすい顔です。
ていうかうちの息子にやっぱ似てるかも!
肩幅ががっちりしていて肉付きがよろしい。
後ろ姿も素敵。ドーナツのような巻き毛がチャーミング。
チャイナな感じが漂っています。いったいどんな人が造ったんだろう。
ちょうど、神前結婚式が始まるところでした。
絵巻物のようです。なんと素敵なタイミング。
拝殿できりりとした巫女さんが新郎新婦を迎え、神主の横で鈴を振って儀式を執り行っておられました。
いかにも港町の神社なのだからか、「献魚台」というものが別宮の前に。
実は正面にある拝殿ではなくてこちらの別宮のほうが主祭神なのだそうです。
神社のウェブサイトが面白い。いろいろ謎の多い神社みたいです。
江戸時代まで祭神がはっきりしていなかったとか、破格の祭祀料を受けていたにもかかわらず、全国の格の高い神社リストである『延喜式』神名帳というものに記載されていなかったとか。
「国家的に篤い信仰を受けていたにも拘わらず『延喜式』神名帳にも記載されず、その後も神位勲等の奉授をうけられていないというこの相反する処遇はどう解すべきなのでしょうか」
と、神社のサイト自ら「謎」として問いかけています。
日本国の伊勢神宮とかそういう系統の神社とはまた全然関連のない神社であり、都からすれば僻地にありながら、異常なまでの存在感をはなっていた神社だったということなのでしょう。
大祓のための「形代」が置かれてありました。
本当はこちらがメインの拝殿であるという「別宮」。
主祭神は「鹽土老翁神」。寡聞にして聞いたことのないお名前でした。
「『古事記』『日本書紀』の海幸彦・山幸彦の説話に、釣り針を失くして困っていた山幸彦に目無籠(隙間のない籠)の船を与えワダツミの宮へ案内した事で有名ですが、一方博識の神としても登場しています」
だそうです。日本のポセイドンともいうべき、海の神なのらしい。
主拝殿のうしろに石庭があり、そのさらに後ろには本殿が。
こちらは朱塗りではなく「素木造檜皮葺」の落ち着いた造りです。
朱塗りの門とがっしりした狛犬さんの後ろ姿。素敵。なにもかも行き届いている感でいっぱい。清潔なお社。
この手拝殿の右側にあるのが、芭蕉の時にも既にあり、『奥の細道』に
「神前に古き宝燈あり」「五百年来の俤、今日の前にうかびて、そぞろに珍し」
と書かれている宝燈です。
門と拝殿の間に、すごい桜の老木がありました。
境内は塩竈桜という種類の桜の名所でもあるそうです。
古風でおおらかな感じがとても素敵な神社です。
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