2011/03/07

タイコンデロガ



「古くて、新しい、それでけっこう」ダグラスは黄色のタイコンデロガ鉛筆をなめたが、この名前を彼はとても愛していた。(『たんぽぽのお酒』 北山克彦訳、晶文社)

レイ・ブラッドベリの『たんぽぽのお酒』にでてくる、「黄色いタイコンデロガ鉛筆」。

この本を初めて読んだのは中学生の時だったか。名前を覚えるのは苦手なのに、この変わった鉛筆の名前は一度で覚えてしまった。

ダグラス少年は「黄色い5セントのメモ帳」に、タイコンデロガ鉛筆で、夏休みの発見を書きとめていく。その名前は、「幸福マシン」や火花を飛ばして走る素敵な市電やアイスクリームパーラーと一緒に、1928年夏のイリノイ州グリーンタウンに属するものだと思っていたので、21世紀の「Office Depot」で普通にこの鉛筆が売られているのを見たときには驚いた。実在する鉛筆だったんだ。

『たんぽぽのお酒』が出版されたのが1957年。話の舞台は1928年。タイコンデロガ鉛筆は、たぶん、その間から現在まで80年にわたって、ほとんど仕様変更はされてないものと思われる。



しかも、 World's Best Pencil 「世界一のえんぴつ」と豪語している。

でもきっと、三菱ユニとかステッドラーとかと勝負してるつもりではないと思う。アメリカ人が「世界」というとき、それは主に北米のことを指すので。

たしかにアメリカのほかの鉛筆と比べたら、鉛筆削りの中でポキポキ芯が折れることもないし(ほんとに折れるんですよ。書いてる最中に簡単に折れる)、実直な良い鉛筆です。デザインもシンプルで、この黄色も目にやさしい。

使う人も作る人も、きっとこれ以上変える必要をまったく感じていないのだと思う。

日本に帰ると、文房具屋さんに行くのが楽しみです。ペンだけでも何百種類もあって試し書きができるし、ありとあらゆる種類のノート、消しゴム、美しい紙の数々、など見ているだけですぐに1時間くらい経ってしまう。

それに比べて、アメリカの文房具はほんとうに素っ気なくて、実用一点張り。

とにかくごっつい。
ホチキスとかも、いざという時には武器になりそうながっしりしたものばかりで、「かわいさ」や「デザイン性」を追求した製品は、ふつうの文房具売り場ではほとんど見受けられない。

ここ数年、ようやく、大手文房具店のOffice Max とかOffice Depot にもパステルカラーのバインダーや模様つきのファイルが登場するようになってきたが、まだ売り場では少数派。(ピンクのバインダーも、デザインは昔ながらの事務用品そのままなので全然かわいくないw)

カーニバルの屋台でも思ったけど、基本的に新しいものを次々に出すということをしない国だ。


ここ最近、オサレな(「カワイイ」)文房具が増えてきたのは日本製品の影響かな、と思う。これは↑ Greenroom というメーカーのリサイクルペーパーを使ったシリーズで、値段もあまり高くなくて最近お気に入り。TARGET が扱ってます。


この学校用ノート、「Composition notebook」もたぶんタイコンデロガ鉛筆と同じくらいのベストセラーだと思う。

小学校では学校指定の用品リストにこのノートが指定されてて、科目ごとに専用のを合計3冊か4冊買いそろえるのだけど、厚さが1センチくらいある上に表紙が厚めのボール紙で出来ているので、かさばるし、3冊も重ねると結構ずっしり重さもある。


日本の小学校で使われている学習用ノートや「大学ノート」と比べると厚さも重さも数倍。


何社かから出てるけれど、デザインはみんなおんなじ、この白と黒のスパターもよう。最近はカラフルな色のも見るけど、やっぱりこの白黒のに落ち着く ようで、夏休みの終わりに山積みで売られているのは圧倒的にこの白黒スパターで、大きさはまったく同じ。中の紙はざらっとした白地で、小学生向けに罫が太い ノートが多い。


糸綴じなのでページを破ることも出来ないし、分厚くて使いにくいノートだなと思うんだけど、米国人には愛されているようです。

たしかに質実剛健、丈夫ではある。先生が宿題を集めてチェックするときに、皆同じこのノートだと作業しやすいという利点もあるんだと思う。
子どもが踏んでも投げても犬が噛んでも壊れませんし。


思えば昔は、余計な色気のないアメリカの文房具が好きで、わざわざソニープラザでシャーピーのペンとかリング綴じのざら紙のノートとかを高いお金を出して買ってたなあ。これしかないとなると文句を言う、勝手なものです。

これで良しと思ったら百年でも同じものを使い続けるアメリカ人、常に新製品を楽しみにする日本人。

日本にだって昔ながらの良いデザインはたくさんあるけど、大量生産のもので戦前から変わらずに広く愛用されてるものってあるだろうか。



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2011/03/06

スパムむすび


ひさびさにスパムむすびをつくった。
高校のサッカーシーズンが始まって、練習後、夕食までおなかがもたない少年用。

4個とも食いよった。

ハワイのジャンクなスナックの王様。

そのままでは絶対に食べないし缶から出した状態では食用に適さないようにすら見えるスパムが、こんがり焼いてごはんにのせて海苔をまくと、なぜか全然オッケーな食べものになるのは、不思議。

日本の友人も、スパムむすびの魔力にとりつかれ、ハワイのスーパーでわざわざスパム2缶も買って帰っていた。日本の輸入スーパーで買うと高級品なお値段なのだそうです。
 
今回は、梅わかめふりかけのごはんに、炒り卵もはさんだ豪華版。
スパムがそのままで充分塩分きついので、味つけなしの卵をはさんだくらいでちょうど良いのだ。
焼くときにテリヤキソースなどをかける人もいるけど、わたしはスパムには何もつけない。ただ焼くだけ。

ハワイでサッカーの試合が終わったあとのスナック(交代で親が持ち寄る)は、3回か4回に1回くらいはスパムむすびでした。

ハワイの人は、みんな白いご飯が大好き。
ポットラックとなるとまずご飯担当の人が任命されて、30人くらいの集まりなら炊飯ジャーが2つは並ぶ。わたしもあっちこっちのポットラックやスナック当番に必要なので、1升炊きの象印炊飯器をもってたけど、シアトルで10合炊くことはないだろうと思って、引っ越すときに処分してしまった。でも先日のポットラックに持っていったちらし寿司が意外に評判よかったので(これどうやって作るの?と何回も聞かれた。すし太郎だよーん)、早まったかな、と思っているところ…。


おまけ

にらめっこの苦手なビーグル5歳。


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2011/03/05

Not the End of the World



例の京大受験カンニング事件の報道を見て、朝からどよよ~んとしてしまった。
やったことは本当に大ぱかだとは思うけど、こう国中で大騒ぎするほどのことでもなし…ていうか、国立大受験が日本ではどれほど重大イベントなのかを、改めて思い知らされた。

乗り間違えた受験生のために、急行列車が緊急停止したって話もあったなあ。

日本の受験って一回こっきり勝負なんだよね。
わたしは日本で受験戦争をくぐりぬけもせず、たらりんと生きてきて、なんとなく風にのってここまでたどりついたような人なので、日本の受験制度について何か言う資格はありません。

そしてアメリカがめちゃめちゃ優れた国だとも思ってはいない。とてつもない矛盾や格差が厳然とあって大変な国ではある。

でも、アメリカの良いところはすごく風通しが良いことだと思う。

アメリカの大学受験は、高校1年(日本でいったら中3)くらいから始まるといっていい。高校4年間の成績、リーダーシップ、SATの点数、地域社会での活動、スポーツ活動、本人のアピール、すべてがパッケージになって、選考対象になる。いってみれば、4年間の生活がすべてカウントされる。

高校2年のうちの少年も大学を目標にはしているが、 あと2年のうちにどのくらい勉強に前向きになれるか、大学の勉強についていけるほどの思考習慣が身につくか、夢中になれるようなサブジェクトが見つけられるか、なによりうちにはおカネがないから、自力で資金を見つけてこられるか、まだまだこれから…。

 まあそんな4年間のうちに、格別に優秀な数パーセントの生徒はピックアップされて、奨学金つきでトップ校に招かれるシステムが組み込まれている。それ以外の生徒は、それなりに自分の実力と折り合いをつけながら、それなりに力を伸ばして自分の行き場所を探していく。

だんだんと時間をかけて、自分の実力や向き不向き、周囲の評価や好きなものを見つける。大学に入っても、大学間の単位互換で融通がきくから、A大に入って単位をそっくりトランスファーしてB大で学位、C大で修士をとる、ていうのもある。履歴書で一番大事なのは、最初に入った大学じゃなくて、最後に学位を取った大学。本格的に勉強を始めるのは大学に入ってからだし、いったん社会に出てから大学に戻る人も多く、法学部に入って弁護士になっちゃうとかも珍しくない。

もちろん、それ以前に高校自体をドロップアウトしてしまう子もたくさんいるわけだけど。

風通しが良いというのは、たくさんの道が用意されていて、進路の変更がわりに簡単で、ダイナミックなことと、同じだけ多くの価値観が平行して存在していて、「成功」や「幸福」の形が一つではなく、ものすごくたくさんあるのが当然だと受け止められているという意味。それに加えて、出自や性別、肌の色、年齢などを問わずに実力を評価しましょうというシステムが法律で守られていること。

たとえば高校をドロップアウトしてしまった子にも、大人になってから高校卒業資格をとって大学に通う、というような道がいくらでもある。わたしもそんな道を使わせてもらって、30歳過ぎてからコミュニティカレッジのクラスをたくさん取った。すんごく楽しかった。18歳から60代まで、クラスメートには本当にいろんな人がいて、いろんな誇りや夢を持っていた。みんなすっごく元気だった。

なにがいいたいかというと、日本の若い人は、あまりにも一度きりの機会に追い詰められてるのじゃないかしら。受験にしても、シュウカツにしても。
これがダメなら何もかも終わりだ、て20歳そこそこにして縮み上がってしまっているのかと思うと、胸が痛い。

アメリカの人が、特に学校の先生が生徒に良く言うセリフに、

It's not the end of the world.

ていうのがある。カレッジの講師も、息子の学校の先生も、口にしていた。
 試験の前に青くなっている生徒や、頑張ったのに納得のいく結果を得られないかもしれないとおびえてる人に向かって。

…これが世界の終わりじゃないから。

「A」が取れなくても、思い通りの結果が今回は得られなくても、これで人生終わったわけじゃないから。世界は広い。地球は回っている。あんたはまだ若い。ほかにまだチャンスはある。まあそんな、思い詰めても仕方ないでしょ。

…というような。いたって単純なんだけど、ぽんっと広い世界に突き出されるような、視点の切り替えを促す言葉。

しかし日本の子達にこれを言っても、気楽なおばさんが何の寝言を言うかと思われるだけだろうか。抜け道がたくさんある社会だからこそ、説得力がある言葉なのかもしれない。

日本にももっと、抜け道が用意されると良いのに。ほんとに、試験は世界の終わりじゃないから。考えてもないような展開が待っているものです。


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2011/03/03

Hail 霰の日


きのうと今日と、続けて雹が降った。晴れた空が急に暗くなり、がらがらと雷が鳴って、いきなりこんな、空気銃の弾くらいな、イクラよりちょっと小さいくらいの玉がバラバラとすごい勢いで降ってくる。歩行中に降られたらかなり痛い。あっというまに地面が真っ白。

雹と霰の違いは、ヒョウが直径5ミリ以上、アラレが5ミリ以下なんだそうです。これはぎりぎりでヒョウか、アラレか。

英語ではどちらもhail。おおざっぱです。ゴルフボール大でも、イクラより小さくてもhail。

ハワイ語では、雨の名前だけで100以上あるのだそうだ。特定の場所に特定の降り方をする雨に、それぞれ名前がある。
もしハワイにノースウェストと同じくらい頻繁にヒョウが降ったとしたら、きっと何種類もの名前で呼ばれたことだろう。

日本語でも、雨や雪の呼び名は多いですね。アラレも歳時記では玉霰、とか夕霰、とか呼ばれている。歳時記は気象庁と意見が違って、雹は夏の季語で霰は冬の季語なのだった。

昨日は朝のうち大風が吹いて、近所のゴミ箱が散乱していた。春先だからなのか、天気はことさら落ち着かない。


こんな空が

こんなになってがーッと霰が降る。ちょっとたつとまた

すぐにこんな青空に。(長持ちしないけどー)

少しの晴れ間には鳥の声がずいぶんと聞こえるようになった。

もうすぐ春ですねー。
お帰りには足を伸ばしてこちらへも。
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2011/03/01

ガールスカウト・クッキー


この季節、スーパーマーケットから出てくると、出口の外に立っている制服姿の少女たちによびとめられることが多い。

「Do you want to buy Girl Scout cookies? ガールスカウトクッキー買いませんか?」
Do you want ? というところがミソです。彼女たちはCould you ? とか言わない。頼んでない。 

「買いたかったらどうぞ。ガールスカウトに貢献するチャンスをご提供しますわよ」というマーケティング。

5回のうち4回は「もうウチにいっぱいあるのよ〜」と笑顔で断るけど(まんざら噓でもありません。今年はサッカーチームのマネージャーの娘がガールスカウトだったので買わないわけにはいかなかったw)、あんまり寒い日に小さい子が売ってると、ついマッチ売りの少女を思い浮かべて買っちゃったりする。

1箱4ドルって安くはなく、すごくおいしいわけでもないけど、このレモン味のクリームがはさんであるのとかは、なんだか懐かしい味で、うちの少年も好き。

うちの少年もハワイ時代、カブスカウトやサッカーチームのファンドレイジングで、よくスーパーの前でモノを売った。やはり小さい子のほうが良く売れる。2年生くらいの子が制服をきちんと着て売ってると、飛ぶように売れる。知らない人に話しかけてモノを買ってもらうのって、意外に良い経験になったかも。

 ハワイでは、小学校の備品などを買うためのファンドレイジングで売られてる「School Kine Cookies」ていうのがおいしかった。これも1袋6ドルとか7ドルで、けっこう高いのだ。

学校が学校のために生徒にモノを売らせること自体も驚きだったけど、 たくさん売れた子には賞品が出るシステムにも驚いた。TVアニメ『Boondocks』のネタにもなってたので、全国的な慣習なのだろうと思われる。

こんなん売るより直接寄付集めたほうが早いんじゃと思わないでもなかったが、現金で10ドル寄付を集めるよりも30ドル分のクッキーを売るほうが全体として収益が高いのだろう。親の人脈でも親戚でもなんでも使って売り上げを競うシステムは、社会の縮図のようでもあるのだった。営業魂、大切ですからね。


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2011/02/28

ワイキキビーチ、ワシントン


引っぱり続けた太平洋探訪日記、これで最後です。
Cape Disappointed の真ん中にある小さな湾。

ディスイズ、ワイキキビーチ。

いや本当なんですってば。
標識を写真にとってこなかったけど、ほらここにも書いてあるでしょ。
いったいどこのどいつがこんな名前をつけたのかは、わからなかった。ハワイ配属を希望していたのに寒風吹きすさぶ北の岬に配属されたコーストガード隊員の自虐ネタだったとか?(憶測)

どこからこれだけの流木が、と目をみはるほどの木が流れ着いていて、足元すべる。もうちょっとでカメラを破壊しそうになった。



ダイアモンドヘッドの代わりに、がっかり岬灯台が見える。
こじんまりした入り江で、なかなか良い波が来ていて、シーカヤックの人が波間で遊ぶ穏やかなビーチだったが、嵐の日にはこんな光景になる。こわー。

ノースウェストの天気は変わりやすい。真冬に1日半も快晴に恵まれて本当に大感謝。

日曜の午後には、もう水平線の上に雨がやってきた。

ロングビーチの先のほうには、Oysterville (オイスタービル、「牡蠣村」ですね)という魅惑的な名の村もある。ゴールドラッシュでブイブイだった頃のサンフランシスコへ天然牡蠣を供給してバブルに沸いた村。
ビクトリア時代の建物がちらほら残り、今も静かな湾で養殖する獲れたて牡蠣やアサリの直売所がある。

ここも機会があったらゆっくり散歩してみたいが、天気も怪しくなってきたので、アサリと牡蠣を買ってさっさと帰路につく。シアトルまで帰るんだけど大丈夫かなといったら、サンタみたいなひげのおっちゃんがノープロブレムと言って、スコップいっぱいの氷を豪快に入れてくれたw 新鮮な牡蠣1カップぶんぎゅうぎゅうにつまったパックと殻つきアサリ1キロくらいで、17ドル。安い。
買ったあさりです。大きさバラバラだけど日本のアサリと同じくらい小粒。

やっぱり海辺はいいなあ。 アサリはボンゴレとペスカトーレとお味噌汁で3日間食べられた。うまかったっす。牡蠣はパックなので10日もつからまだ冷蔵庫。何にしようかなー。

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2011/02/27

がっかり岬の灯台


たった1泊の州内旅行でどこまで引っ張る。まだ続く太平洋探訪記。

ワシントン州の南西の端っこは、コロンビア川が太平洋に流れ込む河口で、川向こうはオレゴン州。

広い河口と太平洋の間に大きな前歯のように突き出している岬が、Cape Disappointment (ケープ・ディサポイントメント)。

直訳すれば、「がっかり岬」…。

ノースウェスト地方の地名の適当さについては以前にもひと言申し上げましたが、いくらなんでもこれはひどい。「がっかり岬」じゃ演歌にもならない。

命名したのは、やっぱり英国人の船長だよ。1788年、内陸に入るコロンビア川の河口を探していた毛皮商人の船長が、河口に行きあたったのに行き止まりの湾だと勘違いしてがっかりしたので、この命名。

もちろん無人地帯じゃなく、ネイティブ部族がいくつもあって、すでに西洋人とさかんに交易していた地域ですよ。勝手に船で来て勝手にがっかりされてもねえ。



そして、その20年ほど後、西部探検隊のLewis & Clark (ルイス&クラーク)が艱難辛苦の2年の旅の後、やっと太平洋にたどり着いた地点でもある。


岬の太平洋側と河口側にはそれぞれひとつずつ灯台があります。潮の流れが複雑で砂州が多いので、昔からよく船が難破する大難所だったそうです。↑ これは太平洋側のNorth Head 灯台。

河口側の灯台へは、パーキングから1キロちょっとのハイキング。


灯台への道には、シカも出没します。 


途中にある小さな入り江には「Dead man's Cove(死人の入り江)」という、『パイレーツ・オブ・カリビアン』的な名前がついている。ほんとに人の土地に来て好き放題な名前をつけますね。

実際、ここには汐の加減か、難破船から遺体が流れ着くことが多かったという話です。
と思うとちょっと陰気にみえてしまう。



南北戦争のときのものだという、要塞跡も。




がっかり岬灯台。

現役灯台としては西海岸で一番古い。今でも、コーストガードの管理下でしっかり働いてます。


湾の内側にはコーストガードの施設があります。

岬の丘の上に、州立の立派な『Lewis & Clark Interpretive Center』(ルイス&クラーク資料館)があるので、せっかくだから入館料5ドルを払って行ってみた。

ジェファーソン大統領に任命されて西部を探検したルイス&クラークのことは、アメリカ人は小学校で必ず習う。(うちの15歳は、なあああああんにも覚えていませんでしたが……悲)。

写真や図版を使って、一行が食べていたものや、途中で取引した部族とのやりとりや、あらゆる困難の数々が説明されている。

食料に、「犬」が入っていたのが、衝撃的でした……。


通訳として白人(毛皮商をやってたカナダ人)の夫とともに探検隊に同行し、途中で赤子を生んで育てながら最後まで旅についていったネイティブ女性 Sacagawea (サカガウィア)は、赤ちゃんを背負った肖像が1ドルコインにもなってて有名です。

ほんとにすごい、たくましい女の子。 探検隊参加当時はまだ10代の、とても好奇心の強い女子だったのだと思う。
この近くで越冬キャンプ中、何十キロか先の海岸にクジラが打ち上がったという話を聞いて、この内陸生まれの女子は「その巨大な魚をぜひ見たい!」と、わざわざ男たちと一緒に見物に行ったのだそうです。まだ赤ちゃんも乳飲み子だったろうに。


彼女の存在が、道中出会うネイティブの部族に対して、私たちは悪者じゃなく友好的な平和な目的のために来たんですよーという印籠のような役割をはたした。

そのあとから入植者や軍隊がイナゴのように群れをなして来ることになるとは酋長たちも露知らず、ほとんどの部族が友好的にもてなし、道案内や物資の調達に協力した。

探検隊が馬もなく先に進めず困窮していたときに馬を譲ってくれないかと交渉した先の部族の長が、たまたま、このサカガウィアちゃんの生き別れの兄で(彼女は小さな時に他の部族に誘拐されていた)、ドラマチックに話がまとまってしまったというのは、小説にしたら嘘っぽくなってしまうようなアメリカ史上のミラクルのひとつでした。

当時は今のワシントン州のあたりはまだアメリカにもほかの欧州の国にも属していない、インディアンの土地だった。
ほかに先んじて探検隊を送ってツバをつけておこうというのが大統領の思惑でもあったのですね。

アメリカはフランスから広大な「ルイジアナ」を買ったばかりで、いきなり国土が倍になったけど、その中身がどうなっているのかはまだよくわかっていなかった。太平洋に出る通商路を確保して、ゆくゆくは太平洋岸にも国土を広げたい、というのが当時の政治家の目標だったのは当然。

今考えれば、アメリカが東から西まで広がる大陸国家となったのは必然だったかのようについ考えてしまうけれど、そこに至るまでには命がけの開拓と血みどろの侵略と戦いが無数にあったのでした。

18世紀のニュース版画。「熊に襲われて木の上に逃げる人」。どう見ても犬。
この画家は熊みたことがなかったらしいです。

そんな時代の流れの中で、 探検家や毛皮商やインディアンの娘がそれぞれの思惑や希望や誇りをもって、それぞれに波瀾万丈の人生を生きていたのですね。




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