2016/12/28

Arrival:YOUは何しにこの惑星へ?



『Arrival』を観てきました。邦題は『メッセージ』。

おもしろかった。

湿っぽい感触で、繊細で、静かな映像がすばらしかった。

キャラクターがよかった。

ゾウのようなタコ型エイリアンも素敵だった。

そして彼らが大気の中に描く「Zazenメディテーション・タイマー」のアプリみたいな丸い言語がほんとうに素敵。

主人公は言語学者という、SF映画にしては地味な役どころ。というのもよかった。

主人公の住んでるミッドセンチュリーなかんじのレイクハウスも素敵。

でもなあ。
この映画、好きになりたいのだけど。
わたしにはつまづきが大きすぎて、どうにも丸のみできなかった。

でも、本当に綺麗な、数あるエイリアン映画の中でも指折りのビューティフルな映画。
おすすめです。見る価値は絶対にあり、できれば大きなスクリーンで。

この映画の予告編には、「お互いに言葉の通じないランダムな他人が、共通のことがらをみつけて心を通じ合わせる」というバージョンもつくられている。




これを見ると「異文化、異世界とのコミュニケーション」というのがテーマの映画みたいだけど、この予告編ははっきりいって、まったく映画の主旨とは関係ないと思う。




以下、盛大にネタばれありです。


主人公のルイーズ(エイミー・アダムス)は、スーパーに有名な言語学者で、スーパー通訳者でもある(中東の言語と中国語もネイティブレベルらしい。すごいですね)。

ある日とつぜん、世界の12箇所にへんな形のUFOが来る。
このモンタナの草原のシーンがほんとうにひれ伏したいほど綺麗。



エイリアンたちが 何しに来たのかわからないので、まずその意図を知るために、言語学者や科学者がコンタクトチームに任命される。  有名言語学者で外国語に堪能なルイーズに、この案件担当の(空軍?)大佐(フォレスト・ウィテカー)がじきじきにお迎えにくる。

12カ国が最初は協同してコンタクトに取り組んでいたのに、「武器をもってきた」という言葉が人間の言葉に翻訳されてから、急にどの国も互いに疑心暗鬼になって、協力を取りやめてしまう。

それまで協力してエイリアンの意図を解析しようとしていた12カ国の代表が政府に命じられて次々にシャットアウト。モニターが次々に暗くなっていく悲しさ。

世界各地では民衆が恐怖にかられ、政府のやりかたがまずいと暴動が起きている。

タカ派のアジテーターは「エイリアンをやっつけろ!政府は腰抜けだ!」とたきつける。

そんな中で中国政府はエイリアン船への攻撃を決める。
アメリカも、他の国も、そのあとに続こうとしている。

コミュニケーションのミッションは打ち切られ、戦いのために皆が退避を始める中で、ひとり宇宙船の中に取り込まれていったルイーズだけは、エイリアンのほんとうの目的を知る。
かれらは人類に贈りものを持ってきたのだ。3000年後に、かれらを助けてくれることとひきかえに。



このエイリアンたちの時間のとらえかたは人間とはちがう。

その言語は音声では人間の聴覚ではうまくとらえられないゾウやクジラのような響きをもっている。

書き文字は、宇宙船のなかの重そうな霧の中に、かれらの星型の触手からイカスミのようなものを噴出して描く。

美しい文字は、自分のしっぽをのみこもうとする大蛇ウロボロスのような円形をしている。



ルイーズは、宇宙船のなかでのエイリアンたちとのコンタクト場面で、自分から防護服を脱いで近づいていくことで、かれらの言語を少しずつ習得する。

同時に、だんだんとルイーズはかれらの世界観を共有するようになり、過去と未来と現在を、同時に体験するようになっていく。

エイリアンの意図を理解し、未来の知見を得るようになったルイーズは、人類がエイリアンに無意味な戦争をしかけようとしている瀬戸際に、その愚かな行為をやめさせる方法を予見する。

 中国の将軍に直接電話をかけて、「やめて!」というのがその方法。
自分がエイリアンの本当の意図を知っていることを将軍に伝えるために、彼の妻が死ぬ前に言った言葉を伝えるのだ。

映画の冒頭に、ルイーズの娘が生まれ、成長を見守っていく幸せな時間と、その子を病気で失う喪失の時間が、静かで繊細な美しい映像でつづられる。

エイリアンとのコンタクトの途中にも、娘と過ごした時間の断片がたくさんはさまれる。

映画の最後に、その時間はほんとうは未来にあり、ルイーズが同時に体験していた現在でもあったことが示される。

結末を知りながらも、自分に与えられた人生を喜び受け取ることを、彼女は選んだのだった。



この映画は「サピア=ウォーフの仮説」という言語学の説を下敷きにしているそうです。
これは、簡単にいうと「思考は言語に影響されて組み立てられるものだ」という説、といっていいのだと思う。

はじめに言葉ありき。というわけですね。

ウィキでみつけた引用だけど、サピアはこういってます。

The fact of the matter is that the "real world" is to a large extent unconsciously built up on the language habits of the group. No two languages are ever sufficiently similar to be considered as representing the same social reality. The worlds in which different societies live are distinct worlds, not merely the same world with the different labels attached.

<「現実世界」というのは、大部分、その人が属する集団の言語がもつ習慣の上に、無意識に構築されているものだ。どのような言語でも、まったく同じ社会的現実を言い表しているといえるほどに似ている、といえるようなものは二つとしてない。異なる社会が体験している世界はそれぞれに独自の世界なのであり、たんに違うラベルが貼られた同じ世界ではないのだ>(拙訳)

わたしは、これはまったくもって自明のこととだと思うんだけど、反論もある。

実はこれに反論しているスティーブン・ピンカーの本(『言語を生み出す本能』)を、今年の夏日本に帰ったときにたまたま京王デパートの書店で見つけてピンカーが誰だかも知らずに買ってきて、いま読みかけなのだった。

まだ上巻を読み終わったばかりだけど、ピンカーの反論にはあまり説得力を感じない。部分部分ではなるほどと思うところもあるのだけど、おもにテクニカルな面での 重箱の隅をつつくような反論に終わっているかんじがする。

言語は現実を創造する。というのは本当ですよ、たぶん。ある程度。

同時にチョムスキーが言うように、「言語のたね」のようなものが人類にうめこまれているのも事実だと思う。

どちらも補完し合う論であって別にぜんぜん対立してないと思うんだけど、わたしがよく理解していないのだろうか。

またいつか機会があったら(下巻を読み終わったら)ゆっくり考えてみる。



エイリアンに戻ると、エイリアンの言語を習得するにつれ、ルイーズの世界観が変わっていく、というのはこの仮説を下敷きにしたものだろうけど、強引ではある。

時間の感じ方を規定しているのは、たぶん言語による思考というだけではないでしょう。

仮にコウモリの言語があるとしてそれが解読できたらコウモリと同じ時間的体験ができるかというと、きっとそうではないだろうという予感がする。
なぜならわたしたちは夜中に飛ばないし、超音波で蛾をつかまえる技術ももたないから。

わたしたちは皆特定の「社会的現実」を生き、時間の感覚もそのなかに埋め込まれている「現実」の一部なので、テンポラリーなものではある。

その「あたりまえ」の枠のそとにある時間の捉え方は、人間の生理的限界のなかにも、たぶん可能なのかもしれないけれど。
(それこそ禅の悟りとかは、その境地なのでしょうか)

とりあえずそれは言語とはまたちょっと別の話だよね、と思いますよ。 言語も世界観の一部ではあるけれど、ごく一部にすぎないのだし。
仏教的にいうと、言語とは煩悩であるのかな。

だいたい西洋のインテリは言語をかいかぶりすぎなのだ。

原作はテッド・チャンの『Stories of Your Life』。ネビュラ賞受賞作だそうです。
翻訳タイトルは『あなたの人生の物語』。

キンドル版があったので読んでみた。(短編)
すごく面白かった!

そして、やっぱり映画への違和感が納得できたのだった。

わたしはこの映画がどうにもすっきりのみこめなかった。

どこにつまづいたかというと、「こうだったらいいのにね」というわたしたちの願望があまりにも簡単に準備されて、実現されているところ。
 
原作は、ルイーズの個人的な話だった。

エイリアンの言語を学び、かれらの世界観を共有したことで、彼女には未来が見え、体験できるようになってしまう。

過去と未来と結末を同時に体験しながら、その苦さと美しさ、絶望と幸福をなんども味わうという、切なく悲しくて静かに明るい話だった。

原作ではエイリアンたちは謎を残して突然去ってしまうのだった。
ルイーズにだけ、彼女の残りの人生のすべての時間がすでに体験されている、という内的感覚の置き土産をのこして。

それが映画では、ルイーズが「現実に」世界を救う話になってしまっている。 しかも一人で。

正確には、ルイーズの個人的な物語と(何度もはさまれる未来への回想シーンが、しっとりした静かな画面でリリカルに語られる)、アクションムービー的な展開の世界平和の実現がつぎはぎされていて、そのふたつのストーリーの語り口がどうも妙にかみあっていない気がしたのだけど、原作を読んで納得した。

世界平和のほうの話は、映画のために書かれた、付け足された部分だった。そしてこの部分に、わたしはどうにもならない違和感を感じるんですね。

映画では、この話は、よいエイリアンとバカな人類の覚醒の機会の物語になっている。

『インデペンデンス・デイ』や『エイリアン』の、話が通じないどころかハローも言わずにいきなり襲ってくる海賊のようなエイリアンを極悪エイリアンの右翼、人となかよしになりたい『未知との遭遇』や『E.T.』 の平和的エイリアンを左翼とすると、この『メッセージ』のエイリアンは、左翼のさらに斜め上をいく超優良なエイリアンです。

だって友好をもとめてくるだけではなくて、役に立つ「ツール」をプレゼントしに、しかも内輪でいがみあっている人類が仲良くなれるようにわざわざ12個にわけてもって来てくれてるんだから。 (三千年後に助けてくれることと引き換えに)

それを理解しようとしない、理解できないタカ派の役人たちに仕切られた世界が人類毎度おなじみのカオスに陥り、せっかくの人類飛躍の機会を永遠にうしなってしまうところを、言語学という地味なインテリジェンスをもつルイーズが一人、真摯なとりくみによって異世界のタマシイとのコミュニケーションに成功し、頑固な中国人の軍人までをヒューマニズムにめざめさせ、世界を一瞬にして統一して、ふたつの世界をひとりで救う。

という筋書きが、もうどうにもこうにも居心地悪い。

そんなに簡単だったらいいよね。( ´Д`)=3



いつもはかなりあてになる映画レビューサイトの「Rotten Tomatoes」のスコアが94点という、驚くほど良い評価だったのは、もしかしたら公開日が11月11日で、あの大統領選挙の直後、全世界のリベラル知識人たちの多くが大ショックを受けていたすぐあとだったからではないのか、とも思う。

たしかにこれはすてきな夢ではある。
そしてこんなふうに提示されると、悲しくなる夢でもあるのだ。

『ニューヨーカー』のレビューアーもこう書いている。

 The Sunday after the election, I watched this and wept. What a dream—to perceive instinctive purpose in what happens around us, to submit to that teleology, to enact it. What a fantasy, to imagine that we’ll be around to help anyone in three thousand years.

(選挙のあとの日曜日、わたしはこの映画を観て、泣いた。なんという夢だろう。わたしたちの周りで起きていることを直感的に知覚し、その目的を受けとめ、それを実行する、という夢。そして、なんという幻想なのだろう。わたしたちが三千年後にまだここにいてだれかを助けるのだ、と思い描くというのは。)


ついでにもうひとつ言うと、映画では言語学者のルイーズが通訳に使われているのも、ええっと思った。

英語で「Linguist」 というと、ふたつ意味がありまして、
1. a person skilled in foreign languages.  (外国語に堪能なひと、通訳翻訳者含む)
2. a person who studies linguistics.(言語学を研究するひと)

なんだけど、これ、一般には「どっちも言葉の人でしょ」とばかりに混同されてることがある。この映画でも、大学で言語学を教えてるハカセのはずなのに、「ちょっとこの中国人何言ってるのか教えて」って。
大佐、それは通訳者の仕事ぢゃ!(# ゚Д゚))
 
もちろん言語学者でものすごく語学の才能があって数か国語につうじてるひとだっているのだろうけどね。国の防衛がかかってるときにはやっぱり専門の通訳にお願いするでしょう。
ていうか諜報機関にも軍にも、言語のスペシャリストはいっぱいいるし…。

原作では「まさか院で研究しているときには陸軍の通訳として使われるとは思わなかった」みたいなことをルイーズが言うけど、これはエイリアン言語の「通訳」の役目をおおせつかったということ。

と文句はたれながら、好きか嫌いかといえば、だんぜん好きな映画です。
ものすごく好きな部分と、もうちょっとどうにかしてくれたら私の生涯ベスト30位内の映画になったのにという残念な部分が同居する映画。

この映画のドゥニ・ヴィルヌーヴ監督は、このつぎ『ブレードランナー』の続編をいま製作中! 映画館で予告編観たけどイカしてる!超期待!



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4 件のコメント:

  1. この映画の件とは離れますが、言葉というのはいろいろな意味で定義しずらいですね。
    言葉とは単に意思を通じる道具であると定義すれば確かにその通りと思いますし、それ以上の意味はないとも思えます。言葉だけは、この地球上に住むあらゆる民族、人種が話すことができその意味では確かに人間に備わった(神から与えられた?)遺伝子かもしれません。ということは言葉を話すということには
    特に意味がないことになります。ヨーロッパなどに行けば3-4か国語を話す人が普通にいたりして、ごく日常のことです。実は僕の10歳の娘も英語、日本語と母親の母国語の三つを話しますが、(時々
    車の中で僕と妻と友達の3人相手に3か国語を瞬間、瞬間に使い分けますが、それを見ていると言葉は単にpcと同様に技術上の問題で、何らそれ以上の他の意味はないと思わされてしまいます)。
    恐らく環境さえ与えれば、誰でも5つでも6つでも話せるようになれると思います。言葉はそれ以上の深い意味はないように思います。但し言語間の違いは大きく、その違い(例えば日本語と中国語、ラテン語系
    の言葉、アフリカの言葉、エスキモーの言葉 等々専門的な分析からは、完成度や熟成度などずいぶん違いがあるだろうとは推測します)その違いが民族の文化の違いや科学技術力の違いなどと関連している可能性はあるでしょうね。但し僕の疑問は、人類がアフリカから枝分かれしたということが事実なら
    どうしてこれほど幅広く違う言葉が、人類の発展とともに現れて来たのだろう という点です。
    まー取り留めのないコメントになりましたが、ちょっと思うところを書いてみました。何か教えて頂ければ嬉しいです。

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    1. こんにちは。コメントありがとうございます。
      私は言語学をちゃんと学んだことがないのですが、英語と日本語の考えかたの違いにいつも悩まされながらも、言葉と文化の関係にとても興味をもっています。
      わたしは「言語」というのは「思考」または「文化」そのものといっていいのではないかとさえ思っています。
      ピンカーの本によれば、たとえば両親が母国語でないピジンを話す子どもたちの場合、生まれたときからピジンで育っている子どもたちの世代では、複雑な文法が備わったクレオール言語に発展するそうです。
      人類はすべて生来の「心的言語」を発達させる能力をもっていて、脳に特殊な障害がなく、社会的な条件がととのっていれば必要に応じた言語が発達する、というのがチョムスキー以降の考えかたのようで、基本的にそれは証明されているようにみえます。
      つまり、言語がプリミティブだから科学が発達しなかったのではなくて、文化が複雑になり、科学技術が発達したから言語もそれに対応して複雑なボキャブラリーを得てきたということです。

      ただ、ピンカーは、だから言語は人間に備わった本能が作りあげるものであり、「言語が思考を既定する」などありえないといっているのですが、わたしは、言葉によって思考が(すくなくともその一部について)既定されることは大いにある、と思います。だからどの言葉を選ぶのかは重要なのだと思うのです。言い方を変えると、言葉は思考の習慣を決定することがある、といえると思うのです。

      日本ではむかしから「言霊」ということばがありますよね。
      なにかに名前をつける、というのは、そのものの存在を思考の中で既定することですから、名づけには呪術的な意味があるのだと思うのです。
      名前を知ったものは、その人の既知の世界の一部となります。
      言葉はその人の思考世界を作っているといえるはずです。
      同時に言葉には、さまざまな感情を惹き起す力もありますよね。

      言葉の力はほんとうに面白いと思います。


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  2. 異次元のお姉様(この呼びかけで私が誰だかおわかりですね!)映画みてきました〜 ちょうど数日前に、日本人の脳の特異性を主張したという角田忠信博士という人のことを読みました。言語学の専門家ではなく医学博士で聴覚器脳疾患の専門家ですが、言語学の分野で皆からそっぽを向かれるような新説を立てた人らしい。左脳右脳の機能調査をし、「日本では認識過程をロゴス(論理)とパトス(感情、情念、情緒)に分けるという考え方は西欧文化に接するまでは生じなかったし、現在に至っても、哲学・倫理学は日本人一般には定着していないように思う。。。」と語り、日本人と西欧人の自然音、言語音の認知機構の特徴が異なると主張しているそうです。西欧人は左脳(言語半球)はロゴス的脳で言語は子音(音節〉、計算。右脳(劣位半球)はパトス的脳で機械音、楽器音、自然音、母音。日本人の場合は左脳は子音のみならず母音、あらゆる人声、虫の声、動物の鳴き声など自然音、計算を司り、右脳は楽器音、機械音。。。。『日本人の脳』『脳の発見 脳の中の小宇宙』などの著書あり。こういう視点で言語学を勉強してみたらおもしろそうだな。異次元お姉さまにおすそわけに参りました〜 私は何のことやらさっぱりなので記事で紹介されている学者の本と共にこの本も探してじっくり読んでみたいです。西洋の学者とは違う言い分もすごく知りたくなります。

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    1. 異次元シスちゃん、こんばんは!映画いかがでしたかー。
      角田博士という方の話、うっすらきいたことがあるような。虫の声を聞いて反応する脳の箇所が英語圏の人と日本語ネイティブの人だと違うというような話をきいたことがあったようなないような。
      日本人脳というのはちょっと言い過ぎなのではないかと思うけど、英語と日本語をいったりきたりしていると、言語が認識を作るというのはたしかにあるはずだと思わされますよね。
      でも右脳左脳がいわれているほどハッキリ役割分担してないのではという説もあるし、右脳左脳をロゴス・パトスと分けるのは分かりやすいけどちょっと乱暴すぎるとは思う。

      言葉は脳を訓練するものだとわたしは思います。論理は言葉だけでなくて、音楽とか数学とか空間認識といった形でもあるし。ロゴスとパトスは右左という単純な形ではなくてもっとずっと複雑に入り組んでいるのだという気がします。脳を訓練する言語と文化によって、その感受性の形が違うということは当然あると思うけど、それは「英語圏の人はRの音が聞こえるけど日本人には聞き取りにくい」というくらいの違いじゃないかという気もして、でも微妙に受けとる世界が違っているのも事実であるとは思います。いやー言語ってほんとーに面白いですねー!

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