2017/07/28

街の性格 シアトルとニューヨーク


先月デジタルクリエイターズに掲載していただいた原稿をアップしてなかったのに気づきましたので、いまさらですがアップします。

ニューヨークとシアトルを比べてみたの記です。




今月、10日間ほどニューヨークに行ってきた。ひょんなことで急に決めた、人生初のニューヨークシティ。
同じ大陸の東と西だけど、8年住んでみたシアトルとはいろんな面で正反対で面白かった。

非科学的で主観的な観光客の感想として、シアトリートとニューヨーカーの特徴をちょっと比べてみた。



だいたいみんな急いでいる。

ニューヨークの人はとにかく歩くのが早い。
みんなどこかすごく急いで行くべき場所があるらしい。

しかし東京と違うのは、誰も信号を守ろうとしないこと。

車が来てないのに赤信号を守っている歩行者は子連れの観光客くらい。左右をさっと見て早足で赤信号を渡っている人々に囲まれていると、ぼーっと信号待ちをしているのは人生に対して受動的すぎる態度であるような気がしてきて、マネして急ぎ足で赤信号を渡らずにいられない衝動にかられる。
別にそんなに急いで行くところはないんだけど。

シアトルの人は、わりと律儀に歩行者信号が変わるのを待っている人が多いのだ。あまりガツガツと前に出るのをよしとしない美学が無言のうちに共有されてる気がする。

車の運転も同様。

シアトルのドライバーは、本当によく道を譲る。

横断歩道でないところに立っている歩行者のためにわざわざ停まってくれることも珍しくない。もちろん横から出てきた車にも、9割以上の確率で道を譲ってくれる。

信号が青に変わったのに前の車のドライバーが気づかずに動き出さない時も、シアトルのドライバーたちはすぐにクラクションを鳴らさず、礼儀正しく1、2秒待ってから、あまり攻撃的に聞こえないように遠慮がちに短くプッと鳴らす。
 
ニューヨークの交差点で信号が変わったのに気づかず動かなかったら、0.01秒の猶予もなくブーブーやられるのは間違いない。
横断歩道を渡る歩行者を待っている車にもすぐ後ろからブーブーブーブー鳴らしてたくらいだから、ニューヨークのドライバーにとってクラクションは単に一種の自己表現なのかもしれない。どの交差点でも必ずブーブー鳴っていないことはなかった。

ニューヨークでは空港からの往復も含め、何度かUberを使った。

空港からマンハッタンへの道で渋滞にはまったので「いつも何時頃が渋滞なの?」と聞くと、運転手さんは疲れた顔で皮肉に笑って「ALL DAY」と答えた。とにかくマンハッタンはいつでも混んでいる。

そしてニューヨークのUber運転手は、みんな運転がものすごくアグレッシブだった。1秒でも早く目的地に着いて次のお客を拾うため、アクロバティックにあっちこっちに車線を変え、ちょっとでも渋滞しているとすばやく別の道に切り替える。

見事な職人業だが、乗ってるほうは生きた心地がしない。
でもたしかに早い。Googleマップでは空港まで58分になってたのに、Uberのアクロバット運転手のおかげで40分もかからなかった。

メキシコシティのタクシーもまじで超人技だったけど、ニューヨークの運ちゃんも動物的カンと、車と一体になっているかのようなはりつめた運動神経が発達しているようであった。


ファッショナブルな人がいっぱい。

シアトルの人の格好はなんとなくみんな良く似てる。

清潔でナチュラルで控えめで、気負わないのが身上みたいなところがある。
シアトルで見かける白人の20代〜40代男子の典型は、チェックのコットンのシャツ、よく手入れされたほお髭、パタゴニアかノースフェイスの薄手のダウン、地元ブランドの革のカバン、といったところ。

女の子も垢抜けた自然志向といった感じで、タトゥーは入れててもメイクアップをしてない子もけっこういる。

IT企業にお勤めの皆さんとカフェのバリスタさんの違いは顔についてるピアスの数とタトゥーの数くらいで、傾向はあんまり変わらない。
そのまま釣りやキャンプに行っても違和感ないようなアウトドア志向のリラックスしたお洒落。

ニューヨークでは、頭のてっぺんから爪先まで気合がはいったお洒落をしている人が、次から次へ町角にあらわれる。

黒人のおばちゃん、イタリアンのおっちゃん、つば広帽子のマダム、『ゴシップガール』に出てきそうなお金持ち系女の子たち、派手なプリントと金のシューズを組み合わせたゲイの男の子。

それぞれ揺るぎない自分の世界にありあまる自信をもっていて、人がどう思うかはまったく気にかけていないらしいのが、壮観だった。


機嫌が悪い人も多い。

ニューヨークでも、アップスケールなカフェとかショップとかお洒落界隈のレストランでは、もちろん店員さんたちはプロフェッショナルなフレンドリーさで接してくれる。

でもニューヨークには不機嫌さを隠そうとしない人も多かった。

観光地のカフェの店員、美術館のチケットカウンターの係員、Uberの運転手、といった人々の中に、ものすごく感じのいい人とものすごく無愛想な人がいる。

シアトルのサービス業でそれほどむき出しに無愛想な人はめったに見ないので、ちょっと新鮮だった。

こういう人々はとくに根性がねじ曲がっているのではなくて、単に客のために自分の不機嫌を取りつくろう必要を感じていないだけなのだ。そう思うとむしろ清々しくさえ見えてくる。

愛想がない人が多いから、すなわち余裕がなくて冷たい人ばかりかというと全然そうでもない。

自転車シェアリングのステーションに自転車を戻して去ろうとしていたら、通りすがりの車の運転手が運転席の窓から「ちゃんとロックされてないよ」と教えてくれた。

道を聞けばみな面倒がらずに教えてくれる。ベビーカーに子どもをのせたまま地下鉄に乗っても、もちろん誰も非難しない。

マンハッタン名物、ごみの山。とにかく道路が汚くてびっくり。
というか、シアトルが例外的に綺麗な街なのかも。

内向的な街と外向的な街。

シアトルはかなり均質な街だ。
街の中心部は圧倒的に、礼儀正しくてリベラルでインテリで所得が高い白人の中流層が多い。マイノリティの多いエリアの文化とメインストリームの文化はおおむねおとなしく共存しているだけであまり混ざることはない。

ニューヨークシティももちろん、層やエリアがいくつもあって住み分けがくっきりしているはずで、たとえば5番街のマダムたちとクイーンズから通ってくる移民の店員の世界は全然違う。

でも、マンハッタンという狭い場所にありとあらゆる多様な世界がひしめきあって隣りあってることで化学反応みたいなものが毎日あちこちで起きて、静かに爆発したり融合したりしてるらしいのが面白い。
 
どちらの街もいま景気は良くて、あちこちで工事中だし、ジェントリフィケーションが進んでキレイになっている。どちらの街もエネルギーが強いけど現れ方が違う。

ステレオタイプを承知でいえば、シアトルは小奇麗で内向的、ニューヨークはガチャガチャしてて外向的。まあそんなラベリングにはあんまり意味はない。

シアトルもニューヨークも、アメリカの中ではものすごく珍しい場所なのは間違いない。

シアトルにおっとりした人が多いのは、IT系のギーク君たちが人口のかなりの部分を代表しているから、だけではなく、冬は温暖で夏は涼しい気候、平均して高い所得、成長産業があること、衝突が少ない社会構成と、自然に囲まれた環境、…といった要素があるんだろうな、と、蒸し暑いニューヨークから帰ってきてぼんやりと思うのだった。

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バイリンガルのコスト




(これはシアトルの南のほうで見かけた街角アート。作者さんは存じませんが、一筆書きっぽい力の抜けた顔がなんだか好き)

デジタルクリエイターズで先日掲載していただいた記事です。

編集長がまぐまぐに推薦してくださって、そっちに載ったら『日本の親が気づけない「子供をバイリンガルに育てたい」の危険性』というなんだか刺激的な記事になっていてあせる。危険って〜!その言葉は使わなかったんですけど〜!(;・∀・)

デジクリの編集長は「炎上するといいですね♡」って、おーい。

私にはとてもできないような努力を傾けて、慎重にバイリンガル環境でお子さんを育てている人もたくさん知ってるし、バイリンガル教育を全面的に否定してるわけじゃないんですよ。とわかっていただけるといいのですが。

ということで再録します。


(いま休館中のシアトル・アジア美術館で見たツボ)

(ここから)


日本では子どもの英語教育に熱心な親御さんが多い。

日本では義務教育で6年間英語を学ぶのにほかの国に比べて英語力が低い、なんとかしなければ、という議論をよく耳にする。小学校でももうすぐ英語とプログラミングが必修になるとか。

私は英語教育についてはまったくの門外漢でしかないが、大人になってから英語をなんとかかんとか身につけ、英語圏で生活して、英語と日本語の環境で子育てをした立場で、つまり日本の英語教育については完全に外から眺める立場で、思うことをちょっと書いてみる。

英語教育の現場に立っていらっしゃる方から見るとピントが外れていたり、何をいまさらと思われるかもしれないが、部外者の勝手な感想だと思ってスルーしていただければ幸甚である。

日本の、特に子どもの英語教育で違和感を感じるのは、それが「芸」としてのみ捉えられているようにみえるところだ。

日本の人は芸事が好きで、特に試験とレベル分けが好きだ。

お茶でもお花でもスポーツでも書道でも将棋でも、級や段が細かく分かれていて、少しずつレベルアップしていくシステムが浸透している。これが英語にも適用されていて、TOEICや英検などが英語力の目安になっている。

もちろん、レベル分けそのものが馬鹿げているなんていうつもりはない。
自分のスキルを一般的な基準に照らしてチェックするのは必要なことだと思うし、やる気にもつながる。

でも、子どもの言語力にこういう考え方を当てはめるのは意味がないと思う。

もちろん言語はスキルには違いないのだけど、同時に言語は文化であり、思考プロセスそのものの一部であり、その人の内面の大きな部分を構成する要素でもある。
そのことが、英語教育の議論ではほとんど無視されているように見えてならない。

バイリンガルとはなんなのか

ネットを見ていると、「子どもをバイリンガルに育てたい」と希望している人が多いことに驚く。海外で苦労しながらバイリンガル環境で子育てをしている人から、日本にいながらにして子どもに英語を身につけてもらいたいと熱望して英会話スクールやインターに通わせている人まで、本当にたくさんいるらしい。

でも彼らが子どもたちに望んでいる「バイリンガル」像ってなんだろう?というのが、よくわからない。

「バイリンガル」といっても、ものすごーく色々である。
私はハワイでもシアトルでも、実にありとあらゆるバイリンガルの人に出会った。

2カ国語で会議ができる人、読み書きはどちらか一方でしかできない人、聞くだけならわかる人、長年ハワイにいすぎて母語の日本語の方が怪しくなってきている人。

ハワイは特に観光業が主要産業で、日英両方が流暢に喋れる人はホテルのフロントからツアードライバーまでもう本当にたくさんいた。

有象無象のバイリンガルの中で最高峰の言語能力を持つのは通訳者の皆さんであるのは異論がないと思う。私は同時通訳ができるレベルでは全然ないが、通訳の勉強も少しだけしたことがあり、同時・逐次通訳者さんたちの超人的な技能を間近で何度も拝見した。

会議通訳の業界では、通訳者が仕事で使える言語(working language)をA言語、B言語、C言語と分けている。
参考:ワーキングランゲージ

A言語は「母語」。生まれ育った国(または地域、民族)の言語。

B言語は「完全に流暢に喋れる」が、母語ではない言語。
通訳者はこの言語への通訳もするが、多くの場合は逐次通訳のみ、同時通訳のみなど形式を絞ることが多い。

C言語は、聞けば「完璧にわかる」が流暢には話せない言語。通訳者は自分のC言語からB言語やA言語への通訳はするが、C言語への通訳はしない。

A、B、C言語を持つ通訳者はどの組み合わせでもレベルの高い「バイリンガル」だが、通訳者の間でもA言語、つまり母語を2つ持つバイリンガルというのは非常にまれだという。

中にはA言語を持たず、B言語のみ2つ持つという人もいると聞く。たとえば両親の仕事の都合などで、外国を転々として育った人の場合など、完璧な読み書きや会話の能力を2つ以上の言語で持っていても、そのどちらにも母語といえる背景を持たないこともあるとか。

ではA言語とB言語の決定的な違いはなにか、というと、私が通訳の授業を受けたハワイ大学のスー先生は
「子ども時代の歌や童話などに通じているかどうか」
「ジョークがわかるかどうか」
を例として挙げていた。

つまり、言語の背景にある文化の厚みが身についているかどうか、ということ。

文化はとてつもなく入り組んだ、とてつもなく膨大な情報だ。
言語の機微はその文化の一部。ある文化の中に生きる人が共有する価値観、なにがタブーなのか、なにがイケてるのか、といった皮膚感覚のような非言語情報まで把握していないと、冗談はわからないことが多い。

バイリンガル環境で子どもに2つの言語を完全に習得させようとするのは、2つの文化をまるごと理解させようとすることだ。それがどれほど莫大な情報量なのかがあまりわかっていない親御さんも、特に日本でバイリンガル子育てをしようと試みている方の中にはもしかしたらけっこういるのではないかと思う。

バイリンガル教育の投資効果

私は言語というのはコンピュータのオペレーションシステムのようなものだと思っている。

コンピュータのハードウェアにもスペックや個性があるが、OSをのせて初めてその他のアプリが動かせる。

日本語と英語のように構造の違う言語を同時に動かすということは、MacOSとWindowsを同時に走らせるようなもので、かなり脳のリソースを食うもの。しかもそのOSがふたつとも構築の途中であれば、構造全体がグラグラすることだってある。

子どもをバイリンガルに育てたいと思う親御さんは、それだけのことを子どもの脳に要求しているのだときちんと認識しておくべきだと思う。

これはうちの息子の教育方針について元夫と意見が割れてケンカになった時からずっと考えていることで、当時は理路整然と説明できず単なるケンカに終わってしまった。

元夫はアメリカ人で完全なモノリンガルだったが、子どもはバイリンガルにしたい、どうしてもっと日本語を教えないのか、といい、私は別にそんなしゃかりきに2言語で育てなくてもいい、頭の基礎が固まるまでは英語を重視したいという意見だったので、子どもが幼稚園に入る前に大変なケンカになったのだった。

思うにモノリンガルの人ほど、子どもをバイリンガルにしたいという過剰な期待を持ちがちなのではないかという気がする。

あんまり誰も言わないようだけど、一時的にせよ恒久的にせよバイリンガルになるかどうか、どれだけ早く第二言語を獲得して使いこなせるかは、教え方や環境よりも、むしろその子どもの生来の能力によるところが大きいのではと思う。特に小さいうちは。コンピュータの比喩でいうと、ハードウェアのほう。

音感やリズム感、運動能力と同じで、言語の獲得や記憶にも得意・不得意があるのは当然なのだ。

ごく一般的には女の子のほうが言語能力は高いようだし、同じような環境で育った兄弟にも言葉が早い子と遅い子がいる。

私は自分の息子が1歳くらいの時に、こいつは特別に言葉のカンがいい感じじゃないから、とくに2言語を強要するという無理はさせないでおこうと直感で決めた。

それも親の勝手であって、見ようによってはただ単に親の怠惰を正当化しているだけかもしれないし、貧乏で日本語補習校などには通わせられなかったという事情もある(その後結局離婚してしまったのでバイリンガル環境どころではなかった)。

でもその後も、この子は大学までアメリカで教育を受けるのだから、とにかく英語できちんと読み書きと算数ができるようになるのが優先、その次がスポーツと音楽、日本語は興味が持てそうなものを目の前に出しておくくらいにして手を抜こうと意識した。

結果、それで良かったのかどうかはわからないが、まあ全面的に間違いではなかったと思う。小学校からサッカーをやっていたのが自分の居場所になったようだし、特別優秀な子どもにはならなかったけどそこそこ普通の学力をつけて自分のしたいことを見つけられた。日本にも深い興味を持っている。日本語は小学生レベルで、もちろん仕事が出来るような日本語能力ではないが、本当に日本語を使う必要がでてくれば自力でなんとかするだろう。

お金と時間と労力は限られているから、何をやるかは何をやらないかの選択でもある。

バイリンガル教育に乗り気でなかった理由には、コストパフォーマンスの問題もある。
早期の言語教育というのは、投資効果があまり高いとはいえないと思うのだ。

高い言語能力を2カ国語で維持するのは子どもにとっても大変だし、親にとっても高いコミットメントが必要。時間もかかるし、お財布にも脳にも相当な負担がかかる。
仮にそうして完璧なバイリンガルに育ったとしても、それで生涯の収入が約束されているわけではないし、逆にそのことでキャリアパスへの意識が言語のほうに偏ってしまう可能性もあるのではないかと思う。

2つの言語ができるというのは確かに素晴らしいスキルではあるけれど、職業的な成功の上で最も大切なスキルではない。

それに、早い段階での言語能力は大人になってからのスキルや能力と直結しているわけではないと思う。

(ちなみに第二言語の獲得に臨界期があるというのは不思議な都市伝説だと思う。通訳者も含め、第二言語をアカデミックなレベルで使いこなしている人には中学や高校以降にその言語を学んだ人が多い。直接の知り合いで日本語の複雑な資料を読みこなせる英語のネイティブが5人いるが、その全員が高校以降に日本語を学んだ人だった。そのうち1人は中国語もほぼ完璧で、現在は米国資本の銀行の上海支店長かなにかをしているらしい。日本人で米国の会計士や弁護士の職についている知人も中学以降に英語を始めた人ばかり。逆に、小さい時からバイリンガルの人には意外と向学心がなかったりする場合もある。)

子どもは覚えるのも抜群に速いけれど、忘れるのも速い。就学前に異国で学んだ第二言語を故国に帰ったらすっかり忘れてしまったという例もたくさんある。

中学生くらいまでは、子どもの脳はフル回転で情報を整理して世界を構築している時期だと思うのだ。不要な情報はさっさと忘れてしまう。
だから、その時期に子どもの獲得した言語能力について一喜一憂するのはあんまり意味がないことだと思う。

子どもにとってもっと大切なことは、他にある。

身体にそなわった感覚をフルに使って経験値を高めること、思考力を鍛えること、安定した自信を築くこと、他の人への共感を深めること、コミュニケーション力をつけること、知りたいと思う意欲を伸ばすことなどだ。もしも、第二言語を身につける努力のためにそういった能力を伸ばす機会が大きく損なわれるなら、それはとんでもないコストになる。というのが、私がうちの息子に第二言語である日本語をプッシュしなかった言い訳だ。

とはいえ、バイリンガル教育がいけないとかムダとかいうつもりはまったくない。
優れた教育の場で複数の言語に触れながら育つのは素晴らしいことだと思うし、2言語をバランス良く獲得することが心や身体の真の基礎力をさらに伸ばすことにつながる幸せなケースもたくさんあるはずだ。

ただ、本格的なバイリンガル教育には教育者や保護者の慎重なサポートと相当のコミットメントが必要なのは間違いないし、子どもに合う合わないもあると思う。同じように教育しても同じレベルのバイリンガルが出来上がるわけでは決してないのだと思う。

英語ができると何がトクか

早期の英語教育はムダだといいたいわけでもない。

英語(だけでなく他言語)に触れる機会は早くからあった方がいいと思う。

他言語で考える練習や異質な文化体系に触れる体験は多いに越したことはないし早いに越したことはない。その体験は、音楽や体育と同じように、経験値を上げて脳の基礎力を上げることに役立つと思う。

でも、子どもに英語を学ばせる目的を、大人のほうがもう一度整理した方がいいんじゃないかと思うのだ。

目的は「英語ができるとカッコいい」ではないはずだし、漠然とバイリンガルにしたいというのなら子どもにとっては迷惑な話だ。

小学校に英語が導入されても、「芸」の進み具合を測るテストが増えるだけでは本末転倒だと思う。

「将来、世界に向かってきちんと意見が表明でき、情報が読みこなせるレベルの英語力をつける」というのが目的なら、まず、英語を話す世界に入っていくことのメリットを子どもたちに説得できなければだめだと思う。

「芸」としての英語ではなくて、生きている文化として、リアルな社会のツールとして、考えるツールとしての英語とその先にある情報の世界が、自分にぜひとも必要で入手可能なものとしてリアルに感じられないとモチベーションにはならないし、本当の知的刺激にもなり得ないと思う。

小学校で英語を導入するとしたら、その英語を使って手に入れられる多様で魅力的な世界をリアルに体験させてあげること以上に、大切なことはないんじゃないかと思うのだ。

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2017/07/27

ルーフトップのパーティー

 
メトロポリタン美術館のつづきです。1か月以上前の話ですみません。

1時間ばかり川久保さんの服を見ていたら、冷房で身体が冷え切ってしまったので、屋上のガーデンへ。


セントラルパーク越しにビル群がみえる。
スナックバーがあって、ワインも売っていた。
美味しそうなレモネードがあったので、それは何?ときいたら、それもアルコール飲料だった。お酒飲める人はいいなー。
仕方がないのでハムとチーズのサンドイッチ(14ドル。高っ)を買って、水筒の水を飲みながらもそもそと食べる。


なんだかシアトルのような空模様が落ち着く。


ルーフガーデンにはAdrián Villar Rojasさんという若いアーティストの作品が展示されてました。美術館のコミッションで、この展示のために作ったものだそうです。

1980年生まれ。37歳かー。アルゼンチンの人。

ニューヨーク・タイムズの記事があった。 この記事に出ているゾウやキリンのが素敵。イスタンブール・ビエンナーレのだという。

このガーデンでフィーチャーされる作家さんとしては最年少だそうです。
すっごく線の細そうな青年。


食べ散らかしたテーブルのインスタレーション。


作品には、メトロポリタン美術館の収蔵品がフィーチャーされてるんだそうだ。
このトリとか刀とかも多分。ファンタジーですね。

この人の有名作品は、パタゴニアの山の中のクジラのインスタレーションなんだそうだ。2012年の作品。

 My Modern MET からお借りしました。

 こちらも上のサイトから。これはツボだわー。好きー。


これを見たときは何も前知識なかったけど、きっと若い人なんだろうなと思った。
幻想的で詩的でアニメっぽくて、ストリートな感じ。すんごい雑な表現だけど。



随分と軽そうなカバである。


これが一番気に入ったイケメンさん。謎のサル的な存在を両肩にのせたノマド。

ホームレスなのかなにかと戦う人なのか。
このサル的存在と変なライオンみたいな刀だか笏だかがメトロポリタン美術館の展示品なんでしょうね。メソポタミアかメソアメリカの出土品かなにかか。

神話的雰囲気とストリートなコスチューム。やっぱりアニメやSF映画を思わせる。


なぜか脈絡なく、バンクシーを連想した。パワー的にそういう方面な気がする。

この人の作風、バンクシーのグラフィティアートが持っているポエムな感じに似た印象がある。ストリート的な人物がそう思わせるのか。
しかしながら、もっと柔らかい、線が細い感じ。
女性的といっていいのか、草食的というべきか。


えーとこれは、閻魔大王? このエヅプト的ななにものかに跨っている少年は、飛行帽のようなものをかぶっている。『鉄コン筋クリート』のクロを思い出した。
アジア系少年だし。あなたはジブリと松本大洋が好きではありませんか?と聞いてみたい。


イタチさんにも萌えた。全然知らないアーティストだったけど、好きだこの人。
きっと良い奴だ。


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2017/07/25

川久保玲さんの服


メトロポリタン美術館では、2つの大きな企画展をやってました。
アーヴィング・ペン写真展と、


コム・デ・ギャルソンの川久保玲さんの「Art of In-Between」。
どちらも直球どまんなかのツボだった。


建物のあまりの大きさに呆然としながら、ペルセウス(だっけ?)の綺麗なお尻をちらりと横目に見ながら(しかし写真は撮る)、川久保さん展会場へ。
広すぎてなかなかたどり着けなかった。


川久保玲さんの服は、もちろん、持ってません!Tシャツですらも!

1980年代から現在までの川久保さんの服を「in-between」というコンセプトで振り返る大回顧展。

不在/存在、デザイン/非デザイン、ファッション/アンチファッション、モデル/複製、ハイ/ロウ、昔/今、自身/他者、オブジェクト/サブジェクト。

といった対立する概念のペアが各セクションに振られていて、川久保さんの服は、その相対する概念の間で生まれてきた服たちとして紹介されている。



コブを持った服。「Body Meets Dress - Dress Meets Body」、1997年。

川久保さんの服はなんだかすごいなあと遠くから思っていたけど、 こんなにすごいのだとは知らなかった。



もうすべてに圧倒されました。この展覧会だけでもう本当にノックアウトされて、見終わったら、しばらく呆然、ぐったり。


川久保さんは正当なデザインの教育は受けていないというのも知らなかった。

40年間前衛であり続けられるってどういうことなんだ。


「The Infinity of Tailoring」、autumn/winter 2013–14。

男性/女性、自分/他者、東洋/西洋、子ども/大人、といったカテゴリーを問う服。

ただその問いをもてあそんだり、もったいぶるのではなく、それを綺麗な形につくりあげてしまう天才。


 こどもと大人。カワイイの究極。

「この服はだれが着るのかしらね。不思議の国のアリスに出てくる服みたいね」
と、アメリカおばさんが不思議そうにいっていた。うん私もそう思う。


「Ceremony of Separation」、2015-16。

喪服のような、死と別れを感じさせる作品。

この人はお坊さんのような真面目さで服を作り続けているんだ、と思う。
その真摯さに泣けてくる。

これだけ突飛なデザインが、まったく衒いを感じさせないし、わざとらしくない。



 「Broken Bride」、2005-06

 “The right half of my brainlikes tradition and history,the left wants to break the rules.”

 「わたしの右脳は伝統と歴史が好きで、左脳は決まりを壊したがっているのです」(2005)


「Not Making Clothing」、2014。
このコレクションはビデオで見た。演劇的なショウだった。



子ども/大人、過剰/欠落。

この展覧会の、ふたつの相対する概念の中に表されているものをいったん取り壊して再構築する、というテーマが、いつも川久保さんの制作の中にあるのかどうかは知らないけど、そのように説明されると本当にしっくり納得ができるのだった。



「Invisible Clothes」、Spring/summer 2017。

そしてその形が本当に息をのむほどカッコ良いのです。


「MONSTER」、Autumn/winter 2014–15。

「怪物」というのは「人間性の狂気」を表現しているそう。

「私たちが皆持っている恐怖、常識を超える感覚、日常性の不在。なにかとてつもなく大きなものによって、なにか美しくも醜くもあるものによって表されるもの」



上の段は、パリに衝撃をもたらしたという1982年秋冬のコレクション「Holes」の穴あきセーター。
「無」「間」「わびさび」の表現だという。この穴は「破れではなく、布地に新しい次元をもたらす『オープニング』。カットアウトはある種のレースになる」というのが川久保さんの説明。


 Blood and Roses、Spring/summer 2015。

 「コレクションのテーマは、社会状況に対する憤りから来ることが多い」
というものの、
「自分のデザインを、世界のなにかの問題へのメッセージにするつもりは全くない」とも。



血と薔薇。
バラの花はヨーロッパのバラ戦争にさかのぼり、「血と戦争、政争、宗教上の紛争、勢力争いに結びついている」。


Blue Witch、Spring/summer 2016。

中世から迫害されてきた「魔女」というのはフェミニスト的なテーマではあるけれど「私はフェミニストではない」「私は白昼夢も追わないし、幻想的なイマジネーションも持っていない。私はむしろリアリストなんです」と川久保さんの言葉。



18th-Century Punk、Autumn/winter 2016–17。
秩序とカオス。


川久保さんは常にストリートファッション、パンク魂が好きで、同時に歴史と伝統にも敬意を持っているという。

川久保さんの服には、形式に一切よりかからないで、自己満足をしない、緊張感があると思う。

きっと、その緊張がちょっとでも緩んだら一切がだめになって単なる混沌になってしまう。カミソリの刃の上のような危うい場所で成立している「醜の美学」。その引力がものすごい。

楽茶碗のような服だと思う。
この緊張感は、利休さんの時代のお茶道具の緊張感のよう。

異次元のような空間にひっぱりこんで、有無をいわせず「これは美しい」と思わせるパワー。


“My clothes and the spaces they inhabit are inseparable—they are one and the same. They convey the same vision, the same message, and the same sense of values.”

「わたしの服と、その服がある空間とは切り離せない存在。互いに一つなんです。どちらも同じビジョンとメッセージを伝え、同じ価値感の上に立っている」(2017年)



Body Meets Dress-Dress Meets Body のコブ衣装を使った舞踏の舞台もあって、ビデオで上映されていた。


1997年に上演されたもの。


「The Future of Silhouette」、 Autumn/winter 2017-18。


こちらも最新の「The Future of Silhouette」。
袖すらない。

 VOGUEの記事にコレクションの写真とビデオがありました。モデルが着て歩くとピーナッツの殻みたい。

いったいこの次に何を作るんだろうか。

この展覧会の写真がたくさん網羅されてる記事がありましたます。ニューヨークに行かない方はこちらで。

会期は9月4日までです。


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