2016/11/08

ドクター・ストレンジ


むずかしいこと考えなくてもすむ映画がみたくて、封切り直後の『Dr. Strange(ドクター・ストレンジ)』をみてきました。

むずかしいこと考えなくても済んで、おもしろかった。折り紙のようにたたまれていく街とかのビジュアルがゴージャスです。

話がこんなに無茶苦茶なのに、俳優陣のおそるべき説得力!そしてくすっと笑えるおちゃめなダイアローグ。

ベネディクト・カンバーバッチ、キウェテル・イジョフォー、ティルダ・スウィントン、それにあの『マルコポーロ』でクビライ・ハーンをやってたひと(ベネディクト・ワン)まで、おもなキャストが全員英国出身というのも面白い。悪役陣もヨーロピアンだしね。
欧州の俳優さんって、なぜかアメリカンにはない奥行きがあるのが不思議。なんでしょうね。

わたしは全然原作を知らないけど、少年時代にコミックを読んで育ったという友人は、 ベネディクト・カンバーバッチはドクター・ストレンジにぴったりだというていた。

『アイアンマン』以降、マーベルの映画のキャラクターはほんとに絶妙な説得力があってすんごく面白い。Netflixのシリーズ『ジェシカ・ジョーンズ』も、スーパーヒーローものとは思えないダークさに思わず引き込まれるし。

ベネディクト・カンバーバッチは今回は完全にアメリカンな発音で話していたのに、このひとの役はやっぱりむずかしいことを早口でしゃべるので、あんまり聞き取れないとこがけっこうあった。字幕がほしいー。


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2016/11/07

エイト・イヤーズ


桜の根もとの見事な苔に落ち葉。

シアトルは雨が多いので、京都の苔寺もびっくりの美しい苔があっという間にあちこちに生えてくる。
ある日急に人がいなくなったら、シアトルは10年後には苔の山になることでしょう。

大統領選挙前日。先が読めない選挙に不安を感じているひとは多いと思う。
シアトル・タイムズの今日の一面もそんな記事だった。

前回までは、アメリカの大統領選挙って最大のエンターテイメントだと思ってみていたけれど、今年は本当にすべてシャットアウトしたいくらい、選挙のニュースをみるのも聞くのも嫌でたまらなかった。トランプが勝っても負けても、この国に残したキズはとほうもなく大きい。

オバマが勝ったときに、ああこれで数年後にはきっと揺り返しがくるな、と、嬉しい中にも憂鬱な気分になったのだけど、その「ゆりかえし」がこんな顔(トランプ)をしていたとは。トランプ的なものをこれだけ多くのひとが必要としていることが、心から憂鬱だ。

数日前にも書いたけど、オバマさんが圧倒的勝利をおさめてすぐあとの2008年に、シアトルにはじめて遊びに来たのだった、と、この間思い出した。
あのお祭り騒ぎ。懐かしい。

サンクスギビングの週末で、初めてみるシアトルは雨が降っていて薄ら寒かったけど、久しぶりにみる紅葉した木々に(ハワイ暮らしが長かったので)興奮したのだった。


8年たって、飛行機でどこかからシアトルに帰ってきてピュージェット湾の緑の島々と静かな水をみると、あー帰ってきた、とほっとするようになった。

8年前にカイルアから一緒にシアトルに来たCT夫妻は、なんとミスターCTが日本で仕事を得て、今年の12月に東京に引っ越していくことになった。
みんなに「トランプが勝った時のために準備してたんだね」と言われるそうだけど、シャレにならん。
シアトルの8年間で、ミスターCTは某巨大ソフトウェア企業で順調にキャリアをつみ、ミセスCTも苦労のすえインテリアデザインの学位を得てシアトルでプロとして経験を積んだ。

わたしも8年前はフリーランスの看板をあげてみたばかりでどうなることかと思っていたけど、 信頼してくれるエージェントさんやお客さんを少しずつ得て、頼りになる同業の翻訳者さんとも知り合うことができて、なんとかかんとか、翻訳者でございますと厚かましくもいえるようになったし、行きたかった学校にも行けている。息子も高校を無事卒業して、大学4年生になった。ほんとうにありがたい。


8年前にはまだ不況のしっぽにすっぽりはまっていて空き地がおおかったシアトルは、ここ数年で建設クレーンの数がむちゃくちゃ多くなり、ビルの数が増え、古い家は少しずつ減り、ひとが増え、渋滞がひどくなり、家賃と家の値段が急上昇した。

シアトルでの8年の間に素敵に面白いひとびとにたくさん出あったし、面白いものをたくさん見せてもらった。それにずいぶん、ものに動じなくなったし楽天的になった。

なんて書いてくるとなんだか最終回みたいだけど、ゆずみそ手帖はまだ続きます(笑)。

 

今から8年後になにがどうなっているかなんて本当にわからないものだけど、目の前にあるものをしっかり味わって、その日の仕事をきっちりこなして、憂鬱はとりあえず横において、機嫌よく日々が暮らせたらしあわせですね。

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2016/11/06

メランコリア ゆるゆる近づく滅びの日



Netflixでさいきん観た映画『メランコリア』(2011)。

とても美しい、奇妙な映画だった。

映画の最初の8分間(この動画↑↑)に、終末がすべて描かれているのでネタバレもなにも。(このイントロ部分が最も美しくて、見とれる)。

宇宙をふらふらとさまよう巨大惑星が突然地球の近くにやってくる。

前半は主人公のひとりジャスティーン(キルスティン・ダンスト)の結婚式。美しく聡明で強靭な精神をもった彼女は、自分の役割を演じることができなくて、崩壊していく。
空に破滅の星が近づいているのを、彼女は知っている。

後半はその姉クレア(シャルロット・ゲンズブール)の物語。あの惑星メランコリアは一旦地球に近づいてまた去っていくんだ、と確信していた夫(キーファー・サザーランド)は、その計算が裏切られたことを知ると絶望に耐えられずにあっさり自死してしまう。
幼い息子と残されたクレアは、なすすべもなくだんだんと近づいてくるメランコリアを眺める。逃げる場所はない。


悲愴で美しい音楽はワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』序曲。ゆっくりと接近する巨大な青い滅びの惑星が、東の空から姿をあらわす。なんと美しい世界の終わり。

10代から20代の時に観たら、きっともう死ぬほど好きな映画になったかもしれないと思う。
鬱の病をかかえる人には、この主人公ジャスティーンの、いまその場にいられない、自分が機能しない、自分をとりまく世界とつながれない焦燥と絶望は、共感できるものだと思う。

だけど(もうそこは通り過ぎてきた)と思うおばちゃんとしては、ちょっとこの壮大な悲劇はロマンチックすぎて居心地が悪い。ジャスティーンに、そうじゃないし、それでもいいし、と言ってあげたくなる。まあ大きなお世話なんだろうけれど。

でも今。大統領選挙が目前の数日間。
なんだか毎日、朝起きるとどんどん大きくなっている、接近する巨大な陰鬱惑星メランコリアを見ているみたいですよ。
 


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カークランドの迷惑そうなウサギ


久しぶりの青空がうれしかった木曜日。
湖の反対がわ、カークランドに来ています。


カークランドダウンタウンのカフェZOKAの前にあるイチョウの木。
シアトル付近には日本風のモミジはたくさんあるけど、銀杏は珍しい。

その下にあるウサギ像。

ラブラブなウサギたちかと思っていたのだけど、こうやってみると 左のウサギはかなり迷惑そうだ。

そういえば、はじめてシアトルに来たのも、11月でした。

8年前のサンクスギビングの週末で、ちょうど大統領選挙の直後。
オバマ政権が誕生したばかりのときで、オバマさん出生地のホノルルよりも数倍盛り上がっていたらしいシアトルのオバマ熱にびっくりしたのだった。

あのときもカークランドに来たけど、まだこの角にZOKAはなかった。
湖ごしにシアトルの町を眺めてから、フローズンヨーグルトの店に行った(今はもうなくなった)。

あのとき、このウサギはあったのかな。覚えていない。
うちの息子はまだ中学生だった!あの時は、まさか8年後に親子そろってワシントン大学の4年生になっているとは思わなかった。

8年たつと街角も人も、国も、世界も、変わりますね。


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2016/11/05

Slate Coffee


米国のほかの都市に行ってみると、シアトルのロースター&カフェ文化がどれだけ尋常でないのかがわかる。

サードウェーブ」コーヒーなんていう言葉ができるずっと前から、シアトルには豆を吟味して買いつけて小規模に焙煎してるロースター&カフェがたくさんあった。ていうか、日本にも昭和の時代から、ものすごく真面目にコーヒー豆と向き合っているロースターは、恐ろしくたくさんあるよね。

これだけ真面目にコーヒーに取り組んでいる店がこんなにたくさんある町は、間違いなくシアトル以外にないと思う。

わりと近所にできたSlate Coffee は、最近うちの息子のお気に入り。

コーヒー豆は置いておくとすぐに風味が変わってしまうので、125グラムとかのこういう小さいパックで売ってくれると大変うれしい。

(追記:さいきん、この小さいパックは残念ながらなくなってしまいました)


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2016/11/01

窓の外にズートピア


ハッピーハロウィンでした!うっかりしていたらもう11月。
シアトルは冬突入。
朝が暗いよ!8時になってもまだ薄暗いし、たいてい雨が降っている。

上は、グリーンウッド付近でみかけたお宅のかぼちゃ。

空が暗いと眠くなる。

家にいると寝落ち必至なので、バラードのコーヒーショップで仕事をしようとでかけていったら、きのうの午後は窓の外に魔女や騎士やサンタやケモノたちや鳥やゾンビがだんだん増えてきて、まるでそこは『ズートピア』。もう仕事に集中できない。

バラードの表通りのお店の多くは、トリック・オア・トリートの子どもたちのためにキャンディを用意していたようす。

小さな子どもを連れたお父さんとお母さんがぞろぞろやってくる。たいていはお父さんとお母さんのほうが気合いが入っている。

いちばんおもしろかったのは、2歳と4歳くらいの「ミツバチ」を両脇に連れて「蜂の巣」になっていたお母さん。



おうちの人はきっと毎日お掃除大変なことだろうけど、街角がゴージャスです。


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2016/10/25

自虐の国のゴジラ


「デジタル・クリエイターズ」のための原稿です。いつもは「ぽんず単語帳」のほうに載せるのだけど、今回はエイゴじゃなくてエイガねたなので、こちらに。




ゴジラに、わたしは期待をしていた。



10月の第2週に、全米の数都市の数館で、3日間だけ、しかも1日1回限りという超限定で『シン・ゴジラ』が公開された。

日本で異常なまでに話題になっているのを聞いていたので、わたしはかなり期待して観に行ったのだった。



たまたまその時、カリフォルニアに用事があって行っていたので、はからずもグーグル本社からほど近いシリコンバレーの映画館で「ニューゴジラ」のアメリカ上陸をみとどけることになった。



この映画館は全席完全指定で、ボタンを押すと足乗せ台がぐいーんと出てきて椅子というより寝台みたいになるキングサイズのシートが売り。


一つの椅子が巨大なので席数はそれほどないけれど、前のほうまでほぼ満席だった。



IT業界のギーク(オタク)君たちが密集する地区だけに、米国のほかの地域よりもゴジラについての認知度は格段に高いとおもわれ、ゴジラが登場するたびに館内のあちこちから歓声が上がるという、かなり熱い上映会だった。



ゴジラの足のかたちのスリッパを履いて観にきている人さえいた。



そんな熱い米国ゴジラファンにまじって観たシン・ゴジラ。



いや面白かったんだけど、ううーん、惜しい! 



もうちょっと頑張って、アメリカ人にぎゃふんといわせてほしかった。



以下感想。(ネタバレあります)




1) この映画は、自虐的。良い意味で。

2)政治家と官僚のおじさんやおばさんはとてもリアルだった。

3)ところが架空生物「カヨコ」の破壊力が尋常ではない。

4) アメリカがファンタジーランドとして描かれている。

5)いろいろな意味で閉じている。





(これはパルコのコマーシャルですが)。

1.    まず、この映画を観たアメリカ人の多くは、日本人とはなんと自虐的な人々であることか、と思うのではないか。



でもそれは、ゴジラ本体のつぎにこの映画が誇るべき美点だと思う。



先住民に対する略奪や他国への侵略というような自国の負の歴史を世界史の中で包括的に眺めることを「自虐」と捉える困った人たちが日本にも一定数いる。わたしには理解できないけれど、そういう人は、きっと「誇り」と「盲信」を履き違えているのだろうと思う。

実際、自覚的になにかを信じるのはとても難しいことであるし、もしかしたら日本人にとってなにかを信じるということ自体がチャレンジなのだろうかとも思う。

日本というのは、鎖国>開国>帝国>敗戦>高度成長その他。…という歴史の中で「信じる」ということに凝りてしまった特殊な国といえるのかもしれない。

誇りにできる共通システムがないので、日本の「愛国」という概念はとてもとても抽象的な、感情論になる。



アメリカ人、とひとくちにいってもいろいろいるけれど、アメリカ人の多くはおおむね、自国のシステムとパワーを全面的に信じ、誇りを持っている。(もちろんそこには強烈な矛盾があるし、ほつれが顕在化して今現在の社会問題になってはいるけれど)ベトナムを経験しても、イラクの戦争が泥沼になっても、国内に貧困がはびこっていても、自国の約束するシステムと自国の未来をめげることなくやみくもといっていいほどに信じようとするのがアメリカのコンテクストだ。

二大政党のどちらも、強く正しいアメリカをうたわなければ決して選挙には勝てない。

そしてそれは、決して空疎な形容詞ではなくて、リアルな感情である。

右の人も左の人も、解釈は違うけど国の基幹である思想とシステムの正当性については揺るぎない確信を持っている。ブッシュの愛国とオバマの愛国ではかなり違うけれど、どちらもほんとうに真面目に、国が体現するシステムを愛しているのだ。あるいはそのように人に信じさせるのが上手い。



それに対してこの映画に描かれる日本の人々は、「日本という国のありかた」と、「日本ができること」に対して絶望している。

正体不明のモンスターが東京を破壊していても、政府はなかなか動けない。組織が硬直しているので会議ばっかりやってて初動が遅いし本質的な問題をとらえて決断できる人がいない。能力のある若手は苛立つが、なかなか力を発揮できない。そして自衛隊はわりとあっさり壊滅してしまう。政治家や官僚たちは諸外国特にアメリカの圧力の前に、首都を核攻撃の標的にされてもなすすべもない。



官民共同体の力を集めた決戦であやうくゴジラに打ち勝っても(はみ出し者の技術者たちのグループと、産業界の力の結集でってところが最高に泣かせる)、東京駅の真ん前に黒い巨大なカタマリとしてゴジラは残り、カタルシスのすくない勝利なのである。これが素晴らしい。



たぶん、この無力感や自信のなさをアメリカの観客はとても居心地わるく感じると思う。

アメリカンにとっては、自国の無力さを思い切って描くこの姿勢は「自虐的」としか捉えられないのではないかと思う。でもそれがよいのだ。


そう言われたら、アメリカンたちに教えてあげればいいのだ。バカだなあ、それは内省というんだよ、と。

やみくもに「俺についてくれば強いアメリカがカミングバック」なんてメッセージを信じたがる某大統領候補の支持者たちよりは、壊れた都市を前に自国とおのれの無力さをみつめるこの映画の主人公たちのほうが、百億倍くらい建設的だからだ。




2)登場人物の多いわりに静的な画面がほんとうに日本らしくて、面白かった。

この政治家たちのダメさと、硬直したシステムを面白おかしく描く静かな演出はアメリカの観客にもちゃんと伝わっていて、会議や会見の場面でもしっかり笑いが起きていた。

みんな同じように表情の乏しい政治家や官僚はリアルで、「巨大不明生物特設災害対策本部」の地味で実直なはみ出し者たちにもかなりのリアリティを感じることができた。



3)…それなのにカヨコ。


それまで前のめりになって観ていたのに、「カヨコ・アン・パタースン」役の石原さとみがでてきた途端にわたしはどひゃっ!とのけぞった。なぜカヨコ!

断っておきますが、
石原さとみの演技や英語力がだめというのではないですよ!

とってもチャーミングなキャラクターだったし、カリフォルニアなまりの英語も自然でベリーグッドだった。



これが、「西海岸に留学したあと外資系企業で働いてる気の強い人」または「押しの強い帰国子女」という役柄であれば、なにも文句はない。



しかしながら、どう間違っても「アメリカ生まれアメリカ育ちの日系3世で米国大統領を目指す超エリート」の英語ではないし、カヨコの言うこともやることもアメリカ人ではないのである。

(それに、ワシントンDCの高官として日本に派遣されるレベルのエリートはたぶんZARAで買い物はしないよ!!)



石原さとみの問題ではなくて、設定そのものが無理筋すぎるのだ。もしネタでなく真面目なら、ここはホンモノの英語圏の女優を使わなければ無理である。


これはたとえば、まるっきり東北弁の人が関西生まれ関西育ちのたこ焼き屋の女将さんを演じるようなもの。「違和感」というレベルではなく、意味がわからない。



アメリカのB級映画には今でも、ちゃんとした日本語が喋れない怪しい日本人がでて来る。

それはそれで味わい深いけれど、真面目に受け取るわけにはいかない。カヨコはそれの逆バージョンであり、しかもなんとしたことか、この映画のメインキャラの一人で、アメリカを代表する顔なのだ。

フェイクなアメリカ人・カヨコの破壊力はすさまじい。
例えば
防衛大臣役の余貴美子など、とても説得力があり存在感を放っていたのに、カヨコは登場しただけで、そのリアリティを軽々と粉砕してしまうのである。

怪獣映画とはいえ、この映画は真面目なSF映画と同じ位のシリアスな体験を提供できるポテンシャルがあるはずだし、日本の観客に対しては、きっとそれが成功しているからこれだけの大ヒットになっているはずなのに、英語圏の観客にとってこの映画を少しでも真面目に受け止めるチャンスを、カヨコの存在が徹底的に粉みじんに破壊してしまった。ゴジラ以上の破壊力である。

カヨコが出て来てなにか喋るたびに、どっひゃ〜〜〜!となって心拍数が上がるので、後半はあんまり映画に集中できなくて、もういいからはやくゴジラ出てきて!ゴジラ!と願うのみだった。



4)カヨコが「わたしの国」と呼ぶアメリカは、そして、「実力があれば誰でものしあがれる」国として、なんだかぼやけた輪郭で描かれている。



そもそも「実力」とは何かが一コマも描かれていないので、カヨコにどんな実力があるのかも謎である。

アメリカの政治家にとって、実力と言うものの中に、「アメリカンスタンダード」を体現しているかどうかということがあるのは間違いない。

それは中身というよりはむしろ外見であり、「正当性」を感じさせる力、「わたしはアメリカの価値観を体現している」と人に信じさせるコミュニケーション力、「つながる力」である。
それにはとほうもないアーティキュレーションが要求される。ヒラリー・クリントンだって、遊説先によって少し英語のトーンを変えているくらい、微妙なコミュニケーション力なのだ。
たぶんそれは日本の政治家がまったくもって持っていないし、ひょっとしたら見たことも聞いたこともないものだ。だからダメとかいってるのではなくて、そういうシステムなのだ。

どんなに頭が良くても、インド訛りのインド系アメリカ人や日本訛りの日本人または日系アメリカ人が米国大統領に選ばれる可能性は、現時点ではゼロである。

この映画ではアメリカが重要な役割を果たしている。戦後ずっと日本の首相のうしろに控えていた顔のない存在として。それはいいんだけど、きっとアメリカの観客にはそれがまるっきり伝わらない。それが惜しい。

戦後の日本で自分たちの国が演じていた役割をちらっとでも理解する代わりに、この「カヨコ」を観て、アメリカンたちは困惑して帰っていくことだろう。
ゴジラはクールだったしあの女の子は可愛かったけど、笑っちゃうよね、と。


5)そういう意味でも、この映画はとても閉じている。
製作時に国外の観客までは考えなかったのだろうけれど、あまりにも残念なのだ。

上映後、場内では拍手が起きていた。ゴジラのコアなファンたちには満足のいく映画であったらしい。

でももっと辛い、もっとつながれる、もっと動かされる、もっと普遍的な映画にもなれたはずなのに、と思うと、わたしは少し悲しかった。

唯一の被爆国でそして311の大災害を経験したばかりの国の人が作ったこのゴジラは、もっともっと、世界中の人たちにつながれる映画であってほしかった。

世界一の核保有国であり、歴史上唯一、市民の上に核爆弾を落としたことがあり、その事実を「仕方がなかった」「正義だった」とほとんどの国民が考えているこの国のひとたちを、すさまじいリアリティで説得し、感動させて、震え上がらせ、瓦礫の街の目線にいっとき共感させる映画であってほしかった。

自分の国の首都が核ミサイルの標的にされる無念さを、ゴジラへの畏怖とともに体感して、震えてほしかった。



わたしはちょっとばかり、ゴジラに期待しすぎていたらしい。

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