2016/06/01

海街diary @SIFF 飯テロに注意!


先日、開催中のSIFF(シアトル国際映画祭)で『海街diary』を観てきました。英語タイトルは『Our Little Sister』。この英語タイトルは、なんとなく「Little Women (若草物語)」みたいですね。あれも四人姉妹の話だ。意識したのかな。

是枝裕和監督、原作は吉田秋生さん。

見に行った劇場は場Lower Queen Anne の Cinema Uptown

開演45分前に着いたら、もう長い列ができてました。満員札止めでした。もっと大きな劇場でやればよかったのに。



もうすぐアメリカ各地の映画館で公開されるようですよ。
おすすめです!観てね!
ただし、観に行かれる方に重要な情報をお知らせします。 

飯テロ注意

くれぐれも、空腹を抱えて見に行かないように。

わたしとCTちゃんは午後6時開始の回にご飯を食べずに行くという大失態をおかしてしまい、大変に辛い思いをしました。

釜揚げしらす丼。カリカリの鯵フライ。ホームメイド梅酒。ちくわ入りカレー。などが次々に襲ってきます。特に、鯵フライがとても辛かった(涙)。

映画館を出てすぐに、CTちゃんと目を見合わせ、即決で同じブロックにあった日本料理屋さん「OBASAN」(この名前は本当にどうかと思う)へ駆け込み、梅酒と枝豆と揚げだし豆腐と塩サバ定食をオーダーしました。塩サバには大根おろしがついていてほしかったけど、そしてご飯は仏壇に備えるみたいな盛り付けだったけど、この際もう文句は申しません。ほっと一息でした。


『海街Diary』は超大好きなマンガです。まだ4巻までしか読んでないけど、もう7巻まで出てるのか!
いつも鼻水流して泣きながら読むので、映画でも相当泣くのではと思ったけど、それほどでもなかった。泣いたのは3回くらいでした。充分か。

是枝監督にしてはとっても直球な映画だったと思います。ハードボイルドなCTちゃんは少し不満そうでした。

とかいいながら、是枝監督の映画はこれまで、『誰も知らない』と『歩いても歩いても』しか観てないのですが。

この3つの映画に出てくるお母さんたち3人には共通点があります。

それは、何かとてつもなく大切なことから逃げていて、それがあたかもなかったかのように振る舞っている。ということ。

この3作品の中で私が一番好きなのは、『歩いても歩いても』。

海で溺れかけていた子どもを助けようとして自分が溺れるという悲惨な海の事故で自慢の息子を失ったあと、その助けられた子どもだった青年を毎年息子の命日に呼びつける母が、樹木希林。
部屋に入ってきたちょうちょを息子だと言いはって追いかける母親の顔がすごかった。

死んだ兄に比べて出来の悪い弟、浮気をしていた父、固く閉じたまま表むきだけ社交上手な母、打算的な妹。誰もが心を開くことも信頼しあうことも寄りかかることもなく、永遠にすれ違う家族の映画でした。

『海街Diary』の姉妹たちは、それとは対照的にまっすぐ互いにも自分にも向き合い、真剣に心を開いて互いを思いやっています。

イメージもキャラクターも、ほとんど原作そのままだったことがむしろ驚きでした。
マンガを実写でとなるとあれこれイメージと違ってがっくりすることが多いのに、この映画は原作の重要なエッセンスをそのまま、きれいな映像にしてくれてます。

アジフライと釜揚げしらすつきで(涙)。

四人姉妹が住んでいる鎌倉の古い家!庭に梅の木があり、風呂場にカマドウマが出る、瓦屋根の家。これも原作のイメージそのまんまでした。



広瀬すずちゃん、末っ子の「すず」のキャラクターにはこれ以上ない適役だと思う。ただし、この映画の設定の14歳の「すず」役にはちょーっと大人っぽすぎて、中学の教室のシーンなどではカイツブリの中の白鳥みたいに目立ってしまうのが少しだけ居心地悪かった。(風太くんとのツーショットは、シャム猫とハリネズミみたいだった)
実際に広瀬すずちゃんがいくつだったのか知りませんが。

あまりにも綺麗な顔で眼ヂカラが強力すぎるため、一瞬でも画面に出てくると視線が吸い寄せられてしまう。半分くらいは広瀬すず映画になってたような。

これまではぽよよーんとした感じのお嬢さんキャラだと思ってた綾瀬はるかが、しっかりものの長女「シャチ姉」をキリッと演じてて、これもびっくり。

次女も三女も良かったけど、なにより「大船のおばさん」役でセリフも出番もちょっとだけの樹木希林の存在感がすごかった!
小津安二郎映画の常連で、いつも遠慮のない口をきく江戸っ子のおばさん役の杉村春子を思い出しました。

あと、お母さん役の大竹しのぶ!えっこれ本当に大竹しのぶ?と途中で不安になってしまうくらい、このお母さんになりきってた。誰これ見たことないこの人、みたいな。

以下ネタバレます。


『海街diary』は、喪失をめぐる物語。そして明るい家族の話。

鎌倉の古い家に住んでいる20代の三姉妹。
小さなときに父が愛人を作って家族を捨て、数年後には今度は母が再婚するために子どもたちを自分の母(子どもたちの祖母)に託していなくなってしまう。さらに最近、祖母も亡くなった後は、3人だけでケンカしながらも仲良く暮らしている。

崩壊した家庭の、父も母も去った家で、それでもサザエさんのように明るく楽しく元気に家族を続けている姉妹です。

この姉妹が長らく音信不通だった父の葬式のために、岩手の山奥の温泉旅館に行くところから話が始まります。

駅に迎えに来た女子中学生すずは、3人の腹違いの妹。実母が病気で亡くなった後、父(三姉妹と同じ父)がまた再婚して、この温泉宿にやってきたばかり。父が病気で亡くなった後、血の繋がらない継母と残されてしまった、心細い身の上。

父の三番目の妻が葬式で泣き崩れているのを見て、この姉妹は「あの人、うちのお母さんに似てる」と評します。泣いているだけで周りに頼りきりの姿勢が。

自分は動揺しすぎていて喪主としての挨拶ができないと言って、中学生のすずに喪主の役を振ろうとするその妻に、長女はビシっと

「それはいけません。これは大人の役割です」

と言います。すずは驚いたようにその顔を見ます。これまでそんなことを言う大人が周りにいなかったということ。

看護師をしている長女は、「きっとあの奥さんは自分が辛いからといって病室にもロクに行かなかったに違いない」と見抜き、すずに「あなたがお父さんと一緒にずっといてくれたのね、ありがとう」とねぎらいます。

このシーンを最初にマンガで読んで、私は泣きながら、あー悔しい、と思いました。

大人ってこういう人なんだ。私は年ばかり取ってもこれほどきっぱり子どもを守れるような筋の通った大人になれてないよ全然、と。

年を取ったら誰でも自動的に大人になれるものではないですね。
大人というのは「引き受ける人、向き合う人」なのだと思います。

失ったものに正面から向き合い、恐れずにその形を記憶しておく人。
誰かのために何かの役割を引き受けることを(自分のために喜んで)選ぶ人。
そしてそのようなへこんだり大切なものを失くしたりした経験を持つからこそ、深い共感を持って人の気持ちを思いやることができる人。

この話に出てくるお母さんもお父さんも、たぶん自分の失ったものと向き合うことから逃げていて、そのためにどこか大人になりきれていない人。
いますね、そういう人。ていうか身に覚えがありすぎて痛い。

中学生のすずは出来過ぎなほど大人びた子どもで、だけど子どもだからやはり伸びきったゴムのように限界が来ている。3人の姉を持って、家族として暮らし始めて、それがほぐれてゆく。

『海街diary』は話の冒頭からすでに父と母を失くしている上に、まだまだ喪失だらけのおはなしです。

長女は既婚者と辛い恋をしていて、次女もわけありの彼氏と別れたばかり。
子どものときから馴染みの(アジフライがうまい)食堂のおばさんはガンで亡くなっていく。映画にもたくさんの別れが描かれてます。

原作では、すずが入団するサッカーチームのエースの男の子が病気で足を切断しなければならなくなる話と、すずの初失恋の話が前半の重要なストーリー。

まったく理不尽に奪われていくもの、かなわない思い、うまくいかないこと、その他いろいろななくなってしまうものに主人公たちが向き合い、落ち込んで、また次の日に美味しいものやおかしなことを見つけて、大事な人たちと分け合って、とりあえず前を見て元気に過ごしていくという話です。

こんな風にまっすぐに、余計なことに足をとられずに、周りの優しさをきちんと感じながら生活していきたいものだよ。

それから、この映画を見るとたぶんもれなく鎌倉に行きたくなること間違いなしです。

来週から日本に一時帰国です! 逗子に行く予定はできたのだけど、鎌倉には行けるかしら。行きたい、いやぜひ行かねばー。そして5巻以降も買ってこなくちゃ。


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たてもの物語(2)アラスカビル


忘れてました。Soy Source 5月10日号に「たてもの物語」第2回を掲載していただいてます。

今回は「アラスカビルディング」です。


シアトルの2nd アヴェニューは、20世紀初頭のビルの宝庫。

シアトルの最初の中心街だったパイオニア・スクエアの煉瓦の建物群から少し離れて、本格的に都市になりはじめたシアトル最初の高層ビルが次々に建った、20世紀初頭の目抜き通りです。

その最初の高層ビルがこのアラスカビル。

ちょうどいま、サウスレイクユニオン地域でAmazonのキャンパスやらピカピカのコンドミニアムやらが続々建設中で景色が激変しているように、きっとその頃のシアトルのセカンド・アヴェニューは、メイキング・オブ・メトロポリス!という活気であふれていたのでしょう。


左の白いのがアラスカビル。(今はコートヤード・マリオット)

セカンド・アヴェニューはその後、ビルがぎっしり建てこんでしまったので、ここに並んでいるビルはなかなか全体像を写真に撮ることができません。

ホテルのサイトに全体写真があった。このくらいのヴァンテージポイントからでないと無理ですね。

しかしシアトルって、ほんっとに今ホテル高いのね!このクラスのビジネスホテルで300ドル台って!びっくりだ。
2008年に遊びに来たときはたしか100ドル台でシェラトンに泊まれたけどなあ。

ますますショミンには住みにくい街になっていくのね…。

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2016/05/30

接近中


昨日、リビングの床に座って書きものをしていて、ふっと何かの気配を感じたような気がして窓の外をみると、ブラインドのスキマの東南の空に、なんだか赤い星のようなものが。

うちのリビングから見える空はほんの小さな切れはしで、たぶん5度分もないのだけど、その狭い空にちょうどぴったり。ブラインドのすきまからも目につく、飛行機かと思うほど明るい赤い惑星。

アプリ(SKY GUIDE)で確認してみました。やっぱり火星でした。でかっ!

火星は約11年ぶりに接近中だそうです。今日はシアトルの空、少し霞がかかっていて昨日ほどくっきりと見えませんが、今週はお天気がわりと良さそうなので、また見るチャンスがありそう。

昇る時刻は午後8時頃だから、良く見えるのは午後10時以降ですね。

今回のは「中接近」で、7,528万キロメートルって、全然近くないけど一番遠いときは1億キロ以上離れているので見た目のあかるさは15倍!も違うんだそうだ。

さらに軌道が近くなる「大接近」は2018年7月末だそうです。


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2016/05/29

カッパーリバー・サーモン!


お料理上手のYさんちの、カッパーリバー・サーモンの会にお招きいただきました。

日本で鮭の季節というと秋を思い浮かべるけど、アラスカのCopper River河口で穫れる鮭のシーズンは5月半ばから。このカッパーリバー生まれの鮭は脂がのっててとにかくうまいと評判で、シアトルのお魚好きさんは毎年5月後半の最初のカッパーリバー鮭の登場をいまかいまかと待っている、大変有名な鮭たちです。
 


お庭でグリルしたサーモンはもちろん極上でございました。

このほかにも、冷しゃぶ!、かしわ飯!、ドライエイジド・ビーフのグリル!、先週太平洋岸に行って掘ってきたばかりというレーザークラムのお刺身と揚げたてフライ!日本風ポテトサラダ!キノアサラダ!韓国風海苔巻き!梅巻き!などなど、Yさんの厨房から繰り出されるごちそうとゲストの皆さんが持ち寄ったもう数えきれないほどのおいしいものがテーブルにてんこもり。なんというレベルの高さであることよ。こんなに食べたのは久しぶりというくらいたらふくごちそうになったです。


食べるのに忙しくてひとつひとつ写真撮る時間がありませんでした。


さらにデザートは、こずも食堂主人Kさんのティラミス〜!アンド、


Yさんちの長男である優秀な高校生シェフ、Mくん作(まきまきしていたのはお母様でしたが、ときどきMくんの指導が飛んでいた)のロールケーキ!妹さんのRちゃんのお誕生日祝いのケーキです。ええお兄ちゃんだのぅ。

お兄ちゃんシェフ、このロールケーキの生地は絞り器でクッキングシートの対角線に斜めに絞りだして平らになるようにするのだと実演つきで教えてくれました。
でもYさんに以前教えてもらったシフォンケーキ(これもプロ級)を焼いたらどういうわけかしゅーんと半分の大きさに圧縮されてしまい、写真を見たCTちゃんに爆笑されたわたしの腕前ではきっと無理。うちには絞り器などないよ、そもそも。

もちろん鮭やビーフのグリル担当はMシェフ。将来楽しみです。お店ができたら雇ってね。

ごちそうさまでした!


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2016/05/26

アマゾン村の花魁道中@サウスレイクユニオン


先週土曜日(5月21日)、サウスレイクユニオンで開催された「Art On The Fly」にいってきました。

薫さん、Joanさんたちの舞踏パレード、今回は「花魁道中」です。
伴奏はラリー・ローソンさんの尺八。禿はあすみさん&あふひさん。旗持ち男(?)は翔さん。


衣装はきものアートの真理子さんご担当です。

場所はDenny通りのWest Elmの前、デニー公園のすぐとなり、サタデーマーケットのさなかの開催でした。
朝からあいにくの雨。でも花魁がマーケットに現れると、だんだん空も晴れてきた。



フィニーウッドのアートウォークと比べるとかなり狭かったけれど、ピカピカのハイテクなビル群を背負ってで花魁が登場というのはシュールな取り合わせで素敵でした。


禿たちが 大事に捧げ持っているお重の中には何が入っているのか。玉手箱?


あやとりを始める禿ちゃんたち。


この地域はAmazon村。アマゾンの新しい本社ビルがにょきにょきと生えつつあり、この数年で激変した地域です。アマゾンだけじゃなくて、FacebookとかGoogleもこのへんにシアトルオフィスを移転しているようです。
テッキーな会社で働くテッキーさんたちのためのコンドミニアムもにょきにょきと出現中で、とにかく人口急増中。そんな街角に、別次元の人物たち。


道中の数カ所にぽんと置いた赤いマルの上で短いソロパフォーマンスをおこなう趣向でした。
この狭いマーケットの真ん中に小さなステージがあり、そこでアフリカンダンスをずっとやっていて、太鼓で踊っている人たちのビートががんがんと響いている中で、花魁は静かに踊る。


恒例、子どもたちと異世界の遭遇。

アフリカの舞台を通り過ぎるときには尺八の調べがアフリカンビートにあわせた即興になっていき、花魁もビートにあわせたインスタントコラボに。


雨がこの辺ではもうすっかり止みました。
硬いグレーのアスファルトに派手な着物が映える。


Joanさんのソロ(女性です、念のため)。


いつも何かを失くしてしまったことに驚き続けているようなキャラクター。


屋台から強力においしそうな香りが漂ってくるのをちら見しつつ…。


トウモロコシ少女が登場。


さらに謎の楽団カップルが登場!ガムラン人間か!にぎやかすぎる!

なんだかもうカオス!


ガムラン人間と花魁と尺八のスレ違い。



旗持ち男、旗重そう!


見物の人に「これはどういう意味なのか?なにかの宗教的意味があるのか」と聞かれ、いや宗教じゃなくて花魁というのは昔の高級娼館の看板で…オイランドウチュウというパレードがあって…と説明するのが大変(無理だった)。この次はあらかじめ物語を書いて配りましょう。

花魁と、ビルと、クレーンと、タコスのトラックと、横たわる男。(花魁の右後ろ注目!ここで演技してます!)
青空よりもこのくらいのグレーの空がとても似合っていました。

タコストラックの前で、暴れる女たち。

そして魂をどこかに売り渡したかのように、戻ってくるものたち。

楽しい道中でした。カメラ取り出したの久しぶりー。撮影ほんとに楽しかったけど、ピントが甘くってごめんなさい〜〜(泣)!!

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2016/05/24

二日酔いスープとコスプレ洋食店


タコマの南、レイクウッドにあるドイツ&ポーランド風レストラン、BRUNO


ここのスープがめっちゃおいしいです。

看板メニューは「Hangover Soup」。ハングオーバー(二日酔い)の日に効力を発揮するらしいですが、別に大酒飲みでなくてもおなかにしみるおいしさ。

この間メキシコシティの帰りにうっかり培養してしまったらしい何かの団体にお腹を占居され、凶悪な菌たちにやっと退場していただいたあとで、病み上がりに行ってきました。しみじみうまかった。

元気に生きていることの良さの一つはご飯がおいしく食べられること、と英文直訳調で幸せをかみしめる。

スモーキーなソーセージ、にんじん、ポテト、トマト、その他野菜がいろいろ、そしてピクルスのざく切りも入っていて、まろやかな酸味がぐいぐい来る。


こちらはスペシャルメニュー「ピクルススープ」。二日酔いスープよりもピクルスが増量されていて、ソーセージなどの具材は少ない。よりシンプルで酸味も強くて、わたしはこっちのほうが好き。過去3回行ったときにはいつも「今日の特別スープ」と黒板に書かれてましたが、作らない日もあるのかも。



ケーブルテレビの食べもの専門チャンネルFood Networkの看板番組『Diners, Drive-ins, and Dives』で取り上げられたことがあり、そのフィーチャー部分がお店のウェブサイト冒頭に載ってます。

メタボ気味のキャラGuy Fieriさん(レストラン経営者だそうです)が愛車で米国各地の都市を回り、気取らないご近所の人気店を紹介するという仕立てのB級グルメ番組で、毎回アブラのしたたるような揚げ物類とかバーベキューとかが超うまそうに紹介され、アメリカ人のハートをがっちり鷲掴みにしているハードコアフードポルノです。



(↑これはこの店のじゃなくてコネチカットかどこかの特大ホットドッグ店のクリップ。)

BRUNOも、番組効果なのか、繁盛してます。近くに空軍&陸軍の基地があるのでそこの軍人さんがユニフォームのまま食べにきてたり、そしてなんかあんまりシアトル市内ではみかけない特大サイズの方が多いなあ。

「食堂」というのがぴったりなお店で、昭和の東京の洋食屋さんみたい。
なつかしい雰囲気。

わりと最近移転して前より大きな店に移ったのだけど、ここがまた70年代くらいに流行った感じの偽アルプスっぽい内装(レヴンワース風というか)で、店にぴったり。


ロールキャベツは中にお米がはいっていてトマトソースたっぷり。(これは2分の1オーダー。1人前は2個)。
おいも団子やザワークラウトがついてきます。
全体にとても素朴。

シュニッツェルとかは、味濃いめ。家庭的です。スープほど感動するものは特になし。
ボリュームたっぷりおうちごはんという感じ。



おばさまやお姉さんのコスプレが強烈です。がっつり系スイーツを見せてくれた。

この写真は移転前に撮らせていただいたものですが、新店舗でもお姉さんがみなチロルっぽいコスプレでした。

シアトルからはちょっと遠いですが、なごむ洋食屋さんです。


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2016/05/21

セーラー服おじさんに分数の割り算を教えてもらう


Dogwood(ハナミズキor ヤマボウシ)が盛りの、爽やかなシアトルです。

突然ですが、わたしは算数ができません。( ・´ー・`)どや

この何十年というもの、「分数の割り算」というものがどうしても理解できなかったのです!

いちおう自分の名誉のために主張しておくと、ホノルルでコミカレを卒業する前に[数学135](かな?たしか)というのが必修だったので、たぶん日本の高校数学の範囲だと思いますけど(多分というのは高校で出席した数すくない数学の時間は完全に昼寝に費やしていたのでまったく記憶にないからです)、逆三角関数?とかLOG?というルートの中にはいってる3階建てや4階建ての分数みたいな問題を解かされて、いちおうAをもらうことができました。でもいったいあれがなんだったのかまったく覚えてないし説明することもできないので、ちっとも名誉になってないですね。

この時は全然知らない町の限定された場所の地図をわたされ、「この通りに行くんだよ」とバスの乗り方を教わって、よそ見をしたり脇道にそれたりせずに目的地に到着するゲームをしてたみたいな感じだったような気がします。

さて、分数の割り算がわからない。

というのは、「いったいそれが何だか理解できない」ということです。いくら私でも「ひっくり返してかければよい」という小学校で教わった演算はいちおう覚えていますが、だけどそれはどういう意味?というのがイメージできないでいたのです。

分数の足し算、引き算、掛け算までは、ビジュアルで理解できる。と思う。

たとえば
1/3  X 2/5 だったら、
「3つに分けたりんごのうち1つをさらに5つに割ったものの2個分は、もとのりんごの大きさに対してどのような割合になるでしょうか」
という図で理解できます。

まあ無理やりですが、説明にはなってますよね?ね?ね?
(図の割合の正確さについては突っ込まないでくださいね)

が、分数の割り算になると、とたんにこのような図解では対応不可になるのです。

分数は、それ自体が割り算ですよね。割合に割合を掛ける、というのは要するにどんどん小さく割っていくこと、となんとかイメージできますが、割合を割合で割るって、どういうこと?

何度も図解を試みようとしたものの、納得できる説明は見つからず、その事について考えると気持ちがどんどん暗くなるので、なかったことにしていました。

これが、わたしの算数方面に対する巨大なつまづきの岩のひとつになっていたのです。

このあいだ、アリと人間のことを考えていたときに「セーラー服おじさん」こと小林氏にメールをお送りして、メルマガからの引用を快諾していただき、ついでに、往復のメールで分数の割り算が理解できないカミングアウトをしました。

セーラー服おじさんは、巷をセーラー服姿で歩いて道行くひとを和ませてくれるだけでなく、理系の職業人でもあり、とても知的で面白いコラムをメルマガで連載中です。

OTAKUワールドへようこそ」というメルマガコラム、最初はやばい人の世界の話(すみません)かと思って読み始めたのですが、とても知的でバランスの取れた視点がとてもおもしろくて、すぐ愛読者になってしまいました。

漠然とですが、最近読むものの中では、文学やエンタメを別にすると、理系の人が書いたもののほうが、視点が斬新で面白いものが多いように感じます。

それで、自分は理系的な知性に嫉妬を感じており、しかも算数は分数の割り算でつまづいたまま先に進めないのです、とメールで自己申告すると、ではそれを次のメルマガで解消してさしあげましょう、というお返事が。

なんと世間に大々的にバカをさらしてしまうことになってしまいました。

そして今回のメルマガで、セーラー服おじさんがサルでもわかるほど丁寧に解説してくださいました。

<ふつう、われわれは、「あれ」と「これ」とは別のことだと区別します。しかし、視点を変えてみたときに、それらはほんとうは一緒だったのだとみることが可能だったりします。仏教ではこれを「一如(いちにょ)」といいます。

一如を会得すると、悟りの境地にだいぶ近くなります。> 

と、セーラー服おじさんはおっしゃいます。

「一にょ!」が会得できたのかどうか不安ですが、今回の説明をよく読んで、「そうか!」と腑に落ちたことが2つありました。

それは

数のすべてをりんごや団子で説明しなければならないわけではないのだ!

ということと、

数の世界と言葉の世界は似ている。

ということでした。そして結論として、分数の割り算をわたしは乗り越えることができた!と思います。


セーラー服おじさんは

(1)掛け算とは何か
(2)割り算とは何か
(3)分数とは何か
(4)分数の割り算とは何か
(5)その計算はどうすればいいか

について、実に細かいステップで説明してくださいました。

ここで気づいたこと。
自分は、「割り算とは何か」についての理解がそもそも曖昧だった

セーラー服おじさんの説明によりますと

<3に2を掛けて6になったのだとすると、6を3に戻すための逆の操作があるとうれしい。それが、「2で割る」という操作です。>

つまり、掛け算の結果を「もとに戻す」ための操作である!という。
これはけっこう目から鱗でした。

割り算とは「◯の中に△がいくつ含まれているか」という「全体に対する割合」という、物質界に即したイメージを持っていて、それはそれで間違いではないけど、「演算の操作である」という役割を改めて振ってみると、なんかすっきり。

ブツや量にとらわれない純粋な「数」の姿が、一瞬、見えた気がします。

ああこれは数という「文脈」なのだ。

りんごや団子の文脈で必ずしも理解する必要はないのだ。というのをまずひとつ納得。

そして分数の割り算についての説明は、ちょっと長いけどセーラー服おじさんの説明を引用します。

(ここから引用)
<さて、まず、ある数に5分の3を掛けるとは、どういうことでしょうか。

中身の計算としては、ある数を5で割って、しかる後に、3を掛けるということです。

次に、ある数を5分の3で割るとは、どういうことでしょうか。

「割る」は「掛ける」の反対の操作です。つまり、「ある数」に何かを掛け算して「別の数」が得られたとするならば、その「別の数」から出発して、元の「ある数」に戻すための操作が割り算する、ってことです。

さきほどみたように、「ある数」に5分の3を掛けて「別の数」を作り出す操作というのは、その中身を見てみれば、5で割って3を掛けるという操作でした。

それを元に戻す操作とは、3で割って、しかる後に5を掛ければいいということになりましょう。ところで、3で割って5を掛けるという計算は、言い換えれば、3分の5を掛けるのと一緒でしょう。>

(引用ここまで)

うんわかった。

つまり「掛ける」と「割る」の表裏一体の関係を絶対に揺るぎないものとして信頼するということですね。

……いや、本当に分かったのだろうか。

「分数の掛け算はもとの数を分母で割ってさらに分子をかけたもの」
「割り算は掛け算をもとに戻す演算」。
これはすっきり頭に入る。

でもこれをやっぱり図にしたい。目で確認したい。それは不可能なのか。

と、ちょっと調べてみたら、でてきた。知恵袋で「なぜ分数の割り算はひっくり返すのか」という回答を図解している方があった!

これをアレンジしてみます。

あおむしが、りんご1/3個を食べるのに3/7時間かかりました。
同じ速度で食べ続けると、1時間で何個食べられるでしょう。

1/3 ÷ 3/7 の関係は、下のようなタテ・ヨコの関係にすると、図解できました!
じゃーん。


分数割り算は単体の団子やリンゴだけではダメで、2つの単位の出会うところと考えると簡単なのですね。
速度や距離などを投入すると、考えやすくなりました。
この斜線の部分は、「りんごの1/3であり、かつ、あおむしの1時間の3/7である」という量?数?だと考えていいのかな。

ここで
「りんご1/3コに対して3/7時間のとき、1時間に対するりんごの量を知りたい」
という問題は、
さきほどの
「分数の掛け算は分母で割ってさらに分子をかけたもの」
「割り算は掛け算をもとに戻す演算」。
を思い出すと、「1/3を3で割って7を掛けたもの」つまり1/3 X 7/3 、という式にぴったりすっきり美しく落ち着きます。素晴らしい。

長年の嫌な結び目がようやくほどけました。

セーラー服おじさん、ありがとうございました!

ところで、分数割り算理解へのステップを説明する前に、セーラー服おじさんはこのようにもおっしゃっています。

<多くの人はまったく気づいていないようですが、数学にはちょっと病的な側面もあったりするんです。感覚的にはとうてい受け入れがたいけど、証明されちゃったもんはしょうがないよなぁ、みたいな。

なので、ビジュアルで把握して自分のものにしようとしていると、いつかどこかでやっぱりつまづきます。そういうピュアさは、どっかの時点で結局は喪失します。だからといって、そっちの世界にお連れするのは、ちょっとどうかとは思いますが。>


うーむなるほど。
ビジュアルで理解する、というのはつまり、この目で見ている物質界のものごとに当てはめて算数を理解する、ということです。それはどこかの時点ではやはり追いつかなくなってくるというのですね。

これはもしかして「英語を日本語で理解しようとすること」に少し似ているのかもしれない、と思いました。

私は中学校で英語が数学以上にめったくそできませんでした。(むしろ中学の最初のほうの数学は、「正負の数」とか「ピタゴラスの定理」とか、視覚的に一目瞭然のお題が多かったので、分数の割り算ほど不可解ではなかったのです。)
とくに、仮定法と完了形が理解できずに苦しみ、その後数年間、英語はもう一生できないものとギブアップしていました。
とにかく理解が遅い子ちゃんでしたが、今思うと、もしかして英語の世界を日本語の文脈で理解しきろうとしていたのかもしれません。

その後、英語の文章を何年も読み続けるうちに、文法の背景にある発想がだんだん薄ぼんやりと身についてきました。これはきっと蓄積によって日常感覚(考え方の方法)が少し変化したということなのだと思うのです。

言葉というのは生活と考え方を表現する手段というだけではなく、生活と思想そのものです。

わたしたちは言語を通じて世界を理解しています。

数学も、そういう意味で、言語ですよね。

数学と音楽は、もっとも抽象的で、ある意味純粋な言語なのだと思います。

セーラー服おじさんはさらに、「理解のしかた」には2種類あると言ってます。

 ここから引用>>>>>>
<ひとつは、腑に落ちたという納得感と爽快感を伴い、あたかも自転車の乗り方のように、自分のものになったという理解のしかた。「ユリイカ!」と叫んで、素っ裸で街を駆け抜けたくなるアレですね。

もうひとつは、きちんと証明されちゃった以上、いやがおうにも受け入れざるをえないという、不承不承の気持ちの残る理解のしかた。


「オレの論理の筋道のどこに欠陥があるか見つけて指摘してみろ。できないのなら、受け入れろ」と喉元に突きつけられて、「はい、どこにも欠陥は見当たりません」と屈服させられる感じ。

前者だけでずっといけると大変幸せなのですが、なかなかそうもいきません。かといって、後者だけになると、ちっともおもしろくありません。行けども行けども、よその村の祭りを遠くから眺めてるだけ、みたいなことになり、輪の中に入っていけません。>
>>>>>>引用ここまで

うーむ、そうなのだろうか。後者のほうは、本来の「理解」とは違うのではないでしょうか。

「よくわからないけどそういうこととして覚えておきましょう」ということなら、ものすごくたくさんあります。この世は知らないことや理解できないことだらけです。
出会うすべてをとことん理解しようとしたら、人は生活できません。

だから「保留」の箱にいれておくものが、とても多い。

でもどんな証明や概念も、本当に理解できたときには「ユリイカ!」モーメントがあるはずだと思います。ただ、それぞれ費やせる時間は限られているので、自分のものにできる概念は少ない。

それに、「ユリイカ!」と理解できたと思ったことが、他の人の理解とは違っているって場合もありますよね…。
数学の場合は証明ができれば正解。でも言葉の世界では、正しいか正しくないかはほとんどの場合、多数決で決まる。

とりあえず分数の割り算で長年の霧が晴れてウキウキ!なのですが、この理解の仕方がどのくらい「正しい」のか、どのくらい世間からズレているのか、そこのところは私にはわかりません…。

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