2015/11/23
金門橋
この夏、サンフランシスコの街に初めて行ってきました。ほんの1日の観光でしたので、とりあえず橋を見にいくことに。
ゴールデンゲートブリッジのビューポイントをいくつかハシゴしました。
超快晴の9月の休日だけに、めちゃくちゃどこも混んでいて、橋を渡るのに小一時間かかりました。都会じゃのう。観光客が多かった!
まずはサンフランシスコ側のベイカービーチの上にある古い砲台跡から見る橋。
広々した眺め。やっぱり太平洋に直接面しているだけに、景色のスケールがピュージェット湾よりも大きい。
そして橋をわたった北側の丘の中腹にある、ビューポイントからの眺め。ザ・金門橋!
なぜ今になって急に思い出したかというと、先日『ターミネーター・ジェネシス』をDVDで見てたら、この橋が舞台のひとつになってて、まさにこの場所からシュワちゃんが出撃したからです。
老人になったターミネーターが、なかなか味わい深かった。あの殺人マシンがこんなに良いおっちゃんになるとは…。
1937年建造。大変な時代にできたんですね。
ただの橋じゃん、と思っていたけど、このスケールはやっぱり実際に見ると、圧倒される。
端正な直線と優雅な曲線。綺麗な形。綺麗な赤。
日が傾くと、この赤がますます綺麗になります。大きなカメラは持ってかなかったのでまたもや、iPhone写真。
この橋もシアトルの520号の橋と同様、有料だけど料金所がなく、事前に支払うか、後から請求が来るシステム。料金所は数年前に廃止したそうです。
高いです。2015年11月現在、7ドル25セント。
520号の橋と長さは変わらないんだけど。さすがサンフランシスコ、なんでも高い!
と思ったけどよく考えたら520号の橋もピーク時だと片道4ドルくらいすることもあるし、両方向で課金するから似たようなものですね。ただ時間帯で無料になったりする分、ワシントン湖のほうがお得 (比べてどうする)。
自分の車ならオンラインで事前に支払っておくこともできるそうです。
レンタカーの場合は1ヶ月以上たって忘れた頃に請求がやってきますよー…(´Д` )
2015/11/20
反逆の神話
ジョセフ・ヒース&アンドルー・ポター著『反逆の神話』。訳者は栗原百代さん。
この本は今年の初めに東京の友人Nちゃんに送ってもらい、すごく面白かったから速攻感想を書こうと思っていて、ふと気づくと、11月(白目)。
前の『資本主義が嫌いな人のための経済学』も本当に面白く、目からウロコを落としてくれた本でしたが、こちらはそれにも増して刺激的でした。
ただ、主張がすこし複雑なため、誤解されやすい本でもあると思う。「後記」で、主に誤解による非難に対して反論しているのもさもありなん。
本書の主張は、<進歩的左派は、60年代以降のカウンターカルチャーの影響で、消費主義批判に名を借りた大衆社会批判の袋小路にはまりこんでしまっており、ラディカルな意識の改革を標榜するあまり、本当に有効な政治的解決策を否定してしまう愚挙にでている。もうそういう役に立たない批判はやめて、面倒でもまっとうな政治の場で解決する方向を目指そうではないか。結局のところ、人間の社会はルールなしにうまくはいかないんだから>というもの。
戦後、半世紀以上にわたって西欧のインテリ層がはまりこんできたカウンターカルチャーの勘違いを、丁寧に、すっぱりと、軽快な口調で解剖しています。
カウンターカルチャー論者の勘違いは、ドゥボールの理論などに端を発した
「文化全般がイデオロギー体系にすぎないのだから、自己も他者も解放する唯一の方法は、文化にそっくりそのまま抵抗すること」
という考え方に基づいているというのが大テーマ。
「進歩的」な人びとの多くは、これまで、消費主義や画一化、環境問題をはじめとする社会のさまざまな問題は企業とか資本とかの巨大「システム」が仕組んだものであるからシステムそのものに抵抗しなければならない、という観念に縛られてきたために、既存のシステムそのものを覆そうとするくらいの過激さのない方法論は、それが役に立つものであってもシステムにおもねるものとして拒絶してきた、というのです。そしてそういう「反逆」のやり方は、これまで半世紀の間、百害あって一利なしだったと。
特に面白かったのは映画『マトリックス』と『アメリカン・ビューティー』の分析。
『マトリックス』が表しているのは、ドゥボールとかボードリヤールなどが論じた
<広告とマスメディアを通じて我々は「スペクタクル」という表象システムに引きずり込まれている。スペクタクルの悪夢から目を覚ますため、革命には「欲望の意識と意識の欲望」が必要>
という、政治思想のメタファーだというのです。
わたしたちは「システム」に催眠術にかけられたような状態になっているから、個人の意識改革をもってしか、世の中は変えられない、という考え方。
これはものすごくよくわかる。意識の改革によって世界を変えよう、という考え方に夢中になった覚えのある人はものすごく多いはず。
ビートルズも、他のたくさんのミュージシャンも同じようなことをいってましたね。
でもこの考えに凝り固まった「反逆」活動は、実際の社会を良くするためには何の役にも立たない、と筆者たちは言います。
「この見方では、敵は、目覚めることを拒む人間、文化への順応に固執する人間だ。つまり、敵は主流社会なのである。…われわれの生きる世界は、マトリックスのなかでも、スペクタクルのなかでもない。実は、この世界はもっとずっと平凡なものだ。 …すべてを統べる単一の包括的なシステムなどない。文化は妨害されえない。 …あるのは、ほとんどが試みに寄せ集められた社会制度のごたまぜだけだ。それは、正しいと認められることもあるが、たいていは明らかに不公平に社会的協力の受益と負担を分配するものだ。この種の社会では、カウンターカルチャーの反逆は無益なだけではなく、確実に逆効果だ」(14)
そして映画『アメリカン・ビューティー』は、「まったく再構築されていないカウンターカルチャーのイデオロギー」だというのです。
あの映画がなぜ好きなのか、うまく説明できなかったのだけど、これにはああなるほどー!と思わされました。
『アメリカン・ビューティー』の登場人物たちは2つのグループにはっきりと分けられる。ひとつはカウンターカルチャーの反逆者たち:「麻薬をやり、のけもので、周囲の美に深く感謝している人たち」。 もう一方は体制側の人たち:「神経質で性的に抑圧されていて、他人にどう思われるか気にしてばかりいて、ピストルをいじるのが好き」なファシスト的な人たち。 ファシスト型の登場人物たちは主人公を順応させようとさせ、失敗すると「体制に特有の暴力」が現れる。(64)
「『アメリカン・ビューティー』で明示される世界観では、この社会によく適応した大人になることは絶対に無理である。…青年期の反逆を保って自由なままでいるか、「裏切って」ルールに従い、神経質で中味のない順応主義者となり、本当の喜びを味わえなくなるか」。その中間はない、という。(67)
なるほどー。あの映画に心惹かれたのは、たぶんそういう臆面もない傷つきやすさ、自由、美への憧れといったものの描かれ方に共感したのだと思う。愚鈍で無味乾燥的で抑圧的な「体制」とか「社会一般」には理解してはもらえない価値を自分たちは知っている、そのゆえに傷つかねばならない、というのは永遠に青春のテーマであって、年代を超えてとてつもない求心力を持っていますね。この映画がどれほど支持されたかにもそれは明らか。
筆者たちは、そういったカウンターカルチャーの背景にはナチスの行ったファシズム下での大量虐殺という行為が社会に与えたトラウマと、フロイトの精神分析理論があるといいます。
フロイトの「抑圧」理論は、社会は精神を抑圧する機構だと考える下地になり、ナチスへの恐怖は、それが文明の自然な流れであるという考え方により、体制への不信を育てたと。
そして、『アメリカン・ビューティー』や『ファイト・クラブ』などの映画や『ブランドなんか、いらない』といった書籍にみられる消費主義への批判というのは、実は「大衆社会批判」にすぎないと、すっぱり。
これはほんとに言われてみればその通りだ!
そして、「反逆の消費者」が大企業のシステムに一撃を与えるためにと新しい消費形態を打ち出すたびに、それがますます「競争的消費」の火に油を注ぐことになってしまう、と指摘します。
ナオミ・クラインなどはこの「消費主義」そのものを批判し、すべて企業と資本主義のせいにしようとしているけれど、消費主義の原動力になっている「競争的消費」は、別にだれかが仕掛けなくても人間社会の中に基本的な性向としてプログラムされているものなので、容易になくなるものではない、と。そりゃそうだ。
「僕ら二人とも60年代の思想に強い影響を受けた家庭で育った子供として、自分が育った環境の包括的なイデオロギーを、たんに宇宙の構造の一部ではなく理論と見ることに気分が高揚した」と著者たちは「後記」で語っていますが、こうしたイデオロギーの解読は読者にとってもワクワクさせられるものです。
ただ、これはDQN左派を笑うためのシニカルな本だと思ったら大間違いで、著者たちは大真面目にごくごくまっとうな「進歩的左派」らしい提言をしています。
著者たちの提言は、資本主義経済をツールとして使い、グローバル経済を否定するのではなく「完成させる」ことによってのみ問題が解決できる、というもの。
「20世紀の福祉国家の歴史は、市場の論理との戦いというよりも、むしろさまざまな形の市場の失敗の克服として解釈されるべきだ。…反市場のレトリックはせいぜい無用の長物であり、悪くすると知力の減退を招きかねない。僕らは市場を廃止するのではなく完成するように努めるべきである」(380)
そして、きわめてはっきりと「大きな政府」を支持しています。
グローバル化する世界で、政府の必要性はますます強まっており、グローバル市場で最も重要なプレーヤーとなるのは国家だと。
理想を掲げる「進歩的左派」は、システムとしての国家権力への信頼を欠いているのでリバタリアン的なユートピア思想に走りがちだけど、それはうまくいかない、といいます。
「現代の社会が直面する深刻な政治課題は集合行為の問題で、分権型のローカル民主主義では解決できない。無力な政府という神話をやめなければ、悪循環を断ち切ることはできない」(379)
著者たちが提言する「集合行為の問題」への処方箋は、例えば、労働時間の強制的な短縮、グリーン税、累進所得税など本当にまっとうな左派レシピ。
「僕らはファシズムについてくよくよ心配するのをやめるべきだ。この社会に必要なのは、ルールを増やすこと、減らすことではない」(366)
そうして、「そろそろ大衆と和解することを学ぶべき頃合い」とも。
大衆と和解する、というのはつまり「多元主義の事実」を受け入れる方法を学ぶこと、という。
自分にとって最も重要な問題についてほかの人と意見が合わない、不和とともに生きるすべを学ばねばならない、ということ。「60年代のユートピアは、みな途方もなく高度に共有される価値観と責務を前提としていたことがたやすくみてとれる」(371)。うんうん、たしかにそうですね。
著者たちはアメリカの理想主義は『スター・トレック』に現れていると指摘します。みんなパジャマみたいな個性のない服を着て、一つの理想と価値観でまとまってる団体。
多元主義の世界で唯一、有効なシステムは市場経済であり、ルールにのっとった社会の運営だ、というのが本書の結論。なんて真っ当な!
消費主義批判への批判、大衆社会批判への批判の文脈で、オーガニック野菜、ホリスティック医療、インドなどのエキゾティシズムへの傾倒、テクノロジー批判、ディープエコロジーまでをすべてバシバシと切って捨てているので、所どころ、意地悪な皮肉が先走っている感じは否めません。
その口調は面白いのだけど、それが多分、誤解のもとなのでもある。
特にオーガニック製品やスローフード運動、代替医療までを一緒くたにカウンターカルチャーの世界観が産み育てたものとして、二分法的に切り捨てたことで、かなりの数の人びとを激怒させたようです。
オーガニック製品についての記述はほんのすこしで、有機農業は農業の悪習を標的にしておらず、その「イデオロギーは…農法の環境に与える影響と持続性についての偏りのない評価を踏まえたものではない」(385) とすっぱり斬っているのだけど、それ以上の詳述はない。
ちょっと通りがかりについでに殴ったというような感じがする。
オーガニック食品と代替医療は課題の範囲があまりにも広く、とっても複雑なので、ついでに殴るようなモノじゃなかったのでは。そしてちょっと簡単にひどく殴りすぎたのではないかと思います。これで本論に対して無用の反感を招いているならもったいない。
わたしはこれについてほとんど何の知識もないけれど、スローフード運動にしても有機農法にしても、まったく意味がないとか悪習だけだとも思えない。
特に、「ニワトリは小屋の隅にいるのがもともと好きなんだから、放し飼い鶏の卵なんていうのは消費者自身の食品に対する願望の投影にすぎない」(270)というのはちょっとあんまりにも雑な議論だと思う。
生まれたときからまったく歩いたこともなくカゴの中ですごし、病気にならないように薬を与えられている鶏の肉や卵よりは、その気になればうろついて足をのばすこともできる「平飼い」鶏の卵を買いたいと心から思うし、実際に、残念ながら高い卵ほど、割ったときの見た目も殻の厚さも味もはっきり違う。そしてその卵を買うことでシステム打倒とかその他の何かをしたつもりになっているわけじゃなく、おいしいものが食べたいという純粋な欲望にのみ動かされて私はそれらの卵を買っている。
たしかに、オーガニックスーパーでウォルマートの10倍くらいの値段で卵や牛乳を買って意識高いつもりで思考停止しているお金持ちは、「進歩派」にとって目の上のたんこぶなのかもしれない。
でも、明らかによりおいしく、大量生産品よりも安全と環境に配慮していることをうたう食品は、確かに「プレミアム」ではあるかもしれないけれども、「衒示的消費」ではないぞよ。
何が本当にフェアトレードで、生産から消費まで全地球的に見たときに何がもっとも環境に良いのかは、丁寧に議論していかなくてはいけないのだろうけれど、消費者の立場ですべていちいち検証するのは無理だから、なにかしらの「ブランド」か目印を信用するしかないということになる。
著者たちが市場経済についていうように、食物の生産と流通や医療に関して、システムの行き過ぎを正す形でオルタナティヴが出てくるのは健康なことじゃないんでしょうかね?
医療についても、ちょっと風邪をひいたときには何の役にも立たない抗生物質をしこたまのむよりも、生姜湯を飲んで早く寝てしまったほうがいい、みたいな、アロパシーのみの医療を見直すべきところは結構あると思う。
「ホリスティック」医療も有機食品もあまり行き過ぎると確かに困ったことになるしそれが唯一の解決策では絶対にないのはわかるけど、アロパシーの薬品と並行して薬草やアロマセラピーを試してみなさいというお医者さんや、小規模有機農業の農家の人たちがみんな体制を打倒しようとしているわけじゃない。
代替医療も有機農業も、宗教やその他と同じく信条とライフスタイルの選択であって、ここでいま戦うべき相手じゃないと思うんですけど。
という小骨はいくつかあったのだけど、でも全体として本当に面白く、エキサイティングな本でした。次にも期待!
2015/11/19
2015/11/17
うまいパン COMOちゃん
地ビール、地ウィスキー、地チョコレート、コーヒー豆ロースターだけでなくて優秀ベーカリーも多いシアトル。
地元系スーパーやレストランにパンを卸している中〜大規模ベーカリーがいくつもあって、スーパーでは地元ベーカリーのパンがしのぎを削っています。
わたしのお気に入りのひとつはこのGrand Central Bakery。
ここのベーカリーは、スーパーに卸してるほか、パイオニアスクエア、Burien(この町はブリエンなのかビュリエンなのかベリアンなのか、いまだによくわからない。まわりのネイティヴさんの発音は「ブリエン」と聞こえるのでそう呼んでますが)とアマゾンの巣・イーストレイクに直営店があります。あと、今サイトを見て初めて知ったけど、ポートランドにもいくつもお店がある。
こちらはブリエン店。
バゲットとかも普通においしいですが、なんといっても素晴らしいのはComo bread。
Comoの素朴で味わい深くて、外側のカリカリ感と内側のめっちゃコシの強い(「もちっとした」を通り越して、噛みごたえのあるレベル)テクスチャが大変好きです。
トーストするとカッリカリになって、とても軽い。サンドイッチにしても抜群。
近所のスーパーだと全長40センチくらいのスライスしたのが4ドル50セントくらい。
お高いスーパーだともちょっと高く、直営ベーカリーだともちょっと安い。
アメリカに来た頃は、スーパーで売っているパンのあまりのヘタレ具合に大きな衝撃を受け、ヤマザキとかパスコのパンが本気で懐かしく涙を流したものでしたが、コモブレッドがあれば大丈夫。
さいきんはこのコモちゃんなどの食感に慣れてしまったので、たまに日系のフジベーカリーなどでふわふわ食パンを買ってくると、そのふわふわ感に違和感を覚えるようになりました。
しかしパンとしてはお高いわりに、生地の穴あきが激しくて損した気分になることもしばしば。時に表面積の3分の1近くが穴という、ちょっとコスパ的に許しがたい状態のこともある。チーズトーストにするときは、慎重にチーズを配置しないとそれらの穴から盛大に溶けたチーズが洩れてしまって悲しい目に遭うのです。
とはいえ、もう今ではお米以上になくてはならない主食級のコモちゃんです。
2015/11/11
出来心の中身
角田光代さんの『八日目の蝉』を読みました。先日長芋を買いにウワジマヤに行ったついでに紀伊国屋書店に行ったら出来心でふらっと買ってしまい、仕事が暇な日に読み始めたら途中で止められず一気に読んでしまった。
宿題あったのに。積ん読本の山もあったのに。
去年友人が送ってくれた『紙の月』も良かった。こちらは大金を横領して若い男に貢いでしまう女性の話。
『八日目の蝉』は、赤ちゃんを盗んで逃亡生活を続ける女の話。後半の短い章は、その盗まれて育てられた娘の、成人後の話。
舞台の一つになる小豆島が素敵。瀬戸内のとろりとした海と緑の濃い丸い山、お醤油の匂いのする島。行ってみたい。
去年の夏に急ぎ足で通りぬけた瀬戸内海ののんびりした空気を思い出したので、写真は尾道です。
どちらの小説の主人公も、ふらりと、出来心で、自分で考えてもいなかった大きな犯罪に手を染めてしまう。そして間違った方向に全力で流されていきながら、後戻りができなくなってしまう。
どちらの女性もとても愛情深く、惜しみなく愛情を注ぎたいという衝動に動かされるままに、どんどん遠くへ行ってしまう。
弱くて愚かだと決めてしまうのは簡単だけれど、間違ったことをしていながら正せないその弱さには覚えがある。
出来心というのはどういう心なんだろうか。と、その出来心の内訳を丁寧に淡々と描いたお話でした。
2015/11/08
表記ゆれ
夏目漱石先生の『満韓ところどころ』という旅行記を読んでいたら、こんなくだりがあった。
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一時間の後佐治さんがやって来て、夏目さん身をかわすのかわすと云う字はどう書いたら好いでしょうと聞くから、そうですねと云ってみたが、実は余も知らなかった。
為替の替せると云う字じゃいけませんかとはなはだ文学者らしからぬ事を答えると、佐治さんは承知できない顔をして、だってあれは物を取り替える時に使うんでしょうとやり込めるから、やむをえず、じゃ仮名が好いでしょうと忠告した。
佐治さんは呆れて出て行った。後で聞くと、衝突の始末を書くので、その中に、本船は身をかわしと云う文句をいれたかったのだそうである。
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漱石先生の小説を読んでいると、けっこうな数の「表記ゆれ」があります。
このくだりでも、満州に向かう船の上で、ニアミスの事故の報告を書こうとした船会社の偉い人が、高名な作家が乗り合わせているからといってわざわざ漢字を聞きにくるのに、この答え。
完全に当て字と思われる独創的な漢字の使い方もあるし、なんだかずいぶん自由だなという印象です。
たとえば「成功」が「成効」、「練習」が「練修」、「簡単」が「単簡」、「悲惨」が「悲酸」になっていたり。
世間一般に流通している表記とはちょっと違うかもしれないが、字面で意味が取れれば別にいいじゃないか、という鷹揚さを感じます。
「言文一致体」の開発が途上だった明治の文人たちは、文章を書くたびにかなり自由に表記を自分で考案していたみたいです。
もっとさかのぼって江戸の木版画とか見ると、もうどれが当て字でどれが当て字でないのかすら不明みたいな、やたらにクリエイティブな漢字の使い方オンパレード。
この漢字はこう、送り仮名はこれ、と、きっちり決められるようになって四角四面な傾向が強くなってきたのは常用漢字表ができた大正以降なんでしょう。
文部省の「臨時国語調査会」が漢字表を作ったのが大正12年だそうです。
常用漢字表を作ろうという動きがあったという事自体、それまでの表記がてんでんばらばらだったという証拠ではないか。
あまりにも当て字が多くて、お役所その他で混乱を避けるためというのが目的だったのでしょうが、戦後は新聞はじめ、一般的な出版物でも、さらには広告や文芸の世界も、漢字や送り仮名や表記には「正解」があるという態度がだんだん徹底してきたのだと思う。
東京で小さな広告の会社につとめていた20代のころ、コラムでもコピーでも、出版物に載せるものは共同通信社の『記者ハンドブック』にしたがって書けと厳しく指導されました。新聞や雑誌ではほとんどの熟語や送り仮名に「正解」がありますね。
でも日本語はもとより表記ゆれを内包している言葉。
日本では外来語を取り入れるときに漢字とカタカナという便利なものを活用してきたがゆえに、外来語が入ってくるたびに必然的に訳語と表記のゆれが起こります。
computer は「電算機」なのかコンピューターなのか。だけではなくて、「コンピュータ」なのか「コンピューター」なのか。
customer は「顧客」なのか「お客様」なのか「客」なのか、または「カスタマー」なのか「カストマー」なのか。
翻訳の作業は時に、半分以上がこの表記ゆれの解消と訳語統一ではないかと感じることさえあります。
クライアントさんによって、User が「ユーザー」だったり「ユーザ」だったり、diamond が「ダイヤモンド」だったり「ダイアモンド」だったり、violin が「ヴァイオリン」だったり「バイオリン」だったり、好みが違います。
日本語の表記に関しても、「出来る」なのか「できる」なのか、「わかる」なのか「分かる」なのか、「時」なのか「とき」なのかなどなどなどなど。
もーどっちでもいいじゃん!と内心ちゃぶ台をひっくり返したくなることもあるけれど、確かにすべて統一されているところに1つだけ(もしくは、「ひとつだけ」または「一つだけ」)違う表記があるのは見苦しい。いつもはうっかり見のがしてしまっているくせに、ユーザーとして(もしくは、「ユーザとして」)企業のサイトなどで目立った表記ゆれに気づくと、おやおや?と思ってしまいます。
クライアントさんの指示がはっきりしていれば良いのですが、既存の訳がなくてこちらからサジェスションを出さなければならない時は少々緊張します。あとから「やっぱりこっちの方がよかった!」と思うこともしばしばで、あの時はこっちが良いと思ったけどこの場面ではこちらの方に心惹かれる…と、ふらふらと優柔不断な自分が嫌になる。
一番困るのは、エンドクライアントさんからの明確な指示がなく、途中までいろんな翻訳者さんが訳してきた訳語の表記がバラバラのものが壮大に入り混じっている案件。
実際に、大きなファイルでちぐはぐな訳語が混在しているのは何度かありました。翻訳メモリを使っていても、なかなかすべて統一するのは難しい。
逆に統一してしまうと変な文章になってしまう場合もあるし。
そして間に入っているエージェントのコーディネーターさんが日本語を読めない人の場合は、説明しても100%伝わらないのがもどかしい。
英語にも米語とイギリス英語でスペルが若干違うとかはあるけれど、これほどたくさんの微細な表記ゆれには悩まされないはず。もちろん訳語自体のゆれは別の話ですが、それでも全体に選択肢は少ない。
こうしてみると、日本語という言葉は懐が深くてなんでも吸収する柔らかさがある一方で、出来上がりの作物にはすべてにおいてミリ単位の完璧さを期待する文化があるのが面白いですね。
クライアントさんからお預かりしている文章で明治の文豪のマネをするわけにはいかないので、最善と思われるスタイルを統一させていくのが、いち翻訳者の仕事でございます。
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2015/11/05
背徳の拷問ドラマ
先日、Netflixで『Tudors』最終シーズン(放映は2010年)をやっと見終わりました。
アン・ブーリンの処刑くらいまで見て、あまりに人が次々に拷問にかけられ死んでいくのに辟易して見るのをやめ。
でもまた最後まで見届けたくなり。
「最後まで見届けたくなる」
…これって人がテレビドラマを見る理由の65%くらいを占めているのではないだろうか。
どうでもいいけど、邦題、『背徳の王冠』っていうんだ……。
前半は超イケメン俳優2名、ジョナサン・リース=マイヤーズ&「スーパーマン」ヘンリー・カヴィルから、もう後光がさしてる感じでした。
後半のだんだん老いてますます気難しくなり暴走し続けるヘンリー王をジョナサンは好演していたものの、このイケメン2人によぼよぼ老人を演じさせるのは、しょせん無理。
ということでクロムウェルが処刑台で惨殺されてから以降は、加速して終わってしまったみたいな気がします。
ケヴィン・スペイシーあたりが後半のヘンリー王をやったら、またそれはそれで全然違う密度のねっとりしたドラマになったことでしょう…。
史実に忠実ではもちろんないドラマですけど、衣装や宝石や調度はほんの一瞬しか登場しないものも含め見応えありました。ディテールまできっちりしてる感あり。
そして拷問用品や処刑用品も同様。
このドラマの拷問部屋はかなりトラウマになってます。
去年サンディエゴに行ったときに、バルボア公園の博物館でやっていた「拷問展」を見に行きました。
中世に使われていたありとあらゆる拷問器具の、ホンモノや忠実なレプリカを展示する展覧会。
これも生涯忘れられないトラウマに。
放っておけば人間は人間に対してどんなことでもする、しかも喜んでする。ということを嫌というほど見せつけてくれる展覧会でした。
少なくとも拷問が合法な時代でなくなって、本当に良かったです。
あれっ、非合法なんだよね?この国では?
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