前にも何度か行った、カークランドの北のワニタ・ベイ・パーク。
いつも素っ頓狂な声で啼くハゴロモカラスが見られます。
この時には(何週間か前)スイレンはまだ茶色でした。
水草の池に雲が映っていたりすると、反射的にモネの絵を思い出してしまう人は多いのではないでしょうか。わたしもです。
モネやルノアールが代表する印象派の絵ってそれこそ生活の隅々にまでいきわたるほど見慣れたものになってるから、以前は正統派の美術といえば印象派、みたいな感覚でなんとなく捉えてたんですけど、この人びとは19世紀には超アバンギャルドだったんですよね。
今学期は美術史を受講してて、『What Are You Looking At?』という本を読んでるところなんですが、これが面白い。
Will Gompertzさんという英国のテート・ギャラリーのディレクターを務めていた人の書いた本で、19世紀から150年にわたるモダンアートの歴史を振り返るという内容。でも全然アカデミックな本じゃなくて、ちょっとやりすぎでは、というくらいくだけた口調で語られています。
この本で最初に登場するのが印象派の面々。モネ、マネ、ピサロ、ドガといった面々が、第一回の展覧会のあとでカフェに集って酷評に激怒するという場面が小説仕立てで描かれてて、モネが机をドンドン叩きながら怒ってる(笑)。
印象派とは、最初のモダンアーティストだった、というのは、あっそうか、と思わされました。あっそうか!
Gompertzさんは、たとえば、こんなふうに説明してます。
They ripped up the rulebook, metaphorically pulled their trousers down, and waved their collective derrieres at the establishment before setting about instigating the global revolution we now call modern art.
<彼ら(印象派の画家たち)は、ルールブックを破り捨て、言ってみれば皆でパンツを下ろして権威あるアカデミーの人びとの前でおケツを振って見せた。そうして、現在私たちが「モダンアート」と呼ぶようになった世界的な革命に取りかかったのである。>
19世紀なかば、社会構成の激変、革命の市街戦を経てパリの街がすっかり作りなおされる環境の激変、そして技術革新とブルジョワ階級の台頭で消費生活も激変、という激変だらけの時代に、出るべくして出てきたのが、新しい美術、新しいものの見方。
それまで聖書の物語やギリシャ・ローマの神話や偉人の姿を美しく重厚に描くのが絵画だったところへ、日常にありふれた題材を取り上げて、「見えるままに」キャンバスに表現した印象派のモネとかルノアールの鮮やかな色彩の画は、そりゃあ当時の教養ある上流階級の人びとには、子どもが塗りたくった幼稚な絵のように見えたことでしょう。
そして、印象派を始めとする当時の欧米の若い画家たちが、広重、北斎、歌麿といった浮世絵からどれほど衝撃的な影響を受けたか、というのも面白いなあ、と思うのです。
アシンメトリーな構図。日常的な題材。俯瞰の構図。前景に何かが立ちふさがってる構図。
画面に入りきってなくてちょん切れてる人物やモノ。版画の鮮やかな色使い。装飾的な画面づくり。
…というような浮世絵の要素は、印象派の人たちだけでなくて、その前後の人たちの絵にも繰り返し出てくるんですね。
ジャポンのエキゾチックな要素を借りた、なんていう程度のものではなくて、「新しいものの見方」を浮世絵が提供した。
北斎とか広重の版画って、本当に今見てもモダンというほかないデザインだ、といつも思わされます。
幕末を目前に控えた江戸末期に、ここまで超絶的に洗練された美術があって、それが産業革命後、社会の激変を迎えていたヨーロッパのアーティストたちの世界観にはかりしれない影響を与えた。
それでいて、当の日本はちょうどその頃、幕末の大騒動のあと鎖国を解いて大忙しの文明開花で西洋の文明を輸入しようとシャカリキになっていた、というのは皮肉というか、本当に面白いですね。
Gompertzさんの本に戻りますが、次の章は「ポスト印象派」。
画商のロジャー・フライさんがロンドンで、印象派の次の世代のゴーギャン、ゴッホ、セザンヌ、スーラなどの画家の展覧会をしたときにまとめて「ポスト印象派」という名称をつけたのだというエピソードを読んで、はじめて納得。
ポスト印象派って、日本では昔は「後期印象派」という呼称が一般的でした。
だから中学生か高校生のころ、印象派にはテレビドラマのように前半と後半があったのかと思ってました。
漠然と、どこまでが前期って誰が決めたんだろう? なんて思ってたんですが。
「POST」を「後期」って訳しちゃ駄目ですよね。「印象派よりも後の画家たち」なのに、「印象派の後半の人びと」になっちゃう。
そういえば、この間夏目漱石先生の『草枕』を読み返してたら、こんな箇所がありました。
画家である主人公が春の野山に逍遥し、春そのものののんびりと豊かな風情にすっかり同化して、<目に見えぬ幾尋の底を、大陸から大陸まで動いている洸洋たる蒼海の有り様>のような心持ちになり、こう思う。
<この境界を画にしてみたらどうだろうと考えた。然し普通の画にはならないに極っている。我等が俗に画と称するものは、只眼前の人事風光を有りのままなる姿として、若しくはこれをわが審美眼に濾過して、絵絹の上に移したものに過ぎぬ。花が花と見え、水が水と映り、人物が人物として活動すれば、画の能事は終わったものと考えられている。もしこの上に一頭地を抜けば、わが感じたる事象を、わが感じたるままの趣きを添えて、画布の上に淋漓として生動させる。>
…
<普通の画は感じはなくても物さえあれば出来る。第二の画は物と感じと両立すれば出来る。第三に至っては存するものは只心持ちだけであるから、画にするには是非共この心持ちに恰好なる対象を択ばなければならん。然るにこの対象は容易に出てこない。出てきても容易にまとまらない。まとまっても自然界に存するものとはまるで趣きを異にする場合がある。従って普通の人から見れば画とは受け取れない。描いた当人も自然界の局部が再現したものとは認めておらん……>
…
<古来からこの難事業に全然のいさおしを収め得たる画工があるかないか知らぬ。ある点までこの流派に指を染め得たるものを挙ぐれば、文与可の竹である。雲谷門下の山水である。下って大雅堂の景色である。蕪村の人物である。>
主人公の画家が、形あるものではなくて心のさまを画にするにはどうしたら良いだろうか、と、悩んでいるところなのです。
いままでそんなことをしたのは、中国の文与可の竹の葉の画や日本の蕪村の人物あたりくらいじゃないか、といい、結論としては「そんな抽象的なことを画にしようというのは間違いだ」と思い返して、(画家のくせに)俳句を作りはじめちゃうのですが。
この「普通の画」「第二の画」というのは、漱石先生が別のところで言ってる、「自然主義」と「浪漫主義」のたとえじゃないかと思いますが、それは別として。
文与可の竹 |
蕪村(人物じゃないけど) |
ロジャー・フライさんが「ポスト印象派展」をロンドンで開催したのは1910年。
漱石先生がロンドンに留学していた1900年~1902年には、ゴーギャンやゴッホやセザンヌはまだイギリスでは知られてなかったし、たぶん印象派の画もまだ一般にロンドン市民の目には触れてなかったのじゃないかと思います(未確認ですが)。
「心持ちだけの画」「抽象を表現した画」 は、いってみれば、20世紀にはいってまもなく現れる抽象絵画や表現主義で実現します。
でも世紀の変わり目には、表現主義の一歩手前といえるゴッホもゴーギャンも超先端すぎて、ついていける人はほとんどいなかった。1910年の「ポスト印象派展」も酷評だらけで、「英国文化に対する侮辱」と怒る人が多かったといいます。
漱石先生がもし留学当時にゴッホの画を見てたら、どういう感想を持っただろうか。そのただならない率直なエネルギーに打たれて直ちに画家の心を理解したのではないか、そして、『草枕』も少し変わっていたのではないだろうか、と妄想してみる。
『草枕』には、ミレイの「オフィーリア」がモチーフとして出てきます。ミレイも仲間だった「ラファエル前派」が活躍したのは漱石先生の留学よりも半世紀前ではありますが、世紀の変わり目のロンドンでも、まだ影響力は尾を引いていたはずです。
(追記:「前ラファエル派」じゃなくて「ラファエル前派」でした。うひゃひゃー、訂正!)
どうも漱石先生はターナーとともにラファエル前派がお気に入りだった、というか、恐らくロンドンで実物を見て強い印象を持ったのではないかという気がします。
オフィーリアちゃん (1852) |
この「ラファエル前派」は文学的で理屈っぽい人が多かったようですが、漱石先生の小説に出てくる女性は、このラファエル前派が好んで描いたという「転落する悲劇のヒロイン」の面影を負ってるように思えます。
多分、漱石先生とラファエル前派について研究している人はたくさんいるのでしょうけど。
ラファエル前派グループはどうも偽善者っぽくて、いけ好かない。
『草枕』は久々に読み返してみて、すごく面白かったです。『草枕』のヒロイン那美さんは悲劇の人ではあるものの、これ以降の『虞美人草』の藤尾や『三四郎』の美彌子なんかよりもずっと生き生きしてて魅力的です。
これを読むと、美しい羊羹と玉露が味わいたくなります(涙)。ヨウカン食べたい。