夏学期で取った、「Anthropology of Body」という講座では、最後のレポートに映画『Ex Machina(エクス・マキナ)』を取り上げました。前回ブログに書いたときには映画館でさらっと一度見ただけでしたが、今回レポートを書くんでDVDで見なおしました。
この映画、意外なことに、今のところ日本公開はまだ決まってないそうです。(2015年9月現在)
*追記:2016年6月11日に日本公開が決まったようです。
設定については「ありえない」とけなしてしまいましたが、映像はリリカルで画面がとっても美しく、インテリアもかっこいいし、ディテールまでデザインが素敵。
アンドロイドのエヴァちゃん超カワイイし、良い映画ですよ。
メイキングを見たら、監督のアレックス・ガーランド(
*追記:訂正します。アレックス・ガーランドさん、これが初監督作品で、これまでは脚本と製作をてがけていた人でした。
『28週間後』は製作総指揮、『私を離さないで』は脚本・製作総指揮でした。
大変失礼しました。ダニー・ボイルの『28日後』の脚本もこの人なんですね。ゾンビ映画の中では最高に前向きな。ご指摘くださった方、ありがとうございます!
この映画、いったいどこで撮影したのかと思ったら、ノルウェーなんだそうです。
途中に出てくる滝と氷河が印象的で、素敵です。
カッコいい家のすぐ前に滝と氷河があるという設定。室内も自然石をそのままいかした壁が、とても北欧的な、スーパーモダンなインテリアにすごく合っていました。 ぜひ住みたい家です。しかもアンドロイドつき。
日本で公開しないのは大変もったいない。アメリカでより日本でのほうがファンが多そうなのに!
公開されたらぜひお薦めです。観てソンはないです。
以下、盛大にネタバレますので、これからご覧になる方はこのへんで。ではまた~。
この映画はたいへん登場人物の少ない映画です。主要人物は4人。
美しいアンドロイド「エヴァ」ちゃん、その発明家、ネイサン(オスカー・アイザック)、そしてネイサンが経営するサーチエンジンの大企業に務めるプログラマーの若造、ケイレブ(ドーナル・グリーソン)、そしてネイサンの身の回りを世話する口を利かない謎の美女、キョウコ。
ネイサンは13歳でサーチエンジンのプログラムを発明した天才で、しかしヒョロヒョロのヲタクではなく、毎日ボクシングや筋トレに励み体を鍛えている健康マンです。頭脳も抜群、身体能力にも優れたアルファメールであるネイサンは、自分の作ったアンドロイドたち(当然ながら、美女ばかり)と、ケイレブ君をいいように操り、彼らの意志など屁とも思いません。
頭脳の優れた自分自身と、自分の目的だけが崇高で偉いと思って生きている人です。
ケイレブ君は、ネイサンの自信作であるエヴァちゃんが本当に人間と同等の知性を持っているかどうかのテストをする人員として、ネイサンが一人で住んでいる山荘に招かれます。
ネイサンは従業員であるケイレブのことを何度も騙します。最初は抽選で選ばれたことにして山荘に招き、この設定はやっぱりいくらなんでも無理があるのじゃないか、とケイレブが疑問を持つと、よく気づいたね、キミは優秀だから特別に選ばれたんだ、とおだてて、結局はモルモットとして利用します。
そして、踊れる板前アンドロイドのキョウコのことは、下女としてこきつかい、尊敬のカケラもみせずモノ的に扱う上に、性的にも利用しています。
ネイサンはいわば、家父長的特権階級の21世紀版的な存在として描かれています。
映画の観客の視点を代表するのは、わけもわからずにネイサンの秘密基地である山荘に招かれたケイレブ君。
スティーブ・ジョブズとアインシュタインとドウェイン「ロック」ジョンソンを足して3で割ったような伝説の創業者とサシで1週間を過ごせるという幸運に最初は舞い上がっていたものの、エヴァちゃんと対面し、ネイサンの振る舞いを見るにつけ、ケイレブ君はだんだんとネイサンに対して疑いの念をましていきます。
ケイレブ君はネイサンがエヴァちゃんよりも前に作っていた何体ものアンドロイドを見つけてパニクります。さらにキョウコもやっぱりアンドロイドだったことを発見して、彼の混乱は頂点に。自分も本当は人間じゃないんじゃないかいう不安にまでかられ、自分の腕を切って血を出してみたりします。
エヴァちゃんとガラス越しに「テスト対象」として数日間対面していたケイレブ君は、あっという間に彼女に強く惹きつけられていました。ネイサンがエヴァちゃんたちアンドロイドをぞんざいに扱っていることを知ったケイレブ君は、「わたしを助けて」と頼む彼女を救い出し、逃げる計画を立てるのです。
でもそれを先回りしてネイサンに止められ、実は、ケイレブ君はエヴァちゃんが「人を操って脱出のために使う」ことができるかどうかを試すために、つまり、ケイレブ君を脱出の道具として使えるかどうか見るために用いられたのだ、ということがわかります。
そしてさらに、衝撃の事実が明らかになります。
ネイサンは、ケイレブ君のインターネットや携帯電話でのあらゆる活動を通して、彼の嗜好データを集め、それをもとにエヴァちゃんの外見を作っていたのでした。
監督の言いたいキモは、きっとここだと思います。
グーグルをはじめとする企業が、サービスと引き換えに集めている私たちの膨大なデータ。どんなサイトを見に行ったか、どこに行ったか、だれと写真に写っていたか…など、私たちの行動のほぼすべてがデータ化されて、消費され、取引きされ、誰かのトクのために使われているということ。
アルジュン・アパデュライという文化人類学者が消費と時間のコモディティ化について語っているのをこないだ授業でちょっとだけ読みました。
もはやアメリカ人の生活の一部となっているクレジットカード決済は時間のコモディティ化のひとつの表れであり、「未来を前もって消費する」という行為で経験をゆがめている、というのは面白い指摘だなと思ったのですが、それはさておき。
アパデュライは20世紀後半の消費社会を批判して時間のコモディティ化の変化を指摘していたのですが、21世紀の現在では、時間だけではなく、私たちのふつうの生活のすべてがデータという形でコモディティになり、取引され、消費されているというのが、もう当たり前の現実です。
そうやって集めた巨大なデータの使い道を、企業や政府やその他いろいろなシステムはまだ考え始めたばかりだけれど、それは生活のあらゆる面をじわじわと変えていっているし、これからも、きっとまたびっくりするペースで変えていくのだと思います。
リゾートホテルのサイトや靴のサイトを観ていると、数日後にもその靴やホテルが見るサイトのあちこちに現れる仕組みとか、アマゾンの「おすすめ」などは、そのほんの始まり。
もちろん、自分のそういうデータを企業の手に渡さないように一つひとつ設定をすることもある程度可能ではあるけれど、多くの人は、便利さと引き換えに自分の行動がアマゾンやグーグルやアップルやヤフーやフェイスブックやその他の企業のサーバーに蓄えられることに目をつぶっているのが現状ではないでしょうか。
わたし自身もグーグルとアップルには生活のかなりの部分の情報を潜在的にあけわたしていると思う。
自分がインターネットでひそかに見ていたポルノやなにかのデータを盗み見していた他人(ネイサン)により、自分が必ず好きになるだろう女の子を目の前に置かれ、自分が取るだろう行動(その彼女を救出する)を先回りして勝手なシナリオの中に組み込まれるというケイレブ君の体験は、私たちの毎日の体験を極端にしたもの。
考えるとぞっとするけれど、考えても仕方がないので私たちが目をつぶっている事実を、この映画はエヴァちゃんという形で見せてくれています。
この映画の主役はやっぱり、いいようにデータを利用されてしまう消費者(ケイレブ君)であって、アンドロイドとか人工知能そのものじゃないのです。
だから人工知能の映画だと思って見に行くと、肩透かしをくらわされます。
だって、この映画で描かれているエヴァちゃんなどの人工知能は、ぜーんぜん現実的ではないからです。
映画では、巨大検索エンジン企業を持っているネイサンは世界中の携帯電話から世界中の人の表情のデータを集めて、それをエヴァちゃんの表情のもとにした、ということになってます。
しかし、おいおいおいちょっとばかし肝心なとこが抜けてるよ、と思うのです。
人間の意識の働きの背後には膨大なデータがあるのはもちろんですが、データをいくら集めても、それだけで意識が形成されるわけではない。
単なるデータの集積と、ひとつの意志を持ち、欲望を持ち、嗜好を持ち、希望と愛情と憎しみを持つ意識としての人間との間には、大きな隔たりがある。
表情のデータを何億集めても、そこにある感情の主体を作ることはできないし、感情を再構成するのも難しい。はず。ですね?
炭素をたくさん集めれば自然にダイアモンドができるかといえばそんなことはないし、アミノ酸を集めておけば生命ができるかといえばそうでもない。ですね?
モノと熱量の間にはやっぱり大きな隔たりがあります。
モノと生命の間にも。
データと意識の間にも。
たくさん集めるのは条件にすぎず、どこからどう生命とか意識が始まるのかは、科学がまだ解明しきれていない、「奇跡」。
その「奇跡」がなんなのか、解明されてしまったときにこそ、人類の歴史は大きく転換せずにいられないのだと思う。または、終わるのかもしれない。
最近、ようやくという感じでメディアも頻繁に「人工知能」を取り上げ、人の仕事は人工知能に奪われるのか?といったニュースが話題になったりしますが、そういう記事にもかなり誤解が多いと思います。
第一に、今話題になっている「人工知能」と一般に呼ばれているIBMのワトソンとかアップルのSiriとか、データの集積をもとに好みのなにかを選んでくれたり、記事を書いたりする「知能」というのは単なるエンジンであって、ほんとうの意味での(SF的な意味での、なんて言われ方もしてますけど)「人工知能」とは別物ですよね。
IBMもワトソンを人工知能ではない、コグニティブコンピューティングシステムだ、と言っています。
最近の「人工知能」ブームについては、こないだ読んだ、日本で人工知能を開発している新井紀子さんという方のインタビューがめちゃくちゃ面白かった。
新井さんは、現在の「人工知能」と呼ばれているサービスは、人間の側の「コミュニケーションが通じていると感じたい」という性質を利用した「オレオレ詐欺」のようなもの、だと言ってます。
これはなるほどなあ、と思わされました。老人ホームで話し相手になっている「人工知能」的なものもは、別に本当に意識なんかがなくたって、話す側が自分の思いを投影できればそれで役に立ってしまうんですね。
それはそれで寂しい話だとも思うし、それで話す側が満足ならばそれで良いのかもしれないとも思うし。
この間TED Radio で聴いた、米国MITの人工知能研究者も同じようなこといってました。
(これにでてくる女性研究者のうち1人は、老人ホームでロボットに反応している老人たちを見て衝撃を受け、本来人間がになうべき社会的な役割をロボットにやらせたりしちゃいけないんじゃないかと言い、もう1人は、ロボットそのものというよりもテクノロジーを使って遠隔地にいる人がよりダイレクトなコミュニケーションを取れたり、バーチャルと現実の両方を駆使して子どもたちが学ぶのは良いことだと主張してます。いずれも、人間がこれから相対することになる現実に対して考えるときに、とても役に立つ視点だとおもいます)
それでこの映画に戻ると、まずどこが馬鹿馬鹿しいかというと、第一に、エヴァちゃんがあまりにも完成されたアンドロイドであるからです。
洋服を着たら人間の女の子とまったく見分けがつかない、綺麗な透明感ある肌と、表情豊かな瞳、優雅な身のこなしができる手足をもった繊細なロボット。
いくら超弩級の天才でも、これを一人で開発するのは、どこかの宇宙人の手伝いでもなければ無理でしょう。
視覚、聴覚、触覚、といった感覚器官がどれほど高度なものであるか。
このうちひとつでも、まだ現在の技術では模倣できてませんが、多分、人工知能の研究と同時にこちらもどんどん進んで、たとえば全盲の人が視覚を得られたり、眼鏡の代わりに人工眼を入れるのが普通になったりする日もわりと近々来るのかもしれません。
でもそれにはおそらく何千人もの研究者が気の遠くなるほどの時間をかける必要があることでしょう。
皮膚だって同じ。皮膚は人体の中でもっとも大きな感覚器官であり、それだけでなくて生存に不可欠な役割も担ってます。
エヴァちゃんに取り付けられるような自然な人工皮膚が実現するものなら、重度のやけどを負った人にも、生まれつき重い皮膚障害を負った人にも、光明がさすというものです。
それに美容外科はもう不要になるかもしれません。
これだけで人間の歴史はかなり変わるに違いない。
第二に、意識とか指向性に対する誤解もあると思います。
映画の中で、ケイレブ君に「なぜエヴァにセクシャリティを与えたんですか?人工知能にセクシャリティは必要ないでしょう。たとえば、灰色の箱だって良かったわけなのに」と尋ねられて、ネイサンはこう答えます。
「灰色の箱が、別の灰色の箱に働きかけなくてはいけない切実さを持っているかね? 働きかけあうことなしに、意識が存在し得ると思うか? とにかく、セクシャリティっていうのは楽しいもんだよ。存在するなら、楽しまない手はないだろう」
だけど、この「セクシャリティを与える」というのは、まさに神の業であり、セクシャリティを持っているというのは、すなわち「意識」であり「知能」であるということなのだから、もう最初からテストとか必要ないです。
セクシャリティというのは、私たちの「指向性」の根幹にあるものです。
あらゆる生命を動かすエンジンのひとつがセクシャリティであり、すべての好き嫌い、感覚、快適さ、芸術の大きな部分に、セクシャリティが関与しています。そうですよね?
ネイサンが言うようにセクシャリティは楽しみでもありながら、人に苦しみを与えるものでもある。
将来、レイ・カーツワイルさんが言うように、人工知能が人間よりも賢くなり、人間が意識をクラウドに保存することさえできるようになるとしたら、その時、ヒトと人工知能を分かつものというのは、身体性であり、それに基づく欲望でしかないのではないかと思います。
先日やっと読み終わった田中優子さんの『江戸はネットワーク』の中に、こういうくだりがありました。
「言葉は人がそう信ずる限りにおいて人の運命を握っているが、また、人はその言葉をスルリとかわすこともできる。その力を失わせ、息の音を止めることさえできる。とすれば、言葉にとっての『現実』とはいったいどこにあるのか。日常生活とのネタの類似なんぞにはありはしない。何かに具体的に作用するその『力(エネルギー)』の中にしかない。その作用は、言葉に関与する人間の実際上の身体と、その全身が世界を発見していくその切り取り方にかかっている」
(『江戸はネットワーク』「笑い飛ばしてみせようか 平賀源内」 285ページ)
ここで田中さんが論じているのは、世界のすべてを茶化して無力化してしまおうとするかのような平賀源内の仕事と、その意識のあり方についてなのだけど、身体性(「言葉に関与する人間の実際上の身体」)が論理(「言葉」)より前に現実であるというのは、人間が人間である限り普遍的な真実なはずです。
別の言い方をすれば、わたしたちは感覚器官を持った身体と、大脳辺縁系と、大脳皮質をひっくるめた、割合にあやふやな存在です。大脳皮質だけでは、人間とはいえない。
前世紀までの哲学な人たちは、たぶん頭が良すぎてそのへんにあまり気づかなかったのではないかと思うのだけど、人工知能の出現間近になって、人間は結局カラダだよ、ということがだんだんと明らかになりつつあるのではないかという気がするのです。
ネイサンが狂ったように身体を鍛えるエクササイズ・フリークであるのも象徴的ですね。
読者Sです。Tomozoさん、こんにちは~ いやぁー読みごたえのある記事どうもありがとうございます! この映画、自分ではみつけられなかったと思います。撮影がノルウェーっていうのにぐぐっときました。(なぜか今、バイキングのことが知りたくなって、北欧の歴史の本をよみふけってたところです。ハリウッド映画的バイキングじゃなくて本当のバイキングといわれていた人々の民衆史みたいなのが知りたくって。時代がかなり前ですが北欧ルーツのあるシアトルにバイキングネタはないでしょうか???アメリカ大陸との接触もあったようなので。) ネタバレだそうですから記事は後半はさらっと目を通してまだちゃんと読んでません。映画を観た後でもう一度じっくり読みに参ります。またしてもおもしろそうな人類学のコース! わたしの大学時代は新分野としてメディカルアンソロポロジーが始まりだしたってな時代で、ペーパーもワープロで、パソコンすら使ってなかったので、人工知能なんてテーマなかったなぁ。今の人類学はずいぶん違うのでしょうね。Tomozoさんの勉学心に脱帽。乱文ですみません。
返信削除Sさんこんにちは!いつもありがとう。あらためて見ると長っ!
削除映画を観てから、お暇なときにのんびり読んでいただければ嬉しいです。
バイキング! シアトルは、特にいま住んでる近所は北欧町だったので、バイキング祭りもあるし、壁にもバイキングの絵が描いてあったりしますが、「本当のバイキング」とは関係ないですねきっと。日系人がニンジャや侍の恰好をしたがるようなものだと思います。
人類学面白かったので、次の学期もまたアンソロポロジー取ることにしました。人類学っていうより社会学的な内容のクラスが多いみたいです。社会学>人類学なのかしら? ほんとになんでもありって感じで、「アンソロポロジーって最後につければ何でもそれらしく学問的に聞こえる」て気もします…w
読者Sです。いつも記事と関係ないコメントばっかでゴメンナサイ。おお~ご近所でバイキング祭りに、バイキングの壁画! 見たいっ! あのー もし可能でありましたら、今度そのバイキング祭りや壁画をTomozoさんのすばらしいフォトグラフィーで紹介していただけないでしょうか~? 北欧系アメリカンたちのバイキングがどんなものかすごく知りたいです。
返信削除ところで過去記事にコメントして読んでいただけるかわからなかったのでしませんでしたが、Tomozoさんが下訳なさった本の記事のところで、あの時代の南部独特のなまりを日本語にするのは不可能で、関西弁を英語にできないのと同じ、と書いておられましたよね。昔、 『翻訳の世界』というおもしろい雑誌ありましたが、黒人英語(スラング的表現)はまさしく関西弁だーって、スラング英語とマッチする関西語を読んで笑ったことあります。本当にそうなんですもの! 日本は方言の豊かな国なので、なんか方言を利用して独特の英語のなまりを訳せないだろうか・・・なんて空想にふけっております。(笑) ぽんず単語帳でそういう話題出てきたらいいな~。
Sさんこんにちは。祭りのバイキングはまだ撮ったことないですが、バイキング壁画は北欧博物館のところと
削除http://livinginnw.blogspot.com/2014/02/blog-post_28.html
北欧ショップの壁のヘンリー画伯の
http://livinginnw.blogspot.com/2013/07/blog-post_3.html
をアップしたことがあります。
どちらもゆるキャラ的なバイキング船ですが(あまり強くなさそう)。
うん、黒人英語(特に都会の若い子たちの)と、関西弁はテンポやノリが似てるかもですね。どちらもキンキンに洗練されてて回転が速い話し言葉で、「標準語」はとてもそのスピードについていけない感があります。
『ヘルプ』の主人公たちは南部の下働きの女性たちなので、現代のLAとかNYの黒人英語とはまたちょっと違ってて、全体にもっと柔らかでスローな響きです。洗練されていないけれど味のある言葉。日本の方言でいったらどの辺が近いのでしょうねえ。私も方言勉強してみたいです。
『翻訳の世界』だったかのコラムで、以前、フレデリック・ブラウンかだれかの短編のすごくなまっているキャラクターを鹿児島弁で訳したっていうのを読んだことがあります。 それはそれですごいけど、絶対にイコールにはならないので、翻訳であまりに方言そのもののキャラクターが前に出すぎるのもどうかなあとも思う。どこの方言だかよくわからないけどなまってる、みたいな口調が、翻訳文では無難なのでしょうね。
うちはおばあちゃんが下町なまりだったので、標準語じゃない東京弁も好きです。方言はほんとに素敵ですね。
読者Sです。Tomozoさん、過去記事のバイキングの壁画みてきました。すごいかわいらしいバイキングですね。
返信削除昔の南部の黒人の言葉を訳すって本当に至難の業ですね。方言まるだしだとキャラが変わってしまうし。ゾラ・ニール・ハーストンの『彼らの目は神をみていた』の和訳本、どうしても読み終えることができないままでいます。英語原書もなまりの英語のスペルを読むのがすっごく辛くなって、途中で挫折です。ああいうなまりの和訳、翻訳者の永遠のテーマですね。 あ、また脱線コメントしてしまいました。
かわいいバイキングでしょう! 「ビッケ」が乗ってそうですよねw
削除ハーストンの著作は恥ずかしながら読んだことないです!また積んどくが増えそうだけど読んでみたい。
和訳を読み終えられないのは訳に違和感があるからですか?
方言にかぎらず、さりげなくキャラクターがあらわれる話し言葉の訳って考えれば考えるほど難しくなる気がします。訳者の個性がいちばん表れてしまうところかもしれないですね。
はじめまして。
返信削除アレックス・ガーランド氏は、この作品で初監督を果たしました。
『28週間後…』では製作総指揮、
『わたしを離さないで』では脚本を担当しています。
匿名さん、ああっそうなんですね。ちゃんと調べなくって(恥)。
削除こんな古い記事読んでくださってありがとうございます。
超いまさらですが訂正しておきます! ご指摘ありがとうございます。
この記事書いてから『わたしを離さないで』も初めて見ました。すごく良かったです。