MOMAのつづき。最上階の企画展示は、ニューヨーク生まれの女性アーティスト、ルイーズ・ローラーさんの作品を集めてあった。
美術館やコレクターの家などで撮った、ほかのアーティストの作品の写真を、奇妙な並べ方をしたり、関係のないコンテクストに放り込んでみる作品など。
美術館のサイトにはこう説明されてます。
Lawler’s critical strategies of reformatting existing content not only suggest the idea that pictures can have more than one life, but underpin the intentional, relational character of her farsighted art.
(既存の内容をリフォーマットするというローラーの批評的手法は、絵画がひとつではなく複数の生命を持てるという考えかたを示唆するにとどまらず、意思的であり、関係性に基づく性格を持つ、予見的な彼女の芸術の特徴をよく支えています)
うーんあんまりうまく訳せないけど。美術の人の言葉の使い方も独特だ。抽象名詞に形容詞がかならず2つか3つついている。日本のこの手のアカデミックな文章のそれ風の訳し方というのもきっとあるんだろうけど。
日本の美術館は借り物が多いためなのか、写真撮影禁止のとこがまだ多いようだけど、アメリカの美術館は撮影オーケーのところのほうが多い。
エスカレーターを上がったところにあった大きなバスキアの作品。
この右側の赤いキャップの黒人青年が、近くにいた人に頼んでこの絵と自分の写真を撮ってもらっていて、なんだかめっちゃ微笑ましかった。 すごく嬉しそうで。きっとバスキア大好きなんだなー。こういう絵との関係はいいな、と思う。画家も嬉しかろう。
そしてエスカレーター脇には、アンドリュー・ワイエスの有名作品『クリスティーナの世界』がひょいっと掛けてあった。
なんでこんな廊下みたいなところに!
これも何十回となく印刷物で見たけど、実物を前にすると、この足の曲がった女の子が目指している(目指すしかない)家の絶望的な暗さ、家のほかにはなにもない草原の怖い広さがずしーんと伝わってくる。
一本一本緻密に描かれた草原の厳しさ。
そして納屋には黒いトリたちが群れているのだった。暗い。
シアトル美術館で今年の10月にワイエス展がありますよ。この絵も来るのかな。
モネの部屋は、残念ながら自然光ではなかったけど、曲がった壁いっぱいに睡蓮がゴージャス。
ここでも睡蓮と一緒に写真を撮る人がたくさんいた。
ローラーさんの作品を待つまでもなく、スマートフォン出現以来、美術館っていつのまにか参加型になっている。
「写真など撮らないで絵を楽しめ」 「写真を撮ることに夢中になっていては鑑賞したことにならない」とかいう人がきっといるに違いないけど、私も美術館で写真を撮るのは大好き。
いやもちろん、写真を撮る「だけ」でしっかり見てなければ作品のエネルギーは感じられないと思うけど、それはカメラがあってもなくても同じ。
カメラを通して初めて可能な対話っていうのもありだと思う。
モネさんの睡蓮。
こちらはその隣にあった「アガパンサス」。
睡蓮も大好きだけど、このようなタテに伸びる花の絵も気持ち良い。
どちらも最晩年の作品らしく、幸せそうなオーラがいっぱい。
レディ・ガガがこんなところに!
ルソーの「夢」(1910年)です。ルソーの絵は子どもの時、何か底知れず怖かった。この笛の人は今見るとちょっと困ってるようにも見える。
親に連れられて初めて観に行った展覧会がシャガールだった気がする。伊勢丹かどこかのデパートの中の美術館だった。
昭和後期には、東京のほとんどのデパートに美術館があったなあ、そういえば。
MOMAのこのフロアは特に超有名な絵がたくさんあるからか、撮影してる人がとても多かった。
ピカソの『アヴィニョンの娘たち』。
娼館の娘たちを描いた、近代絵画のモニュメント的な作品といわれてますが、この絵も美術史の授業のスライドや映像で嫌というほどみたので、リアルで対面できて感慨深かった。
この絵もほんとうにつくづく怖い絵ですね。
キュビズムへの道を開いた絵といわれているそうだけど、モダンアートという「異界」への扉を開いてしまった絵と言ってもいいのではないでしょうか。
最初は水夫と医学生という男性2人がいる構図だったのを、娼婦5人がこちらを見ている構図に変えたという。
無表情にこちらを見てる2人も、両脇にいる、アフリカやイベリアの仮面から発想された異形の顔の3人も、見る人を取り返しのつかない世界に引きずり込もうとしているよう。真ん中では空間が歪んでいます。
形式の寄せ集めだけでは、これほど破壊力のある絵にはなり得ない。
この絵にあるのは、性と生きることと死への恐怖、だと思う。
ピカソの周りでは実際性病にかかってバタバタと死んでいった人も多かったというし、娼婦たちだって長生きする人はあまりいなかったのではないか。
画家がリアルに感じていた死、娼婦たちから感じとっていた絶望と嫌悪、がものすごく洗練された、攻撃的で、誰も見たことのない緊張した形式をとって描かれていたからこその破壊力なんじゃないだろうか、と思います。
そういえば中野京子さんの『怖い絵』という本がとてもおもしろかった。
名画といわれるのはたいていが怖い絵なのかもね。
一番人だかりがしていたのは、ゴッホさんの『星月夜』。
この絵の前で自撮りしてるカップルの後ろに、セキュティの人が忍び寄って画面に入っててまわりのみんなにウケてました。日本ではありえませんね。テーマパークのようだ。
パンを買うお金もなかったほど困窮していたゴッホさんに、あなたの絵は将来こんなに注目を浴びるんだよって教えてあげたい。えっそうなのっ!て、素直に喜びそうな気がする。
「ひたすら誠実であろうとしてヴァン・ゴッホは自己表現の方式を発見することこそ本質的なことだと語ったのである」と『芸術の意味』でハーバート・リードさんは書いてます(滝口修造訳)。
とにかく本当に宗教的なまでに誠実な人だったのだと。ゴーギャンとかモネとかルノアールとかとはまったく違う、「人生の目的についての先入観」を持ち、「偉大ななにものか」、「不滅なもの」によって描くことに人生のすべてを費やした、と。
ゴッホの絵がこれだけ評価されるようになったのは
「彼の絵に対する鑑賞が特別に進歩したからではなく、(私達観客が)彼の性格をいっそう深く知ったことによるのである」とも。
うん、たしかに。
この絵が悲劇的に誠実な画家のものだというストーリーなしにあらわれてもきっと驚くとは思うけれど、でも、やっぱりゴッホさんの獲得した異常なほど熱い表現と、その不遇で悲しすぎる物語は、あまりにも運命的にがっちり一体化していて、セットで胸をうたれる。
ゴッホさんの絵には、恐ろしいほどの凄みはあっても、世間的な怖さは感じない。
怖いをはるかに通りこして、すがすがしいような境地を感じる。
…なんていうのも、ゴッホさんのストーリーが頭にあるからこその印象なのかもしれないけれど、「不滅なもの」に対する情熱を生命を削って誠実に研ぎ澄ますとこういう形になるのだという、生きている間には恵まれることのなかったゴッホさんが人類にのこしてくれたお手本なのだと思う。