長い長いお葬式を見た気がする。
『The Revenant』(『レヴェナント 蘇えりし者』)を観てきました。
すぅーーーーーーごくよかったです。映画館でこんなに泣いたの何年ぶりってくらい鼻水出して泣きました。そしてこういう時に限ってハンカチを忘れる。
しかし一緒に見にいったアメリカ中年M太郎は、「長すぎ」「あと30分短くてよかった」「所々たいくつした」と文句を言っていた。
たしかに、2時間36分の映画なんだけど
3時間半くらいある気がする 。
そしていろいろな意味で見るのが辛い映画です。
正直いうと、最初の3分間ですぐに家に帰りたくなった。映画を見ながら、間違った所に来てしまったような嫌な感覚に襲われました。
そしてたしかに、グロいです。正視できない箇所がたくさんあった。
以下、盛大にネタバレですので、まだ観ていない方はどうぞ今すぐ観に行ってきてください。
VIDEO
Revenantという単語は知りませんでした。
「
戻ってくる人 」そして「
亡霊 」という意味だそうです。「蘇りし者」というのは、重箱の隅をつつくようだけど、若干違う。亡霊は元の人の蘇った形ではないですね。同じ顔をしているのだけど、徹底的に中身が変わってしまっているのです。
舞台は19世紀前半のアメリカ西部。ルイジアナ買収で増えたばかりの国土。
その100年くらい前から入り込んでいたフランスの毛皮商人やさまざまなネイティブの部族の中にアメリカ人がとことこ入り込んで、「さてこの場所をどうしたものか」と考え始めていた、そういう時代のそういう土地。
ローラ・インガルスのお父さんたちみたいな入植者が幌馬車でやって来るよりも、数十年だけ前。草原にはまだバッファローと狼が、森にはクマが、空にはリョコウバトがわんさといて、白人たちは無数の動物の毛皮をネイティブから買いに来ていた時代。
ディカプリオ演じるヒュー・グラスは、そういう土地でアメリカ人の一群に雇われて毛皮貿易のガイドをしている。この一行は陸軍の制服を着た「キャプテン」に率いられているから、この毛皮交易は合衆国政府の事業なのらしい。
彼が連れている高校生くらいの年頃の黒髪の男の子は息子で、お母さんはネイティブの女性だったことがわかる。幸せな家庭だったのに、部族の村は白人の軍隊に焼かれ、妻ももう一人の息子も軍隊に殺されたのだということが、途切れ途切れに挿入される断片でわかる。
連れている息子も、その時のやけどを顔に負っている。
アメリカ人の一行と共に行動しながら、グラスと息子はひそひそと、部族の言葉で語り合う。
「生き延びたいなら、目立つんじゃない」と、彼は息子に言ってきかせる。
いつ敵意をむきだしにするかもしれない白人たちの中で、影のように息をひそめて生きろと教える。
同行しているアメリカ人の中にはネイティブ部族に以前、頭の皮を剥がれた男もいて、その混血の息子を憎んでいる。
人のいない、どこまでも広大な、レンジャーのいない無限の国立公園のような世界だった土地。現在のいわゆるアメリカ中西部。
4年ほど前に私が息子とクルマで旅行した、あのあたり。
この森は怖い。人間にフレンドリーな世界ではない。
いつ、なにがどこから襲ってくるかわからない。急に矢が飛んでくるかもしれないし、ケモノが襲ってくるかもしれない。
映画の冒頭からそんな緊張感がみっしり。
そして当然、矢が飛んでくる。アメリカ人一行はネイティブ部族の襲撃を受ける。川船を捨て、陸路を取ることにしたあと、主人公のグラスは森で巨大クマに襲われて重傷を負う。
かわいい2頭の子熊を守ろうとしたママベアーが、突進してくる。
この母クマとの戦いが、また長くて、苦しい。痛い。撃たれても刺されても、クマはなかなか死なない。何度も何度も戻ってきて、グラスを組み伏し、殺そうとする。
背中を裂き、喉に穴をあけ、死んだふりをする彼の顔に息をふきかけて匂いを嗅ぐ。
死闘の末にクマにとどめをさして、クマと折り重なって倒れている瀕死のグラスを発見した一行は、クマに襲われた傷を応急に縫い合わせて(これがまた痛そう)、彼をかついで基地へ向かおうとする。でもあまりに山道が険しくて担ぎきれず、一行を率いている「キャプテン」は、これまで一行に貢献してくれた彼が死にかかっているのを置いていくこともできず、とどめをさして葬ろうとするもののそれもできず、彼とあとに残る有志をつのる。
グラスの息子ホークと、ホークと同じくらいの年の白人少年と、もう一人、混血の息子のこともその父のグラスのこともよからず思っていた男フィツジェラルドがあとに残ると申し出る。助けを待つというより、グラスが死ぬのを待ち、立派に葬ってやるために。
でもそれを待ちきれないフィツジェラルドは、身動きのとれないグラスを窒息させて殺そうとする。それを見た息子ホークがパニックになったために、フィツジェラルドはホークをナイフで刺して殺す。
その一部始終を、担架に寝たままのグラスは見届けなければならない。
さらにフィツジェラルドはもう一人の少年に、危険な部族の斥候が来たからこいつを置いてすぐに逃げなければと騙して、瀕死のグラスを掘りたての墓穴に放り込んで逃げてしまう。
グラスはその墓穴から「蘇り」、枯れ草やその辺に死んでいる動物の骨などを食べながらも、生き延びる。荒野と険しい雪山と急流を乗り越えて、息子を殺した男を追う。
グラスはどんな目に遭っても、死なない。
自分の娘をさらっていったフランス人の毛皮商人を追っているネイティブ部族の酋長たちに2度も遭遇して矢や銃を射かけられ、1度目は急流に落ち、2度目は崖から馬ごと落ちても、死なない。
さすがに崖から馬ごと落ちたのにグラスは樹にひっかかって死ななかったときには(馬は即死)、劇場内で近くの席からぷっと笑う声が聞こえた。まじでか?みたいな。私もその気持ちはわかる。
だけど彼は死ぬことができないのだ。愛した家族を一人残らず、何の理由もなく殺された彼は、ただただ広大な雪の荒野をひたすら歩き、息子を殺した男のあとを追う。
深い森、雪の野原、山々、凍った滝、薄青い急流、広い広い空、その中にぽつんとある人間。風景が、とにかく素晴らしい。
音楽は坂本龍一だって知らなかった。とても控えめで、素朴だけど陰鬱な緊張感のある、部族的な響きのある音楽でした。
ほとんど前知識なしに見たので、この映画の監督が誰だかも知りませんでした。でも見ながら、これは白人の監督が撮った映画ではないだろうなと思った。
『バベル』や『Biutiful(ビューティフル)』『バードマン』の
アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督だったというのを知って、すごく納得した。
『Biutiful』もすごく好きな映画。登場人物に言葉では語らせない(語りきれない)たくさんの情報や感情を、とても静かな映像に繊細に描き込む方法が、この映画にも共通している。
『 Biutiful』もたしか前にブログに書きましたが、錆びた包丁で胸をえぐられるような辛い映画で、でも最後の場面の明るい抜け感が途方もなく好きです。あの映画の最後の父との邂逅場面の、寂しく明るい静かな手触りは、なにか質感のあるものとして、ずっしり体に残った。いろいろな場面に、それと同じ質感を感じました。
ひとつひとつのシーンが、とても象徴的。でもそれをひとつひとつ言葉で説明しようとするととても陳腐になる。
圧倒されるような冷たい美しい画面の中に、物語の壮大な背景が丹念に描かれています。
たとえば、飢えたグラスの目の前に現れる、バッファローと狼の群れ。
狼の獲物であったバッファローの生肉をむさぼる、ネイティブの男。
その男とグラスが打ち解け、無邪気に笑いながら風に舞う雪を食べるシーン。
弱りきったグラスを癒すために、この男は小さな小屋をこしらえて、焼いた石であたため、即席サウナのようなものを作る。その中で生死をさまよいながら、グラスは廃墟になった教会の夢を見る。
屋根が落ち、ひとつの壁だけになった南米風の教会。
そこでグラスは息子と再会する。
この場面は本当に、静かで荘厳でみっしりと美しくてあまりにも悲しくて、一生忘れられないと思います。鼻水出して泣きました。
そして、夢から覚め、生気を取り戻してグラスが簡易サウナテントから出て行くと、この癒しの家を用意してくれた男は、通りがかりのどこかの白人の慰みものとして殺され、枝に吊るされている。
映画の最後、ついにフィッツジェラルドを追い詰めたグラスは、とどめを刺さず、深手を負ったフィッツジェラルドを川に流す。ひょーっと流れていった川下に待っていたネイティブの一群が、代わりに彼を殺す。
彼が求めていたのは復讐ではなく、正義。
最後に、グラスはまっすぐに観客を見据える。
この話は、本当にクマと戦って瀕死の重傷を負い、山中にほったらかしにされて何マイルも雪山を歩き生還した人の史実をもとにしているそうですが、イニャリトゥ監督は、それを、この国の、今でもあまり正視されていない(忘れたふりをされている)原罪の話として、描いています。
ほんとうのありふれた現実では、フィッツジェラルドのような人間は逃げおおせ、テキサスにわたってまたたくさんの人を殺してきたのです。
あなたは、誰か。
そのような人ではないのか、そのような人の子孫ではないのか、あなたは負の遺産を受け継いではいないのか、あなたのいるその場所はほんとうにあなたのものなのか、と、最後にグラスの目が尋ねているように思える。
2度観たい映画ではない、あまりに辛くて。
でもひとつひとつの場面の手触りが、記憶に刻まれるような映画はそんなにないです。
ところでフィッツジェラルド役の俳優さん、トム・ハーディ。この人『マッドマックス』さんだって、誰かに言われるまで気づかなかった!こちらのほうがアカデミー主演級ではないでしょうかねぇ。