2017/04/18

すごい身体のモノローグ


一日に何度も晴れたり雨降ったり時には雹も降ったりと忙しい、シアトルの春です。

先週の晴れた日曜日(4/9)、シアトル舞踏フェスティバルをのぞいてきました。

場所はShoreline Community College。いつも通っている通りから少し入ったところに、こんなコミュニティーカレッジがあったのをすっかり忘れていた。初めて行ったけど、こぢんまりした中にも緑が多くて落ち着いた綺麗なキャンパスでした。通ったことのあるNorth SeattleCCよりも、ずっとのどかで端正な感じ。

シアターのほうに歩いていくと、 中庭の芝生に水のない河原のようなところがあり、そこでパフォーマンスが始まっていた。
サンフランシスコから来たという舞踏家のお二人。

音楽はどこから聴こえるのかと思ったら、まるいスピーカーを胸のところにつけてらした。「ちょっとしたサイボーグ」とご本人。なるほど。取り外し可能だけどね。

背景には桃色の花。賽の河原のような石の上の道行き。
ほんとうに色も形も時も、パーフェクトな舞台だった。



シアターでの演目一つ目は、シアトルの舞踏家、薫さんの、長崎をテーマにした「ORASHO」。

長崎という土地は、ひどい暴力にみまわれてきたところ。しかも何度も。

全然知らなかったのだけど、幕末の開国後、フランス人たちのために大浦天主堂が作られた後で、200年もの間隠れていたキリシタンたちが天主堂にやってきて、このフランス人神父に「発見」されたという事件があったのだそうです。

でも開国したとはいえ、徳川幕府は臣民に対してキリスト教を禁教としていた方針は変わっていなかったため、200年の時をへてカミングアウトしてきたキリシタンたちは次々に逮捕されて流刑にされてしまったのだと。

なんと弾圧は明治維新後も続き、キリスト教国の列強が、クリスチャンを迫害する国など文明国の仲間に入れてやらん!と圧力をかけたこともありようやく明治6年に禁教が解け、信徒が釈放されたときには、流刑先のひどい拷問や私刑で600人ほどが亡くなっていたのだそうです。

そのキリシタンたちが代々ひっそりと伝えたのが「オラショ」。ポルトガルの宣教師たちが教えたオラシオ(祈祷)が、お経のようなうねり感のある日本語の祈りになって200年伝わった。

薫さんの舞踏は、その「オラショ」をアレンジしたオリジナル楽曲を使い、背景にはYukiyo Kawanoさんの、原子爆弾をかたどったオブジェを配した、ナガサキの土地へのレクイエムのような物語。

舞台がすすむにつれて、最初は折りたたまれていた爆弾のオブジェが上から吊るされ、完全な形に広がる。照明の効果で、まるで中から発光しているように爆弾のオブジェが神々しいような美しさに輝く。

禁教が解け、迫害を逃れた隠れキリシタンたちがようやく持てた自らの教会、浦上天主堂は、長崎の原爆で破壊されてしまった。

という、歴史への思いのこもる作品でした。




次の「花の鎮魂歌」は、フィンランドを拠点とする日本人男性舞踏家、ケン・マイさんの舞台。

ファッションモデルなみに細く、しかし不思議な筋肉がついている舞踏家は、1ミリも贅肉のない胸をはだけた黒い妖艶なドレスで、カゴから白い羽根を撒きながら登場。舞台全体をあっという間に自分一人のものにするエネルギー。すごい。

短い生命の花が咲ききる永遠のような一瞬を、全身で表現する舞台でした。


こちらのビデオはケン・マイさんのメキシコでのワークショップのプロモ。シアトルのあとは米国数カ所を回ってヨーロッパに帰るそうです。

舞踏家はそこにいるだけで、オブジェ。

ケン・マイさんのこの日のプログラムでも、舞台の上に自由落下して飛び起きるという、どうしてそんなことができるのか謎な動きが続発してました。すげぇ。

でも一番感動したのは、パフォーマンスが終わり、静かに舞台を下りてきたケン・マイさんが、観客とコンタクトしはじめたとき。

目の前にやってきたケンさんを両手をひろげて受け入れて、いっしょに舞いはじめる人。
閉じたままで、かたまって見るだけの人。
どちらが正しいとかではなく。
そして、開いた人にはまっすぐにはいっていくケンさん。となりのご夫婦は2人まとめてケンさんにハグされてた。

ことばのない抽象的な表現方法は、ごく個人的な体験をダイレクトに伝える。
抽象的になればなるほど、受け取るものは直接的になる。

このあいだシアトル美術館で観た常設展示のマーク・ロスコの作品に、 私にとってこの絵画はスピリチュアルな体験なのだというような画家本人の言葉が添えてあった。正確な言葉は覚えてないけど。
ただ四角く色がぬってあるだけじゃん馬鹿らしいと思って観る人もいれば、ロスコの感動を共有できたと思って観る人もいれば、よくわかんないけどキレイだな癒されると思って観る人もいる。

視覚の芸術や音楽は本当に恐ろしく情報量が多いので、言語で説明しようとした瞬間にとてもやせ細り、ことばの持つ膿のなかにからめとられてしまう。
ピシリと居合抜きのような鋭さで一寸の狂いもなくことばにできる人は、受け取る鋭さだけでなく、途方もないボキャブラリーと整理された情報を自分の懐に持っているのでしょうね。

そんなことはどだい私には無理だけど、説明されないものをいっさいのナラティブなしにただ受け取る、ということの楽しさと困難さを、ケンさんの舞台をみながらちょっと思ったりした。

目にうつるものをいかに私たちはすぐに説明したがることか。
というか説明しないと毎日の生活にすぐ支障をきたすけど。
わたしたちは「いま」「ここ」「わたし」からはじまって物語なしには生活できないのではあるけれど、そこからちょっとだけ外れて、ただそのものを観る、ということが、どれだけ可能なのだろうか、など。

ケンさんの舞台は、とてもラブリーでせつない、そしてほわっと優しい舞台でもありました。


にほんブログ村 海外生活ブログ シアトル・ポートランド情報へ

0 件のコメント:

コメントを投稿