2016/05/15

君たちもういい加減に出て行ってくれないかと切に思った


テオティワカンのピラミッドに行き、宮殿でプロレタリア壁画を見て、エスプレッソ入リチョコレートとチュロスとモレサンドイッチを買ってホテルに戻り、空港まで送ってもらって財布をタクシーに忘れ、エドガー君に届けてもらい……無事チェックインを済ませて、からの。

グリーンカードもクレジットカードも全部なくしてしばらくシアトルに戻れないのかも、と一瞬心配した後で、エドガー君のおかげで搭乗時間のちょっと前に無事ゲートにたどりつくことができ、ほっとして、飛行機に搭乗する前に、チョコレートやさんで買った、あのアステカ風の青年が渡してくれた、チキン・モレ・サンドイッチをもりもり完食しました。

行きはLAX経由だったけど帰りはソルトレイク・シティ経由。

行ったことのない町ですが、高い山々に囲まれた空気の綺麗な場所のようで、魅力的な風景でした。

飛行機の窓からは大きな湖が見えました。あれがソルトレイクなのかな?


息子に空港まで迎えに来てもらい、家に着いたのは午後10時過ぎ。
あまり食欲もなく、お茶だけ飲んで寝てしまいました。

目が覚めたのは明け方4時頃。

お腹がいたい。

細いハリガネの山で刺されるみたいな痛み。

悪寒もする。

無理やり二度寝したものの、朝になっても痛みは去らず、ひどい下痢。

 ときどき、お腹のあたりをゾウキン絞りのようにきゅーっと絞られる感じがする。

当たっちゃったのか! ((((;゚Д゚))))    


しかもピラミッド登頂の翌日で全身筋肉痛。
本当にそんなにたいした上りでもなかったので、これも不思議なんですけど。

階段もまっすぐ降りられないという二重苦の状態。

すべて自業自得とはいえ、いったいわたしは何の修行に行ったのだったっけ?

わたくしは、何か悪いことをいたしましたでしょうか?

幸い日本もゴールデンウィークで、仕事をほとんど入れていなかったので、ほぼ1週間ぐったりと寝て過ごしました。

これもメキシコシティ内のモダンビル。
この形も、今気づいたけれどもしかしてインスパイアド・バイ・テオティワカンなのかも。

吐き気は最初ちょっとだけあったものの、実際リバースするまでにはいたらなかったので、ノロウイルスじゃないと思う。熱も最初少し悪寒がしただけ。

でも自分史上ワースト3には入る、たぶん長引いたことではこれまで生きてきて最悪の、ひどい下痢が5日間続きました。

たぶんサルモネラだと思います。

少量のサルモネラ菌を摂取しても食中毒は発生しないが、食品に入ったサルモネラ菌は室温で6時間以上放置した場合、特に夏季の高温、高湿度では爆発的に増殖する

だそうです。

一般に、たった1個の菌が、高温多湿の環境下では、3時間で500個、6時間後には25万個に増えるのだと……。

腸炎ビブリオ菌は1個から3時間で25万個に爆発増殖!

ああ、サンドイッチ買って、温かい環境の中(かばん)で、財布を忘れて右往左往し、セキュリティを通ったりなんだかんだしている間にじっくり熟成させてしまいましたね。

そして理想的な環境で爆発的に増殖した25万の民を歓迎&おもてなししてしまったんですね。

25万といえば徳島市の人口とだいたい同じです。

1人から25万へ3時間でって、すごいですね。テオティワカンに住んでいたという人民の数も20万だったそうだ。

サルモネラ菌などの食中毒では、とにかく水分をたくさんとり、菌を排出するのが先決というのですが、居座った民たちはなかなか簡単に出ていこうとしない。

人間だったら大都市が築けちゃう数だしね。

お願いだからもうそろそろ出てってちょうだい皆さん、と切に思いました。

ポカリスエットが飲みたかった。今度日本に行ったら粉末のを買ってこよう。

息子にPedialyteという電解質を多く含む飲料水を買ってきてもらったけど、変な香りと余計な甘味がついてて、超まずい。
色とか甘みとかついてないのは、ない。

これ。

Pedialyteは名前のとおり、もともと子どもがお腹をこわした時に水分と電解質を補給する要の飲料ですが、今では二日酔い用によく売れてるそうです。
ポカリスエット、今なら米国で売れると思うけどなあ。
(名前は変えたほうがいいですよ)

5日目か6日目、やっとピーピーが少し収まってきた頃、よろよろとスーパーに行ってふと目にとまり、買ってみたこれ、KOMBUCHA。棚から私を呼んでいるような気がした。

飲んだとたんに、しゅわしゅわー、と胃に下りていく感じが実に頼もしく、その朝まではまだシクシクと針で刺されるような痛みがじわじわあったのだけど、コンブチャ一気に飲んだらもうその日のうちに完全復活。

初期に飲んでおけばもっと回復が早かったかも!と思ったくらいです。 



コンブチャから後光がさしているようだ。その後も飲み続けてます。微生物パワー強力!栽培しようかと思うくらい。

しかし、4日間は大根粥しか食べられなかったにもかかわらず、大変残念なことに腹まわりの脂肪はほとんど減りませんでした。ちぇっ。

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2016/05/14

メキシコシティの屋台とチョコレートカフェ  



メキシコシティのホテルのレストランは高くてオサレ(シアトルにあっても違和感ない今ふうの内装、でも音楽がやたらうるさい)だったけど、味は別に普通でした。

朝ごはんはホテルのブッフェを利用しましたが、朝からかなり肉々しいがっつりした料理が並んでました。赤いマンゴーやグアバなどのフルーツは豊富でした。

仕事で会った別の会社の方の話では、ヒルトンの朝食ブッフェはかなり本格的なメキシコの伝統料理が出て、とてもおいしかったそうです。

ある朝の朝食には「虫」も並んでいたとか。オーセンティックですね〜。
 
ホテルから数ブロック離れたあたりに屋台が並んでたので、ある日の夕飯の後にクライアントさんと行ってみました。「独立記念塔」の近く。

お祭りのりんご飴や焼きそば売ってるみたいな夜店の屋台で、いろんな具材のタコス屋さんが出てた。具材の名前が書いてあるけど、わからない…。いちばん無難そうな、削ぎ肉にしました。

2個7ペソ(50セントくらい!)で、うまかった!


爽やか笑顔のタコス兄ちゃん。 

でもこの2ブロックほど先のPuente de Alvarado という通りに出ると、超ハイヒールの男のおねえさんが角に立っているは、完全に頭がどこかと交信中な感じの人がパンツ(下着のパンツ)を膝まで下げてなにかをブラブラさせながらウロウロしているは、かなりやばい場所でした。

後でタクシー運転手のエドガー君に聞いたら呆れた顔で「あんなとこに行ったの?」と言ってました。
数ブロックで雰囲気が全然違います。夜は注意です。


ディエゴの壁画を見たあと、歩いてホテルに戻る前に寄った、歴史地区のカフェ、El Moro (エル・モロ)。

1935年からあるという、チュロスとチョコレートのお店です。歴史地区をグーグルマップで見ていて偶然みつけて、なにこれ絶対行きたい!と思って無理やり最後に時間を作って寄りました。

店内には壁にタイルが貼られ、モノクロ写真が飾ってあって、フリーダの時代そのままって感じ。チュロスを山盛りにしたお盆をテーブルに運ぶウェイトレスさんの制服もとてもクラシック。


歩いていると汗びっしょりになるくらい暑かったので、エスプレッソ入りの冷たいチョコレート(アイスカフェモカですね)とチュロスをオーダーしました。
お会計は映画館の窓口みたいなところで。長い清潔な前掛けをしたフロアマネージャーのような男性が英語で「いかがですか?」ととても丁寧に対応してくれます。

冷たいチョコレートは、ほんとにおいしかった。
チョコレート&チュロスという組み合わせは強烈だけど。


チュロスおじさん。メキシコの人は、写真撮っていい?と聞くとたいていポーズをとってくれます。

言葉もできない迷惑な観光客が入り込んできても嫌な顔しないで親切に根気よく対応してくれる。


店の外にも行列ができていたので見ると、サンドイッチを作って売ってるのでした。
そういえばピラミッド観光に忙しくて、朝からあまりちゃんとしたものを食べてなかった。空港についてから何か食べればいいやと思っていたのですが、この「Torta de pierna con mole(モレソースのかかったサンドイッチ)」が超うまそうなので買っていくことにしました。

アステカ的な顔立ちの眼光鋭いお兄さんがテキパキと作ってくれたモレ・サンドイッチは35ペソ。2ドルくらいです。

激ウマだったんですけど、しかし、私はとんでもないことをしてしまったのでした。つづく。

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2016/05/13

宮殿のレーニンさん


ピラミッドを見たあとに、改めて行ったベジャス・アルテス宮殿。

1934年完成の建物です。宮殿といっても王族の住居ではなく、劇場と、有名な壁画がいくつか飾られている吹き抜けのホール、それから音楽ミュージアムがある文化施設。


中はきらびやかなアールデコ様式。

1980年代後半から90年代前半のバブルな東京にあったディスコを思い浮かべてしまいました。

でも2階と3階の壁を飾る壁画は、1930年代から50年代に描かれた社会主義革命的な、プロレタリアートよ民族の血よ立ち上がれと呼びかける熱いものばかり。


レーニンさんがいました。

フリーダ・カーロのパートナーであったディエゴ・リベラが頼まれてニューヨークのロックフェラーセンターの壁に描いたけれども、あまりにもプロレタリアート革命讃歌な内容で、極めつけにレーニンがいたために廃棄されてしまったという大作『Man at the Crossroads』。これを見に来たのでした。

リベラさんは失意のうちにメキシコに帰国し、母国で再びこれを描き上げます。
このいきさつは映画『フリーダ』にもでてきました。


トロッキーさんもいる。
この壁画がロックフェラーセンターに描かれようとしたというだけでも驚きです。
(トロッキー、マルクス、エンゲルス、ダーウィンはメキシコの新しいバージョンに付け加えられたそうです)。

高校の授業らしい一団が来ていて、ドーセントがすごく熱心に子どもたちに絵の説明をしていたけれど、スペイン語なのでひとこともわからなかった(涙)。

メキシコの歴史はほとんど知らなくて、ウィキペディアをちょろっと読んだくらいじゃとても頭に入りません。何度読んでも挫折するマルケスの小説みたいだ。


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2016/05/11

ピンクの町


テオティワカンへの途上、メキシコシティからちょっと北に出ると、両側の丘がてっぺんのあたりまでカラフルな色でうめつくされていました。

液体胃薬の「ペプト・ビズモ」そのままの、ホットピンク。どムラサキ。赤。青。

特に圧倒的にピンクが多く、その次に目に染みるようなムラサキが目を引く。

ちなみにペプトビズモはこれです。

ドライバーのエドガー君によると、「これはみんな、ガバメントの造った住宅。おカネのない人が住んでいる」。
公団住宅みたいなものらしい。

「政府が無料でペンキをくれるので、みんなその色を塗る。自分では選べない」
のだそうです。えー、このピンクとムラサキはガバメントイシューなのか!

そういえばタクシーもピンクであった。明るく楽しい街づくりのため?


おもちゃのブロックの町みたい。特にピンクやムラサキの家に住めといわれて暴動が起きるでもないので、みなそれなりに気に入っているのかもしれない。

たしかに全部灰色のコンクリの箱で埋め尽くされているよりは…心が明るくなるとまでは言わずとも、インパクトは強い。

朝、反対車線がメキシコシティに向かう車で大変な渋滞でした。

「片道3時間かけて通う人もたくさんいる」とエドガー君。

えっ、片道3時間?いくらなんでもそれはないだろうと思ったけど、エドガー君は真剣にいうのです。
「そして10時間働く」
メキシコでは10時間労働がデフォルトなのだそうだ。
そして午後3時から午後10時くらいまでは車が渋滞するので、帰りも渋滞。

「…なんだかそれは。大変なライフスタイルだね」
「うん」
「メキシコシティでは8割の人が貧困層だって聞いたけど」
「それは本当。80%が貧乏、5%が金持ち。15%がミドルクラス。80%の人は月収500ドルくらい」

だから、たとえスピード違反とか駐車違反とかでチケットを切られても、おまわりさんに200ペソ(11ドルくらい)のワイロをあげれば何でもチャラにしてくれるのだそうだ。ポリスのお給料も500ドルくらいだから、貴重な収入源なのらしい。
街中のいろんなところに何もしないで立っている警官がたくさんいたけど。


「何度もカクメイがあったのに、暮らしは良くならないのね?」
というとエドガー君は苦笑いして言った。
「政治家はほんとに何も気にしない」

ほんとに何も知らなかったけど、色々すごいメキシコシティでした。

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2016/05/10

テオティワカンで死ぬかと思った


メキシコシティで泊まったホテルの窓からのながめ、朝7時ころ。

目の前のビル屋上にも、ピラミッド型の意匠がありました。(手前の左側に2つ並んでます)。

タクシー運転手エドガー君の最初のオファーは、

「8時半にホテルに迎えにいって、フリーダ・カーロ記念館を見に行って、それからテオティワカンに行って、そのまま空港へ」

というものでしたが、ピラミッドには暑くなる前に行きたかったので、朝7時半に迎えに来てもらうことに。いつもは9時から仕事を始めるというエドガー君、7時半というと一瞬ひるんだものの快諾してくれ、7時20分にはきちんと髪の毛を整髪料でツンツンにしてやって来てくれました。

この半日の観光は、フリーダ・カーロの住居を記念館にした「青い家」とピラミッドの間で激しく悩んだのですが、やはりメキシコシティにはもう来ることはないのかもしれないのだから、世界遺産のピラミッドを実際に見てみるチャンスを素直に活かすことにしました。

メキシコシティ市街に向かう渋滞を反対車線に見ながら小一時間で着いた、テオティワカン(Teotihuacan)。

とても広い遺跡なので駐車場がいくつかあります。エドガー君に2時間後くらいに真ん中へんの駐車場で拾ってもらうことにして、一番奥の入り口で降ろしてもらいました。

開門は午前8時。
着いたのは朝8時半頃で、まだ日が高くなく、メキシコシティの街中よりも空気がひんやりしていて、Tシャツの上にカーディガンをはおってちょうど良かった。
まだ観光客の姿はなし。


ていうか、ほんとうに誰もいなかった。

奥に見えるのが「月のピラミッド」と呼ばれる、この遺跡の中で2番めに大きなピラミッドです。

入場ゲートでキップ(入場料は65ペソ)をチェックするおじさんと、トイレを掃除しているおばさんのほか、人の姿がない。

遺跡の隣の荒れ地でたくさんの犬が吠える声がわんわんわんわん響いてくるのも不気味。

少し離れたところにある最大の「太陽のピラミッド」の頂上近くにはちらほらと人の姿が見えるものの、「月」の方は完全に無人。

もしかして自分は、とんでもなく間違った場所にいるのではないか。
という考えが頭をよぎりました。

乱入した野犬の群れにかこまれて噛み殺される図がちらりと頭をかすめる。

かなりビビりながら「月のピラミッド」へ向かいました。
そしてこのピラミッドが、なんだかほんとに恐かったんですよー。



観光客であふれた真っ昼間なら別なのでしょうが、朝の薄ら寒い空気の中で見るこの建築物は、なんだか冷たい不機嫌さをおもいっきり発散しているように見えました。

なんか、暗いの、雰囲気が。

月のピラミッドの正面に、真四角の舞台のようなものがあります。おそらくは何かの儀式に使われたと考えられているらしい。

あんまり平和な儀式ではなかったような気がする。



帰ってからナショナル・ジオグラフィックのドキュメンタリー(↑)を見たら、このピラミッドの内部からは生け贄と思われる多数の青年の骨が発見されたそうです。ひー。


その舞台から見た月のピラミッド。太陽のピラミッドのほうは眩しい朝日を浴びているのに、ここだけが暗い。

だからなのか、ひどく陰気に見える。

テオティワカンという場所は人口20万人を擁した都市だったのに、アステカ帝国の興隆よりもずっと以前にこの巨大遺跡だけ残して滅びてしまい、文字の記録が残っていないので、どんな人びとであったのかはほとんど分かっていないのだそうです。

「テオティワカン」というのもアステカの人がそう呼んでいた名前で、ここにいた人びとが実際に自分たちを何と呼んでいたのかは謎のまま。

この遺跡の建物は紀元前100年頃から3世紀頃にかけて作られたもので、7世紀か8世紀まで栄えたといわれてます。 

700年以上ここにあって、急に滅びてしまったらしい都市システム。

アメリカが建国200年足らずだから、700年ていうのは長い時間だなあ。


ここから南側を見ると、「死者の大通り」という名をつけれられた、本当にだだっ広い通りが始まっています。20世紀に誰かが作ったテーマパークの廃墟だと聞いても納得してしまいそうな感じのスケール。ちょうどディズニーランドの門をくぐったところにある大通りみたい。正面にシンデレラ城がありそう。

あまりにも綺麗に保存されていてスケールが大きいので、1500年か2000年近く前の人びとが手で作ったものだというのが、どうにもピンと来ない感じです。

この大通りは水を貯めておく巨大プールで、地震や火山の噴火の予測に使われていたのではないかという説もあるそうです。

その死者の大通りの北端にあるのが、月のピラミッド。さて。


月のピラミッドを真下から見たところ。一見して

「これは、無理。」

と思いました。

階段というより、「かべ」にしか見えない。

登れる気がしない。

でもここで登らなかったらこのあと一生「月のピラミッドの前まで行って登らなかった」ことが悔やまれる気がする。
 
それも癪だし、もうここまできて登らないという選択肢はないように思えた。
ので、のぼりましたよ。

怖さに頭が占領されていて、なぜか中央にある手すりに目が入らず、ほぼ四つん這い状態で尺取り虫のように、一段ずつはじっこを登っていきました。

ピラミッドに来る予定はなかったのでもちろんリュックなどは持ってなくて、「トレーダージョーズ」のエコバッグを肩にかけた、ちょっとそこまでお買い物おばさんの格好。

しかも中に入っていたはずの水はエドガー君の車に置いてきてしまい、トレジョバッグにほとんど意味なし。

もちろんすぐに息が切れ、ぜえぜえハアハアしながら、ちらと下を見ると、おしりがひゅうと寒くなる。
日本人観光客転落死。という新聞記事が脳裏をかすめました。
とくに自分は高所恐怖症ではないと思ってたんだけど、意味もなくこんなに高い場所にへばりつくのは向いていないようです。むちゃくちゃ怖かったです。

泣きそうになりながらようやく階段のてっぺん近くまで来た頃、後からオシャレ青年2名が颯爽とやってきて、手すりにちょっと掴まってあっという間に登頂。わたしがまだ尺取り虫状態で途中にへばりついているというのに。

あっ、手すりってあったんだ…と、その時気づきました。



本当に死ぬかと思った約30メートルの階段の上から見た、死者の通りと太陽のピラミッド。美しい。


階段の上。かなり広い踊り場のようになっています。ここも何か儀式の場所だったのかもしれません。右側にオシャレ青年たち。

 
この踊り場の上には、さらに陰気な階段が2セット。でもこの先は立ち入り禁止のロープが張られていました。おかげでもうこれ以上登らなくて済んでほっとした。

もともと頂上には神殿があったと考えられているそうです。

降りる時は手すり(スチールのロープにビニールがかけてあるとても頑丈なもの)につかまって割合にさくさくと降りることができました。さようなら、月のピラミッド。生きて降りられて本当によかった。


「月」のすぐとなりにある、四段のミニピラミッド。
踏み段に、朝日を浴びてくつろいでいらっしゃる地元の方が。世界遺産というより、体育館の裏口にでも座っているような、そういう雰囲気でした。

このピラミッドに使われた石は、ここからかなり離れた火山の溶岩を人力で集めてきたのだという話です。大きめの石のまわりに小石を並べて水玉模様のようにしているデザインはどのピラミッドにも共通してました。


造った人びとが石の色に意味を込めたのかどうかはわかりませんが、テクスチャーも色の取り合わせも本当に綺麗。目の粗い紙にグワッシュ絵の具で描いたみたいな感じです。
特に朝日を受けた色が素晴らしい。この時間に行ってよかった。

大きなカメラを持っていかなかったのは幸いかも。写真を撮り始めたら欲が出て2時間じゃとても足りなかっただろうし、きっと月のピラミッドにカメラを下げて這いつくばっては登れなかったと思う。


月のピラミッドを後に、まだひと気のない「死者の大通り」をとおって太陽のピラミッドへ向かいます。

念入りに作られたシュールな冗談の中で何か自分でも納得できない役割を果たしているような、そういう夢に出てきそうな風景です。


死者の大通りの真ん中で、メキシコおじさんが携帯電話で誰かと議論をしていました。
隣にある丸い石は、ここから出土した水の女神の像だそうです。

 水の女神。

おじさんと月のピラミッドを振り返る。


遠ざかる月のピラミッド。この風景は、なんだかロールプレイングゲームみたいでもある。

そしてこの死者の大通りの真ん中に、メキシコおばさんが一人ぽつんと座ってお店を広げていました。英語がけっこう達者で
「あなたは私の今日の第一のお客であるから、よい値段で売ってあげるわよ」
と、布の上に並べた変な形の土笛とかプラスチック製のピラミッドの模型とかを売りつけようとするのです。

ピラミッドに登ってきた勇者としては、ここで何か強くなるアイテムをゲットしていかねばならない気がして、でも特に欲しいものがなかったので、音楽家のM太郎にあげるため、アグリーな色に塗られたフクロウの土笛を買いました。

デザインはとんでもなくアグリーだけれど音色は素朴で、 おばさんが吹くと本当にフクロウみたいな声がするのですが、帰ってきてどれだけ練習してもなかなかフクロウらしい声になりません。

死者の大通りを歩いていると、真っ赤な小鳥が(名前をエドガー君に聞いたのだけど忘れてしまった)先導してくれました。


太陽のピラミッドには、てっぺんまで登ることができます。右に見えるのは月のピラミッド。
こちらは手すりの存在に最初から気づいていたこともあり、4セットくらいの階段を比較的ラクに登ることができました。少なくとも死ぬほど恐いところは一つもありませんでした。こっちのほうが大きいしずっと高いところにあるのに。

やっぱり月のピラミッドにはなにか殺気があった気がします。


太陽のピラミッド頂上からメキシコシティ方面を見ると、街の上空にスモッグがぺったりとはりついているのがわかります。

地元のティーンエージャーたちがグループで来ていて、楽しそうにケラケラ笑っていました。ピラミッド頂上に座った6人くらいの子どもたちの中の厚化粧した綺麗な女の子が、歌謡曲みたいな歌を歌いはじめて、なかなか上手にコブシをまわしているのでした。ピラミッドにも朝にもふさわしそうな曲ではなかったけれど。


ほんとうに色々な溶岩が埋め込まれています。

この岩たちにもっと触りたくなって、途中から靴をぬいで裸足で階段を降りてみると、足の裏にこの溶岩たちのテクスチャーがとても気持ち良かった。


降りてゆくティーンエイジャーたち。「今日は金曜だからピラミッドにでも行こうよ」と誘い合わせて来たのだろうか。


下から見た太陽のピラミッド。
10時をすぎると人もだんだん増えてきて、土産物を売るおばさんやおじさんも次々に店を広げはじめます。フクロウの笛のほかにもジャガーの唸り声になる土笛も人気アイテムらしく、ピラミッドの下でおじさんがずっとジャガーの笛を吹いているので、とてもやかましい。

メキシコの人たちは基本的に賑やかなのが好きらしく、そのぶん周りの騒音もあんまり気にしないのではないかという気がします。

土産ものやでとてもかわいいオニキス製の猫があったのでピラミッド登頂記念に買いました。

石でできたカメや笛やペンダントを売りつけようとするおじさんやおばさんが次々にやってきます。


「太陽のピラミッド」を振り返る。

ピラミッドから駐車場へ真っ直ぐ続くこの道には、善光寺参道みたいな具合に土産物店がずらりと並び、ピラミッド栓抜きだのアステカのカレンダーだの帽子だのアクセサリーだのを売ってました。

帰宅後、ピラミッド登頂の翌日はびっくりするほどの筋肉痛に見舞われ、2日間は階段を降りるのも一苦労でした。

そしておまけに激しい下痢で寝込むことになるのでした。やっぱり月のピラミッドから何かがやってきたのかも…。


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2016/05/06

メキシコでタクシーに財布を忘れたの話


メキシコシティのタクシーには何種類かあります。

ホテルと契約してホテルの玄関に来る、観光客向けのリムジン的なタクシー
Sitio(シティオ)という無線タクシー
Libre(リブレ)という流しのタクシー

上から下へと値段は安くなりますが、それぞれ、その場の交渉しだいで若干安くなったりもします。リブレは相乗りが普通で、人が乗っていても同じ方向だと後から客が乗ってきたりするそうな。上のピンクのはリブレです。

あと最近はUberも進出しているようです。

流しのタクシーには危険だから絶対に乗ってはいけません!とクライアントさんに釘をさされましたが、だいたいリブレの運転手さんはまずスペイン語しか話さないので、わたしには意思の疎通ができない。

空港から乗ったシティオの運転手さんもほとんど英語を喋らず、行き先を伝えるのにたいへん苦労しました。


展示会の会場からホテルに戻るときには会場のタクシー乗り場にやってきたのに有無を言わさず順番に乗せられるので、リブレにも何度かあたりましたが、クライアントさんの、スペイン語ペラペラでシマリスみたいに超絶可愛いB嬢が運転手さんとコミュニケートしてくれました。笠智衆ドライバーもリブレでした。

リブレはシートが普通に破けていたり、トランクの中がむき出しだったり、かなり使い込んだクルマが多かった。
新しい車はみんな白とピンクに統一されてて、上のみたいなピカピカの電気自動車も見かけましたが、古い車は相当の年代もの。


乗客を拉致して金品を強奪する強盗タクシーが大変多かった(今も出るらしい)ので、市も対策のために10年ほど前からライセンス制度を一新する、車をピンクに統一する(なぜだ?)など、いろいろ努力してるようです。

最近はスマートフォンのアプリで呼ぶタクシーが普及してるそうです(アプリでライセンスとナンバープレートを確認して、ちゃんとした運転手のタクシーかどうか調べられるらしい)。

3日目、午前中お休みをいただいて一人で後から展示会場に行ったとき、当然ながらホテルで呼んでくれるタクシーに乗ったのですが、この運転手さんはかなり英語を流暢に話す青年でした。

翌日の最終日に半日だけ観光できる時間があるので、何をしようか思案中だったのですが、シティからクルマで片道1時間くらいのとこにある世界遺産の遺跡テオティワカンに貸し切り往復1500ペソ(約80ドル)で行ってくれるというので、お願いすることにしました。
メキシコシティの運転手さんはこうやって積極営業します。



ほかのタクシーに比べればきっとバカ高い値段なのかもしれませんが、英語でわりとふつうに会話できる信頼できそうな運転手さんで、エアコンつきの綺麗なSUV(ヒュンダイ)の貸し切りで、観光している間待っててくれて100ドル以下なら、こちらとしては願ってもなし。
 
ツアーに参加するのも検討してみたのですが、タイアップの土産物屋やレストランに寄り、あちこちのホテルを回って帰ってくるのではどうしても帰りが夕方になっちゃって時間が間に合わなかったので、テオティワカン見物は諦めかけていたのです。

この運転手さんはエドガー君という礼儀正しい27歳の青年で、2年ほどオレゴンのポートランド付近の高校に通っていたそうです。
「僕はアメリカよりもメキシコのほうが好きだ」と言ってました。
「ここがホームだから」。
 

さて遺跡に行ったあと、ホテル近くの歴史地区で見逃したベジャス・アルテスの壁画を見たかったので、その前で降ろしてもらい、一旦ホテルに戻ってシャワーを浴びて着替えて荷物をまとめ直してチェックアウトをすませてから、また空港までエドガー君に送ってもらいました。

空港のチケットカウンターでグリーンカードの提出を求められて、かばんの中に財布を探したら、あら。なぜか、入っていない。なぜだろう。


旅先で、その旅に必要なすべてアンドさらに色々大事なものもろもろが入った財布をなくしたのは、わたくし、これが初めてではございません。

以前、子どもと日本に帰ったときに、JRパスとドルと円あわせて6万円くらいの現金とクレジットカード全種類およびグリーンカードまで入った財布を、新宿駅の京王線改札に置き忘れたことがありました。

その時は恐怖のあまり一時体が軽くなるという臨死状態に近い体験をしましたが、幸い親切な方がそのまんままるっと届けてくれて、小一時間ほど冷や汗をかいただけで済みました。

今回はクルマを降りるときに、エドガー君にペソの残りとUSドルの現金でチップをあげて、そのまま座席に忘れてきてしまったのだ!と思いいたり、速攻エドガー君に電話。

「さっさっさいふをっ!あなたの車に置いてきちゃったと思うんだけどっ」

 気の毒そうに見守るチケットカウンターのお姉さんにスーツケースを預かってもらったまま、回りを顧みず超大声でエドガー君に報告。

「…え?」
「さっさいふ!」
「財布を僕のクルマに忘れたの?」
「そう!!…だと思う(であってほしい!)」
「……ちょっと待って。5分くらいしたらかけ直すから」

といったきり、 エドガー君からは10分以上電話がありませんでした(涙)。

もしかしたら空港に着いてから掏られたのかもしれない、ほかにはクレジットカードも現金も何も持ってないので、出てこなかったら日本領事館かどこかに連絡して救助を求めなくてはならないのだな、グリーンカードも入っていたから当分アメリカに入国ができないのだろうか、難儀なことになったものよ、などと考えていると、エドガー君から電話が。

「見つかったよ。空港に持ってってほしい?」
「はいっ(裏声)。ぜひお願いいたします!」
 
エドガー君はかなり離れた場所にいたらしく、15分くらいして別の小さなクルマに乗ってやってきて、
「口が開いてたけど、中身全部入ってるか確認して」と財布を渡してくれました。

ドルとペソの現金を全部使ってしまった後だったので、戻って来てくれた分のお礼もできなかったのですが、「良い旅を!」とニコニコして去っていきました。

いい青年や(涙)。

どこまでも詰めの甘いというか脇が甘いというか、ほんとに無事に今まで生きてこられたのはありとあらゆる周りの人に恵まれていたからだわ。

この次の旅行ではクレジットカード1枚とグリーンカードは別の場所に入れておくことにしよう。

でもこの日、詰めが甘かったのはこれだけではなかったのでした…。つづく。


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