2017/08/27

干潟の鳥の楽園


かなり前だけど、タコマのちょっと南にあるNisqually National Wildlife Refugeという場所に行ってきました。「二スカリー国立野生生物保護地区」、でいいのかな。


 ここです。
ピュージェット・サウンドの一番奥まった場所。


高速道路のすぐそばにあって、オリンピア方面に行くたびに道路から見えるので気になってたのです。けっこう広い。

ここはU.S. Fish and Wildlife Service(合衆国魚類野生生物局)が管理していて、けっこう立派なビジターセンターがあり、すごく立派なボードウォークがある。


連邦政府の予算で作られた施設というのは、国立公園もそうだけど、とにかく立派で、サイズがでかい。ここのボードウォークも、野鳥観察のためだけならここまでしっかり作らなくてもよかったんじゃ?と思うほど、幅も広いし頑丈に作られてます。小さな車なら通行できそう。


ビジターセンターからしばらく砂利道を行くと、ボードウォークが始まります。
トレイルは往復4マイル( 約6キロ)くらいです。けっこう長いです。


干潟の上をえんえんとボードウォークが続くだけなんだけど、鳥はたくさん見られます。

途中にあずま屋があって、そこの軒にツバメが巣をかけてました。まだ初夏だったのでひながピーピーいってました。
干潟の先のほうにはcaspian tern(オニアジサシ)の群れが水の上で餌をあさっていて、アザラシも何頭か泳いでました。

以前にイエローストーンに行ったときに買ってあんまり出番がなかった双眼鏡を持参。
オニアジサシはすごく鮮やかな色のくちばしを持つ、オシャレな配色の鳥です。グレーが綺麗。


上の写真はこちらのサイトからお借りしました。



タコマ山またの名をレーニア山も、ちょっとめずらしいアングルから登場。

ハクトウワシが何羽か、頭上を飛んでいきました。


白人がやってくる前のこの一帯はえんえんとこういう風景だったんだろうなあ、て感じです。


トレイルの脇に古い納屋がふたつ並んでいて、フォトジェニックでした。

えんえんと平らな道を歩くだけのトレイルではあるけど、とにかく広々していて静かで、鳥たちを見ながらのんびりできます。

暑い日にはお水と帽子を忘れずに!

シアトル近郊、今年の夏は本当にお天気が良かったですよね。


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デスノートinシアトル


「Translation」というキーワードでGoogle のアラートを作ってるんだけど、アラートで上がって来る記事の中に「lost in translation」というセンテンスでひっかかった記事が毎週必ず何本か入ってます。

アラートの意図とは若干外れるものの、この中に意外と面白いニュースがあったりする。

今日のはこれ。

Netflix's 'Death Note' gets lost in translation

この記事ではじめて、Netflixオリジナル映画で『デスノート』がリメイクされてて、しかもその舞台がシアトルだっていうことを知りました。

ここ数週間、Netflixにログインさえしていなかった。

さっそくログインしてみたら、一番最初の画面にでてきたよ、『Death Note』が。
わたしの観る映画の傾向にはまっていたのであろうか。

そこで、ちょっとだけ見てみました。


んー。


最初の15分だけ見て、やめた。

アメリカ版の「L」はぜひ見てみたいんだけど。

またいつか、時間ができたらのこりも見てみます。

オリジナルの(日本映画の)『デスノート』も、10年くらい前に見たんだけど、松山ケンイチ君がでていたということのほか、きれいさっぱり忘れてしまった。
でもNetflix版よりは、もっと断然、質感の高い映画だったような気がする。

原作も読んでないけどあのインパクト強い死神は知ってるよ。


ところで、「おどろおどろしい日本のヒットホラーのリメイク」となるとなぜシアトルが舞台になるんでしょうか。

アメリカ版『リング』(2002年)は、じっとりと怖くて静かで、日本の松嶋菜々子主演のよりもさらによかったと思うけど。

フェリーから馬が海に飛び込む場面とか、寂しくて怖い島(あれってどこあたりの設定なんだろう?)とか、ほんっとにじめっとした暗い感じがよかった。
あの映画を見た頃は、その先にシアトルに住むようになるとは思わず、「暗い街だなあ」と思って見ていました。

なかなかアメリカで日本のホラーの湿度が再現できる街って他にないのかも。シアトルはそんな実際には湿った土地じゃないんですけどね、雨が多いだけで。

でもあの映画も、撮影はバンクーバーだったと聞いた。「シアトルが舞台」という映画のほとんどはバンクーバーで撮影されてるんだとか。この『デスノート』もそうかもしれませんね。


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2017/08/26

エッグホワイトのオムレツ


カルボナーラを作るといつも卵白があまってしまって困っていました。

クッキーでも作ろうと思って冷蔵庫にしまってそれきり忘れてしまったことが何度もあり、発見するたびに悔恨の情に悩まされていたのでしたが、超簡単な解決方法にやっと重い至った!

エッグホワイトオムレツというものがあったのだった。
なんと簡単な。
単に泡立てて焼けばいいのね!


手間は泡立てる2分間だけ。長年の悩みが氷解!

ふわっとした食感が面白いオムレツになって、軽めのチーズをはさんでもおいしい。

この日のは泡立てが少し足りなくて、半分くらい目玉焼きの白身ふうになってしまった。

泡立てた卵白って不思議な食べものですね。「そうだ卵白を泡立ててみよう」と最初に思いついた人はどこの人だったんだろうか。

文明の利器、電動ハンドミキサーがなかったら、とてもじゃないけど朝からこんなものを作っていられませんけど。

そしてミキサーがあっても、わたくしはシフォンケーキに成功したためしがありません。
うちのシフォンケーキ(未遂)はいつも、完成予定の半分くらいの高さにしかならない。

なぜなんだ。気合いの問題のような気もするが、違うような気もする。
シフォンケーキが作れる人にはなにか特別なオーラがあるんですよ。


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2017/08/24

たこ船長と村上春樹の90年代


街角アートボックスの中で、わたくしが一番好きなのがこれです。
フリーモントのあたりのいつも通るとおりの脇にあり、信号待ちでいつも癒される。


首すじに緑のタコがからまっているというのに、船長さんは「まあ世の中、こんなこともあるよね」と、落ち着いたものである。こういう人になりたいものです。

ああこういう船長さんちょっとムラカミハルキ的だなあ。

今、村上春樹さんの『やがて哀しき外国語』というエッセイ集を読み返していて、これがすごく面白い。

これは90年代に村上さんがプリンストンに住んでいたときのエッセイなんだけど、今読むとその時代と今とのなんともいえない距離感がたいへん味わい深い。


「この国を内側からつぶさに見ていると、勝って勝って勝ちまくるというのもけっこう大変なことなのだなあとつくづく痛感する。ベトナムでは挫折があったものの、確かにこの国は冷戦にも勝ったし、湾岸戦争にも勝った。でもそれで人々が幸せになれたかというと、決してそうではなかったようだ。

人々は十年前に比べてより多くの重い問題を抱えて、そのことでいくぶん戸惑っているように見える。国でも人間でも、挫折や敗北というものが何かの節目においてやはり必要とされるのかもしれないという気がする。

でもだからといってアメリカにとって代わるだけの明確かつ強力な価値観を提供できる国家が現在他にあるかというと、これはない。

そういう意味では、現在の一般的アメリカ人が感じている深い疲弊の感覚は、現在の日本人が感じているむずむずした居心地の悪さと裏表をなすものではないかという気がする。単純に言ってしまえば、明確な理念のある疲れと、明確な理念のない居心地の悪さ、ということになるかもしれない。このしんどい選択は我々日本人にとっても、あるいはこれから先大きな意味をもってくるのではあるまいか」(はじめにp21 )


90年代はじめ、日本はまだバブルの最後の時期で、アメリカの都市はスラム化と犯罪でたいへんなことになっていて、日本バッシングが厳しかったとき。
大学村のようなプリンストンで過ごしていた村上さんは、アメリカが「明確な理念のある疲れ」を感じている、と感じていたという。

いまのアメリカと日本を知ってこの文章を読むと、感慨深い。

21世紀になって、「明確な理念」が破産してしまったうえにとんでもない大統領を生んでしまったアメリカ。
20年たってもやっぱり明確な理念はぜんぜんない日本。

都市は見違えるように「再生」したけれど貧富の差はますます拡大して、お金持ちのプレイグラウンドが目につくところに増え、「明確かつ強力な価値観」はまっぷたつに分裂して暴力を生んでいるアメリカ。

それでもそういう価値観が求心力を持ち続けるところが、アメリカという国の面白いキャラクターで。ほんとうに、この国って特殊な国なんだとつくづく思う。

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2017/08/22

Blue and Green, In and Out



ウェストシアトル上空。

タコマ山またの名をレーニア山が霞の上に見えて、この写真の1億倍くらい綺麗でした。

飛行機からピュージェット・サウンドを見るたびに、なんとまあ美しい場所なんだろうと思います。

シアトルはほんとうに緑が多い街です。ニューヨークもサンフランシスコもメキシコシティも、公園はあるのだけどそれ以外の地域は赤茶けた中に建物がびっしりと何かの菌のようにはびこっていて、上空から見てもせせこましい。

シアトルは上からみてもたっぷりの緑と青にかこまれています。


カリフォルニア某所のIn-N-Outというファストフードのレストラン。
レトロなデザインが可愛いです。

そしてこのパームツリーはいったいどうしたのでしょうか。わざとこういうデザインに生やしているのか。スケールの大きな盆栽みたいな。

みんなここのバーガーはおいしいというけど、デザインはともかく、別に感動するようなところはなかったなあ。マクドナルドやバーガーキングに比べてちょっと手作りっぽいという意味なのかな。
シアトルのLil Woodysなんかのほうが全然うまいよ。まあファストフードと地元の独立チェーンを比べちゃいけませんね。

わたしはDick's Drive-Inのぺらっとしたチーズバーガーも好き。

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日蝕ツアーその後


オレゴンに行ってた息子が電話のメッセージで送ってきた写真です。

「写真は撮らねえ」はずだったんですけど、やはり抗し切れなかったらしい。
三日月型の影。太陽がかげってくると、木漏れ日がこんな三日月型になる。

大昔に東京で部分日食があったときにもこんな三日月型の木漏れ日を見たことがありました。 長く生きてると日食も何度か見るようになるもんだ。
皆既はまだ見たことがないけど。

快晴の空の下で皆既日食を見た息子は、「シュールで、現実じゃないみたいだった」といってました。

コロナもはっきり見えたそうで、20秒ほど青い光がLEDのスポットライトのようにみえたそうです。いいなあ。

今日はしかし、オレゴンからシアトルに戻るのに大渋滞で12時間以上かかったそうです。
ははは。そのくらいは仕方ないでしょうね。

わたしも、今日は午前中みっしりと大事な会議という謎のスケジュールだったんですが、ちょうど10時半ころの休憩で、ちょこっとだけ、三日月型になっている不思議な太陽がみられました。

次回の日食、飛行機の上で観てみたいなあ。


でもほんと、特別に日蝕のときでなくても「畏怖」を感じることはできるよなあと思います。

わたしはその昔、10代のとき(ほんとに大昔だわ)、今はなき渋谷の五島プラネタリウムというところで切符切りの仕事をしていたことがあります。プラネタリウムが見放題の素敵な仕事だったんですが、あの古めかしいロビーに、リアルタイムの太陽を映し出すモニターがありました。

たしか、さしわたし60センチか70センチのくらいの大きさに太陽が映し出されていて、時々黒点やフレアがあらわれるのでした。

ある暇なとき(ていうか勤務時間の80%くらいは暇でした)にその太陽をぼーっとみていると、女性の学芸員さんが通りかかって、「地球はこのくらいの大きさなのよ」と、そのモニターの上に親指と人差し指で、5ミリにも足りないすき間をつくってみせてくれました。

その時の衝撃は今でも引き続き感じつづけています。
地球、ちっちゃすぎ!と思ったものでした。


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2017/08/21

日食が脳を変える


ダウンタウンの南、シアトル港をすぎたあたりに貨物用の線路が道路と並行して走っていて、コンクリート会社が専用に使っているらしい。そこにおきっぱなしになってるこの貨車が気になってました。
いい感じにサビがでた上に、ミロのヴィーナス??のような顔がずらっと貼られている。
アメリカの貨車はラクガキにおおわれていることが多いけど、このグラフィティは気が利いてるな、と思ってたら、数日前に見ると、顔がいくつかはがされたり黒く塗られてて、F--k White Spremacy(白人至上主義はクソ)という殴り書きがふたつ追加されてました。

うーん、どうせなら殴り書きじゃなくてもっとこうパンチのあるのにしようよ。


ツイッターで見たこれはオシャレ(「移民は犯罪ではありません」)。

ところで今日のシアトル・タイムズに、たとえば日食などのすごい体験で畏怖を感じると脳がどうなるかについての面白い記事がありました。

アリゾナ州立大学のシオタ教授の研究によると、Awe(畏怖)を感じたあとの被験者は、新しいアイデアにオープンになりやすく、記憶を捏造しにくくなり、より批判的思考がしやすくなるのだそうです。つまり、偏見なしに世界を見るのがより簡単になるんですね。

さらに、祈りを捧げている修道女と瞑想中の仏教の僧の脳の活動をMRIで観察したところ、きわめて似た状態の畏怖を感じていることがわかり、感情と記憶をつかさどる辺縁系が活発になるのと同時に、空間の感覚や自己認識をつかさどる頭頂葉が静かになっているのが分かったそうです。

実は幻覚きのこやLSDでもこの頭頂葉の活動が抑制されることによる自己感覚の喪失、空間認識の喪失というのは起こるのが知られているそうです。

修業を積んだ僧が瞑想で会得する感覚ときのこのトリップによる感覚が全く同じといっていいのかどうかは議論になるところだろうけれど、要はそこから日常世界に何を持ち帰れるかが違うということではないでしょうか。

人の世界観を変えるような畏怖は、なにも日食とかグランドキャニオンとか幻覚きのことかそういう日常の常軌を逸したスケールの体験にかぎらず、どこにでも転がっているんですよ、という研究者の言葉を記事は引用しています。

「畏怖は人を連帯させる」とも。
ネオナチの人びともISISの人びとも、宗教的な畏怖を知っているのに違いないのだけど。宗教の中心にあるのは畏怖と、自己の消失ですよね。それをもっとうまく使う方法はないのかなあ。

思うのだけど、モノのインターネットや人工知能がもっと発達してきたら、人類は良かれ悪しかれ「自我」の境界がだんだんあいまいにならざるを得ないところにいってしまうのではないかと思います。

それが恒久的な平和につながるかというと、そうでもないという気がするけど。


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