2017/06/07

どこへ行こうというのだ


うちのモンステラちゃん。
息子の部屋が東向きで午前中よく日が当たる環境が好きらしく、めきめき育っています。
4年前にCTちゃんちの株から小さい葉っぱを切ってきて挿し木したもの。

そしていつの間にか、気根が…


いったいどこへ行こうとしているのだ。

パンダナスという木はこういう気根をたくさん出して、歩いているように見えるので「歩く木」といわれているそうですが。

うちのモンステラちゃんも、だんだんと植木鉢の外に茎を張り出して、テリトリーを拡張する気まんまんな感じ。

ところでやっときのうの夜中にレポート提出したった!
11時59分締め切りのところ55分に提出という、危ない橋をわたる大人。

もう今回はどうなることかと思いました。

論旨組み立てるのと文法とか語彙を調べるのとほぼおなじ時間を費やしてる気が。
たった10枚のレポートを書くのにいったい何十時間かかっているのだ。
もったいなくもこのクラスのために断ったお仕事がいくつもあるので、オポチュニティコストを考えるととんでもなく高価なレポートである。誰か買ってください。

ちなみにお題はリチャード・ドーキンス。去年比較宗教の時間にちょっと取り上げて気になっていて、ブログに書いたこともあった無神論者界のスーパースターです。
がつんと言ってやったのでスッキリした!

そして同時にいくつか進行中だった仕事も全部納品が終わったので、文化祭の打ち上げのように大変ハイな状態です。 ヒャッホウー!

明日はうちの息子のグランマがルイジアナから卒業式のために来てくれるので、とりあえず先週からずっと見てみぬふりをしていた掃除とせんたく!


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2017/06/06

愚妻とファンタスティック社員のあいだ



近所はあちこちバラが満開。そのへん一周してくるだけで植物園のよう。近所の園芸家さんたち、ありがとうございます。家が立て込んでくるとだんだん緑も少なくなっちゃうんだろうなー。

忘れてました。先月末にデジタルクリエイターズに掲載していただいたぶん。

*********

日本語でよくある言い方をそのまま英語にすると、時にとんでもないことになる(逆もまた真なり)。デビッド・セインさん&岡悦子さん著『その英語、ネイティブはハラハラします』(青春新書インテリジェンス刊)という本には、日本人がうっかりニュアンスを知らずに使ってしまう可能性がありそうな残念な英語表現と、その代わりに使うと良いアメリカ英語のよくある表現がたくさん紹介されていて、とても面白い。

その中で、
「会社のパーティーに夫婦で出席して、同僚に妻を紹介」というシチュエーションで、

「これ、うちの愚妻でして、もう、なんにもできないんですよ」

と、日本の人がいかにも言いそうな言葉をそのまま英語に直訳して言ってしまうと……というのがあって、爆笑してしまった。

「This is my foolish wife. She can’t do anything」

うわははは。たしかにアメリカでこんなことを言ったら、普通に頭がおかしいと思われるだろうし、最悪、奥さんが虐待を受けているのではないかと心配されて通報されちゃうかもしれない。まさか本当にこんなこと言う人はいないと思うけどね。

しかし、60代くらいの昭和サラリーマン世代ならともかく、今でも「愚妻」なんて言う人がいるんだろうか。と思ってググってみたら、「発言小町」の2016年6月の「夫が私を愚妻って呼ぶのがむかつく!」というトピを発見。トピ主を「日本の謙譲語を知らないのか」と叩く人あり、「そんなのいまどき聞いたことないよ」という人もいて、興味深い。
http://komachi.yomiuri.co.jp/t/2016/0605/764852.htm

ちなみに「愚妻」とか「愚息」という言葉は、「私の」という意味を謙遜した言葉であって、単に「自分の妻」という意味であり「愚かな妻」という意味ではない、と主張している人がいるけど、要するに「バカな自分の身内です」ということで、どっちにしても褒めてはいない。むしろ「バカな自分」の属性としてしか身内の個人を認識していない、または「バカな自分」に取り込んでしまっていて、自立した人格とはみなしていないという意味で、欧米的な視点からみるとさらにヤバヤバである。

身内を自分の延長とみなして、その属性とか実績はけっしてソトに対して褒めたり自慢しない、という常識が21世紀になってもまだまだ日本の「美徳」とされているのは面白いなあと思う。

何が美徳であるのかについての社会的な合意は、「発言小町」の反応が真っ二つに分かれてるように、どんどん変わっている。とはいえ、やはりざっと見た感じでは、「それが日本の常識でしょ、何いってんの」という意見のほうが多かった。日本の美徳はしぶとい。または、美徳にまだ何のヒビが入っていなかった時代の社会への郷愁が、しぶといのかもしれない。

社会の構造が今よりもカッチリしていた頃、「愚妻が…」という言葉を使う人はたぶんある一定の身分を持った男であり、おそらくその一家の唯一の稼ぎ主であったはずだ。教養もあり卑しからぬその人が「愚妻が」というその妻は家を守るだけの賢さはきちんと持ち合わせた育ちの良い妻でありそのことを夫も誇りに思っているがそんなことは教養ある者が人に言うべきことではないので謙遜しているのだよ、と、聞く側も説明がなくてもひと息にちゃんと了解できていた。こういうのがつまり文化的なコンテクストというものであるのは間違いない。

日本人が身内や自分を褒めないのはその文化的なコンテクストゆえだが、そのコンテクストがやっぱり少しずつ、コンクリで固めても固めても岸辺が波に侵食されるように崩壊しつつあるのだと思う。

社会の構造は大きく変わっているのに、文化的な了解事項はたぶんいつも少し遅れてついていく。そこに葛藤が生まれないわけがない。

日本の文化はペリーの黒船来航以来、160年以上にわたって、ゆっくりと崩壊していく、または変わっていくコンテクストへの対応に苦しんできたんじゃないかと思う。節目節目で社会は大きく変わりながら、その苦しみはまだまだ続いている。これは特に日本だけの現象じゃなくて、どこの国でもそういう新旧の軋轢は当然あるはずだ。(アメリカでも、たとえば世間一般の了解事項が大きく変わるのにつれて、マイノリティやジェンダーや宗教にまつわる言葉には大きな変化があったし、今でもそのへんには大きな軋轢がある。)

ところで、アメリカ人はとにかく身内を褒める。

息子が小学生の頃、サッカーのチームの親たちが、自分の息子もよその息子もわけへだてなく、褒めて褒めて褒めまくっているのがなんとも眩しかった。
こういう文化なんだと頭ではわかっていても、やっぱり日本で生まれ育った私は「Sくんは足が速いね」「…が上手だね」などと他の親に褒められると、「いやいやいやいや、でも小回りが利かないんですよ」「でも……はできなくて」など、何か別の案件を持ち出して速攻否定したくなる衝動を抑えられないのだった。

夫婦でも、自分の旦那様や奥様のことを「彼は料理が素晴らしく上手なのよ」とか「彼女はいろんな分野に精通してて、すごくクリエイティブなんだ」とか、何の留保もなく、率直に、100パーセント、よく褒める。

親子でも兄弟姉妹でも、とにかくソトに対してもお互いの間でもよく褒める。しかも、本心からそう思って言ってるのだ。少なくとも本人は本心だと思っているに違いない。

「健全な精神を持つ大人は、自分や身内を肯定的に捉え、それを世間に躊躇なく宣伝するべきである」というのが米国の社会常識、文化コンテクストだといっていいと思う。実際に行って見てきたわけではないけど、読んだり聞いたりした話ではほかの西欧諸国でもそうなのらしい。

会社文化にも、この違いははっきり表れている。

この間、携帯電話のキャリアを替える手続きにウェブのチャットを使った。こういうチャットや電話でのカスタマーサービスは、途中で別の部署の担当者が出てきてプロセスを引き継ぐことがある。この時も最初にでてきたチャットの担当者は、私が他社から乗り換えで新規にアカウントをあけたいと希望しているのを確認すると、新規顧客の担当に引き継いだ。

そして次に出てきた担当者のセリフ。
「It looks like you were last engaging with our fantastic chat advisor Joe and you were interested in the XXX plan …..」
(うちのファンタスティックなチャットアドバイサー、ジョー君とチャットしてたようですが、その話によるとあなたはXXXプランに興味があるようですね…)

ファンタスティックかよ!と思わず静かに心の内で突っ込みを入れずにいられなかった。

日本のカスタマーサービスで、
「弊社の素晴らしいアドバイザーがこのように言っておりましたが…」
なんて言ったら、若干頭のヘンな人と思われてしまうのではなかろうか。

わたしが東京にいた20世紀後半から比べると少し変わったのかもしれないけど、日本の会社文化からこの「ウチ・ソト」意識が消えることも、まだ当分はないのに違いない。その反対に、アメリカで内外に向かって社員を褒めたたえる文化はますます加速しているようにみえる。

「愚妻」と同じで、日本の美意識では、家族なり会社なり、属するグループの身内をひとまとめにして捉えて、ソトの人たちをそれより高いところにあるものと(仮に)想定してへりくだるのが折り目正しい社会人の態度とされる。

アメリカの企業は、内外に向かって、「ウチの会社では社内の個人もこんなに尊重してるんですよ!」ということを宣伝する。

アメリカ人が書いた英語の会社情報などを日本語に訳していると、こういった、ウチ・ソト意識の日本の常識との間のギャップに悩むこともある。

日本の会社ならば社内の人間に敬称をつけず、身内のこととして謙譲語を使うのは常識だけど、アメリカにはその分け隔てはない。たとえば社員を褒めたたえている広報資料があったとして、それにどこまで日本式の「へりくだり」ニュアンスを入れて訳すべきなのか?

すべてを日本式にして謙譲語を使うのも正しいとはいえない。会社の持つ文化や主張がアメリカ式のスタンダードなら、それはそのまま伝えるべきだ。でも読者に傲慢な印象を与えては広報の意味がない。

そのへんはもちろん最終的にクライアントさんの判断になるものの、翻訳者としてどのような提案をすべきなのかは悩みどころである。

特にクライアントさんに日本語ネイティブスピーカーがいない場合などは「こういう場合、これが日本の標準ですよ」といちおう胸をはって提案してみるものの、媒体により、読者により、場合により、正解は一つではないので、常に悩ましいのだ。



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2017/06/05

酒粕甘酒とチキンスープだ!


ニュウヨウクに行ってかえってきた息子がその日から風邪引いてゾンビのようになっているのをやれやれと眺めていたら、ちゃっかり伝染っていた。

しかもこのタイミングでかー!

喉いたい、身体のふしぶしが妙にいたい、咳が出る という繰り返し。今回の風邪は、症状がでなくなったと思ったら半日くらいおいて、またぶり返す。どういうシステムなんだ。

レポートの締め切りと仕事の締め切りがかさなったうえ、ウイルスもー。
家のまわりの短い散歩のほか、またもや引きこもりの週末なり。 わたくしにライフという文字はないのか。ぢっと手をみる。


風邪の迎撃!キムチとビタミンCに、「飲む点滴」甘酒も追加投入。
友人みぽりーぬが、甘酒すげーっすよ!と言っていたのでいつか試してみようと思っていた。

麹は入手できず、酒粕で。驚くほどにかんたんでした!

酒粕100グラム、水500CCで、しばらくおいておいて、がーっとかき混ぜて弱火であたためるだけ。
50度を超すと酵素がおなくなりになってしまうのでその前の微妙な温度が良いそう。なので、弱火で作ってみた。でもこれ沸騰させないとアルコール分が飛ばないので、意外に仕上がりはドブロク。ていうかこれはマッコリ?(発泡はしていないけど)
飲みくちはそんなにアルコール分を感じないのだけど、お酒に弱いわたしは(なにしろコンブチャで酔うこともある)、いつの間にか、なにげに酔いがまわっていてびっくり。

沸騰させてもまだまだ栄養素はいっぱい詰まってるそうなので、アルコール飛ばしてもムダではなさそうですが。しょうがと蜂蜜をもりもりいれて。おいしいです。


そして鶏スープ。これも超簡単。冷凍庫に眠っていた骨付きチキンをしょうが、にんにく、ねぎと共に水にほうりこみ、煮るだけ。煮えたらご飯やマロニーを投入してもう少し煮る。本当にずぼらそのもの。でもうまい。

風邪ひいてる時は鶏スープがどうしてこんなにおいしいのでしょう。
味つけはハワイアンソルトと唐辛子のみ。あとラー油もたらり。

鶏肉だけは、オーガニックのが断然おいしいと思う。うちのはそんな由緒正しい地鶏とかじゃなくてトレジョのだけど。

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2017/05/31

カンファタブルなところ


このあいだファーマーズマーケットで母の日に息子が買ってくれたアイリス。

見れば見るほどヘンな花ですね。

ニューヨークシティ見物から息子が帰ってきて、どうだった?というと、アメージングで、そして、カンファタブルだった、という。

ハーフ日本人だけど見た目はブラックアメリカンな彼としては、白人ばっかりのシアトルとは違って、どこに行っても実にいろんな人がいて、すれ違う人が色とりどりな環境が居心地よかったというのだった。少しびっくり。

ふーんそうなのか。

高校4年間と大学4年間をすごしたシアトルで、それでもまだどこにいっても白人だらけという環境にはコンシャスになるのね。へー、やっぱり私の感覚とは違うのな。

わたしはガイジンなので、まわりが(自分にとって)ガイジンだらけでも異国にいるなら当然かと思って暮らしているんだけど、彼にとってはシアトルというのは自分のホームなのに常にアウェーな環境なのだ。

その点ハワイでは完全に同化してて、小さい時はサモア人に「お父さんサモア人?」と聞かれたこともあったけど。

大学4年間通って、卒業間際の今学期になって初めて黒人のプロフェッサーの授業を受けて、ちょっと感動したという。

彼はほんとのブラックコミュニティを知らないで育ってるので、 これからいろいろ自分発見があることでしょう。

まあニューヨークに住んでみたら、きっとシアトルがどのくらい別の意味でカンファタブルだかわかると思う。

先週末は、ポートランドの電車の中で、頭のおかしいレイシストがティーンエイジャーの女の子に怒鳴りまくり、止めに入った乗客3人をナイフで刺して2人がなくなるという事件があって寝込みたくなった。

どうしても話の通じない頑固で暴力的な人は一定数いるし、いなくなることもないと思うけど、そういう穴居人のような人がトランプ登場以来勢いづいてるのはFOXニュースのレポーターが何をいおうと事実。

超リベラルなポートランドのしかも公共交通の中でこの事件があったのは衝撃的だった。
ニュースを読むたびに涙。

何をカンファタブルと感じるかは人それぞれだけど、どこにいても絶対安全ということはないですね。


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2017/05/29

たくましいと恥ずかしいと、君の名は。


最近、日本から来た翻訳者さんとかクライアントさんとお仕事をする機会があると、かならずといっていいほど
「たくましい」
といわれることが多い。

「やっぱりアメリカに長い方はたくましいですね」

みたいな。
最初にいわれたときは、褒め言葉かと思ってちょっと照れた。

どこがどのようにたくましいと思われるのか謎であるが、しかし、そのうちにこれは絶対に褒め言葉ではないんだろうなというのがうすうすわかってきた。

太った人を「ぽっちゃり」と言ったり、取り付くシマのないほど話の通じない人を「変わってる」というのと同様のポジティブ変換なのだろうと思われる。

だとしたらポジティブ変換する前の言葉はなんだろうか。

「図々しい」
「がさつな」
「空気読めねえ」

あたりであろうか。

日本にもたくましいおばさんはたくさんいるはずであるが、やはりこちらでよりも風当たりが強いのではないだろうか。


こういう感じ?たくましいシャルロッテちゃん。

基本的にアメリカの人はあまり人の目を気にしない。みんなが守っているらしい文化的な不文律を、自分は読み切れているんだろうか?イケてる線からはみ出していないだろうか?と不安を感じることが、あんまりないんだと思う。というか、感心するほど、自分をイケていると信じている人が多い。

ティーンエイジャーくらいじゃないですかね、みんなと同じでないと不安を感じるって。

同じ階級の同じカテゴリーの狭い社会の中で優越感を感じてほくそ笑んだり焦燥感を感じてキィィとなったりは当然あるのだろうけど、その枠を出てしまうとほんとに無数に物差しがあるので風通しがよいのだ。

で、知らない間に逞しくなっいるらしいおばさんとしては、ちかごろの日本の感性についていけないことがあると、最近よく感じるようになってしまった。

この間、シアトルでもロードショウ公開されていた(市内の2館で3週間くらいやってたと思う)『君の名は。』を観に行った。英語字幕付きの日本語版公開でした。

『シンゴジラ』と同様、日本で超絶ヒットしたというので、かなり期待して観に行ったんだけど、これが驚いたことに、私には全然入り込めなかった。

高校生、美しい大災厄、すれ違い、古い神様の魔法、タイムスリップ…などという、好きになれそうな設定がてんこ盛りなのにもかかわらず。

おばあちゃんや妹もよかったし、キャラクターは可愛いし、「ど田舎」の風景も良いのだけど。


なんというか本当に本当に、線の細い映画だと思った。

こんなに線の細い映画が大ヒットするって、日本は大丈夫なのか?と、余計な心配をしたくなってしまうほど。

なんだかすごく痛々しい映画って気がしてならなかった。
どうしてそんなに内向きになるんだろう?
過去をどうにかして変えたい、ってみんな切実に思ってるのだろうか。
シンゴジラにもこの映画も、311の大震災の記憶が色濃くて、その癒やしのための映画なのかもしれないと思ったりする。でもそれにしても繊細すぎ、閉じすぎていないだろうか。

観終わってからずっとモヤモヤしてたんだけど、この間「邦画大ヒットの年に是枝裕和監督が『日本映画への危機感』を抱く理由」という記事を読んで、そうなのか!と思った。

是枝監督はこう言っている。

「この2作品は、観ていますよ。周囲でも話題になっていましたからね。両作ともヒットの理由は、とても理解できます。とくに『君の名は。』は、当たる要素がてんこ盛りですからね。ちょっとてんこ盛りにし過ぎだろ、とは思いましたけど。この映画に限らず、女子高生とタイムスリップという題材からはそろそろ離れないといけないのではないか、と思います」   (引用終わり)

(記事の主旨そのものは、日本映画が若手を育てるシステムになっていないことを危惧する内容です。)

 当たる要素がてんこ盛り…うーんそれでも盛れば盛るだけ必ず当たるというものでもなかろう。
 たとえばこのあいだ炎上したペプシのCMのように、盛ったら盛っただけその全部が裏目に出るということだってあるだろうに。


すべてが裏目に出たCM。

『君の名は。』を観終わって感じた居心地の悪さというか恥ずかしさは、このCMを観たときとちょっとだけ似ていた。

お好きな方には申し訳ありません。たくましいAKAがさつなおばさんの感想にすぎませんのでお気になさらず。


完全に自分をイケていると思っている、しんのすけ君。彼は実際とてもイケている。


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2017/05/28

ねこ充


超快晴の連休ですが、このお嬢さんのアテンドをしながら、まったりと仕事など。
友人M太郎君がおでかけの間、猫のシャーちゃんとお留守番。

リア充の人々が海へ山へ湖へバーベキューへとお出かけの間、断固として、ひっそり猫と充電の日々。ねこ充である。

先週来るはずだった翻訳原稿も、ライターさんのほうが遅れてて来るのが連休後になってしまった。

まとめてやれば2日でできるはずの仕事をダラダラするほかに、期末レポートの仕上げに集中しようと思ってたのに、ドラフトへのフィードバックがまだプロフェッサーから帰ってこない…。

フィードバックを待たずにどんどん進めればいいんだけど、腰があがらーん。

来週、(いやもう今週だった!)はきつくなるのがわかっているのだけど、お尻に火がつくまでエンジンがかからないのは幼稚園以来変わらない。…と、よく昔母が言っていたな。

かといって、読みさしの本を積み上げてみても、集中しない。

締め切りに追われてあたふたとアイドリングが高い状態で回ってる時のほうが、精神的にはラクだなあ。いったんまったりしてしまうと、回転上げるのに時間がかかる。



仕事が詰まってる時と、ダルダルしている時の人格はけっこう違う。

だるだるしている時から回転を上げるのがもっとうまくなるといいんだけどなー。

とりあえず早足散歩がネジ巻きの役に立つことが、最近やっとわかってきた。40年前にわかってたら良かったんですけどねー。


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午後9時の夕日


シアトルの南、ロドンドビーチのボードウォーク。
ビーチとは名ばかり、砂浜らしきものは数メートルくらいしかない。
ボードウォークは早足でがんばって歩いて片道7分くらいでした。


向かいはヴァション島。
その後ろのオリンピック半島の山に、日が沈む。

静かなピュージェット・サウンドの中でもここの水は静かで、いつ見ても池のようです。


日没は午後8時54分。午後9時すぎに夕日で空が真っ赤て、北国すぎる。
シアトルは暖かいので、緯度が高いのにあんまり北にいるという実感ないのだ。


日が沈み始めると魚があっちでもこっちでもぴちぴち跳ね始める。
アザラシが時々水面に頭を出してました。
あまり水の上には出てこなかったけど、たぶん水面下ではアザラシたちが何頭も連れ立って夕食に魚を食べまくっていたのでしょう。




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