2016/05/02

大聖堂


歴史地区の中心にある街の目玉、メキシコシティ・メトロポリタン大聖堂。

スペインから来てアステカ帝国を滅ぼしたコルテスが、アステカの古い神殿の上に建てさせたのがはじまりという教会です。

アメリカ大陸では最大の聖堂。
16世紀から何度も増築されて19世紀に完成したという巨大な建物は、なんだか要塞みたいです。外から見ると、ものすごい威圧感。明るくオープンに人を招く教会とは違います。


わたしはヨーロッパに行ったことがないのでわからないんだけど、この威圧感は、ヨーロッパの古い聖堂とはまたきっと違う種類なのじゃないかな。

異民族を征服して、その上に建てられた大聖堂。

そして今では8割の人がカソリックという国で、ありとあらゆる望みと祈りを何世紀にもわたって吸収してきた施設です。


ぜんぜん知らなかったんだけど、WIikiを読んだら、慶長使節船の支倉常長もここに来たことがあったそうです。そもそも慶長使節も支倉常長も知らなかった!日本史情弱!

伊達政宗はメキシコと交易しようとしてたんですね! そんなことすら知らなかった。すごいな戦国時代。伊達政宗の野望がうまく行っていたら東北はスペイン語圏になっていたかも?


巨大聖堂の中には普通の教会の大きさの祭壇が2つと礼拝室が16もあります。

現代では、聖堂のほとんどの部分は観光客のためにも開放されていますが、Altar of Forgiveness(赦しの祭壇)といくつかの礼拝室は「祈りのためだけ」に取り置かれ、写真撮影は禁止。
「祈りだけ」のスペース入り口にはおばさんが2名立っていて、「only for prayer!」と入る人に釘をさします。


それぞれの礼拝室には熱心に祈っている人もたくさんいました。


1960年代の火事でかなり損傷したそうです。内装はどのくらいがオリジナルなんだろうか。


聖壇横の観光客エリアから見たAltar of Forgiveness。
黒いイエス・キリストの像が有名ですが、なぜ黒いのかについて、伝説以外の説明はなし。


伝説というのは、聖職者が毎日祈りを終えた後、このキリスト像の足にキスをしているのを知っていた暗殺者が、足のところに毒を塗って聖職者を殺そうとしたら、聖職者がキスをする前に急にキリスト像が黒くなったという話。

だからこのキリスト像は Lord of Poisonと呼ばれているのだそうです。
そんな話をわざわざ作る必要があったのは、「黒」は忌むべきカラーだという前提があればこそで、有色人種の土地に白人が作った教会であればなおさらだったのでしょう。

でもこの黒いキリスト像には、引き寄せられるような迫力がありました。


巨大なパイプオルガンを2つも備えた聖堂。
何世紀もかけて増築されたので、バロックから新古典様式までいろいろな様式が入り混じっています。


これは中央の聖壇。
きちんとスーツを着た中年の男性が長い間祈っていました。


わたしが今まで見てきたアメリカのキリスト教会の空気とは、まったく違う世界です。
重々しくて、簡単につながれない。
正直、どう感じていいものかわからず、呆然としてしまった。

呆然としながら3つの入り口から入って3つの出口を出て、3通りの順路でうろうろと小一時間ほど過ごしました。
吸収したいんだけどもうどうにも歯が立たない、美味しそうだけれど油っぽくて固くて噛みきれないごちそうを前にしてウロウロする野良犬のような心持ちでした。

この複雑さ、壮大さ、壮麗さ、重々しさは、そのまま、スペインとメキシコの歴史と、カソリック教会そのものの複雑な存在感に重なると思う。あまりにも重層的で、理解はおろか、簡単に見尽くすことができません。

何十世代にもわたる祈りと、絶大な権力と、さまざまな思惑と争いのエピソードが何百も何千もあちこちに織り込まれている、壮大な物語。


午前中の強い日光がちょうど差し込んでいて、さらにドラマチックな効果を上げていました。


ステンドグラスだけが20世紀風の素朴でシンプルなデザインで、色合いも不揃いな直線もとても素敵なのだけど、いったいいつのものなのだか、サイトにも説明が見つからなかった。


ちょうど午前中の祈祷が終わったところでした。


制服姿の小学生男子が廊下でケロケロ笑っている姿にちょっとほっとしました。


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2016/05/01

高山病、スモッグ、壁画、ピンヒール


メキシコシティは標高が高い(2240m)ので高山病になりやすい。

到着した日、イミグレーションが長蛇の列で(3機同時に到着したのに係員が3人しかいなかった)入国までに2時間以上かかり、立ちっぱなしで本を読んでいたら、だんだんと頭痛がしてきた。

ゆっくりと重いもので締め付けられるような頭痛が夜まで続き、一晩寝たら少し良くなったものの、翌日もうっすらと頭全体を絞られるような頭痛。

バファリンをもらって呑んだらその日はすっきり回復したけれど、勝手の違う土地に来たな、という感触がありました。


そして、とても空気が悪い。
飛行機の窓から見て、街がオレンジがかった靄のようなものに覆われているのに驚いた。
土の色も屋根の色も褐色系なので、全体に茶色っぽい。

主に排気ガスによるスモッグらしく、誰に聞いてもメキシコシティの3大プロブラムは渋滞とスモッグと腐敗した政治家だと言ってました。

スモッグは鼻毛が伸びるレベル。
そして、高度に体が慣れるまでに2日か3日はかかるようです。
5日目の最終日はすっかり元気になって、よし勝った、と思って調子に乗って後で大変な目に遭ったのですが、それはまたのちほど。


4日め、仕事の最終日に、嬉しいことに午前中お休みを頂いたので、さっさと朝食を済ませて、ホテルから歩いて30分ほどの歴史地区へ。


「建国の父」ベニート・フアレスにちなんだフアレス通り。

大きな公園にジャカランダ(たぶん)の紫の花が咲いていました。
歩行者信号はアニメーションになってて、とことこ走る姿がかわいい。


Palacio de Bellas Artes、パレシオ・デ・ベジャス・アルテス。この名前がどうしても覚えられなくて、頭の悪い子どものような悲しい思いをしました。
「宮殿」という名前ではありますが、なかみは美術館とコンサートホール。 20世紀初頭の建築です。ここは午前10時からで、9時頃に行ったらまだ閉まっていたので、中を見るのは次の日にしました。

警備員さんだかポリスだかが勤務中に靴を磨いてもらってました。いいのか。


宮殿前でウマに乗っているこの人は。
レ、レーニン? 違う? 誰の像だか見てきませんでした。
ベジャス・アルテス宮殿の中にも、ディエゴ・リベラの描いたレーニンがいるはずなのですけど。

泊まったホテルのあるこの地区には、革命記念塔と独立記念塔をはじめ、大きなモニュメントや彫刻がとてもたくさんあります。

道端にあったフリー図書館。アメリカのと同じく、自由に読み終わった本を持ってきて、新しいのを持っていくシステムらしいです。
素朴な木製のカゴがいい味出してます。ピンクと緑はメキシコシティのデフォルトカラーらしい。タクシーもこのピンク色です。


壁画の国だけに、大胆で面白い壁画もあちこちに。


ベシャス・アルテスの先は歴史地区。古い建物も多くて、見飽きない。
ラベンダー色の戸口に鮮やかなバラが。

こんなに自由時間が取れるのならば、ちゃんとしたカメラを持っていくのだった。
ウォーキング用の靴さえ持っていかなかったので、まず目についた靴屋さんでウォーキングシューズを買いました。


路地ではおばさんが何やらおいしそうなものを作って売っています。トリの唐揚げみたいなものと豚のなにかだそうです。
せめて数くらいでも、スペイン語を覚えていくのだった。「これいくら?」は聞けても、かえってくる答えがわからない(涙)。


素朴で美しい手描きタイルを張った壁、ロートアイアンの扉。こういう意匠の存在は、新しい建築にも影響を与えずにはいないのだと思う。

そしてピンヒールで歩く女性。

展示会場にも12センチのヒールを履いたレースクイーンみたいな格好のお姉さんがたくさんいました。
女性はヒールと厚塗りのメイクアップがデフォルトといってもいい。そして男性は整髪料でツンツンにした髪がデフォルト。

濃いです。
シアトルとはだいぶ、人としての前提が違う。

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2016/04/27

メキシコシティの超絶技巧タクシー



メキシコ・シティに来ています。

友人たちに「メキシコに来ている」というと、なぜか誰もが「新婚旅行?」と聞くんですけど、違います。仕事です。

安全業界関連の展示会があって、日本企業のお手伝いのためにやってきたので、いまのところホテルと会場をタクシーで往復するだけですが、それだけでかなりスリルが味わえています。


メキシコシティの道路は地図を見るとまったく「バイパス」という概念がないっぽい造りで、アメリカの都市の定規でひいたような道路とは正反対。「なんとなくこんなになっちゃいました」というように、あっちにごちゃごちゃこっちにごちゃごちゃと繁華街があって、まとまりなく成長したまんまになってるっぽい感じ。メキシコシティの都市計画について何も読んだわけじゃないので勝手な感想ですけど。
ラッシュアワーは午後3時から10時くらいまで!だそうで、クルマがみんなごちゃごちゃの繁華街を通り抜けてほかのごちゃごちゃの繁華街に流れて行くので、完全なカオスです。

車線があるんだかないんだかよくわからないほど道路はクルマで埋まっていて、赤信号でも交差点にはみ出したクルマが交差する道路の通行を堂々とふさぎ、そのクルマの間をこじあけるようにして他のクルマが割り込んでいきます。

ここではドライバーの強固な意思だけが道路を制するようです。

渋滞の列に有無をいわさず斜めに割り込み、合図もなにもせずに車線変更し、するするとすり抜けていくタクシー運転手さんの超絶的な技巧には、思わずひぃぃ!と冷や汗の出そうな瞬間もあるものの、感動を覚えてしまいます。

今日乗ったタクシーの運転手さんも、笠智衆みたいなおっとりしたしゃべり方のおじいちゃんだったのですが、ニコニコ話をしながら強烈に割り込みをかけ、路地をすり抜け、的確なハンドルさばきで隣のクルマとの間に3センチくらいのスキマを保ちながら車線を変えていくウルトラ級ドライバーでした。


しかも信号待ちのクルマの間には、↑このように、キャンディやなにかを売りにくる人がやってくるし。
でもこれだけカオスな渋滞の中でも、それほどイライラしている人はあまりいないような気がする。
運命を受け入れるように渋滞を受け入れているような。なんとなくそう感じるだけだけど。

タクシーの窓から眺めるだけですが、メキシコシティの建物って、とてもお洒落。
新しいのも古いのも。
この飴売りおじさんの後ろにある市松模様の建築中のビルも、かなりツボです。


これもタクシーの窓から撮ったiPhone写真。かわいいアパート。

古い都市だけに建物のデザインがどことなくヨーロッパ風で、ちょっとした細部がさりげなくかわいい。

気合いを入れるところがアメリカの標準とは少し違うようです。


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2016/04/26

タコマのレインフォレストへ


タコマの近くにあるポイント・デファイアンス公園にいってきました。
ピュージェット湾の一番下のあたりに指のようにつきだした小さな半島の先を、そっくり敷地にしたかなり広い公園で、小さなビーチもあり、動物園と水族館もありますが、今回はそちらじゃなく、森歩きへ。


羽毛のようなフワフワの苔。


本当は週末かけてオリンピック半島のレインフォレストに行きたかったのですが、それほどの時間がとれなかったので、お手軽なこちらの森へ。


公園内の森にトレイルが張り巡らされていて、隅から隅まで歩くと 2.5キロくらいになるようです。

お手軽な散歩コースのわりに、レインフォレストの標本のようなミニ森で、巨木もちらほらと残っています。


何年も前に倒れたらしい木の幹を覆い尽くすように、苔やシダや若い木が生え出しているのがあちこちにみられました。

すさまじい縄張り争い。「共生」という状態は、実は苛烈な「ニッチ争い」の結果でもある。


これは、倒木の根を、木の「下」側だった根っこのほうからみたところ。倒れてからどのくらいになるのか、シダや灌木がアレンジしたみたいに生え出しています。


これも原型が溶けてしまったかのような古い巨木の根。


かと思うと、他の木の幹を抑えつけるように伸びる若い木もある。植物に遠慮なし。

ダイナミックな生命力あふれるミニ温帯雨林でした。


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2016/04/16

たてもの物語(1)レーニア・タワー




シアトルの隔週情報紙『ソイソース』で、また連載をさせていただくことになりました。

以前はシアトル周辺の歴史について、なんの前知識もなくいろいろ調べつつ、面白いと思ったことを書かせていただいたのですが、今回はシアトルの「たてもの」の話です。

一回目はこのレーニア・タワー。コラムはこちらです。

このビルは、シアトルに来て間もない頃から、そのキノコ的な形状がものすごく気になっていた建物。


シアトル出身の日系建築家、ミノル・ヤマサキの作品です。

コラムでも書いたとおり、20世紀を代表する不運な建築家といわれる人ですが、相当なシャレ男でプレイボーイでもあったらしい。この人を主人公にした映画を作ったら面白いと思う。

彼の代表作といわれる2つのプロジェクトは、どちらももうこの世にありません。




一つ目は、世界貿易センター。(Wikiより拝借)。


二つ目は、スラム街を解消するためモダンな団地を建てたら、その団地がスラム化し、わずか15年ほどで1972年に取り壊された住宅プロジェクト、「プルーイット・アイゴー」。

これは映画『コヤニスカッツィ』に使われた、プルーイット・アイゴーの姿。


こっちのドキュメンタリーも気になる。建築と計画の失敗だと言われているけれども、それは「伝説」であり建設はスケープゴートにすぎず、本当は政策と社会全体の失敗であって、未だに問題は続いているのではないか、という視点のドキュメンタリー。 YouTubeで全編が公開されてます。


ヤマサキのもうひとつの作品がレーニア・タワーのはす向かい側にあります。
IBMビルディング。こちらは1964年に完成。

その10年後に作られたレーニア・タワーのデザインは、このIBMビルディングの大きなアーチとその上からまっすぐ伸びる印象的な直線というデザインに呼応してる、というか、それをさらに引き伸ばしたものなんですね。


レーニア・タワーのある一画は、ワシントン大学が所有してます。

シアトル黎明期にはダウンタウンにキャンパスがあったので、けっこうな地主なのらしい。
(通りの名前も「ユニバーシティ・ストリート」です。)



このブロックはレーニア・タワー以外は低層建築なんですが、ここに58階建てのビルを建てる計画があります。

Rainier Square 建設プロジェクトのサイトから。

レーニア・タワーの曲線に呼応して、タワーが尻すぼみになっているのと反対に末広がりのデザイン。
シアトルのアイコンのひとつであるレーニア・タワーに敬意を表しています。

ホテルとリテールと200室の高層コンドミニアムになる予定だそうです。
市からは去年末に許可が下りて、着工は2017年、完成は2019年の予定。


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2016/04/15

いつか蟻になる日まで


最近、蟻のことをよく考えています。

蟻ってヘンないきものですよね。

人間的な基準で考えると。

ひとりの女王蟻から生まれたクローンみたいな働き蟻たちが、全体のために喜々として、一丸となってはたらいている世界。

蟻の中にも個性があって、あんまり働かない働き蟻とがむしゃらに働く蟻があるみたいですが、それにしても、蟻たちに「自分」という感覚はどのくらいあるんでしょう。

 

蟻の感覚と人間の感覚を比べるのもなんですが、蟻たちには人間のような「自分」の感覚がないのではないか。「自分=全体」という感覚で彼らは生活しているのではないかと思うのです。

そしてそれは蟻たちにとっては幸福なことなんだろうと思います。

だって彼らには彼らの共同体だけが「世界」なんだし。辛い思いをしている蟻は、いないんじゃないか。
「ほんとうは空を飛びたかったのに!」とか「ほんとうは違うことをしていたいのに」とか「あいつのほうがアタシよりいい思いをしている。ちくしょー」なんて、彼らは思っていないから。たぶん。


全体のためにせっせと働くことそのものが嬉しくて嬉しくて仕方ない、営巣工事でも外敵から巣を守る戦いでも、共同体のための活動が直接、「自分」の利益になるセカイ。
そこには犠牲の精神はありません。
だってすることが全部、「自分」のためなんだから。

この間ラフカディオ・ハーン先生の『怪談』を読んでいたら、うしろのほうにアリの話が載っていました。『虫の研究』というエッセイの中の一編『蟻』です。

「社会進化論」「適者生存」という考え方を編み出した哲学者ハーバート・スペンサーの論をひいて、ハーン先生は

「社会進化に関して、この昆虫の方が、むしろ「超人」的に進歩していることを認めるのに、だれもちゅうちょしないであろう」

と言ってます。
そして、

「蟻社会の生態のうちで、われわれの最も注目に値するものは、その倫理的状態である。しかもこれは、スペンサー氏が、道徳進化の理想は「利己主義と利他主義とが、たがいに区別のないまでに融和折衷されている国家」であると述べている、その理想を実現しているのであるから、人間の批評を絶しているのである。いいかえると、非利己的な行為をするという喜びが、唯一の有能な喜びになっている国家である」

とも。

そして、ハーバート・スペンサーの「いずれ人類は、倫理的に蟻の文明と比較のできる、ある文化状態に到達するだろうという信念」を次のように引用しています。

「利己的目的を追求する際に奮起するのと同様、あるいは同様以上に、利他的目的を追求する場合にも、奮然決起することのできる本性を生み出すのは、すでに有機的組織のうちに、それを産み出す可能性があるからだという事実を示している」というのがスペンサーの主張。なるほど。

「有機的組織のうちに、それを生み出す可能性がある」 というのは、すでにもうアリで実現してるんだから、ほかの生物でも実現する可能性があるだろうという意味ですね。

などと考えていたら、愛読している「セーラー服おじさん」のメルマガにも、蟻のことがでてきました。(Otakuワールドへようこそ!4月1日号「自閉症の時代」

 ++ここから引用+++++

「脳内には脳細胞がいっぱい詰まっていて、それらが互いに結びついていて、情報をやりとりすることによって、総体として意識が生じているものらしい。そうだったとしても、脳細胞一個一個の側が、自分が全体の意識の形成のために小さな役割を負っていることを意識できてはいまい。


一匹一匹の蟻は、大した知能をもっているように見えないが、一群の蟻が全体として、意識や意志をもって振舞っているようにみえるときがある。眼前に溝があって、越えなくてはならないとき、蟻自身が材料となって、互いに連結しあって橋をかけたりする。

もしそうだったとしても、一匹一匹の蟻が、群れとしての意識を形成するための一素子の機能を果たしていることを意識してはいないであろう。

もしかすると、人間も、一人一人が脳細胞一個の役割を負い、人の集団が全体として意志をもつように機能しているのかもしれない。もしそうだったとしても、一人一人はそのことに気づいていない。」


+++引用ここまで++++

蟻社会と人間社会のありかた。今の人間の社会でも、もしかして、一人ひとりの人間は気づかないレベルで全体のために動いているのではないかという。うーん、なるほど。

「ガイア」論みたいに、個をぜんぶまとめたところで人類が生命体として活動していて、個人は気づかないうちに役割を振られているという感じか。


でも今のところ、素子同士で忙しく殺しあったり憎みあったり絶望したりで、蟻たちよりずっと幸せ度は低いですね。




 

19世紀の学者であったスペンサーの考え方は、19世紀の人らしく、高尚な倫理の状態に向けて社会は進化していくのではないか、というものでしたけど、倫理とかそういう価値観を別にしたところで、メカニズムとして、蟻社会と人間社会に似たところはあるのでしょうか。

蟻たちが全体のためにまるで一個の生命体のように、自他のインセンティブをまったくひとつにして働いているのと、マクロな視点でみたときの人間社会に、似たところはあるか。

わたしは、そんなにはない、と思う。今のところは。
でもこれから本当に人工知能が発達して、人びとが「繋がる」ようになったら、だんだん蟻的世界になっていかざるを得ないのでは?とも思う。

さいきん、蟻のことをよく考えるのは、技術的特異点(シンギュラリティ)についての「予言」に衝撃を受けてから。2014年のIJETでの斎藤さんの講演を聞いて、世界終末を予告されたような衝撃をじわじわと受け、いろいろと人工知能について読んだりしていましたが、それから2年、メディアでも人工知能についてどんどん取り上げられるようになってきました。いまいち話が咬み合っていない情報が多いですが。

レイ・カーツワイルさんは、

2045年には「人類の生物学的知性とコンピュータの人工知能を組み合わせた『人類文明の全知性』は、現在に比べて10億倍になっている。そのとき、コンピュータは血液細胞とほぼ同じ大きさになっている。人類は脳の内部にこのテクノロジーをはめ込み、脳をクラウド上に置き、思考をさらに大きくする――」

という状況になっているといいます。(NHKのインタビューから)

シンギュラリティをあまりのホラ話だと言う人もいるけど、そういう人こそ本当にどうかしていると思う。


30年後ではないかもしれないけど、100年のうちにはいずれそのくらいのことは起きるのだろうと思います。

AIがほんとうに完成して(いまの時点で実用化されている「人工知能」ではなくて「知性」を持った存在として)「脳がクラウドに直結」することが可能になったとき、「人類対人工知能」の戦いが起きるのではないかと恐れている人もいるようだけど、それも違うと思うのです。

そうではなくてむしろ、「旧人類(いまの人類)」対「新しい人類 powered by 人工知能」の対立になるのではないだろうか。

AIとつながることを絶対に拒否し続ける人びとと、つながってしまった人びと&人工知能のカタマリとの間のどうしようもない断絶が、しばらく続くのではないでしょうか。

互いにほっておければいいのだろうけど、そうでなければ小規模なハルマゲドンみたいなものがあちこちで勃発する。 ISISとかみたいな過激な原理主義的グループが荒野や山に立てこもって、データセンターを破壊しようとゲリラ戦を繰り広げたりする。

そしてつながってしまった人びとは、蟻的な存在に「進化」する。
つまりスペンサーが予言した「倫理的に蟻の文明と比較できる文化状態」に。

なーんて思うんですけどね。

極端な二極化じゃなくて、その中間の「部分的にAIとつながる人類」っていうのもアリなのかなあ。

クラウドに脳のナカミをアップロードしてっていうのが本当に可能になったとしたら、その時点でもうその個人は、今の常識でいうところの「人間」ではなくなり、今のわたしたちが考えるところの「個人」であることも終わるはずですよね。

いまの「人間」というのは、感覚器官をそなえ、常に身体の中と外の情報をその感覚器官から得て、細胞をめまぐるしく再生しつつ、物理的空間の中で自分なりのセカイを構築しつつ動いている、生きものですから。生きものである以上、身体というユニット単位で「個人」がある。そのユニットを隔てる壁がなくなってしまうということ。

クラウドにつながった「脳」というのは、身体をなくした、いわばユウレイのような存在ではないのか。世界中に存在する膨大な感覚器官から絶え間なく情報を受取るのにしても、身体に閉じ込められた「個体」であることをやめたときに、「個人」と「全体」の境界は、今の人間が自分について抱いている感覚よりも、ずっとずっとずっと薄いものになっているはず。

蟻の感じている「身体性」というのは、もしかしたら「個体」ではなくて「全体」にシンクロしている部分が多いんじゃないかしら。

クラウドにつながった「次の人類」は、きっと蟻の巣のように考え、行動するのではないか。

あるいは、私たちがまだ知らない、全体の中の個のあり方があるのかもしれませんが。

21世紀はじめの今の社会でも、すでにだんだんとSNSや携帯デバイスを介して人はつながってきていますけど、この流れが徐々に脳内情報ダダ漏れの時代へと「進化」していくのか、どうか。

いまの私たちが、個人情報ダダ漏れの危険に目をつぶってもグーグルなどの便利なサービスを手放せなくなっているように、人は脳内ダダ漏れと引き換えに、身体能力や知識を拡大させていくことを選ぶようになっていくのではないか。

『マトリックス』でトリニティーが数秒でヘリの操縦方法を仮想脳内にダウンロードしたみたいに、だんだんと「学ぶ」方法や「経験」ということの意味が変わっていくのかもしれません。


蟻の写真はなかったので、だいぶ前のスペースニードル写真でした。鳥居のような色の野外彫刻はアレキサンダー・リーバーマンの「Olympic Iliad」。


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