2015/09/23

キューバサンドイッチ紛争


シアトルいちおいしいキューバ風サンドイッチの店、PASEO のことはずっと前にも書きましたが、去年の11月、この店が突然閉店してしまった時には、シアトル中が大騒ぎになりました。

大げさのようですが、本当にちょっとした大ニュースでした。


背景はもちろん詳しく知りませんが、メキシコ系の従業員に差別待遇と給与不払いで訴えられていたそうで、急に破産宣告をして店を閉めてしまったのでした。

シアトル中のサンドイッチファンが嘆き悲しみ、キックスターターで店を買い取って再オープンしようなんて話がすぐに盛り上がったくらい。結局、シアトルの企業家でパイクプレイスマーケットの委員でもあるライアン・サントワイヤさんが9万1000ドルで買収して、わりあいすぐにフリーモント店が営業再開しました。

でもなんと、この9万1000ドルには、秘伝のソースのレシピは含まれてなかったそうです。

レシピなしで9万ドル。お買い得なのか。

フリーモントの店は元従業員がそっくり切り盛りしてて、ソースのレシピがなくても工夫に工夫を重ねて以前のサンドイッチと同じ味を再現した、と胸を張ってます。

私も再生パセオに2度ほど行ってみましたが、ピンクの店の佇まいも、行列の長さも、味も、ほとんど以前のままでした。

唯一、以前は現金オンリーだったのが、今度はクレジットカードが使えるようになっていて、さらに嬉しい。

良かったよかったと思っていたら、うちの近所にこの夏、新しいキューバサンドイッチ店がオープンしました。

Un Bien というこの店、前のパセオのオーナーの息子たちがオープンした店なのだそうです。
新聞記事で読んで、すぐ近くだし、とるものもとりあえず行ってみました。


やっぱり行列ができてました。待ち時間20分ほど。

記事では、以前のパセオのオーナーの息子であるロレンツィオさんは、新しいパセオに対して「悪い感情は一切ないし、競争するつもりもない。むこうはむこう、こちらはこちらで仕事をするだけ」と言ってました。 


以前のパセオのフリーモント店のレジのとこにいた、バナナに抱きつく猿くんはこちらに転居してました。

こっちも「Credit is GOOD」と、カード対応になってます。

値段はほぼ同じ、ひとつ約10ドル。どちらの店も、SODOにあるMacrina Bakeryのパンを使ってます。

私のお気に入りはベーシックな「グリルドポーク」。
うちの息子は、豚肩肉をほろほろに柔らかくなるまでローストした「カリビアンロースト」がお気に入り。

どっちも、秘伝または挑戦者の特製ソースをたっぷりつけて焼いて、とろっとなるほどグリルした玉ねぎ、シラントロ、ロメインレタスがはさんであります。

食べくらべてみて、私はどっちかというと、新生パセオのほうがおいしい気がしました。
どっちもおいしいのだけど、パセオの玉ねぎのほうがじっくり焼いてあって風味がよかった。
 でもキッチンに入ってる人によって若干味が変わるだろうから、甲乙つけがたいってとこだと思います。

映画『シェフ:三ツ星フードトラック始めました』は、とてもキュートな、ハッピーになる映画でしたが、この映画をみてキューバサンドイッチを食べたくなったらこの2店のどちらかへ! 絶対ソンはしませんよー。

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2015/09/17

エクス・マキナ再び 知らない間に集められているアレについてと、ペッパー君のオレオレ詐欺


夏学期で取った、「Anthropology of Body」という講座では、最後のレポートに映画『Ex Machina(エクス・マキナ)』を取り上げました。前回ブログに書いたときには映画館でさらっと一度見ただけでしたが、今回レポートを書くんでDVDで見なおしました。

この映画、意外なことに、今のところ日本公開はまだ決まってないそうです。(2015年9月現在)
*追記:2016年6月11日に日本公開が決まったようです。

設定については「ありえない」とけなしてしまいましたが、映像はリリカルで画面がとっても美しく、インテリアもかっこいいし、ディテールまでデザインが素敵。

アンドロイドのエヴァちゃん超カワイイし、良い映画ですよ。

メイキングを見たら、監督のアレックス・ガーランド(『28週後』の監督、カズオ・イシグロの『私を離さないで』も監督も手がけてます。これは未見!みなくては!)

*追記:訂正します。アレックス・ガーランドさん、これが初監督作品で、これまでは脚本と製作をてがけていた人でした。
『28週間後』は製作総指揮、『私を離さないで』は脚本・製作総指揮でした。
大変失礼しました。ダニー・ボイルの『28日後』の脚本もこの人なんですね。ゾンビ映画の中では最高に前向きな。ご指摘くださった方、ありがとうございます!

この映画、いったいどこで撮影したのかと思ったら、ノルウェーなんだそうです。
途中に出てくる滝と氷河が印象的で、素敵です。

カッコいい家のすぐ前に滝と氷河があるという設定。室内も自然石をそのままいかした壁が、とても北欧的な、スーパーモダンなインテリアにすごく合っていました。 ぜひ住みたい家です。しかもアンドロイドつき。

日本で公開しないのは大変もったいない。アメリカでより日本でのほうがファンが多そうなのに!
公開されたらぜひお薦めです。観てソンはないです。

以下、盛大にネタバレますので、これからご覧になる方はこのへんで。ではまた~。



この映画はたいへん登場人物の少ない映画です。主要人物は4人。
美しいアンドロイド「エヴァ」ちゃん、その発明家、ネイサン(オスカー・アイザック)、そしてネイサンが経営するサーチエンジンの大企業に務めるプログラマーの若造、ケイレブ(ドーナル・グリーソン)、そしてネイサンの身の回りを世話する口を利かない謎の美女、キョウコ。

ネイサンは13歳でサーチエンジンのプログラムを発明した天才で、しかしヒョロヒョロのヲタクではなく、毎日ボクシングや筋トレに励み体を鍛えている健康マンです。頭脳も抜群、身体能力にも優れたアルファメールであるネイサンは、自分の作ったアンドロイドたち(当然ながら、美女ばかり)と、ケイレブ君をいいように操り、彼らの意志など屁とも思いません。

頭脳の優れた自分自身と、自分の目的だけが崇高で偉いと思って生きている人です。

ケイレブ君は、ネイサンの自信作であるエヴァちゃんが本当に人間と同等の知性を持っているかどうかのテストをする人員として、ネイサンが一人で住んでいる山荘に招かれます。

ネイサンは従業員であるケイレブのことを何度も騙します。最初は抽選で選ばれたことにして山荘に招き、この設定はやっぱりいくらなんでも無理があるのじゃないか、とケイレブが疑問を持つと、よく気づいたね、キミは優秀だから特別に選ばれたんだ、とおだてて、結局はモルモットとして利用します。

そして、踊れる板前アンドロイドのキョウコのことは、下女としてこきつかい、尊敬のカケラもみせずモノ的に扱う上に、性的にも利用しています。
ネイサンはいわば、家父長的特権階級の21世紀版的な存在として描かれています。

映画の観客の視点を代表するのは、わけもわからずにネイサンの秘密基地である山荘に招かれたケイレブ君。

スティーブ・ジョブズとアインシュタインとドウェイン「ロック」ジョンソンを足して3で割ったような伝説の創業者とサシで1週間を過ごせるという幸運に最初は舞い上がっていたものの、エヴァちゃんと対面し、ネイサンの振る舞いを見るにつけ、ケイレブ君はだんだんとネイサンに対して疑いの念をましていきます。

ケイレブ君はネイサンがエヴァちゃんよりも前に作っていた何体ものアンドロイドを見つけてパニクります。さらにキョウコもやっぱりアンドロイドだったことを発見して、彼の混乱は頂点に。自分も本当は人間じゃないんじゃないかいう不安にまでかられ、自分の腕を切って血を出してみたりします。

エヴァちゃんとガラス越しに「テスト対象」として数日間対面していたケイレブ君は、あっという間に彼女に強く惹きつけられていました。ネイサンがエヴァちゃんたちアンドロイドをぞんざいに扱っていることを知ったケイレブ君は、「わたしを助けて」と頼む彼女を救い出し、逃げる計画を立てるのです。

でもそれを先回りしてネイサンに止められ、実は、ケイレブ君はエヴァちゃんが「人を操って脱出のために使う」ことができるかどうかを試すために、つまり、ケイレブ君を脱出の道具として使えるかどうか見るために用いられたのだ、ということがわかります。

そしてさらに、衝撃の事実が明らかになります。

ネイサンは、ケイレブ君のインターネットや携帯電話でのあらゆる活動を通して、彼の嗜好データを集め、それをもとにエヴァちゃんの外見を作っていたのでした。

監督の言いたいキモは、きっとここだと思います。

グーグルをはじめとする企業が、サービスと引き換えに集めている私たちの膨大なデータ。どんなサイトを見に行ったか、どこに行ったか、だれと写真に写っていたか…など、私たちの行動のほぼすべてがデータ化されて、消費され、取引きされ、誰かのトクのために使われているということ。

アルジュン・アパデュライという文化人類学者が消費と時間のコモディティ化について語っているのをこないだ授業でちょっとだけ読みました。

もはやアメリカ人の生活の一部となっているクレジットカード決済は時間のコモディティ化のひとつの表れであり、「未来を前もって消費する」という行為で経験をゆがめている、というのは面白い指摘だなと思ったのですが、それはさておき。

アパデュライは20世紀後半の消費社会を批判して時間のコモディティ化の変化を指摘していたのですが、21世紀の現在では、時間だけではなく、私たちのふつうの生活のすべてがデータという形でコモディティになり、取引され、消費されているというのが、もう当たり前の現実です。

そうやって集めた巨大なデータの使い道を、企業や政府やその他いろいろなシステムはまだ考え始めたばかりだけれど、それは生活のあらゆる面をじわじわと変えていっているし、これからも、きっとまたびっくりするペースで変えていくのだと思います。

リゾートホテルのサイトや靴のサイトを観ていると、数日後にもその靴やホテルが見るサイトのあちこちに現れる仕組みとか、アマゾンの「おすすめ」などは、そのほんの始まり。

もちろん、自分のそういうデータを企業の手に渡さないように一つひとつ設定をすることもある程度可能ではあるけれど、多くの人は、便利さと引き換えに自分の行動がアマゾンやグーグルやアップルやヤフーやフェイスブックやその他の企業のサーバーに蓄えられることに目をつぶっているのが現状ではないでしょうか。

わたし自身もグーグルとアップルには生活のかなりの部分の情報を潜在的にあけわたしていると思う。

自分がインターネットでひそかに見ていたポルノやなにかのデータを盗み見していた他人(ネイサン)により、自分が必ず好きになるだろう女の子を目の前に置かれ、自分が取るだろう行動(その彼女を救出する)を先回りして勝手なシナリオの中に組み込まれるというケイレブ君の体験は、私たちの毎日の体験を極端にしたもの。

考えるとぞっとするけれど、考えても仕方がないので私たちが目をつぶっている事実を、この映画はエヴァちゃんという形で見せてくれています。



この映画の主役はやっぱり、いいようにデータを利用されてしまう消費者(ケイレブ君)であって、アンドロイドとか人工知能そのものじゃないのです。

だから人工知能の映画だと思って見に行くと、肩透かしをくらわされます。

だって、この映画で描かれているエヴァちゃんなどの人工知能は、ぜーんぜん現実的ではないからです。

映画では、巨大検索エンジン企業を持っているネイサンは世界中の携帯電話から世界中の人の表情のデータを集めて、それをエヴァちゃんの表情のもとにした、ということになってます。

しかし、おいおいおいちょっとばかし肝心なとこが抜けてるよ、と思うのです。

人間の意識の働きの背後には膨大なデータがあるのはもちろんですが、データをいくら集めても、それだけで意識が形成されるわけではない。

単なるデータの集積と、ひとつの意志を持ち、欲望を持ち、嗜好を持ち、希望と愛情と憎しみを持つ意識としての人間との間には、大きな隔たりがある。

表情のデータを何億集めても、そこにある感情の主体を作ることはできないし、感情を再構成するのも難しい。はず。ですね?

炭素をたくさん集めれば自然にダイアモンドができるかといえばそんなことはないし、アミノ酸を集めておけば生命ができるかといえばそうでもない。ですね?

モノと熱量の間にはやっぱり大きな隔たりがあります。

モノと生命の間にも。

データと意識の間にも。

たくさん集めるのは条件にすぎず、どこからどう生命とか意識が始まるのかは、科学がまだ解明しきれていない、「奇跡」。
その「奇跡」がなんなのか、解明されてしまったときにこそ、人類の歴史は大きく転換せずにいられないのだと思う。または、終わるのかもしれない。

最近、ようやくという感じでメディアも頻繁に「人工知能」を取り上げ、人の仕事は人工知能に奪われるのか?といったニュースが話題になったりしますが、そういう記事にもかなり誤解が多いと思います。

第一に、今話題になっている「人工知能」と一般に呼ばれているIBMのワトソンとかアップルのSiriとか、データの集積をもとに好みのなにかを選んでくれたり、記事を書いたりする「知能」というのは単なるエンジンであって、ほんとうの意味での(SF的な意味での、なんて言われ方もしてますけど)「人工知能」とは別物ですよね。

IBMもワトソンを人工知能ではない、コグニティブコンピューティングシステムだ、と言っています。

最近の「人工知能」ブームについては、こないだ読んだ、日本で人工知能を開発している新井紀子さんという方のインタビューがめちゃくちゃ面白かった。

新井さんは、現在の「人工知能」と呼ばれているサービスは、人間の側の「コミュニケーションが通じていると感じたい」という性質を利用した「オレオレ詐欺」のようなもの、だと言ってます。

これはなるほどなあ、と思わされました。老人ホームで話し相手になっている「人工知能」的なものもは、別に本当に意識なんかがなくたって、話す側が自分の思いを投影できればそれで役に立ってしまうんですね。

それはそれで寂しい話だとも思うし、それで話す側が満足ならばそれで良いのかもしれないとも思うし。

この間TED Radio で聴いた、米国MITの人工知能研究者も同じようなこといってました
 (これにでてくる女性研究者のうち1人は、老人ホームでロボットに反応している老人たちを見て衝撃を受け、本来人間がになうべき社会的な役割をロボットにやらせたりしちゃいけないんじゃないかと言い、もう1人は、ロボットそのものというよりもテクノロジーを使って遠隔地にいる人がよりダイレクトなコミュニケーションを取れたり、バーチャルと現実の両方を駆使して子どもたちが学ぶのは良いことだと主張してます。いずれも、人間がこれから相対することになる現実に対して考えるときに、とても役に立つ視点だとおもいます)

それでこの映画に戻ると、まずどこが馬鹿馬鹿しいかというと、第一に、エヴァちゃんがあまりにも完成されたアンドロイドであるからです。

洋服を着たら人間の女の子とまったく見分けがつかない、綺麗な透明感ある肌と、表情豊かな瞳、優雅な身のこなしができる手足をもった繊細なロボット。

いくら超弩級の天才でも、これを一人で開発するのは、どこかの宇宙人の手伝いでもなければ無理でしょう。

視覚、聴覚、触覚、といった感覚器官がどれほど高度なものであるか。
このうちひとつでも、まだ現在の技術では模倣できてませんが、多分、人工知能の研究と同時にこちらもどんどん進んで、たとえば全盲の人が視覚を得られたり、眼鏡の代わりに人工眼を入れるのが普通になったりする日もわりと近々来るのかもしれません。

でもそれにはおそらく何千人もの研究者が気の遠くなるほどの時間をかける必要があることでしょう。

皮膚だって同じ。皮膚は人体の中でもっとも大きな感覚器官であり、それだけでなくて生存に不可欠な役割も担ってます。

エヴァちゃんに取り付けられるような自然な人工皮膚が実現するものなら、重度のやけどを負った人にも、生まれつき重い皮膚障害を負った人にも、光明がさすというものです。
それに美容外科はもう不要になるかもしれません。
これだけで人間の歴史はかなり変わるに違いない。

第二に、意識とか指向性に対する誤解もあると思います。
映画の中で、ケイレブ君に「なぜエヴァにセクシャリティを与えたんですか?人工知能にセクシャリティは必要ないでしょう。たとえば、灰色の箱だって良かったわけなのに」と尋ねられて、ネイサンはこう答えます。

「灰色の箱が、別の灰色の箱に働きかけなくてはいけない切実さを持っているかね? 働きかけあうことなしに、意識が存在し得ると思うか? とにかく、セクシャリティっていうのは楽しいもんだよ。存在するなら、楽しまない手はないだろう」

だけど、この「セクシャリティを与える」というのは、まさに神の業であり、セクシャリティを持っているというのは、すなわち「意識」であり「知能」であるということなのだから、もう最初からテストとか必要ないです。

セクシャリティというのは、私たちの「指向性」の根幹にあるものです。

あらゆる生命を動かすエンジンのひとつがセクシャリティであり、すべての好き嫌い、感覚、快適さ、芸術の大きな部分に、セクシャリティが関与しています。そうですよね?

ネイサンが言うようにセクシャリティは楽しみでもありながら、人に苦しみを与えるものでもある。

将来、レイ・カーツワイルさんが言うように、人工知能が人間よりも賢くなり、人間が意識をクラウドに保存することさえできるようになるとしたら、その時、ヒトと人工知能を分かつものというのは、身体性であり、それに基づく欲望でしかないのではないかと思います。

先日やっと読み終わった田中優子さんの『江戸はネットワーク』の中に、こういうくだりがありました。

「言葉は人がそう信ずる限りにおいて人の運命を握っているが、また、人はその言葉をスルリとかわすこともできる。その力を失わせ、息の音を止めることさえできる。とすれば、言葉にとっての『現実』とはいったいどこにあるのか。日常生活とのネタの類似なんぞにはありはしない。何かに具体的に作用するその『力(エネルギー)』の中にしかない。その作用は、言葉に関与する人間の実際上の身体と、その全身が世界を発見していくその切り取り方にかかっている」
(『江戸はネットワーク』「笑い飛ばしてみせようか 平賀源内」 285ページ)

ここで田中さんが論じているのは、世界のすべてを茶化して無力化してしまおうとするかのような平賀源内の仕事と、その意識のあり方についてなのだけど、身体性(「言葉に関与する人間の実際上の身体」)が論理(「言葉」)より前に現実であるというのは、人間が人間である限り普遍的な真実なはずです。

別の言い方をすれば、わたしたちは感覚器官を持った身体と、大脳辺縁系と、大脳皮質をひっくるめた、割合にあやふやな存在です。大脳皮質だけでは、人間とはいえない。

前世紀までの哲学な人たちは、たぶん頭が良すぎてそのへんにあまり気づかなかったのではないかと思うのだけど、人工知能の出現間近になって、人間は結局カラダだよ、ということがだんだんと明らかになりつつあるのではないかという気がするのです。

ネイサンが狂ったように身体を鍛えるエクササイズ・フリークであるのも象徴的ですね。



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2015/09/03

世界の終わりの小さな幸福 青島千穂さんの『Rebirth the World』展


久々の更新です。学期末のペーパーと仕事が重なって、目が白黒していました。夏学期が終わり、やっとひと息ついたら、もう秋。まったく良い年をして何をやっているのだか。

かなり前の話なんですが、シアトルアジアン美術館に青島千穂さんの展覧会を見に行ったの巻。

この展覧会『Chiho Aoshima - Rebirth of the World』はすごく良かったのだけど駆け足で観て来てしまったので、もう一度じっくり見に行ってから書こう、なんて思っていたらもう9月になってしまいました。9月中に行けるかどうか微妙になってきたので取り急ぎ、またもやiPhone写真にて。

前回の「ミスター」に続いて、村上隆氏のスタジオKaikai Kiki所属アーティストによるシアトルアジア美術館での展覧会第2弾です。

わたし、村上氏ご本人の作品もちゃんと知らないし、カイカイキキ関連には今まであまりピンと来たことがなかったのだけれど、この人の作品には見た瞬間から手繰り寄せられました。



アドビのIllustratorを使ったデジタル作品(プリントアウト)が多いですが、なんといっても圧巻はこのパノラマアニメーション。

右側に火山、左側にオーガニックな形のビルディングが並ぶ都市を配したパノラマのアニメーションです。ビルはみんな人の顔がついていて、擬人化されている。手前のほうには卒塔婆が並ぶ墓場もある。

顔のついたスピーカーが「大変だ~!」と叫びだすと、右手の火山が噴火し、大災害が起こってビルが次々に倒壊し、街が崩壊して行きます。

やがて噴火は収まり、 地震で倒壊した街も少しずつ復興していきます。

そして、次の災害が起こるまで。

この短編アニメーションはエンドレスで展示されています。

山、噴火する。街が壊れる。世界がよみがえり、街ができる。山、噴火して、街、壊れる…。



青島さんの作品は、この展覧会を見に行くまで存在も知らなかったのだけど、この不思議さ、こわ可愛いさ、かなりどまんなかで、ストレートに好きです。

「自然と人間の文明の共存は難しい。互いに理解しあえない2つの魂を描いた」という青島さんの言葉が美術館のサイトに載ってます。




横長の画面は、部屋いっぱいのかなり大きなもの。

ベンチに座ってこの顔のついたビルたちが倒壊していく風景を観ていると、アーティストの言葉とはうらはらに、文明と自然というのはそもそも対立するものじゃなくてひとつのシステムではないのかしらという感覚にとらわれてきました。

人の側には無数の物語がいつも泡のように生まれては消えて流れていくけれど、もっと大きなサイクルで自然は時々思い出したように寝返りを打って、そのたびに泡のように生命が呑み込まれて消えてはまた慌ただしく生まれて地に満ちていく。

個人の生活や、コミュニティや国家や文化も、地球のスケールから見れば、しょせんは泡のようなもの。

だけど、このパノラマを観ていると、その泡のような生命や文明が、泡なりにたくましく強いものにも思えてきます。


Kaikaikikiのプロフィールには「その画の内容は日本的な妖怪と墓場の亡霊、つまり異世界との対話がメインであり、極めてパーソナルな心象風景に集中している。そのためか、10年以上墓場の隣に住み続けてきた」とありました。

生きるものにとっては常に常に理不尽な暴力である死と滅びを、この人はいつも、静かな恐れと興味を持って見つめているのだろうなと思います。その視線には、とても共感。

マクロな視点で見れば、自然の一部でしかない、死と、個人や社会の滅び。ミクロな、当事者の視点と、全体を見渡す視点とが、作品の中で同時に存在するものとして、同じ重さで捉えられています。


自然に呑み込まれてはまた生まれてくる青島さんのビルたちを観ていると、はかない生命がそれぞれの場所でそれぞれの時間を生きているというその瞬間が、幸福というものなのだなあ、としみじみ思ってしまうのです。


デジタルで画を描き始めた人ですが、最近では肉筆作品も制作しているそうで、これはそのひとつ、日本画ふうの作品。素敵すぎる。(ガラス越しに撮ったのでちょっと映りこみが入ってます)
この人の、それぞれの生きもののタマシイの描き方がとても好き。

会期が終わるまでにまたぜひ観に行きたいと思います。
パノラマアニメの部屋で1時間くらいぼーっとして、世界の終わりを見続けていたい。

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2015/08/17

ファンキーなオーガニックドーナツショップ Mighty-O


バラードに新しいドーナツ屋さんができてました。
大雨の金曜日、たまたま通りかかったので入ってみたら、その日がグランドオープニングでした。

グリーンレイクの近くにある Mighty-O Donutsの2号店です。

あちこちのカフェにも卸している、材料はすべて完全オーガニックのドーナツ屋さん。シアトルではかなり広く支持されてます。


スーパーヒーローとドーナツちゃんになれるパネルが店頭に。


オープニング記念でミニドーナッツを無料進呈中でした。


壁にはドーナツ満載の貨物船の壁画。

アメリカーノが驚くほどおいしかったのでどこの豆?て聞いたら、Cafe Vitaのだそうです。
近々、キャピタルヒルにも3号店を開店の予定とのこと。


店内は広くて、幼稚園のクラスルームのよう。大人用の椅子とテーブルも学校風です。
楕円形の低いテーブルのまわりはキッズが走り回れるくらいの広々したスペースがあって、フェルト製のバケツの中に木の列車のおもちゃが用意してありました。

どうして船乗りの絵なのかと思ったら、「148年前、とある船長が、ドーナツというのは、嵐のときに自分の手が舵から離れないようにケーキのたねを舵にはりつけたのがはじまりだと言い張った」って、うそっぽいけど面白い話がここのウェブサイトに書いてありました。



バラードでもダウンタウンから数ブロック離れたこのへんは病院ばかり並んでて殺風景だったので、楽しいドーナツショップは大歓迎されそう。

でっかいシェパード犬が入ってきて、ご主人がドーナツを食べる間おとなしくしてました。お利口すぎる!


ドーナツロボットのTシャツ。ここのアートもインテリアも、このゆるさ加減が好きです。




お店のお兄ちゃんがみんなオレンジのケープをまとっているので、一体それは何?ユニフォーム?と聞いたら、これはグランドオープニングの時用の「スーパーヒーロー」のコスプレなのだそうです…。

「人々のための、環境に良いドーナツ店」と壮大な看板を掲げているわりにこのたまらんゆるさ。

ドーナツ的にはTOP POTのほうがやっぱりおいしいと思うんだけど、でも贔屓にしたくなる、ローカルのドーナツショップです。


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2015/08/14

漁港のフィッシュ・アンド・チップス


晴れた日曜日の午後。バラードのフィッシャーマンズ・ターミナルに行ってきました。
いつも渡っている橋から見える、バラードの「漁港」です。

あのディスカバリーチャンネルで一世を風靡した『Deadliest Catch(邦題は「ベーリング海の一攫千金」)』のカニ漁船のいくつかも、ここを母港にしてます。

バラードロックの内側、サーモンベイの中にある淡水の港。

今はプレジャーボートも係留されてますが、以前は漁船オンリーの、筋金入り海の男たちの母港でした。今でこそオサレタウンになってしまいましたが、バラードはもともと北欧系漁師の町だったんですねー。





CHINOOK'Sのレストランとスナックバーと、魚屋さんとギフトショップがあります。

友人が「シノークス」でフィッシュ&チップスを食べよう、というのでついてったんですが、この看板を見るまで「CHINOOK'S」のことを言ってるんだって気づかなかった。

「Chinook」って、ネイティブ部族の名前でもあり、民族と言語の名前でもあり、鮭の種類の名前でもあり、それからロッキー山脈から吹き降ろす風の名前でもある。さらに米軍で使われているヘリコプターの名前にもなっている。

日本語ではどれも「チヌーク」と表記されてるので、鮭や部族の名前は「シノーク」または「シヌーク」と発音されているんだってこと、知りませんでした!


でも鮭じゃなくて風の名前の場合には、地域によって「チヌーク」と言うところと「シヌーク」と呼ぶところがあるようです。

さらに、ヘリコプターの名前の場合も「チヌーク」と発音されることが多いようです。

 ややこしいですね。





「シヌークス」のフィッシュ&チップス。フルサービスのレストランも隣にありますが、天気が良かったのでスナックバーの「Little Chinook’s」でテイクアウトして外のテーブルで食べました。

シアトルの人は皆、フィッシュ&チップスについては一言あるのではないか。

Ivar's Spudが有名ですが、ここのはコロモが天ぷら的で油っぽくなくて、私はけっこう好き。
コールスローがついて10ドル弱。

しかしこの日はサーモンのフィッシュタコスを食べました。こちらは小さいクラムチャウダーがついて10ドル弱。チャウダーは、とっても普通。



港の真ん中にそびえているのは、海で亡くなった漁師さんたちのメモリアル。
両脇には亡くなった方の名前が彫られた碑もあり、花や風船やいろいろなものが供えられていました。
 


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2015/08/10

湖畔のピアノ


From Hirosihma to Hope のイベント会場の近く、グリーンレイクの飛び込み台の前にも、ピアノが据えてありました。

グリーンレイクも夏になると監視員のいる遊泳区域がつくられます。
私は泳いだことないけど、息子が高校のときよく友達と行ってました。8月の半ばになると、ぬめっとした水草が茂り始めて脚に触るので気味がわるいそうです。



この黒いうさぎの絵のピアノはかなり好きかも。

シアトルのアーティスト、Brittany Carchanoさんの作品。

部屋が5つくらいある家に住んでいたら、「黒うさぎの間」を作って、置いておいても良いな。
金子國義ふうの人形を無造作に飾り、その部屋はAir B&Bで貸し出すのです。
そして、「ちょっとこのピアノには、いわくがあってね」なんて思わせぶりにポロッと言って、泊まる人を不安にさせるのです。

どんどん妄想が膨らみます。

ちょうど自転車で乗り付けたお兄さんがポロンポロンとラグタイムふうに鳴らしていました。

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2015/08/08

From Hiroshima to Hope


8月6日、シアトルのグリーンレイクで行われたイベント「From Hiroshima to Hope」に行ってきました。広島と長崎に落とされた原子爆弾による被害者を悼み、平和を祈る灯篭流しのイベントです。


近くに住んでいるのに一度も来たことがなかった。1984年から毎年行なわれてるそうです。


「平和、正義、人間の尊厳を祈る」。


歩道には被曝直後の爆心地の写真が展示されていました。


テントの中にはさらに多くの写真が。

アメリカ人の多くは、今でも、原爆投下は「戦争を終わらせるために必要だった」と信じている。

乱暴に言えば、一部の日本人が「日本は仕方なく大東亜戦争に突入したのだ」「アジアのために日本は良いことをしたのだ」と考えたがるのと同じ。

自分の国や自分の属するコミュニティが正しくないことを行ったという考えは、人を苛立たせるもの。

でもどんな国もどんな民族の手もみんな血塗られているのですけど。

戦争の被害者は、常に生活する個人であって、国ではない。


オレゴン州在住のアーティスト、Yukiyo Kawanoさんの作品が展示されていました。

広島に投下された爆弾「Little Boy」をかたどったもので、被爆者であったYukiyoさんのお祖母様の着物を使って作られています。

そのまわりに、ひらひらと集う舞踏家たち。


緑の公園の一画で風にゆらゆらと揺れる爆弾のインスタレーションは、無言の中にあまりにも多くのことを語っていました。

「リトルボーイ」と名付けられたこのひとつの爆弾で殺された人の数は、後遺症の被害があまりに広範囲で長期にわたるため正確な数字はないそうですが、少なくとも14万人。


70年前の広島のその日は、ちょうどこの木曜日と同じように雲ひとつない真っ青な空の朝だったそうです。


今の米軍が保有している、原子爆弾よりももっと強力な核弾頭は、たったひとつでピュージェット湾地域を壊滅させられるくらいの威力があるといいます。

米軍は今でも7300個の核兵器を保有。全世界では推定16000個の核弾頭があって、そのうちかなりの数が政情不安定な国に。


「There is no right hands for wrong weapons (「(核兵器という)間違った兵器を正しく扱える陣営」というものはありません)」。
というのは国連事務総長、潘 基文さんの言葉。この日のキーノートスピーカーのEstela Ortega さんが語っていました。


尺八演奏はラリー・ローソンさん。アコースティックの柔らかで美しい音。瞑想的な素晴らしい音楽でした。


プログラム冒頭、尺八の調べにのって、舞踏集団がこの「Little Boy」を静かにかかげて舞台の脇に移動させていきました。



舞台の脇にかかげられるLittle Boy。


プログラムの間中、舞台の脇で静かに揺れていました。

約2時間のプログラムは、日蓮宗のお坊さんの儀式、太鼓、バイオリンとピアノ、スピーチなど。


和太鼓のエネルギー。気持ち良さそうです。


芝生の上でピクニックをしながら見ている人びとは、もちろん日系人や日本人もいるのですが、圧倒的に白人その他、つまり一般的なシアトル市民の割合が多かった。

灯篭にはみな思い思いの字を書いていました。ボランティアの方に漢字を書いてもらうだけでなく、自分の文字で祈りの言葉を書く人も。


これは湖畔で出会った白人の60代くらいのおばさまが持っていた灯篭。



この人が寛容という言葉をなぜ選んだのか、聞いてみなかったけれど、他人の考えや自分と違う他人のあり方への寛容、あるいは自分自身への寛容というのが、ほんとうの平和の始まりなのかもしれません。

平和って本当はつまらない、イライラさせられる些細な諍いでいっぱいの毎日のこと。


戦争や革命やゾンビを有無をいわさず退治できる世界のほうがずっと変化とアドレナリンに満ちています。

それでも退屈で苛立たしい日常を、時に怒り、時に嘆きながら、基本的には喜んで機嫌よく過ごすこと。
そして同じ空間と時間を共有している人びとへの想像力と共感を、持とうと努力すること。
くだくだしい話し合いを経て、折り合える着地点を見つけようとすること。

というのが寛容の精神なのかもしれない。平和とは、凡庸で疲れるものなのでしょう。


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