2015/06/10

ケイちゃんのお葬式


(English version is here)

先日、友人の妹さんが、亡くなりました。
46歳でした。
彼女はダウン症でした。

生まれたときに気管だかに障害があって死にかかっていたのに、病院のスタッフはダウン症だからといって放置しようとしたのだそうだ(スリランカでの話)。自ら医師でもあったお父さんが激怒して、手術のできる小児科医を直接電話で呼び出して手術をさせたのだと、棺の前でそのお父さんが語ってくれました。

友人のジェニファーは13年前にそれまで東海岸にいた妹のケイちゃんを自分の家に引き取って、それからずっと一緒に過ごしてきました。

イギリス人のお母さんとスリランカ人のお父さんを持つスリランカ生まれのジェニファーは、ものすごく強い生命と愛情に溢れた人。そしてジェニファーの旦那さんジムもまた、とてつもなく懐が深くてリソースフルな人。

ケイちゃんがシアトルの家に来たときには、ジェニファーの娘たちは2人ともまだ小学生で、この2人ともに聡明で優しくてきれいなお嬢さんたちは、ケイちゃんを叔母さんというより姉妹のようにして、育ってきました。

その妹のほうがうちの息子のガールフレンドなんですが、デートし始めた高校生のときに、まず、「私と付き合うなら、家族とパッケージなんだけど」 と宣言したんだそうです。

うちの息子はあっという間に賑やかな家の仲間にさせてもらって、ケイちゃんにも特に気に入ってもらったらしく、いつも私にケイちゃんの話をしてました。
いつだったかケイちゃんに描いてもらった絵が、まだうちの壁に貼ってあります。




この家族はとにかく圧倒的に賑やかで愛情深くて、人間のほかにもシェパードとバーニーズマウンテンドッグとテリアがリビングで仲良く場所を譲り合っています。

何年か前のサンクスギビングに初めておよばれして行ったら、ケイちゃんが初対面のわたしに「ハッピーバースデー!!」とお祝いの言葉をかけてくれました。えっだれの誕生日?と思ったら、ケイちゃんは一年中いつでもお祝いをしてるのでした。

お祝いするにふさわしいような楽しい気分の時にはいつでも「ハッピーバースデー!」とまわりの人を祝福してくれるのが、ケイちゃんでした。



彼女は生涯に何度も大きな手術をして、その度に医師たちの予測を裏切って乗り切ってきました。シアトルに来た13年前にも、医師にはあと数年といわれていたとか。

驚異的な生命力で何度も危機を乗り越えて、そして家族にも、まわりの人にも、驚異的なほどの愛情を少しも出し惜しみせずに与えてくれた人でした。

彼女のメモリアルサービスに、私はジェニファーに頼まれて写真を撮りにいきました。

100人以上の人が集まり、ジェニファーと2人のお嬢さんと、そして10年前に住み込みのナニーとして子どもたちとケイちゃんの世話をしたシェルビーが、ケイちゃんとの日々を語ってくれました。


ケイちゃんがユーモアのセンスにあふれていて、どんなひどい時でも笑わせてくれたこと、なにがあっても「It Will be Okay!」と明るく言う異常なまでのへこたれなさがあったこと、サッカー観戦が強烈に好きだったこと、優しい人とそうでない人を見分ける鋭い観察力をもっていたこと。

そしてこの姉妹はふたりとも、ケイちゃんが「She shaped me into a woman(私がひとりの女性として大人になるのに、とても大きな影響を与えてくれた)」、その明るさ、へこたれなさ、愛情の深さでどれだけ自分たちを感化してくれたか計り知れない、と語っていました。




ジェニファーは待ちに待った小さな妹が生まれて大興奮したときのこと、お母さんが「特別なファミリーに、特別な赤ちゃんが授かったのよ」と言って妹を紹介してくれたことも語ってくれました。

手作りのパンフレットに、ジェニファーが書いたメッセージ。

Since moving to Seattle, people would often tell us how lucky Kay was to have us, never realizing we were the lucky ones. Kay's ability to see people for who they were and love them unconditionally is the legacy she leaves for us to carry on.  
(彼女がシアトルに来てから、私たち家族がいてケイは幸運ね、とまわりの人に良く言われましたが、幸運に恵まれたのは実は私たちの方だったのです。人の本質を見抜き、そして無条件に愛することができたケイの力は、私たち家族がこれからも大切に受け継いでいける財産となりました)



会場には、ケイちゃんが大好きだった一口サイズのケーキとダイエットコークも並んでいました。

私たちはだれでも、まわりの人に影響を与えているし、時に、ささいに見えるそんな影響がとてつもなく大きな働きをする。

この世で一番大切なことは本当にシンプルで、だからこそなかなか手に入れにくいのに、ケイちゃんはいつもやすやすと手に入れて、周りの人にもいつも気前よく分けてくれていました。

ほんの少しの時間ではあったけれど、ケイちゃんに会えて私も幸運でした。


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2015/05/31

SAM散歩 平原のビーズ、幻視の絵、音の出る箱





先日、シアトル美術館の『Indigenous Beauty』という、アメリカ先住民のアートを集めた美術展を観に行って来ました。また例によって、会期終了間際。5月17日まででした。

アメリカ各地のネイティブ部族の作品を地域ごとにブロックにして展示してあって、緻密でモダンアートのような草のバスケットや、アリゾナあたりのホピの人びとの奇妙な人形や、北方の怖いお面や、大平原の人びとのビーズを沢山使った美しい皮の衣服がいろいろ。面白かったです。

平原インディアンの使った小さな「シードビーズ」って、ベネチアやベルギー産だったのだそうです。知らなかった。
インディアン=ビーズの刺繍、て図式が頭に出来てますけど、平原インディアンの間にビーズが流行して、あのビーズを刺繍した美しい皮の衣服がインディアンの様式になったのは、平原に白人が直接入り込み始めた19世紀半ばからなのだそうだ。

ローラ・インガルス・ワイルダーの『大草原の小さな家』にも、インディアンのキャンプ跡でビーズを拾う場面があったと思う。
あの一家の話って、インディアンの滅びの時代。今思うと本当にインディアン戦争の前線すれすれにローラの一家は暮らしていたんだな、と、またもやこの展覧会を見ながらしみじみ思ってしまいました。

3年前にサウスダコタ州まで行って、スー族の土地や戦場跡を訪ねて以来、この大平原の人びとの生きていた時代とその最後の数十年間が、ずっしり感じられて仕方ありません。

上の絵は、大人たちがインディアン居留地に押し込められたあと、東部の寄宿学校に送られた少年が色鉛筆で描いた、ビジョン。

この展覧会は撮影禁止だったので、これは展覧会カタログから。

ほかの工芸品ももちろん素晴らしかったのだけど、この学校のノートのページに色鉛筆で描かれた絵が、一番印象に残りました。なんなんだこれ。

あと、ベーリング海のアリューシャン列島で発掘されたという、2世紀から5世紀の、セイウチの牙で作られた銛の部品も素敵すぎでした。

象牙のように白かったはずのセイウチの牙が、長年埋もれていたおかげで黒檀のように黒くなっていて、縄文風のグルグル模様が全体にほどこしてありました。

それを作ったのは、日本を通ってアメリカ大陸に渡った人たちだったのかもしれません。



常設展示もさっとつまみ食い。ガレの器がありました。うっとり。



19世紀の部屋にあった小さな油絵。あれ、モネかな?と思ったら、マチスだった。

カーネーションピンク &ブルー&ターコイズ&フューシャピンクの雪景色。
このスタイルだけで生涯を終わっても素晴らしい画家だといわれたに違いない。
何年の作品か見てくるのを忘れた。



手前の木の箱は、蓋も扉もつまみもなくて、時々ポロロンというような素朴な音が聴こえてくる箱。これちょっと欲しいかも、と思った。
テーブルとかたんすの中から時々こんな音がしてきたら、ちょっと嬉しい。

誰の作品か忘れました。1960年代の、たぶん。



昔からなぜか大好きな、ジャスパー・ジョーンズさんの「温度計」。

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2015/05/24

アメリカン・スナイパー 羊に殺される牧羊犬の話


レントンのIKEAのすぐ近くにある激安3ドルシアターで、『アメリカン・スナイパー』を見てきました。
シアトルからは離れてますが、けっこう普通の映画館で、大変お得。いつも大体空いてます。

売店で売ってるポップコーンの半額という驚異の入場料金だけに、回ってくる話題作はだいたいDVD化されるくらいの タイミング。

というわけで去年公開された時からみたいと思ってた『アメリカン・スナイパー』をようやく見てきました。
 
予告編は、爆弾を抱えて米兵に向かっていこうとする幼い男の子を狙撃銃のスコープ越しに見て苦悩する場面と、故郷で待つ自分の子どもと過ごす場面が交互にカットバックされるという構成の緊張感溢れるもので、これはきっとPTSDの苦しみを描いた映画なんだろうなと思ったのです。



でも違った。

イーストウッド監督はなぜこの映画を、今、作ったんだろう??と、これを見て以来ずっと考えてます。

日本でももうとっくに公開されてるし、実話に基づいた映画なので以下ネタバレ全開です。長いです。

クリント・イーストウッドという人は、荒野のガンマンを演じていた時から現在に至るまで、「強い者の美学」を変わらずに演じ、監督作品の中でも変わらずに描いて来た人だと思います。

強くて力ある者の、シンプルに、人に与することなく、また弱い者をそしることも傲慢になることもなく、自分の力だけを頼みに生きる美学。

人に何かを押し付けることもないかわり、人に押し付けられることも嫌う、人に理解されることなど期待していない、その代わり人のために自分の流儀を変えようとは一切しない。

サムライに通じる(組織に殉じるサムライとは少々違うものの)ストイックさを中心にもつ美学です。

共和党な人やリバタリアンな人からは自分たちの代弁者みたいに思われているのかもしれませんが、イーストウッドさん自身はイデオロギー的なものや、まして、ひとつの意見に群がるようなことは嫌いなのだと思う。

アジア系移民のファミリーを(最初は敬遠していたものの、最終的には)自分のやり方で守る頑固親父を描いた『グラン・トリノ』でも、自分の力を伸ばすためまっすぐに努力する貧しい女性ボクサーと頑固な老トレーナーを描いた『ミリオンダラー・ベイビー』でも、その孤独な強い者の美学は貫かれていました。

この二作では特に、その題材から、典型的な米国の保守派の立場とは一線を画していることをはっきり示したイーストウッド監督でした。
第二次大戦を描いた『硫黄島からの手紙』と『父親たちの星条旗』では、何万という生命が失われた戦場を2つの作品で両側から描くという、映画史上たぶん誰もやったことのない試みを見せてくれました。

この2作は興行的には大ヒットというわけにはいかなかったようですが、宝のような作品だと私は思います。

二宮くんが素晴らしかった『硫黄島からの手紙』では、 ケン・ワタナベの演じる栗林中将がイーストウッド流の美学を持つサムライとして清々しく描かれていたのが印象的でした。

米国側の『父親たちの…』も、「ヒーロー」にされてしまった兵士たちの困惑と居心地の悪さを通して戦争と国家プロパガンダを描くという、とても地味ながら素晴らしい映画です。(この映画の原作者の方のリサーチを、縁あってハワイにいたころほんのちょっとだけお手伝いさせて頂いたこともあり、個人的にことに感慨深い作品ですが、それを別としても、メインストリームのアメリカ映画で、あのブッシュの戦争の間に作られた作品だと考えると、破格の存在だと思います。)
 
そんなわけでこの『アメリカン・スナイパー』にも、そういった重層的な視点を期待していました。

でも、それがほとんど、強調されていなかった。まったくない訳ではない。でも、気をつけて見ていなければ見過ごしてしまうくらいのほんの一瞬くらいしか描かれていなかったので、観終わったあとにかなり落胆してしまいました。

主人公は、イラク戦争中160人以上を射殺したという記録を持つ海軍の特殊部隊シールズのスナイパー、クリス・カイル。

映画の冒頭、イラクの戦場で子どもをライフルのスコープに捉え、最大のジレンマに陥っているところで少年時代の回想が挟まれます。

テキサスの少年時代。
弟がいじめられていればいじめっ子を徹底的にやっつけることを自分の義務だと思って疑わない、真っ直ぐな少年だった主人公が、食卓でお父さんに説教されているところ。

お父さんはこう言います。

<人間には3種類ある。まず羊。そしてそれを喰い物にするケダモノであるオオカミ、そして、羊たちをオオカミから守るシープドッグ(牧羊犬)だ。ごく限られた祝福された者だけが、牧羊犬になれるんだ。
この家では、羊は育てていない。そしてお前たちがオオカミみたいなマネをしたら、俺はお前たちを叩きのめしてやる。>

要するにこの兄弟には牧羊犬になる以外に道はないわけですね。そしてこの兄弟は真面目に一生懸命に牧羊犬になろうとする。

これは、まさにクリント・イーストウッドの美学の核心なのだな、と、この場面を見て思いました。
この原作は読んでいないのでまったく未確認ですが、この部分はイーストウッド監督の創作なのではないか、だとしてもうなずける、と思います。
ただし、イーストウッド監督の視点はもちろんそれで終わりではありません。

ナイロビの大使館爆破事件を見て衝撃を受けた主人公は、国を守る牧羊犬になろうと決意して、軍に入隊、特殊部隊の訓練を受け、911のテロの後まもなくイラクに送られます。

妻との出会いのエピソードやロマンス、訓練の場面も『愛と青春の旅立ち』みたいにこまごまと描かれてますが、やはり圧巻は戦場の場面。

いきなり、爆弾を抱えた子どもを撃つか撃たないかという決断を迫られ、恐ろしい逡巡の後、彼は子どもを射殺し、続いてその爆弾を拾い上げて海兵隊員に向かっていこうとする母親らしい女性も射殺する。

4回もイラクへ(後の2回は恐らく自分で志願して)送られ、160人以上もを射殺して英雄と祭り上げられるカイルは、戦争のあいまに帰る故郷で、銃声のような物音に怯え、戦場の記憶を拭い去ることができず、PTSDに苦しみますが、それを一切誰にも相談しようとはしない。妻は、悩みを話してくれない、となじりますが、カイルには絶対に話すことができない。

牧羊犬は羊に相談することなんかできないからです。

ついに、子どもの誕生日パーティーという平和な場で、犬が子どもを襲っているのだと思いこみ、一瞬錯乱してしまったカイルは、精神科医の診察を受けます。

でもそこで、医師の「戦場で、自分がしなければよかったと後悔するようなことが何かあったか」という問いに、カイルははっきりと答えるのです。

「いや、ありません。それは、僕ではない。自分はするべきことをしたんです」

兵士が迷いを持ったら、それはもう兵士ではない。

特殊部隊のカイルの同僚は、 戦場で「俺たちがここでやってることに意味があるのか」と迷いを見せたすぐ後に、敵のスナイパーに頭を撃ちぬかれて死にます。

その葬式の席で、その友人が母親に宛てて死ぬ直前に書いた「勝利はどこにあるのか…」というような、悩みきった手紙を母親が読みますが、カイルは「あの手紙があいつを殺したんだ」と、妻に言うのです。

カイル自身は、イラクで自分たちが「悪いやつら」を一人ひとり片付けることで、アメリカが守られている、と、まっすぐに固く信じています。

それが崩れたら、きっと彼のすべてが崩れてしまう。だから、精神科医にだって、自分の直面している危機を語ることはできない。

まだ続いている戦争に自分が参加していないことだけに焦燥を感じている、自分はもっと多くの人を守れるはずなのに、と、彼はそう医師に言う。

 そこで精神科医は、戦争で大きな障害を負った帰還兵たちと出会うことをカイルに勧めます。彼らを励ますことを通して初めて、カイルは自分の心に負った傷も癒やすことができるようになる。

そしてそんな帰還兵であった海兵隊員の1人に、彼は射殺されてしまうのです。




この映画では、主人公のカイルの視点と対立する視点がいくつか描かれてます。妻の視点、戦場で自分たちの正義に迷いを持って死んだ友人の視点、イラクの人びとの視点、そして、守られる立場の羊たちの視点。

そのどれもが、ほんのちょっとだけのスケッチでしか描かれていない。さすがにイーストウッド監督だけあって、一瞬だけでも印象が深いのですが。

武装勢力の中に、カイルのライバルといってもいいような凄腕スナイパーがいて、そのスナイパーとの対決が映画の1つの山場になってます。

シリア出身の若いスナイパーは、とってもかっこ良く描かれてます(イケメンですし)。

家の中に射撃の選手だった時の国際大会の表彰台の写真が飾られていたり、生まれたばかりの赤ちゃんを抱いた若い妻の姿も描かれ、彼には彼のストーリーがあることが示されるものの、映画はそちら側にはそれ以上踏み込みません。彼にはセリフは1つもなく、カイルに感情移入して観ていれば、単に影のような「悪者」の1人として見ることもできるはず。多分、この映画に感動したアメリカの人の大部分はそう見ているような気がする。

イーストウッド監督はこのスナイパーにも、強い者の美学をまとわせています。ストイックで、自分に与えられた運命に逆らわず、忠実にするべきことを最大限の力を発揮して粛々と行う、牧羊犬。

でも、硫黄島の映画のような奥行きはここには与えられていません。

そのほかのイラクの人びとも、陰影深く描かれてはいるものの、戦地に送られたアメリカの若者から見た光景でしかありません。

もう1つ、羊の視点、というよりも、牧羊犬になりきれなかった羊の視点。これは、ほんの2コマ。

カイルの弟も志願して海兵隊に入隊し、イラクに送られます。カイルの部隊の輸送機がたまたま空港でこれから本国へ帰る弟の部隊と鉢合わせします。

久々に会った弟は、数ヶ月の戦場で疲れきっていて、すでに100人殺しの「レジェンド」として有名になっている兄にも複雑な思いを抱いているようです。

「『レジェンド』だってね…俺はもう疲れたよ。早く帰りたいだけだ」と、投げやりな弟。

 父さんもきっとお前を誇りに思うよ、と言うカイルに向かって、弟は
「to Hell with this place (こんなクソみたいな場所)」
と言い捨てて、飛行機に乗ってしまいます。


弟には、この戦争にカイルほどのやりがいも意味もみつけられず、単に傷ついて帰還する、ということが暗に示されています。

そして、最後にカイルを殺すことになる海兵隊員の暗い視線。
カイルが帰還兵たちとの交流を通してPTSDを乗り越えて、愛でいっぱいの家庭が戻ってきた、というハッピーな家族の描写のあとに、不吉な予言のように、暗い目をした海兵隊員が彼を迎えに来る。

映画はそこで、この海兵隊員にカイルが射殺されたという事実を淡々と述べて終わります。

最後の数分間は彼の葬儀の様子や、沿道で星条旗を振りながら棺を見送る人びとの実際の映像が流され、英雄であったスナイパーへの賛辞で終わるのです。

この映画は主人公のクリス・カイルの自伝を原作としていて、2013年に彼を殺した元海兵隊員の裁判が今年の2月にあったばかりです。(有罪判決となり、終身刑が言い渡されました)

裁判の前に封切りになったために、裁判に影響を与えたという批判もあったようです。

このカイルを殺害した海兵隊員が戦場で何を見たのか、どのように傷つき、混乱し、錯乱していたのか、映画はひとつも描いていません。


牧羊犬になれるのは、ほんの一握りの選ばれた人だけ。
牧羊犬になろうとして羊にしかなれなかった人は、理不尽なあらゆることに対する怒りを牧羊犬に向けるかもしれない。

いじめっ子から守られていた弟は、本当は兄を恨んでいたかもしれないし、その感情を自分で憎んでいたかもしれない。
 
…ということも、ほんのすこし、ほのめかされるだけ。

わりに共和党派のアメリカ人の知り合いは、この映画を絶賛してました。

カイルを殺した海兵隊員の視点やシリア人のスナイパーの視点に踏み込んだ映画になっていたら、きっとここまでヒットしなかったことだろうと思う。

この映画は、アメリカ人に、まだ全然癒えていないイラクでの戦争の「redemption /贖い」を提供したんだと思います。

(つい数日前に「redemption」ということについて別ブログで記事を書いたばかり。よろしければお目汚しください)

大量破壊兵器なんかなかったし、サダムを取り除けたら地獄の釜の蓋があいてしまってもう何がなんだか収拾のつかないことになっていて、一体なんのための戦争だったのかということもわからないまま、アメリカ人の多くは中東地域のことなんか一刻も早く忘れたいと思っている。

同時に、 多くの若者が命を失ってしまったし、手足を失ったり精神に異常をきたした帰還兵がたくさんいる。そのこともアメリカ人の多くは、できれば忘れてしまいたいと多分思っている。というのが現状。


イーストウッド監督がなぜ今、このタイミングでこの映画を作ったのか、もちろん本人に聞いてみないとわかりませんが、ひとつにはこのクリス・カイルという人の物語は、同じ美学を持つ牧羊犬として、ほかの誰でもなく自分が代弁するべきだと感じたんじゃないかと思う。

そして、何があってもアメリカ人はこの帰還兵たちを忘れるべきじゃないというメッセージもあるのかもしれない。

私は、本当はイーストウッド監督はもうすこし「あちら側」=非牧羊犬の側、錯乱した牧羊犬である殺人者の海兵隊員や、イラクの側の牧羊犬ストーリーも、本当は描きたかったんじゃないかと思うのです。でもそれをしたら、カイルの話ではなくなってしまうし、映画の世界が分裂してしまい、多くのアメリカ人にはきっととても受け止めきれない暗すぎるものになってしまう。

硫黄島2部作の映画は、戦後半世紀以上経って、初めてできたもの。
戦後間もない1950年代に、あんな映画はもちろん作れなかったことでしょう。

フランシス・コッポラ監督の『地獄の黙示録』は、ベトナム戦争が終わってからたった3年後に作られてます。あの映画も、「アメリカ人から見たベトナム」でしかなく、ベトナム人の視点は入ってないですが、あのジャングルの戦争の狂気をとんでもないスケールでアメリカ人の内側から再現してみせた、ものすごい映画でした。あの映画が当時のアメリカでどう捉えられたのかはわからないけど、70年代後半、世論は「ベトナムは間違いだった、ラブ&ピース」、と厭戦ムードになっていたのは事実。




今の米国に、あれほど戦争の意義そのものを否定する映画はきっと受け入れられないと思うのです。

払った犠牲に対していったい何が手に入ったのか、さっぱりわからない点ではベトナムと変わりないけれど、それを今、正面きって大通りで言う人はあまりいないし、いても耳を傾けてもらえそうもない。

帰って来た現実に適応できない帰還兵の物語は、『ランボー』や『タクシー・ドライバー』のように直接的な形じゃなくて、「こんなスゴイ英雄を殺した最悪のやつ」の話として、一瞬だけ描かれる、というか、ほんの一瞬だけしか描かれない。

イーストウッド監督はリアリズムの人で、安直な「意見」は描いていない。本人も確かどこかで、「ありのままを描きたい」と語っていました。

だけどやっぱりこの映画は、語らないことで立場を、「意見」を、選んでしまってると思います。

もうあと数歩、踏み込んでほしかったですよ、とイーストウッド監督に言いたい。お願いしますよ!!あっ英語で書かなきゃだめか!

ものすごーく長くなってしまいました。あースッキリした。

読んでくださった奇特な方がいらっしゃったら、お付き合いくださって、本当にありがとうございます。

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2015/05/18

ツタのからまるキャピトルヒルの図書館


先日、調べもので本を検索していたら、見たかった本がシアトルではCapitol Hill の図書館の棚にあるというので、行ってきました。
(ネットで頼めば他の分館にも取り寄せができるんですが、それだと数日かかっちゃうので)

キャピトルヒルはダウンタウンからちょっと丘を上ったところにある古い住宅街。中心部はパーティータウンとして(ゲイの町としても)有名で、レストランや劇場やクラブやバーやカフェやブティックや大人のショップや画材屋まで色々と強烈に個性的な店がひしめきあってますが、少しはずれたこの図書館のあるあたりは、古い住宅街の面影が残っています。

1930年代くらいに建てられた煉瓦造りのアパートメントのビルが多く、その多くは現役で使われてます。

この図書館は2003年に完成したものですが、まわりの古い建築に溶け込むように、外壁も内壁も煉瓦を使用。

シアトル市内には27館も図書館があるんですが、その1つ1つがみんな個性的でエコでオシャレで、本当につくづくシアトルな感じです。




このキャピトルヒル分館では、外壁にフェンスを張って植物をからませてるだけじゃなくて、建物の内側の壁にも!植物が這わせてあるのにびっくりしました。

アトリウム風の広々した一面の窓と2階分吹き抜けの空間が素晴らしい。

その広い読書室の四隅に、植物の絡まる煉瓦の壁があるという演出。

吹き抜けの両側には「quiet room」が並んでいます。特に静かに集中して作業や勉学に励みたい人のための部屋。

図書館の「Building Fact」 のページを見てみると、この場所は「商業地区と住宅密集地の中間くらいに位置する」ため、「この2つの地区をつなぎ、ハイエナジーな商業地区のオアシスとして、また活発なコミュニティの中心にある静かなリビングルームとなるように」設計した、とあります。

この植物のからまるフェンス、「living facade」はアーティストのIole Alessandrini さんの作品だそうです。

何という植物なのかは書いてなかった。かなり大きな葉の蔓植物で、もう蔓そのものはかなり太く成長してます。


使われている煉瓦についても、近隣の「Anhalt Apartments」という古い煉瓦のアパートなどの建物群とバランス良く映えるものを選び、「人間のスケールでカクカクした感じを表現できるよう」煉瓦のテクスチャーも慎重にデザインした、と説明されてます。

ほんとによく見ると、煉瓦の色やテクスチャーも壁の場所によって違う。
きめ細かく配慮されてます。


外壁の植物は何種類か混ざっているもの。

この東側の壁に並んでいる窓は、内側の窓辺に薄いクッションが敷いてあって、読書用のコーナーになってます。
こういう壁のへこみや出窓などに作ったちっちゃなコーナーを英語では「Nook」と呼びます。
居心地の良い、ゆったり本が読めそうな感じの一人用のスペース。自分ちにあるといいですね。


建設などの費用(capital cost)は570万ドルだそうです。えーと、2003年のレートだと5億7000万円くらいですね。今だったら円安だから6億8000万円ですよ。ひぇー円安恐ろしい(涙)。

とにかく公共の建物にこれだけ個性的でオシャレな建築とアートが組み込まれているというのは嬉しいことです。



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2015/05/14

母の日のブーケ


母の日に息子が買ってきてくれた花束。

バラードのファーマーズ・マーケットは、ふだんの日曜日は朝10時からなんだけど、母の日は朝8時前からもうお花屋さんはお店を開けていたそうです。


花屋さんの屋台は、なぜか、みんなアジア系。

この花束は、巨大ポピーを中心に、ルピナス、アイリス、カスミソウ、ドライフラワー、そしてチューリップまで入っているなんとも大胆なアレンジでした。

マーケットの花屋さんの花束って、日本のフローリストでは絶対にあり得ないような組み合わせがあって楽しいです。



母の日の日曜は結局仕事で一日デスクに座っていたのですが、息子がパンケーキを作ってくれました。

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2015/05/12

エクスマキナ、美人アンドロイド、シューベルト


5月、マロニエが咲いてライラックが咲いて、春の花がひと通り咲き終わって気づけば緑濃い初夏。
ライラックはもうそろそろ終わりです。

日も長くなって、もう9時頃まで明るいし、お天気の日が多くなって、町の人びともなんかフワフワと浮かれたように見えます。

快晴の土曜の午後。近所のスーパーに買い物に行くと、みんな午前中どこかで盛大に日焼けして来たらしく、家族そろってゆで海老のような色になっている白人ファミリーがいっぱいでした。


先日、映画『Ex Machina』を観てきました。

さいきん人工知能に関するニュースを見ない日はないようです。人工知能の第三次ブームなんだそうだ。以前にそんなブームがあったなんて、知らなかった。

80年代の第二次ブームは尻すぼみになってしまったので、今回も尻すぼみになって投入された予算がバブルが弾けるようになくなっちゃうんじゃないかなんて心配している人もいれば、2045年に「技術的特異点/シンギュラリティ」が来ると断言している人もいて、いろいろです。

そのシンギュラリティ預言者の急先鋒がグーグルのレイ・カーツワイルさん。この間NHKスペシャルにも出たそうですが、インタビュー記事が面白かった。

2045年に世界がどうなっているかというと、

人類の生物学的知性とコンピュータの人工知能を組み合わせた『人類文明の全知性』は、現在に比べて10億倍になっている。そのとき、コンピュータは血液 細胞とほぼ同じ大きさになっている。人類は脳の内部にこのテクノロジーをはめ込み、脳をクラウド上に置き、思考をさらに大きくする――

というの。

この人の発言をアブナイ科学者の荒唐無稽なトンデモ発言、的な扱いをしている記事がけっこう多いのだけど、これはきっと実現するんだろうなと、 空恐ろしくもしみじみと実感するのです。

19世紀はじめには大陸間を飛ぶ飛行機やロケットや電話が夢の話だったように、今はとてもバカげた空想物語に感じられても、あっと言う間に外堀が固まってきて、知らない間に「脳がいろいろなモノに直接つながる」日々への前段階が実現しているかもしれません。

インターネットが普及して、まだたかだか20年弱。インターネットは人間の学習方法やつながり方をかなり変えたし、考え方や感じ方、発想、意識そのものも、実際かなり変えてるはずです。

こないだ読んだ『日本のデザイン』で原研哉さんが、紙は人間の創造力の触媒となってきた、と書いてました。

「紙の触発力によって、言葉や図を記し、活字を編んでいく能動性が、人間の感覚の内にもたらされた。人間は紙に躾けられてきたのだ」と。

そういう意味では、人類はこの20年で、インターネットに、そしてこの10年でモバイル技術に「躾けられてきた」のじゃないでしょうか。

 この次の10年では、「モノのインターネット」、だけじゃなくて、「身体に埋め込む技術」がだんだんとふつうになってきて、ネットと技術が目に見えない「常にそこにある」ものになっていくのだとしても、驚くにはあたりません。そしてその先に自分以外の「知能」や「知識」との融合があっても、ぜんぜん不思議ではないと思う。その頃、人びとの感覚はまたかなり変化しているに違いありません。

機械、人工知能、そしてほかの人びとの意識とへ脳が直接つながるっていうのは、まさに『攻殻機動隊』の世界。

あと30年で実現するかどうかは疑問ですが、100年くらいのうちには実現してそうな気がする。 



そうそう『Ex Machina』の話。

この映画は 真面目な?人工知能のお話かと思って期待して見にいったら、ずっこけました。

これは「ピグマリオン物語」ではないか。
マッドサイエンティストが綺麗なお姉さんを作ってどうにかするという話。そしてそのアンドロイドとの間に起こる駆け引きの話。

このあらすじは、結末も含め、もう何度もくりかえし日本のマンガで見た気がする。

映像はとても繊細できれいだったし、主要な登場人物もキャラクターとしてはとても説得力があって素敵だったのですが。踊れる美人板前、キョウコもなかなかのキャラクター。

でもエヴァちゃんは、「新しい他者」というほどの迫力を持って描かれてはいず、これまでのロボット映画の中のどこかにきっと分類できる。

とにかく設定に突っ込みどころが多すぎて…。そんな揚げ足取りをせずに楽しめるものならそうしたいのですが。(以前観た、宇宙空間なのに重力がある映画『LOVE』とかは、「寓話」として納得することにしてそれほど抵抗なく観られたんですけど)



ひとつだけ言うなら、AIのエヴァちゃんがここまで完成しているなら、なぜおうちのセキュリティにそれを組み込まなかったんでしょうか。こんな超秘密基地に「カードキー」なんていう20世紀の技術を使うとは!

今回のマッドサイエンティストは「検索エンジンの会社の創業者で天才エンジニア」という設定なんだけど……。

現実的かどうかという意味では、『日常』というアニメの「ハカセ」と同じレベルだと思う。

(シュールなことが次々起こる「日常」を描いた変なアニメで、「ハカセ」というのは一見女子小学生、なのにちゃっちゃとアンドロイドを作ってしまう天才科学者の少女です。でもその使い道は、ロールケーキを腕の中に格納するという冷蔵庫だったりする…。)




たしかに膨大な検索データの集積は、「ラーニング」の基礎になるものかもしれない。でも、「意志」や「感覚」を持つ脳というのは、今の段階で実用化されている「人工知能」とはまたぜーんぜん次元の違うものですよね。

完全な感覚器官と連動した脳と、完璧な運動能力をもつアンドロイドを1人で作るっていうのは、いくら天才でもそれこそ人間には、どう間違っても、無理。

だってたとえば人間の「眼球」や「皮膚」だけで、感覚センサーがいくつあることか。それを仮に一つ一つ手作りできて脳につなげる技術が開発できたとしても、いったい何億時間かかるのか。

1人で作れるのは、せいぜい頑張っても「人工イモムシ」くらいじゃないかと。それでも大革命だけど。

グーグルがこないだ買った会社にはAIの先端の研究者が12名もいるそうです。

それでもまだ、ヒトはネズミの脳でさえ、(幸いなことに!)作ることはできていません(…多分!)。

でもこの映画のエヴァちゃんは 本当に可愛いので、続編を見てみたい気もします。

エヴァちゃんはとても可憐な、透明感のあるアンドロイド(本当にボディは透明だし)なので、秋葉原方面でも人気がでそうです。

こういう女の子を作ってコレクションしたいという欲望は、ヒトがヒトである限り、なくならないのでしょうか。

Jean-Léon Gérôme「ピグマリオンとガラテア」1890


この映画の主役はAIじゃなくてむしろそのような所有欲なのかもしれません。



映画の最初のほうと最後のほうの象徴的な場面で、シューベルトのピアノソナタの21番の出だしがかかります。

この天才エンジニアが1人で住む秘密基地みたいな豪邸のリビングルームでかかっている曲なのですが、この曲って第一楽章の第二主題が「鉄腕アトム」の主題歌の「空をこえて~♪」に似てるので有名です。

もしかしてアトムへのオマージュだったりして?

映画に出てくるのは冒頭の第一主題と第二主題。これから何かが始まりそうだよ~…という静かな予感を感じさせる、ざわざわするような箇所です。




この映画を見てからずっと、YouTubeでこの曲を流しっぱなしのこの頃でした。
初夏の今頃に、良く似合う曲という気がします。





ところで「エクスマキナ」で検索してみたら、なんと、士郎正宗さん原作の同名アニメ映画があるではないですか! こちらも見てみなくては。


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2015/05/09

マロニエ満開


あっという間に5月にはいっていました。日本はゴールデンウィークだったんですね。

シアトルではマロニエの花が満開です。

マロニエはとても背の高い、姿の良い木。大きい葉が光をよく通して、明るい印象です。
 
木の背が高いし、色も目立たないのでこんなに満開でもあまり気づかないのですが、見上げると白い燭台のような花がいっぱいについていて、地面にほろほろ散っています。

写真はワシントン大学構内。

正門前の「フラタニティハウス」が並ぶ「グリーク・ロウ」にも、この背の高いマロニエの木が生い茂っています。

シアトルでは、シアトルパシフィック大学の前にもあったし、バラードの高校の横にもあるし、なぜか学校の近くや構内に植わってます。

同じくらいの背の高さなので、同時期に植えられたのかもしれません。
その時代にマロニエが流行していたのかも。


和名はセイヨウトチノキ。英語ではHorse-chestnutというのが正式名ですが、アメリカの人は単に「チェスナットの木」と呼んでいることが多いみたいです。

「マロン」てこの「マロニエ」からの由来なんですって(by ウィキペディア)。

でも日本の栗の花のような独特の匂いはまったくありません。


この花が咲いて大きな葉がわさわさと繁ると、初夏がやって来たという感じがします。


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