2015/05/07

さいはてのレストランガイド フォークス&ラ・プッシュ


ラ・プッシュ再訪記。前回12月に行ったとき「レストランは、ない」と書いたのですが、少し訂正です。


キルートのリゾートからクルマで2分くらいのラ・プッシュの港(ここも全部キルート族の居留地内です)のわきに、小さなレストランがありました。



すてきなトーテム。

キルートの人びとはもともとトーテムポールなど作っていなかったのだそうですが、今ではトーテムはアラスカから中西部まで、ネイティブ部族の現代アートの一形態になっているようですね。

これはきっと地元のアーティストの作品なのだろうと思う。聞いてみればよかった。

どの動物もそのまま立派な「ゆるキャラ」になれそう。アザラシの目つきが最高です。


港をはさんでシースタックが見えます。波の入ってこない静かな港に大きなアザラシが2頭来ていて、ときどきぷかりぷかりと頭やヒレが見えてました。

サンドイッチもコーヒーもごく普通。
サービスはとてつもなく遅いけど、キルート居留地でアザラシでも見ながらゆっくりランチを、というときにはこちらへ。

今回はラ・プッシュからクルマで20分ほどのフォークスで夕飯をとりました。
YELPか何かで探した、町いちばんの中華料理店が、こちら。


南北苑、「South North Garden」。

もう1軒、もっと見た目が小ギレイな中華料理店もあるのですが、南北苑のほうがずっとレビューの点数が高かった、と、食事担当のMが言うのです。
外見を見てうーん、と唸ってしまいましたが、意を決して中へ。



店内は外見よりもずっとキレイで、ほんと、炒麺も酸辣湯麺も美味しかったです。
中国人のおじさんが調理場で鍋をふるってました。



フォークスはしばらく前、例の吸血鬼シリーズ「トワイライト」ブームで全米から女子中学生とその家族が大挙して押しかけ、「トワイライトグッズの店」なども出来ていたようですが、今では町なかの数カ所にいまも立っている日焼けして色あせた吸血鬼の等身大紙人形がその名残りを留めるばかり。

大きなスーパーが1軒、中華料理店が2軒、バーガーショップが2軒、ピザ屋さんが2軒、ベーカリーが1軒、くらいしか目につかなかった。

カフェもありません(スタバもなし!)が、ドライブスルーの「エスプレッソ小屋」はたしか2軒ありました。
あとスーパーの中にもエスプレッソスタンドあり。


アメリカ国内、どんな辺鄙な町にいっても中国人の経営する中華料理店があるみたいです。


でも日本人が経営する日本料理店は大都市近郊か日本人の多い地区にほぼ限られてます。
片田舎にJapanese restaurant があったら、それはたいてい韓国人の経営だったりする。
スシとテリヤキは中華料理と同じくらいすでに浸透してるのに、NOBUみたいなハイエンドの店は別として、米国の大衆向けに僻地で日本料理店を開こうなんていう日本の人は、あんまりいないのですね。


ここはおそらく、アメリカ本土でもっとも北西のはじっこにある中華料理店ではないかと思います。

フォークスに行ったらぜひ、南北苑で中華料理を。


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2015/05/05

ラ・プッシュの波間に浮いていたもの


というわけで、ちょっと前ですが、去年の暮れに行った La Push のうすら寂しいリゾートを再訪しました。

例の、ご神木級の大木にも再会。


2日目、朝から青空が!とたんに海が少し柔和な表情に見えてきます。



押し寄せる波は変わらないのですが。


ここのコテージはペットOKなので、大きな犬といっしょに泊まっているファミリーが多かったです。



青い空の下だと、なんとはなしに爽やかささえ感じる不思議。

この波の間になにか黒いものが浮いたり沈んだりしていました。

アザラシ?と目をこらして見ていたら、



サーファーでした。

こういう崩れ方は「ダンパー」っていうんだったっけ、次々押し寄せて、横一列一斉に上から叩きつけるように崩れる陰鬱な感じの波。しばらく見ていたら、大きめの波を捕まえて乗ってました。すごい。

3人で入ってましたが、もう1人のサーファーは、パドルして出ていこうとするのにすぐに押し戻されて、なかなか波がブレイクするところまで辿りつけてなかった。でも、この波の中に入っていけるだけでもすごいです。



( ↑ 拡大図。)

流木にも、よく見るといろんな色やテクスチャーがあります。どれがどの木だかはさっぱりわかりませんが、波に表れて綺麗な木目が浮き出ているものもたくさん。



この緋色の木片はたぶん、マドローナの木のかけら。神社の鳥居みたいなオレンジ色です。




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Realto Beach にリベンジ


去年12月に行ったときは横殴りの雨で、しかも満潮で、ちっとも歩けなかったリアルト・ビーチにリベンジに行ってきました。(これもだいぶ前になってしまいましたが)


でもやっぱりこんな天気なのだった。陰~。

今回は「Hole in the Wall」という岩まで片道2マイル(約3.2キロ)くらい、砂浜を歩きました。


パノラマで寂しさ倍増(これはiPhone写真です)。

行き帰りあわせて、4組くらいのハイカーとすれ違っただけでした。


そのまま彫刻としてモダンでオシャレなおうちのリビングにオブジェとして置いておけそうな彫刻風の切り株がゴロゴロしてます。


この根がすごい。根だけになってもこの存在感。


なにもない砂浜をひたすらポクポク歩く。



打ち寄せる波を見ながら歩いていると、少し頭がぼうっとして来ます。



大潮のときはこの流木が積み重なっているあたりまで潮が満ちるのらしい。


途中、海に流れこんでいる小川(といってもけっこう流れは早い)をわたらなければならないところもあったので、ここを歩くときはしっかりしたレインブーツが良いようです。



すぐ頭上を、bold bald eagle (ハクトウワシ)が飛んでいました。なんと優雅な翼の形であることか。


ずっと海上を旋回していて、魚かなにかを狙っていたようです。


ワシの王国ですね。私たちは闖入者。


流木も現代彫刻風だけど、岩もまた大変なことになっています。

ヘンリー・ムーアの彫刻みたいな岩がありました。
いったいどうしたらこんなことになるのか。この形になるまでに何年かかったんでしょうか。



この手前の平らな岩も、波うつ形に彫刻されてました。
流木だの岩だのが恐ろしい勢いでこの上をごろごろと通っていくのでしょう。

「ホール・イン・ザ・ウォール」がみえてきました。



桃太郎岩(勝手に命名)。


そしてホール・イン・ザ・ウォール、「穴岩」ですね。


ラ・プッシュの「シースタック」が遠くに見えます。



やっと着いたホール・イン・ザ・ウォール。アーチの形にきれいな穴があいてます。ここも満潮のときは水没するらしいです。

このまわりはちょっとした岩場が広がっていて、岩の間の潮だまりに派手なペパーミントカラーのいそぎんちゃくがいっぱいいました。


魚は見かけず。


「ホール」を通り抜けて向こう側へ。


やっぱりがらんとした岩場でした。



『赤いろうそくと人魚』に出てきた気の毒な人魚が住んでいそうな海です。
でも波間に見えたのは、流木だけでした。


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2015/04/30

印象派、ポスト印象派と『草枕』


前にも何度か行った、カークランドの北のワニタ・ベイ・パーク。
いつも素っ頓狂な声で啼くハゴロモカラスが見られます。

この時には(何週間か前)スイレンはまだ茶色でした。

水草の池に雲が映っていたりすると、反射的にモネの絵を思い出してしまう人は多いのではないでしょうか。わたしもです。

モネやルノアールが代表する印象派の絵ってそれこそ生活の隅々にまでいきわたるほど見慣れたものになってるから、以前は正統派の美術といえば印象派、みたいな感覚でなんとなく捉えてたんですけど、この人びとは19世紀には超アバンギャルドだったんですよね。

今学期は美術史を受講してて、『What Are You Looking At?』という本を読んでるところなんですが、これが面白い。

Will Gompertzさんという英国のテート・ギャラリーのディレクターを務めていた人の書いた本で、19世紀から150年にわたるモダンアートの歴史を振り返るという内容。でも全然アカデミックな本じゃなくて、ちょっとやりすぎでは、というくらいくだけた口調で語られています。

この本で最初に登場するのが印象派の面々。モネ、マネ、ピサロ、ドガといった面々が、第一回の展覧会のあとでカフェに集って酷評に激怒するという場面が小説仕立てで描かれてて、モネが机をドンドン叩きながら怒ってる(笑)。

印象派とは、最初のモダンアーティストだった、というのは、あっそうか、と思わされました。あっそうか!

Gompertzさんは、たとえば、こんなふうに説明してます。

They ripped up the rulebook, metaphorically pulled their trousers down, and waved their collective derrieres at the establishment before setting about instigating the global revolution we now call modern art.

<彼ら(印象派の画家たち)は、ルールブックを破り捨て、言ってみれば皆でパンツを下ろして権威あるアカデミーの人びとの前でおケツを振って見せた。そうして、現在私たちが「モダンアート」と呼ぶようになった世界的な革命に取りかかったのである。>
 
19世紀なかば、社会構成の激変、革命の市街戦を経てパリの街がすっかり作りなおされる環境の激変、そして技術革新とブルジョワ階級の台頭で消費生活も激変、という激変だらけの時代に、出るべくして出てきたのが、新しい美術、新しいものの見方。

それまで聖書の物語やギリシャ・ローマの神話や偉人の姿を美しく重厚に描くのが絵画だったところへ、日常にありふれた題材を取り上げて、「見えるままに」キャンバスに表現した印象派のモネとかルノアールの鮮やかな色彩の画は、そりゃあ当時の教養ある上流階級の人びとには、子どもが塗りたくった幼稚な絵のように見えたことでしょう。

そして、印象派を始めとする当時の欧米の若い画家たちが、広重、北斎、歌麿といった浮世絵からどれほど衝撃的な影響を受けたか、というのも面白いなあ、と思うのです。

アシンメトリーな構図。日常的な題材。俯瞰の構図。前景に何かが立ちふさがってる構図。
画面に入りきってなくてちょん切れてる人物やモノ。版画の鮮やかな色使い。装飾的な画面づくり。
…というような浮世絵の要素は、印象派の人たちだけでなくて、その前後の人たちの絵にも繰り返し出てくるんですね。

ジャポンのエキゾチックな要素を借りた、なんていう程度のものではなくて、「新しいものの見方」を浮世絵が提供した。


北斎とか広重の版画って、本当に今見てもモダンというほかないデザインだ、といつも思わされます。

幕末を目前に控えた江戸末期に、ここまで超絶的に洗練された美術があって、それが産業革命後、社会の激変を迎えていたヨーロッパのアーティストたちの世界観にはかりしれない影響を与えた。

それでいて、当の日本はちょうどその頃、幕末の大騒動のあと鎖国を解いて大忙しの文明開花で西洋の文明を輸入しようとシャカリキになっていた、というのは皮肉というか、本当に面白いですね。



Gompertzさんの本に戻りますが、次の章は「ポスト印象派」。

画商のロジャー・フライさんがロンドンで、印象派の次の世代のゴーギャン、ゴッホ、セザンヌ、スーラなどの画家の展覧会をしたときにまとめて「ポスト印象派」という名称をつけたのだというエピソードを読んで、はじめて納得。

ポスト印象派って、日本では昔は「後期印象派」という呼称が一般的でした。


だから中学生か高校生のころ、印象派にはテレビドラマのように前半と後半があったのかと思ってました。

漠然と、どこまでが前期って誰が決めたんだろう? なんて思ってたんですが。

「POST」を「後期」って訳しちゃ駄目ですよね。「印象派よりも後の画家たち」なのに、「印象派の後半の人びと」になっちゃう。




そういえば、この間夏目漱石先生の『草枕』を読み返してたら、こんな箇所がありました。

画家である主人公が春の野山に逍遥し、春そのものののんびりと豊かな風情にすっかり同化して、<目に見えぬ幾尋の底を、大陸から大陸まで動いている洸洋たる蒼海の有り様>のような心持ちになり、こう思う。

<この境界を画にしてみたらどうだろうと考えた。然し普通の画にはならないに極っている。我等が俗に画と称するものは、只眼前の人事風光を有りのままなる姿として、若しくはこれをわが審美眼に濾過して、絵絹の上に移したものに過ぎぬ。花が花と見え、水が水と映り、人物が人物として活動すれば、画の能事は終わったものと考えられている。もしこの上に一頭地を抜けば、わが感じたる事象を、わが感じたるままの趣きを添えて、画布の上に淋漓として生動させる。>

<普通の画は感じはなくても物さえあれば出来る。第二の画は物と感じと両立すれば出来る。第三に至っては存するものは只心持ちだけであるから、画にするには是非共この心持ちに恰好なる対象を択ばなければならん。然るにこの対象は容易に出てこない。出てきても容易にまとまらない。まとまっても自然界に存するものとはまるで趣きを異にする場合がある。従って普通の人から見れば画とは受け取れない。描いた当人も自然界の局部が再現したものとは認めておらん……>

<古来からこの難事業に全然のいさおしを収め得たる画工があるかないか知らぬ。ある点までこの流派に指を染め得たるものを挙ぐれば、文与可の竹である。雲谷門下の山水である。下って大雅堂の景色である。蕪村の人物である。>

主人公の画家が、形あるものではなくて心のさまを画にするにはどうしたら良いだろうか、と、悩んでいるところなのです。
いままでそんなことをしたのは、中国の文与可の竹の葉の画や日本の蕪村の人物あたりくらいじゃないか、といい、結論としては「そんな抽象的なことを画にしようというのは間違いだ」と思い返して、(画家のくせに)俳句を作りはじめちゃうのですが。

この「普通の画」「第二の画」というのは、漱石先生が別のところで言ってる、「自然主義」と「浪漫主義」のたとえじゃないかと思いますが、それは別として。

文与可の竹

蕪村(人物じゃないけど)
 『草枕』の発表は1906年。

ロジャー・フライさんが「ポスト印象派展」をロンドンで開催したのは1910年。
漱石先生がロンドンに留学していた1900年~1902年には、ゴーギャンやゴッホやセザンヌはまだイギリスでは知られてなかったし、たぶん印象派の画もまだ一般にロンドン市民の目には触れてなかったのじゃないかと思います(未確認ですが)。

「心持ちだけの画」「抽象を表現した画」 は、いってみれば、20世紀にはいってまもなく現れる抽象絵画や表現主義で実現します。
でも世紀の変わり目には、表現主義の一歩手前といえるゴッホもゴーギャンも超先端すぎて、ついていける人はほとんどいなかった。1910年の「ポスト印象派展」も酷評だらけで、「英国文化に対する侮辱」と怒る人が多かったといいます。

漱石先生がもし留学当時にゴッホの画を見てたら、どういう感想を持っただろうか。そのただならない率直なエネルギーに打たれて直ちに画家の心を理解したのではないか、そして、『草枕』も少し変わっていたのではないだろうか、と妄想してみる。

『草枕』には、ミレイの「オフィーリア」がモチーフとして出てきます。ミレイも仲間だった「ラファエル前派」が活躍したのは漱石先生の留学よりも半世紀前ではありますが、世紀の変わり目のロンドンでも、まだ影響力は尾を引いていたはずです。

(追記:「前ラファエル派」じゃなくて「ラファエル前派」でした。うひゃひゃー、訂正!)

どうも漱石先生はターナーとともにラファエル前派がお気に入りだった、というか、恐らくロンドンで実物を見て強い印象を持ったのではないかという気がします。

オフィーリアちゃん (1852)

この「ラファエル前派」は文学的で理屈っぽい人が多かったようですが、漱石先生の小説に出てくる女性は、このラファエル前派が好んで描いたという「転落する悲劇のヒロイン」の面影を負ってるように思えます。

多分、漱石先生とラファエル前派について研究している人はたくさんいるのでしょうけど。

ラファエル前派グループはどうも偽善者っぽくて、いけ好かない。




『草枕』は久々に読み返してみて、すごく面白かったです。『草枕』のヒロイン那美さんは悲劇の人ではあるものの、これ以降の『虞美人草』の藤尾や『三四郎』の美彌子なんかよりもずっと生き生きしてて魅力的です。

これを読むと、美しい羊羹と玉露が味わいたくなります(涙)。ヨウカン食べたい。


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