2013/04/06

花嵐


今日用事があってワシントン大学キャンパスまで行ってきました。

前回書いたレニアー・ビスタの噴水方面はまだ桜がかなり残ってましたが、QUADのほうは…


 昨日からの雨と風で、もう9割方散ってますた。


 幹にまだ少し無傷のグループが。


先週末から今週始めが超満開で超快晴だったのに、ちょうど首がまわらないほど忙しくて、みのがした。


でも芝生に散り敷いた花も、豪華。


予報は雨降りだったからカメラも持っていかなかったので、電話カメラ画像です。


シアトルの桜は雨さえ降らなければ3週間以上満開状態が続くのだけれど、今年は寒さが急に緩んでぱーっと晴れて盛大に咲いて、軽い嵐で盛大に散ってしまった。

日本の桜と同じくらいの足の早さでした。

儚くも、豪華。



散り敷いた桜の中で勉学にいそしむ(たぶん)青年。桜には若者が似合うねえ。


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2013/04/03

博覧会


今回のSoy Source 記事には、1909年にシアトルで開催された『アラスカ・ユーコン・パシフィック博覧会(Alaska-Yukon Pacific Exposition)』のことを書きました。


ワシントン大学キャンパスで開催されて、キャンパスの基本設計にも寄与した博覧会。

建物のほとんどは石膏製の短期用で、会期が終わるとすぐに取り壊されてしまったものの、キャンパスで長期使用することを前提に建設されたものもいくつか、現役で残ってる。

会場のキモだった、レーニア山が見える噴水広場「レーニアビスタ」も。晴れた日のあの噴水越しのレーニア山の眺めは感動的だけど、1世紀前の万博会場の一部だったというのを知った時にはちょっと驚いた。

スザロ図書館には壁に大きな博覧会当時の写真が飾られているけれど、ワシントン大学の学生も、キャンパスが万博会場だったというのはあんまり知らないようです。



大日本帝国出資の「ニッコー・カフェ」、写真はaype.net より。賑わってますね。

文明開化の日本国は張り切って欧米の万博に出展しただけでなく、国内でも盛んに博覧会を開催していた。

夏目漱石先生の『虞美人草』を読んでいたら、ちょうど小説が新聞に連載されていた1907年に上野公園で開催された東京勧業博覧会が出て来てた。

(引用)
蛾は燈に集まり、人は電光に集まる。輝くものは天下を牽く。金銀、砂礫、瑪瑙、 瑠璃、閻浮檀金、の属を挙げてことごとく退屈のひとみを見張らして、疲れたる頭をがばとはね起こさせる為に光るのである。…

 文明を刺激の袋の底に篩い寄せると博覧会になる。博覧会を鈍き夜の砂に漉せば燦たるイルミネーションになる。いやしくも生きてあらば、生きたる証拠を求めんがためにイルミネーションを見て、あっとおどろかざるべからず。文明に麻痺したる文明の民は、あっと驚く時、始めて生きているなと気が付く。

(引用おわり)

シアトルの博覧会はこの2年後だからほぼ同時代。真夜中まで会場を燦爛と飾ったというイルミネーションは、「疲れたる頭をがばとはね起こさせ」たんでしょう。

「文明 」がまだ新しくてピカピカの、金箔つきの唯一無二の価値であった時代。日本は日露戦争でとほうもない数の戦死者を出したけれど、とにかくロシアに勝って、強国になったと鼻息荒かった。欧州も米国も、まだ世界大戦を知らない。
 



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2013/04/01

ガンボとエトゥフェ

 

ニューオーリンズで食事といったら、やっぱりどこに行ってもガンボを注文しなければ済まない気がして、ほとんど毎食のように食べてしまいました。

小麦粉と油をじっくり炒めるルーと、玉ねぎとグリーンペッパーとセロリ、辛いソーセージ、オクラ、がトラディショナルなガンボのメインだけど、レシピもほんとにいろいろで、スープのとろみ加減や色、ライスの量、具の中身もいろいろ。


フレンチクォーターの「Napoleon House」。18世紀末に建った建物で、市長だった当主が、セントヘレナ島に幽閉中だったナポレオンを連れてきて住んでもらおうと提案したのだそうだ。亡命が実現する前にナポレオン閣下は亡くなってしまったものの、「ナポレオンハウス」という名前だけが残ったという、微妙なランドマーク。


これも食べた。ざりがにのエトゥフェ(etoufee)。
インド的スパイスが入っていないカレーのような、こってり料理。
まず見た目にがつんと来ます。
食後はしばらく毛穴からザリガニの匂いがしてくる気がした。
つけあわせはカラードグリーンとグリッツ。うまかった。



これはフレンチクォーターの外にある有名店Mother's でした。
町の定食屋さんみたいな内装、カフェテリア式のキッチン、ビニールばりの椅子、と地に足のついたご商売ですが、ランチタイムは激混み。そしてほんとにうまかった。
ニューオーリンズに行くことがあったら、またぜひ行きたい。


最後の夜は少年の願いを聞き入れて、スペアリブを食べに少し町はずれのThe Joint に。
暗い住宅街の中にぽつんとあるお店で、ここも混んでいたー。
少年は大満足なり。
 

南部の食はレベルが高い。生きているー、という感じがする。


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2013/03/30

ベニエとチコリコーヒー



ニューオーリンズで食べたもの。まったくツーリストの王道ではございますが。
フレンチクォーターの外せない目玉店、Cafe Du Monde。



 粉砂糖大盤振る舞いのベニエ(Beignet、発音がなかなか覚えられない)とチコリコーヒー。
 床にもテーブルにも盛大に粉砂糖が散乱していてベタベタです。

カフェデュモンド、いつの間にか日本進出していたのね! ミスドのダスキンの経営で。
 「体にやさしいハーブ野菜「チコリ」をブレンドしたコーヒーに、同量のミルクを加えたカフェオレは、高い香りと深いコクが自慢です。揚げたて、あつあつの四角いドーナツ「ベニエ」とともに、おいしいひとときをお届けします。」だって。

 サイトの写真だと、日本店のベニエは粉砂糖が90パーセントくらい控えめ!(笑)
床もテーブルもベタベタになる砂糖の量は、日本では受けるまいw  


 ヨーロピアンな雰囲気の店内だけど、昼間行ったときには店員が全員ベトナム人のおばちゃんばっかりだった。
夜もう一度行ったら、今度はアメリカ人やヨーロッパ人の学生らしいワカモノが働いていました。

チコリコーヒーは不思議な味。
もとは南北戦争中、北軍に港を封鎖されて物資が不足してコーヒーが手に入らなくなったのでチコリの根を代用にしたのがニューオーリンズの伝統になったもの。
コーヒーとしておいしいわけじゃないんだけど、時たま飲んでみたくなる。


根を使っているからか、土っぽい匂いがする。
そういえば昔、タンポポの根を乾燥させて焙煎して炒れるコーヒーというのを頂いたことがある。とても土臭かったように覚えているけれど、似ているかも。


シアトルでは、Trader Joe's でチコリ入りコーヒーを見かけたことがあります。
やっぱり、無性にチコリコーヒーが飲みたくてたまらない!という人がいるのでしょう。


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2013/03/29

ルイジアナの沼ツアー



ルイジアナではぜひとも沼地を見たかった。

ので、「Swamp Tour(沼ツアー)」 に参加しました。

ニューオーリンズから車で40分くらいのところで開催されている、沼地帯をめぐるボートのツアー。


参加料金は1名25ドル。

平底の乗り合いボートでミルクチョコレート色の静かな川を上っていきながら、どこかのゲリラ兵みたいな格好のボートのキャプテンが植物や動物のことなど説明してくれます。

ちょっと『地獄の黙示録』に出て来たベトナムの川を思い出した。川の色も、そしてボートも、あれによく似てる。
 


メキシコ湾に面したこの一帯にある湿地の川は「Bayou(バイユー)」と呼ばれる。

水路が、もつれたレース編みのような、複雑な形にひろがっている湿地帯。


沼地に生えているこの木は「Cypress(サイプラス)」 だとボートのキャプテンは言っていた。

同じ「サイプラス」でもゴッホが絵に描いた糸杉/cypressとは違う種類。

「Bald Cypress」という落葉樹で、米国南部の沼地にだけ自生する大木なのだそうです。

ルイジアナ州の州の樹木でもある。

検索してみたら、日本語名もあった。沼杉(ヌマスギ)または落羽松(ラクウショウ)という、風雅な名前。
新宿御苑にもあるんだって!


腐りにくいのでボートや橋などの建材として使われるそうです。なるほど。沼のネイティブだもんね。



水の上ににょきにょきと突き出しているのは、「サイプラス・ニー(cypress knee)」たち。

根から垂直に伸びてくる、根のオマケ的部分です。

日本語では「気根」とされてますが、実際は酸素を取り込む役には立っていないらしく、何の役に立っているのか不明なのらしい。



サイプラスの枝に、アオサギがいた。

「落羽松」という名前は、秋に色づいた葉が鳥の羽根のようにはらはらと落ちてくるところからついたそうです。紅葉を見てみたい!!

1月初めのこの頃、落羽松はみんな丸裸で、スパニッシュ・モスだけが山姥の髪のように枝から垂れ下がる、不気味な光景でした。
 

 来る季節を間違ったことに気づいたのは、ツアーが始まって5分後くらい。

岸べにも水の中にも、生きているものの気配がまるでない。どこもかしこも、丸裸。

キャプテンがおもむろに顔のマスクを引き上げてボートのスピードをあげると、川の上をびゅんびゅん来る風が、寒いのなんの。

一体どうして私はわざわざおカネを払ってこんな目に遭いに来たんだろう。

と、ボートに乗り合わせたのんきな観光客の全員がそうおもったに違いない。

ワニがいつもたむろしている場所をあちこち試してみてくれたのだけれど、ワニのかけらも発見できませんでした。

そうだ、ワニって、温度が低いと動かなくなるんだったね…………。



水路の上に家を建てて住んでいる人々がいる。

この家々へのアクセスは、船のみ。
海老漁のボートを持っている人もいて、サテライトテレビがあったり、案外に暮らし向きは悪くないんだよとキャプテンは言っていた。しかし相当に偏屈な人が揃ってそうなのは、家の外見からもありありとわかる。



ハリケーン・カタリナの時にメキシコ湾から川上へ流されてきた船が、まだそのままになっている。



このほかにもいくつも流された船の残骸があった。

自治体もこんな奥まったところに流されて来たボートを引き上げる余裕はなく、メモリアル的な存在になっているとのこと。


いきもの発見!
ひっくり返った船のわきに、大きなヌートリアがいました。大きさは猫くらい。
これとアオサギと沼地猫だけが、今回目撃できたワイルドライフのすべて。


逞しそうな沼地猫。

船のキャプテンは、「5月くらいになったらまた来なよ。ワニが出て来るからね」と言っていた。
…最初に言ってよ……。言われてたらこなかったけどな。


ツアーの後で、船長さんたちが飼っているちっちゃいワニ君たちを触らせてくれた。

沼地猫たちよりもフレンドリーなわに君だった。

沼地ツアーに参加するなら、5月から10月くらいの間が良いようです。

リベンジ必ず!


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2013/03/28

馬と自転車



フレンチクォーターの交通手段、主役は花をつけられた馬が引く観光馬車。


ウマつなぎの杭 (hitching post) が舗道に残ってます。19世紀からのものなのか?


フレンチクォーター住人の交通手段は自転車がお手頃のようです。


なにしろ道が狭いこと世田谷区並みだし、ものすごく混雑するので、うっかり車で入り込んでしまうと脱出にけっこう時間がかかる。


マルディグラにはまだ2ヶ月以上もあったけれど、街中にやっぱりビーズの飾りやお面が氾濫してました。

お祭りを待つ町。


ジャズクラブにも行かずじまいだったので、次回はいつか、大人の部で行きたいものです。


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2013/03/26

クレオールのバルコニー




フレンチクォーターの建物はすべからくといっていいくらいに、優雅なwrought iron (ロートアイアン/錬鉄)で飾られています。


精巧な透かし模様の錬鉄製バルコニーは、「クレオール・タウンハウス」と呼ばれるニューオーリンズ独特の様式のデフォルトフィーチャー。


スペインとフランスの伝統、ヴィクトリア時代の流行、カリブ海の風味も加わったフュージョン建築。


 壁に落ちる影がまた素晴らしい。

錬鉄製のアイテムはバルコニーだけでなくいろんな細部に使われています。

ここまでするかと呆れるような精巧なデザインでも、素材が剛健だから、うるさい印象にならないのが面白い。

フレンチクォーターの家の多くは南北戦争以前に建てられたものですが、Marcus ChristianのNegro Ironworkers of Louisiana: 1718-1900という著作によると、こうした錬鉄細工を作った職人たちのほとんどは黒人奴隷や自由黒人、後には有色クレオール人だったといいます。



クレオール(Creole)という言葉の定義は複雑で、混乱しやすい。

もとは、フランスやスペインの本土から来たのではなく当地で生まれた(つまり「二世」以降ですね)世代の白人をクレオールと呼んで、欧州本土から来た人と区別していた。これが「ホワイト・クレオール」または「フレンチ・クレオール」。

アフリカから来た奴隷一世に対して、ルイジアナ植民地で生まれた黒人奴隷も「クレオール」と呼ばれた。

そうして19 世紀には白人クレオールと有色人の間に事実婚関係が増え、間に生まれた混血のクレオールが奴隷とは全く違う、教育を受けた市民の階層を作った。

と、時代が進むにつれ意味が増えていきました。

Merriam-Webster の辞書には 
1)西インド諸島やイスパノアメリカに生まれた、ヨーロッパ人の子孫
2)合衆国メキシコ湾沿いの地域のスペイン人またはフランス人の子孫で、祖先の言語や文化を保持している白人
3) スペイン人またはフランス人および黒人の祖先を持ち、フランス語かスペイン語の方言を話す人

という定義があります。



当地の人によると、「自分たちこそ本当のクレオールで、ほかの用法は間違っている」と考えている人もあるようです。それは多分、ヨーロッパ系のクレオールが有色系のクレオールのことを言ってるのだと思う。

フランス>スペイン領だった時代には有色のクレオール人が中産階級を築いて地位を広げつつあったところへ、アメリカ領になってから政府が南部のほかの地域と同じ所有者/被所有者の2階層制度を推し進めようとした頃、クレオール社会には恐ろしい混乱が起こり、人種間の対立も深まったことでしょう。

ルイジアナ買収から南北戦争あたりのニューオーリンズに興味が湧いてきました。



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