2013/03/29

ルイジアナの沼ツアー



ルイジアナではぜひとも沼地を見たかった。

ので、「Swamp Tour(沼ツアー)」 に参加しました。

ニューオーリンズから車で40分くらいのところで開催されている、沼地帯をめぐるボートのツアー。


参加料金は1名25ドル。

平底の乗り合いボートでミルクチョコレート色の静かな川を上っていきながら、どこかのゲリラ兵みたいな格好のボートのキャプテンが植物や動物のことなど説明してくれます。

ちょっと『地獄の黙示録』に出て来たベトナムの川を思い出した。川の色も、そしてボートも、あれによく似てる。
 


メキシコ湾に面したこの一帯にある湿地の川は「Bayou(バイユー)」と呼ばれる。

水路が、もつれたレース編みのような、複雑な形にひろがっている湿地帯。


沼地に生えているこの木は「Cypress(サイプラス)」 だとボートのキャプテンは言っていた。

同じ「サイプラス」でもゴッホが絵に描いた糸杉/cypressとは違う種類。

「Bald Cypress」という落葉樹で、米国南部の沼地にだけ自生する大木なのだそうです。

ルイジアナ州の州の樹木でもある。

検索してみたら、日本語名もあった。沼杉(ヌマスギ)または落羽松(ラクウショウ)という、風雅な名前。
新宿御苑にもあるんだって!


腐りにくいのでボートや橋などの建材として使われるそうです。なるほど。沼のネイティブだもんね。



水の上ににょきにょきと突き出しているのは、「サイプラス・ニー(cypress knee)」たち。

根から垂直に伸びてくる、根のオマケ的部分です。

日本語では「気根」とされてますが、実際は酸素を取り込む役には立っていないらしく、何の役に立っているのか不明なのらしい。



サイプラスの枝に、アオサギがいた。

「落羽松」という名前は、秋に色づいた葉が鳥の羽根のようにはらはらと落ちてくるところからついたそうです。紅葉を見てみたい!!

1月初めのこの頃、落羽松はみんな丸裸で、スパニッシュ・モスだけが山姥の髪のように枝から垂れ下がる、不気味な光景でした。
 

 来る季節を間違ったことに気づいたのは、ツアーが始まって5分後くらい。

岸べにも水の中にも、生きているものの気配がまるでない。どこもかしこも、丸裸。

キャプテンがおもむろに顔のマスクを引き上げてボートのスピードをあげると、川の上をびゅんびゅん来る風が、寒いのなんの。

一体どうして私はわざわざおカネを払ってこんな目に遭いに来たんだろう。

と、ボートに乗り合わせたのんきな観光客の全員がそうおもったに違いない。

ワニがいつもたむろしている場所をあちこち試してみてくれたのだけれど、ワニのかけらも発見できませんでした。

そうだ、ワニって、温度が低いと動かなくなるんだったね…………。



水路の上に家を建てて住んでいる人々がいる。

この家々へのアクセスは、船のみ。
海老漁のボートを持っている人もいて、サテライトテレビがあったり、案外に暮らし向きは悪くないんだよとキャプテンは言っていた。しかし相当に偏屈な人が揃ってそうなのは、家の外見からもありありとわかる。



ハリケーン・カタリナの時にメキシコ湾から川上へ流されてきた船が、まだそのままになっている。



このほかにもいくつも流された船の残骸があった。

自治体もこんな奥まったところに流されて来たボートを引き上げる余裕はなく、メモリアル的な存在になっているとのこと。


いきもの発見!
ひっくり返った船のわきに、大きなヌートリアがいました。大きさは猫くらい。
これとアオサギと沼地猫だけが、今回目撃できたワイルドライフのすべて。


逞しそうな沼地猫。

船のキャプテンは、「5月くらいになったらまた来なよ。ワニが出て来るからね」と言っていた。
…最初に言ってよ……。言われてたらこなかったけどな。


ツアーの後で、船長さんたちが飼っているちっちゃいワニ君たちを触らせてくれた。

沼地猫たちよりもフレンドリーなわに君だった。

沼地ツアーに参加するなら、5月から10月くらいの間が良いようです。

リベンジ必ず!


ブログランキング・にほんブログ村へ

2013/03/28

馬と自転車



フレンチクォーターの交通手段、主役は花をつけられた馬が引く観光馬車。


ウマつなぎの杭 (hitching post) が舗道に残ってます。19世紀からのものなのか?


フレンチクォーター住人の交通手段は自転車がお手頃のようです。


なにしろ道が狭いこと世田谷区並みだし、ものすごく混雑するので、うっかり車で入り込んでしまうと脱出にけっこう時間がかかる。


マルディグラにはまだ2ヶ月以上もあったけれど、街中にやっぱりビーズの飾りやお面が氾濫してました。

お祭りを待つ町。


ジャズクラブにも行かずじまいだったので、次回はいつか、大人の部で行きたいものです。


ブログランキング・にほんブログ村へ

2013/03/26

クレオールのバルコニー




フレンチクォーターの建物はすべからくといっていいくらいに、優雅なwrought iron (ロートアイアン/錬鉄)で飾られています。


精巧な透かし模様の錬鉄製バルコニーは、「クレオール・タウンハウス」と呼ばれるニューオーリンズ独特の様式のデフォルトフィーチャー。


スペインとフランスの伝統、ヴィクトリア時代の流行、カリブ海の風味も加わったフュージョン建築。


 壁に落ちる影がまた素晴らしい。

錬鉄製のアイテムはバルコニーだけでなくいろんな細部に使われています。

ここまでするかと呆れるような精巧なデザインでも、素材が剛健だから、うるさい印象にならないのが面白い。

フレンチクォーターの家の多くは南北戦争以前に建てられたものですが、Marcus ChristianのNegro Ironworkers of Louisiana: 1718-1900という著作によると、こうした錬鉄細工を作った職人たちのほとんどは黒人奴隷や自由黒人、後には有色クレオール人だったといいます。



クレオール(Creole)という言葉の定義は複雑で、混乱しやすい。

もとは、フランスやスペインの本土から来たのではなく当地で生まれた(つまり「二世」以降ですね)世代の白人をクレオールと呼んで、欧州本土から来た人と区別していた。これが「ホワイト・クレオール」または「フレンチ・クレオール」。

アフリカから来た奴隷一世に対して、ルイジアナ植民地で生まれた黒人奴隷も「クレオール」と呼ばれた。

そうして19 世紀には白人クレオールと有色人の間に事実婚関係が増え、間に生まれた混血のクレオールが奴隷とは全く違う、教育を受けた市民の階層を作った。

と、時代が進むにつれ意味が増えていきました。

Merriam-Webster の辞書には 
1)西インド諸島やイスパノアメリカに生まれた、ヨーロッパ人の子孫
2)合衆国メキシコ湾沿いの地域のスペイン人またはフランス人の子孫で、祖先の言語や文化を保持している白人
3) スペイン人またはフランス人および黒人の祖先を持ち、フランス語かスペイン語の方言を話す人

という定義があります。



当地の人によると、「自分たちこそ本当のクレオールで、ほかの用法は間違っている」と考えている人もあるようです。それは多分、ヨーロッパ系のクレオールが有色系のクレオールのことを言ってるのだと思う。

フランス>スペイン領だった時代には有色のクレオール人が中産階級を築いて地位を広げつつあったところへ、アメリカ領になってから政府が南部のほかの地域と同じ所有者/被所有者の2階層制度を推し進めようとした頃、クレオール社会には恐ろしい混乱が起こり、人種間の対立も深まったことでしょう。

ルイジアナ買収から南北戦争あたりのニューオーリンズに興味が湧いてきました。



ブログランキング・にほんブログ村へ

バーボン・ストリート



有名なバーボン・ストリートは、くさかった。


とにかく盛り場ですから、まっ昼間でも発酵したニオイがそこここに漂う。

昼間から出来上がっている人多数。

頭がパーティに行ってる人多数。



狭い道を馬が横切り、トラックが通る。


未成年同伴だと夜の部はありませんから、ちょと残念。


 ミント・ジュレップはバーボンに砂糖とミントを混ぜた南部の飲みもの。
フロリダの話に出てきて、おいしそうだったから一度バーで注文してみて、うぇっとなったことが。
死にそうに蒸し暑いときに飲むと、おいしいのかも。

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村

2013/03/25

アメリカに都市は3つしかない



" America has only three cities: New York, San Francisco, and New Orleans. Everywhere else is Cleveland."

「アメリカに都市は3つしかない。ニューヨーク、サンフランシスコ、ニューオーリンズだ。そのほかの場所は皆クリーブランドだ


テネシー・ウィリアムズの言ったというこの言葉(出典は不明)、ニューオーリンズの土産物店で何度も見た。
半世紀以上昔の出典不明な言葉であっても、「NOLA」と自称するニューオーリンズ人たちのプライドを今もくすぐっていることは間違いなし。



この言葉のいわんとすることは、わかる気がする。

都市を都市にしているのがカオスのような国際性と息のつけないせわしなさ、容赦のなさだとすれば。(その当時ロサンジェルスはまだ都市ではなかったのだろうし)


数日前に滞在したアトランタと比べて、同じ南部の都市でもニューオーリンズは全く毛色が違いました。

カタリナ災害の影響がまだ濃いのもあるのだろうけれど、全体に景気の悪い感がじっとりと漂っている。

フレンチクォーターは観光地だから、のほほんとした観光客から少しでも小銭をむしり取ろうとタップダンスの子どもたちや観光馬車が待ち構えている。


そして人がせわしなく、抜け目ない。南部のほかの場所ではどこでもみられるゆったりした「サザンホスピタリティ」(南部人の誇りとする、南部式おもてなしの精神)は、この町ではほとんど感じられない。
もちろんサービス業はそれなりに愛想は良いけれど、人が皆疲れているようにみえた。

泊まったのはフレンチクォーターではなくガーデン・ディストリクトのB&B。
フロントの綺麗な女の子も、カフェの太ったバリスタも、ドラッグストアのおばちゃんも、なんだかデフォルトで憂鬱そうで、機嫌が悪かった。

車の運転もシアトルやアトランタみたいにのんびりしてません。
道も狭くて建て込んでいるし、ああなんだか東京のようだと少し思った。


一見、優雅そうだけれど、中身はめちゃタフそうな町という印象でした。

住むには相当のエネルギーが要りそう。


いろんなものが爆発寸前なまでにぎゅうぎゅうと詰まっている町。
だけどきっと、近づいてみたらめっちゃ面白いに違いない。

うちの未成年はフレンチクォーターを歩いて、僕はここに住んでみたいと言った。

母は、私にはもはや無理、と思った。

都会の定義はいろいろあるけど、住む人にタフネスを要求するっていうのも都会の特性のひとつだよね。




 町を包むように蛇行しているミシシッピ川。このへんでは意外なほどに川幅が狭い。
川までも、ぎゅうぎゅうに詰め込まれている感がある。


 Voodoo 博物館というのに行ってみた。

小さな家にぎゅうぎゅうと歴史的なブードゥのいろいろを詰め込んだ、息苦しくなりそうな狭いミュージアム。


ブードゥーは、 アフリカの信仰とカソリックの教えと伝統がぎっしり詰まった、ニューオーリンズ生まれのフュージョン宗教。

これもまた、ジャズや料理と同じく、この土地でしか育まれ得なかったもの。


ブードゥ博物館に展示されていた、手描きのブードゥ流入経路。

ニューオーリンズは奴隷貿易の港でもあった。

この狭くるしく、ドクロだらけの怪しい雰囲気いっぱいの博物館の廊下で素朴な手作りの地図を見ていると、この3つの大陸の近さがとても生々しく感じられたのでした。



ブログランキング・にほんブログ村へ

2013/03/24

フレンチクォーター


桜咲く季節になりましたが、それとは関係なく1月初めに行ったニューオーリンズの日記。


年末年始にかけて、ルイジアナ州シュリーヴポート~ミシシッピ州ジャクソン~ジョージア州アトランタ~アラバマ州モービル~ニューオーリンズ~シュリーヴポート、というコースでドライブ旅行をしました。 なんだかバタバタとしている間にニューオーリンズの写真をアップしそびれて、はや3ヶ月。



ニューオーリンズでは正味2日しかなかったので、沼地とフレンチクォーターに絞って散歩しました。


フレンチクォーターの建物は、カラフル。冬のニューオーリンズは決してトロピカルな気候ではないのだけど、ペパーミントグリーンの窓枠、サーモンピンクやレモンイエローの壁の色は、カリブ海のおすそわけのような南国カラー。 



フォークナーはこのニューオーリンズも含むミシシッピ川沿いの土地は
「手品師が一方の手からもう片方の手へ閃かせるトランプの一束のように」 
 スペイン人からフランス人へ、そしてまたスペイン人へ、またフランス人の手へ、と何度もあるじを変えて、そして最後にアングロサクソン人がやって来た、と書いている。(『Mississippi』)



ニューオーリンズはフランス人が開拓し、スペイン統治の時代を経てフランス領に戻って、ナポレオンによってアメリカに売り渡されて、といろんな主人を持った町。


フランス、スペイン、アングロサクソン、アフリカから連れて来られた奴隷、そしてハイチから移住した自由黒人、といういろんなカルチャーが流れ込んだ町は、建物にも、食にも音楽にも、お祭りにも、沸騰するような独特の文化を作り上げた。



古い建物が保存されているだけではなくて、21世紀にも隅々まで利用しつくされているところがすごい。歩いているだけで、町の生命力に少し圧倒される。


ヨーロッパの伝統をメキシコ湾の大釜でぐらぐらと煮て、ハイチの魔術とアフリカの音楽を投げ込んだら、それは思いがけないものが飛び出してくるのは当然。

そうして生まれたのがジャズであり、クレオール料理であり。

ニューオーリンズて、アメリカが現在のアメリカになっていく過程でなにげにとても重要な役割を果たした都市だったんだ、と、今回訪ねてみて、改めて実感しました。


風格ある猥雑な町でした。

にほんブログ村 海外生活ブログ シアトル・ポートランド情報へ

2013/03/21

Killing States

 
アメリカの法律が州によってまったく違うのは周知のことですが、つくづくその違いを実感するのが、最近ワシントン州で合法となったマリファナの使用や同性婚についての法律。それから、死刑制度もです。

現在、死刑制度を実施している州は33州。死刑制度を廃止した州は17州。

先学期とったクラスで死刑制度について読んでいて、Killing State という呼称を見ました。これは Austin Sarat氏をはじめとする死刑制度廃止論者の学者さんたちが使っていて、一般的に普及している用語じゃないかもしれないけれど「死刑実施中の州」という意味はよくわかる。


ワシントン州もKilling State で、現在死刑囚が9 名います。

死刑囚が一番多いのはカリフォルニア州で、724名という桁外れの数。

全米では3000人を超える死刑囚が刑務所に収容されています。

各州によって、死刑になる可能性がある犯罪要素も、減刑になる可能性のある要素も違う。

州の中でなら同じかというと、それもまた違う。起訴された場所によって、裁判の成り行きによって、同じ犯罪でも死刑になったりならなかったりする。陪審員の存在も大きい。


わたしはずっとぼんやりと、死刑制度反対というのは人道的に死刑そのものが良くないことだという主張だと思っていたのだけど、それだけではないのでした。

これは納得できると思った理由は二つ。

まず一つに、各州、各司法区域の制度がarbitrary (気ままに決めること)を許しているという議論。

はっきりとしたガイドラインなしに、弁護士や検察官の技量、裁判官や陪審員の気分や裁量、で死刑になったりならなかったりするのはあまりに不公平ではないかという話です。

被告人の人種により結果があまりにも違うことも、もう何十年も前から指摘されています。


死刑囚になるのは、ほとんどが自分で弁護士を雇うことができなかった貧しい被告で、マイノリティの率が非常に多い。

1972年の連邦最高裁判決で、すでに「不規則かつ選択的にマイノリティに対して適用されている」として、当時の各州の死刑制度の運用が違憲とされています。

しかし今でも死刑囚の4割は黒人です。

 二つ目は、本当は無実でしたというケースが1件や2件の例外ではなく存在すること。


2003年にはイリノイ州のライアン知事が、「イリノイ州では年間1000件の殺人があったが、その被告のうち死刑を宣告されたのは2パーセントにすぎない…。死刑制度は確実な基準なしに102名いる検事によって求刑されていて、公正に統一された方法で行なわれているとは言えない」とし、また、州内で死刑を宣告されてから無実を勝ち取って釈放された死刑囚が70年代以降17名もいることを指摘し「このシステムは壊れている」として、167名の死刑囚を全員終身刑に減刑しました。( イリノイ州はその後2011年に死刑制度を廃止)

死刑そのものが人道的にどうかというのはまた別の議論。

懲罰としてはLife Without Possibility of Parole  (「LWOP」=仮釈放の可能性のない終身刑)のほうがむしろ死刑よりも苛酷な刑という見方もある。

死刑の方法が人道的な方法を目指して来たのと同様に、LWOPの処遇についても議論が分かれるでしょう。


死刑廃止論の理由に「死刑囚はコストがかかる」というのがあります。死刑を求刑する裁判はものすごくおカネがかかるし、死刑囚には控訴が認められていて、何年もかかる裁判の費用は州や国が負担しなくてはならないので。しかし全部がLWOPになってしまったら、控訴のチャンスがずっと低い*安上がりな*終身刑の囚人が増えるのではないだろうか? それはそれで冤罪の場合や裁判手続きに問題がある場合に守られにくくなるのでは?という疑問もわきます。

社会にとって、罰とはなんなのか。犯罪防止のためか、被害者や家族の心情を軽くするためのものか、犯罪者の更生のためなのか。 まずそこの議論が分かれているのに加えて、法律があまりにも多彩すぎる国アメリカの刑事罰の複雑さは、シュールリアリスティックにさえ感じられます。


にほんブログ村 海外生活ブログ シアトル・ポートランド情報へ