2017/11/08

2022年の大停電の話


『ブレードランナー 2049』の27年前の世界で発生したレプリカントテロによる大停電エピソードのアニメ短編がYouTubeで公開されてるの知りませんでした!

監督は『サムライチャンプルー』の渡辺信一郎さん。
サムライチャンプルー、うちの息子が中学校のとき、「Adult Swim」でよく見てたなー。わたしはあんまりちゃんと見たことないんだけど。

『Blackout 2022』は 15分の短編だけど、画面の密度がものすごーく濃くて、みごたえがっつりでした!タダなんてすごい。LAの夜景!ほんとに『ブレードランナー』と『2049』の中間らしくなっててる!!!
日本のアニメのアーティスト/職人技すごいなあ。

 映画の中でメンションされる「大停電」がなんだったのかはわかったよ。
でもますます謎が深まるんだよ。




それにもうひとつ、リドリー・スコット監督の息子さんルーク・スコット監督が撮った短編フィルムが2本。『2036:Nexus Dawn』(6分)は、その大停電と本編のまんなかの時代のエピソード。『2048: Nowhere to Run』(5分)は本編の冒頭に出てくるレプリカントさんのエピソード。



こちらもドゥニ・ヴィルヌーヴ監督のメッセージつきでYouTubeで公開されてます。

映画のおまけに短編3本つくっちゃうなんてすごいですねー。

80年代に『ブレードランナー』が描いた21世紀のディストピアの世界は半年くらい眠れなくなるほど衝撃的だったのだけど、ある意味ディストピアものも世界終末ものもすっかりエンターテイメントの定着したジャンルになってしまったこの本当の21世紀に、ミレニアル世代の子たちにとって、こういうディストピアの世界ってどう映るんだろうか。

80年代に子どもだった(だよね?笑)私たちが感じた衝撃とはまったく違うんだろうなと思う。

あと、ヴィルヌーヴ監督って、なんていうか、リドリー・スコット監督よりもずっと心優しい人だよね、きっと、と思う。

『メッセージ』といい、ヴィルヌーヴ監督の映画はほんとうに詩的でビューティフルで繊細な映像にノックアウトされるし、好きなんだけど、映画そのものにはいろいろお願い事を言いたくなるのだ。どうか聞いてくれドゥ二。機会があったら3時間くらい話したいことがあるんだ。



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2017/11/07

ワシントン大学のシニア向け無料聴講制度


昨日の雪は止んで、今日はよく晴れた綺麗な一日でした。でもちょっと寒い。

本日のキャンパス。「レーニア・ヴィスタ」という噴水広場で、名前のとおりこの噴水のむこうの真正面にレーニア山がきれいに見えるのだけど、写真だとほとんどわかりませんね。


この噴水は、アラスカ・ユーコン博覧会のときに作られたものです。

この博覧会のことも以前、このブログの記事に書いたことがありました。
4年半前だわ、うわはは。


この左手の建物は、20世紀初めに建てられたスザロ図書館などの一連の建物に似せてつくった、バチモンじゃなくてえーと、疑似古典というのでしょうか。



カナディアングースの皆さんが忙しくお食事中でした。


授業開始前のお教室。

昼間のクラスはキッズばっかりでわたしがきっと最年長なのだと思ったら、意外にもシニア世代の姿が多いのだった。60人くらいのクラスに10人くらい、シニア世代がいらっしゃる。

その一人に聞いてみたら、 なんと、60歳以上のワシントン州民は、空きがあるクラスなら1学期につき2クラスまで無料で聴講できるんですってー。

ACCESS プログラムというのがあるんだそうです。アジア系の語学のクラスや研究室のクラスなど、受講できないクラスはいくつかあるらしいし、学部の学生が全員登録し終わってから空席があればどうぞということらしいですが、無料ですってよー。

「アメリカの60年代」ってクラスなので、実際その場にいた人の話が聞けて面白いし、若者にとってもシニア世代と一緒に勉強できるってなかなか良い経験なんじゃないかなと思う。

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2017/11/05

超80年代


急に予想外のボリュームのお仕事が舞い込んできて、たいへん嬉しいのですけど、どひゃ〜、あわあわ。となっている折、Netflixの Stranger Things シーズン2が公開されてしまいました。

シーズン1も超大好きでした。

すべてが王道。

キャラクターが全部いい!ウィノナ・ライダー最高。 
 
舞台は1984年。キャラクターたちのヘアスタイルも洋服もミュージックも小道具も、涙でるほどオーセンティック。

しかし。80年代って、もはや「時代モノ」の範疇になっちゃったのね!



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2017/11/04

雪とイクラとハンサム君


お寒いざます〜!!
シアトルは今朝、華氏35度(1度C)!
きのうは雪が降ってました。

うちのへんでは全然積もらず地面につく前に消えてしまう雪だったのでしたが、明日の朝も雪だってよー!あっという間に冬ですね。


そんなきのうの空。
雲が、いかにも凍ってる感じでぼわーんとキラキラしてる。まことに寒そうな空でした。



こずも食堂主人のくーちゃんママに、貴重な地元産いくらをいただいた!
ご友人の特製だそうです。身近に鮭釣りに行く人がいるって素敵。
美しさに、涙でるー。
青じそを買いに走る。青じそは高い。10枚につき2ドル50セントですのよ。でも近所に売ってるだけ幸せですわね。

ごちそうさまでした。美しくておいしいイクラでございました。あああ幸せ。




どうかオレには構わないでくれという電波をガンガン発射していたゴーイングマイウェイなくーちゃん。男前なのにカメラシャイ。


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イオラニ宮殿の悲劇(その2)


カラカウア王は新しもの好きで、宮殿に当時最新技術であった電灯をつけるため、私費を投じて蒸気発電機を設置したそうです。

電話や水洗トイレまで完備。

この宮殿は明治15年完成ですよ。当時、まだホワイトハウスにも電気は引かれていなかったそうです。


立派なトイレ。



この宮殿は、完成からほんの10年ほどで、ハワイ王国が乗っ取られる舞台となってしまったのでした。

今回、森出さんにツアーで案内してもらいながら、そのひどい話をあらためてしみじみと実感できました。

1887年、サトウキビプランテーションなどの事業でハワイのビジネスを牛耳っていたアメリカ人実業家を中心とするグループが、カラカウア王の顧問役で王国の首相をつとめていたアメリカ人を追放し、王の権限を大幅に制限する憲法、いわゆる「銃剣憲法」の発布を迫ります。200人ほどの武装した一般人(全員白人)のグループがうしろについていたのだそうです。

アメリカ人実業家たちのグループが最終的に目指していたのはハワイをアメリカの領土にすることで、それはその後10年ほどで実現しました。

カラカウア王の死後、1891年に王位についた妹のリリウオカラニ女王は王権の復活を目指したものの、1893年にこの白人実業家グループの「革命」が勃発。
王国は「共和国」となります。

このときのリーダーで、共和国の大統領になったのは、パイナップル王国を築いたドールさんの従兄弟、サンフォード・ドール。



ハワイ最後の女王となったリリウオカラニ女王は、今もハワイの人々に深く敬愛されています。

アメリカ人の手によって起こったこの「革命」の話を聞いてびっくりしたクリーブランド大統領は、この共和国は違法であるとして女王に王権を戻すようはたらきかけますが、太平洋の真ん中のこの実業家たちは聞く耳もちませんでした。

女王は宮殿を退きましたが、当然ながらハワイアンたちの間には怒りに燃えて共和国を王政に戻そうと画策する人が多かったことでしょう。

共和国の政府にとっては、そんな動きはむしろ、良い口実になってしまいました。

翌々年、1895年、王政派のクーデターが未遂に終わった後、自宅から武器が発見されたとして、リリウオカラニ女王は謀反罪で逮捕され、裁判にかけられて、イオラニ宮殿の一室に監禁されます。

リリウオカラニ女王は流血を望まず、クーデターにもかかわっていなかったといいます。

女王は自分の宮殿に幽閉され、正式に退位を表明する署名をさせられます。

その3年後、ハワイ共和国はアメリカの領土となったのでした。


音楽の間には、リリウオカラニ女王が作曲した名曲「アロハ・オエ」の譜が飾ってありました。


リリウオカラニ女王が幽閉されていた部屋には、女王を記念するキルトが展示されてます。
クレージーパッチワークの真ん中に、日付が刺繍された布。

一つの布には、生まれた日、王位についた日などが刺繍され、右下の青い布には退位した日付と証人の名前が刺繍されています。


これは、本当に寂しい部屋。2階の東南側の、とても小さな部屋です。
これほどの悲しい出来事が刻みつけられたキルトに思いが残らないほうが不思議かもしれません。
リリウオカラニ女王の無念が目の前にかたちになっているようで、とてつもなく悲しくなりました。

でも女王は、退位を表明してからは恨みの気持ちを表したりすることは一切なく、ハワイの人々の暮らしの向上のために尽くしたそうです。



王座があった謁見の間。リリウオカラニ女王が謀反罪で裁判にかけられたのもこの部屋なのだそうです。

宮殿は、ハワイがアメリカに併合されたあと庁舎として使われ、調度品のほとんどは売り払われてしまったのですが、1970年代に宮殿を歴史的建築物として保存することが決まって以来、かつて宮殿を飾っていた家具調度を文字通り世界中から買い戻し、少しずつもとの姿を取り戻しているそうです。

じゅんさんによると、宮殿のツアーに参加した人が、飾られていたかつての室内の写真を見て、「この家具は家にある!」と気づいたこともあるのだとか。


孔雀の羽根をつかったドレスはレプリカだそうです。

ちょうど、この宮殿が完成した年は、大平原で米国陸軍と戦ったスー族のシッティング・ブルが降参した頃でもありました。

シアトル酋長が亡くなったのはそのもう少し前ですね。

19世紀半ばまでにすっかり片隅に追いやられた米国本土のネイティブ・アメリカンの人々とは違い、ハワイは一世紀近く独立した王国を保ち、その後抑圧された時期を経たとはいえ、20世紀後半に文化がまた花開いて、世界中の人々からロマンチックな憧れを持って愛されています。

その後ハワイに住み着いたいろいろな民族の移民にとっても、ハワイが好きで遠くからやってくる観光客にとっても、一度も行ったことのない人にとっても、ハワイはなんだかすごく明るくあたたかくポジティブな存在でいてくれる。

でもこの宮殿は、大国にねじ伏せられた怒りと悲しみを忘れてはいません。
当然のことだけれど、その怒りはまだ、今生きている人たちの中にも静かに流れています。

ハワイはほんとうに明るいポジティブなパワーに溢れた場所なので、ついそのあたたかさにだけ浸ってしまうけれど、ふっと日が陰った瞬間には、そういう厳しい歴史がじっとこちらを見ている場所でもあるのですよね。忘れられて良いことではないし、それどころかアメリカ人の中にはこの事実を知らない人が多いので、ちゃんと学校で教わってほしいなあと思います。

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2017/11/02

イオラニ宮殿の悲劇(その1)


冷たい雨の降るシアトルですが、脳内では妄想ハワイに戻っています。

今回のホノルルでは、地元ライターの森出じゅんさんのご案内で、イオラニ宮殿ツアーに参加しました。

森出さんは『ミステリアスハワイ』『ハワイの不思議なお話』という著書を2冊出されている、ハワイのエキスパート。
ブログも書かれています。

イオラニ宮殿のドーセントのボランティアをずっとされていて、毎週水曜日の日本語ツアーがご担当です。

マダムMが森出さんの以前からのファンで、日本に講演に行かれたときに会ったのだそうで、この日はツアーのあと、いろいろとディープなハワイのお話も伺えてほんとうにラッキーでした。

イオラニ宮殿の中のツアーはずっと昔に一度だけ参加したことがあったけど、あらためて日本語ツアーでゆっくりお話を伺いながら見ていくと、ハワイのあまりにも悲しい歴史が胸に迫りました。



宮殿の全景を撮るのを忘れたので昔撮った写真を探してきました。

突然ですが、わたしは人の「想い」や「念」は、時々はるばる飛んで来ることがあるし、長い時間がたってもその場所に、なかなか消えない匂いや染みのように残ることがあるものだと思います。

なぜそんなことをここで言い出すかというと、もう今から20年ほど前、ハワイに引っ越してすぐの頃だったのですが、このイオラニ宮殿の前を初めてクルマで通り、宮殿を見た瞬間に、なんともいえない暗く寂しいなにかを感じたことがあるのです。

ちょうど夕方で、年末か年始だったのでこの前庭に提灯がたくさんつけられ、華やかなはずなのにほんとうに暗く、内臓がひやっとするほど寂しく、この宮殿がじっと睨んでいるように感じられました。

その後、ハワイの歴史を読むにつれ、この宮殿でなにが起きたのかを知って、ああ、そうだったんだ、と腑に落ちたのでした。

それでは、無念な気持ちがここに残っても当然だよね、と。


宮殿の外壁にはぐるりと、丸い鏡がつけられています。

ハワイの第7代目の国王、カラカウア王によって1882年に建てられた宮殿です。
日本は明治15年。

その翌年には日本で鹿鳴館が完成してます。

ところで鹿鳴館って、ちょっとイオラニ宮殿に似てる!

鹿鳴館(wikipediaより)

鹿鳴館がこんなに可愛いイタリアンルネッサンス風の建物だったなんて知らなかった。
戦前に取り壊されてしまったのは残念ですね。


イオラニ宮殿(Iolani Palaceウェブサイトより)

イオラニ宮殿は「アメリカン・フィレンツェ」様式という、ほかに例のない様式なんだそうです。
「宮殿」といってもいかめしさや重々しさはなく、南国らしい軽快な建物です。細めの柱に囲まれたバルコニーの廻り廊下、細身のアーチ型窓、屋根の上の飾りなどがフィレンツェ風ということなのか、全体に瀟洒で女性的な印象です。

イオラニ宮殿は、王と王妃の(最後には女王の)住居であり、執務用の公邸であり、鹿鳴館のように海外からの賓客をもてなす迎賓館でもありました。 

明治時代、どちらも西欧の列強に虎視眈々と狙われていた非白人の新興国という立場であり、太平洋を隔てた「おとなり」であったことから、ハワイと日本の縁はとても深く、カラカウア王は日本と強い絆を築きたいと切望していたそうです。

この宮殿が完成する前年、1881年(明治14年)カラカウア王は世界一周の旅に出ていますが、 その途上で日本を訪ね、明治天皇と会談して、当時5歳だった姪のプリンセス・カイウラニと山階宮定麿親王の縁組、そして日本とハワイを連邦にする計画をもちかけたと伝えられています。


のちのカイウラニ王女。ほんとうに美女ですね。


小さなときの愛らしいカイウラニ王女(ウィキペディアより)。利発そうですねー。
これは8歳くらいにみえますが、カラカウア王は明治天皇との会談にのぞんで、こんな写真をお見合い用に持っていったのかもしれません。

自分の国がアメリカをはじめとする白人の列強に呑み込まれる危険を切実に感じていたに違いないカラカウア王は、当時非白人の国で唯一、列強に対抗して植民地化を逃れ、軍備を増強していた日本帝国とタッグを組むことを望んでいたのでしょう。

もちろん、莫大な借金をしてフル回転で富国強兵し、帝国を絶賛建設中だった日本にはそんな余裕はなかったし、天皇を現人神にまつりあげた明治国家が南洋の小国の姫を皇族の嫁に迎えるなんていう話に乗るわけもありませんでした。



このガラス戸は正面扉。ヨーロッパから運ばれたものなのでしょうが、このすぐ後に来るアール・ヌーヴォーを予感させるような、優雅で軽やかなデザインですね。


1階の中央にあるホールの大階段は、ハワイ原産のコアの木だけでつくられている見事なもの。

建物保護のため、ツアーではエレベーターを使います。


玄関ホールには、各国から贈られた調度品と、王家の歴代の人々の肖像画が飾られてます。
左の壺は、日本から贈られた「白薩摩」だそうです。

肖像画は、どれもはっきりいってあまり上手な画家が描いたものじゃないです。どこのどんな人だったのかわかりませんが、専業の画家じゃなかったんじゃないかな。

ハワイ王国の歴史は、1810年にカメハメハ大王が全島を統一してから1895年にリリウオカラニ女王が退位させられるまでの85年間。

押し寄せてくる西欧列強の文化的・軍事的・政治的プレッシャーが徐々に徐々に強くなり、カラカウア王の懸念どおり、ついに米国に併合というかたちで滅ぼされてしまった小国でした。

在位わずか1年で世を去ってしまったルナリロ王はじめ、短命な人がおおかったため、85年間に王位は8回変わっています。


こちらは貴賓を招いて食事を出した、晩餐の間で、西欧諸国の王族から贈られた肖像画が飾られてます。

19世紀の王族たちは自分の肖像画をよその国に贈る習慣があったそうで、名刺みたいなものだったんでしょうか。

1848年にフランス王、ルイ・フィリップが送ってきた肖像画は、12人がかりでないと運べないほど巨大だったそうです。迷惑ww

長くなったのでつづきます。


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2017/11/01

ハロウィン、18年後


Happy Halloweenでした。1999年。


そして今年。
顔にタトゥーの「Dead Rapper」だそうです。


これはどちらかというと「#地味ハロウィン」ではないの?

お母ちゃんにはよくわかりませんよ。


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