2015/04/30

印象派、ポスト印象派と『草枕』


前にも何度か行った、カークランドの北のワニタ・ベイ・パーク。
いつも素っ頓狂な声で啼くハゴロモカラスが見られます。

この時には(何週間か前)スイレンはまだ茶色でした。

水草の池に雲が映っていたりすると、反射的にモネの絵を思い出してしまう人は多いのではないでしょうか。わたしもです。

モネやルノアールが代表する印象派の絵ってそれこそ生活の隅々にまでいきわたるほど見慣れたものになってるから、以前は正統派の美術といえば印象派、みたいな感覚でなんとなく捉えてたんですけど、この人びとは19世紀には超アバンギャルドだったんですよね。

今学期は美術史を受講してて、『What Are You Looking At?』という本を読んでるところなんですが、これが面白い。

Will Gompertzさんという英国のテート・ギャラリーのディレクターを務めていた人の書いた本で、19世紀から150年にわたるモダンアートの歴史を振り返るという内容。でも全然アカデミックな本じゃなくて、ちょっとやりすぎでは、というくらいくだけた口調で語られています。

この本で最初に登場するのが印象派の面々。モネ、マネ、ピサロ、ドガといった面々が、第一回の展覧会のあとでカフェに集って酷評に激怒するという場面が小説仕立てで描かれてて、モネが机をドンドン叩きながら怒ってる(笑)。

印象派とは、最初のモダンアーティストだった、というのは、あっそうか、と思わされました。あっそうか!

Gompertzさんは、たとえば、こんなふうに説明してます。

They ripped up the rulebook, metaphorically pulled their trousers down, and waved their collective derrieres at the establishment before setting about instigating the global revolution we now call modern art.

<彼ら(印象派の画家たち)は、ルールブックを破り捨て、言ってみれば皆でパンツを下ろして権威あるアカデミーの人びとの前でおケツを振って見せた。そうして、現在私たちが「モダンアート」と呼ぶようになった世界的な革命に取りかかったのである。>
 
19世紀なかば、社会構成の激変、革命の市街戦を経てパリの街がすっかり作りなおされる環境の激変、そして技術革新とブルジョワ階級の台頭で消費生活も激変、という激変だらけの時代に、出るべくして出てきたのが、新しい美術、新しいものの見方。

それまで聖書の物語やギリシャ・ローマの神話や偉人の姿を美しく重厚に描くのが絵画だったところへ、日常にありふれた題材を取り上げて、「見えるままに」キャンバスに表現した印象派のモネとかルノアールの鮮やかな色彩の画は、そりゃあ当時の教養ある上流階級の人びとには、子どもが塗りたくった幼稚な絵のように見えたことでしょう。

そして、印象派を始めとする当時の欧米の若い画家たちが、広重、北斎、歌麿といった浮世絵からどれほど衝撃的な影響を受けたか、というのも面白いなあ、と思うのです。

アシンメトリーな構図。日常的な題材。俯瞰の構図。前景に何かが立ちふさがってる構図。
画面に入りきってなくてちょん切れてる人物やモノ。版画の鮮やかな色使い。装飾的な画面づくり。
…というような浮世絵の要素は、印象派の人たちだけでなくて、その前後の人たちの絵にも繰り返し出てくるんですね。

ジャポンのエキゾチックな要素を借りた、なんていう程度のものではなくて、「新しいものの見方」を浮世絵が提供した。


北斎とか広重の版画って、本当に今見てもモダンというほかないデザインだ、といつも思わされます。

幕末を目前に控えた江戸末期に、ここまで超絶的に洗練された美術があって、それが産業革命後、社会の激変を迎えていたヨーロッパのアーティストたちの世界観にはかりしれない影響を与えた。

それでいて、当の日本はちょうどその頃、幕末の大騒動のあと鎖国を解いて大忙しの文明開花で西洋の文明を輸入しようとシャカリキになっていた、というのは皮肉というか、本当に面白いですね。



Gompertzさんの本に戻りますが、次の章は「ポスト印象派」。

画商のロジャー・フライさんがロンドンで、印象派の次の世代のゴーギャン、ゴッホ、セザンヌ、スーラなどの画家の展覧会をしたときにまとめて「ポスト印象派」という名称をつけたのだというエピソードを読んで、はじめて納得。

ポスト印象派って、日本では昔は「後期印象派」という呼称が一般的でした。


だから中学生か高校生のころ、印象派にはテレビドラマのように前半と後半があったのかと思ってました。

漠然と、どこまでが前期って誰が決めたんだろう? なんて思ってたんですが。

「POST」を「後期」って訳しちゃ駄目ですよね。「印象派よりも後の画家たち」なのに、「印象派の後半の人びと」になっちゃう。




そういえば、この間夏目漱石先生の『草枕』を読み返してたら、こんな箇所がありました。

画家である主人公が春の野山に逍遥し、春そのものののんびりと豊かな風情にすっかり同化して、<目に見えぬ幾尋の底を、大陸から大陸まで動いている洸洋たる蒼海の有り様>のような心持ちになり、こう思う。

<この境界を画にしてみたらどうだろうと考えた。然し普通の画にはならないに極っている。我等が俗に画と称するものは、只眼前の人事風光を有りのままなる姿として、若しくはこれをわが審美眼に濾過して、絵絹の上に移したものに過ぎぬ。花が花と見え、水が水と映り、人物が人物として活動すれば、画の能事は終わったものと考えられている。もしこの上に一頭地を抜けば、わが感じたる事象を、わが感じたるままの趣きを添えて、画布の上に淋漓として生動させる。>

<普通の画は感じはなくても物さえあれば出来る。第二の画は物と感じと両立すれば出来る。第三に至っては存するものは只心持ちだけであるから、画にするには是非共この心持ちに恰好なる対象を択ばなければならん。然るにこの対象は容易に出てこない。出てきても容易にまとまらない。まとまっても自然界に存するものとはまるで趣きを異にする場合がある。従って普通の人から見れば画とは受け取れない。描いた当人も自然界の局部が再現したものとは認めておらん……>

<古来からこの難事業に全然のいさおしを収め得たる画工があるかないか知らぬ。ある点までこの流派に指を染め得たるものを挙ぐれば、文与可の竹である。雲谷門下の山水である。下って大雅堂の景色である。蕪村の人物である。>

主人公の画家が、形あるものではなくて心のさまを画にするにはどうしたら良いだろうか、と、悩んでいるところなのです。
いままでそんなことをしたのは、中国の文与可の竹の葉の画や日本の蕪村の人物あたりくらいじゃないか、といい、結論としては「そんな抽象的なことを画にしようというのは間違いだ」と思い返して、(画家のくせに)俳句を作りはじめちゃうのですが。

この「普通の画」「第二の画」というのは、漱石先生が別のところで言ってる、「自然主義」と「浪漫主義」のたとえじゃないかと思いますが、それは別として。

文与可の竹

蕪村(人物じゃないけど)
 『草枕』の発表は1906年。

ロジャー・フライさんが「ポスト印象派展」をロンドンで開催したのは1910年。
漱石先生がロンドンに留学していた1900年~1902年には、ゴーギャンやゴッホやセザンヌはまだイギリスでは知られてなかったし、たぶん印象派の画もまだ一般にロンドン市民の目には触れてなかったのじゃないかと思います(未確認ですが)。

「心持ちだけの画」「抽象を表現した画」 は、いってみれば、20世紀にはいってまもなく現れる抽象絵画や表現主義で実現します。
でも世紀の変わり目には、表現主義の一歩手前といえるゴッホもゴーギャンも超先端すぎて、ついていける人はほとんどいなかった。1910年の「ポスト印象派展」も酷評だらけで、「英国文化に対する侮辱」と怒る人が多かったといいます。

漱石先生がもし留学当時にゴッホの画を見てたら、どういう感想を持っただろうか。そのただならない率直なエネルギーに打たれて直ちに画家の心を理解したのではないか、そして、『草枕』も少し変わっていたのではないだろうか、と妄想してみる。

『草枕』には、ミレイの「オフィーリア」がモチーフとして出てきます。ミレイも仲間だった「ラファエル前派」が活躍したのは漱石先生の留学よりも半世紀前ではありますが、世紀の変わり目のロンドンでも、まだ影響力は尾を引いていたはずです。

(追記:「前ラファエル派」じゃなくて「ラファエル前派」でした。うひゃひゃー、訂正!)

どうも漱石先生はターナーとともにラファエル前派がお気に入りだった、というか、恐らくロンドンで実物を見て強い印象を持ったのではないかという気がします。

オフィーリアちゃん (1852)

この「ラファエル前派」は文学的で理屈っぽい人が多かったようですが、漱石先生の小説に出てくる女性は、このラファエル前派が好んで描いたという「転落する悲劇のヒロイン」の面影を負ってるように思えます。

多分、漱石先生とラファエル前派について研究している人はたくさんいるのでしょうけど。

ラファエル前派グループはどうも偽善者っぽくて、いけ好かない。




『草枕』は久々に読み返してみて、すごく面白かったです。『草枕』のヒロイン那美さんは悲劇の人ではあるものの、これ以降の『虞美人草』の藤尾や『三四郎』の美彌子なんかよりもずっと生き生きしてて魅力的です。

これを読むと、美しい羊羹と玉露が味わいたくなります(涙)。ヨウカン食べたい。


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2015/04/26

今すぐ不幸をやめるための、かなり確実な方法 その2



つづきです。


バイロン・ケイティさんの提唱している「ワーク」は、要するに考え方のエクササイズです。

習慣化している考え方を、少し離れた場所から見てみて、それがどのように作用しているかに気づくためのエクササイズ。

なので、このように考えるべき、考えた方が良い、というような提案は一切ありませんが、ケイティさんは『Loving What Is』の中で、「多くの人に役立つ原則」として、次の5つを紹介しています。

これをベースにすると問題が整理しやすくなる、という原則です。

Noticing When Your Thoughts Argue with Reality(自分の考えが現実と衝突していることに気づく)

Staying in Your Own Business(あなた自身の問題だけを考えるようにする)

Meeting Your Thoughts With Understanding(自分自身の考え方を理解する)

Becoming Aware of Your Stories(あなたの物語に気づく)

Looking for the Thought Behind the Suffering(苦悩のもととなっている考えを探し当てる)


この中で、私の場合、一番てっとり早く思考の習慣を変えるためのテコのように役立ったのは、「あなた自身の問題だけを考えるようにする」という考え方でした。

以下、またちょっと長いですが『Loving What Is』からの引用。(拙訳)

< 私の知る限り、この世界には三種類の問題しかありません。

私の問題、あなたの問題、そして神様の問題です。
(私にとって「神様」というのは「現実」のことです。現実は神です。すべてを支配しているのですから。何事であれ、私やあなたや、誰のコントロールも及ばない事柄を、私は「神様の問題」としています)

私たちの感じるストレスの大部分は、自分自身の問題ではないところに自分を置いているのが原因です。

私が「あなたは仕事を見つけるべきだ、幸せになるべきだ、時間を守るべきだ、もっと自分の身の回りをきちんとすべきだ」と思う時、私は「あなたの問題」に立ち入っています。私が地震や洪水、戦争、それに自分がいつ死ぬのかについて心配している時、私は「神様の問題」に立ち入っているのです。

私があなたの問題や神様の問題に立ち入っていると、切り離された感覚に陥ります。>



<あなたがあなた自身の人生を生きている時に、あなたの人生を私が生きようとしたら、ここで私の人生を生きているのは誰なのでしょう? あなたの人生を、二人が生きていることになってしまいます。

あなたの問題に立ち入っている間、私は自分自身の問題に向き合うことが出来ません。私は自分自身から切り離され、なぜ自分の人生がうまくいかないのかと悩むことになります。

誰かにとって何が一番良いのかを知っている、と思う時、私は自分の問題から離れているのです。たとえそれが愛によるものであっても、それは全くの傲慢であり、その結果もたらされるのは緊張と不安と恐怖でしかありません。

では、私は私にとって何が良いのかを知っているでしょうか? 唯一、それだけが、私の問題です。誰かほかの人の問題を解決しようと思う前に、まず私は自分の問題を解決しなくてはなりません。

三つの問題の違いをよく理解して自分自身の問題に集中することが出来れば、人生を、考えも及ばないほど自由なものにすることが出来るでしょう。

この次にストレスを感じたり、落ち着かない気分になったりした時には、「私は今、誰の問題に立ち入っているんだろう?」と自分に尋ねてみてください。もしかしたら大笑いしてしまうかもしれません。

この質問は、あなたを自分自身に引き戻してくれます。ひょっとすると、あなたは自分が今までずっと、今この時に生きることなく、誰かほかの人の問題の中に生きようとしていたのだ、と気づくかもしれません。>

(引用ここまで)

考えてみれば当たり前みたいなことなんですが、なかなかこうすっぱりと割り切れず、何もかも自分の問題として悩んでいた時期が、いかに長かったことか。

それまで重荷に感じていたものが自分の荷物じゃなかったとことに気づいて、自分の影響が及ばない範囲のことは悩んでも仕方ない、とだんだん割り切れるようになってきたことで、かなり人生がシンプルになりました。

たとえば、子どもに宿題が出来る環境を整えて、時間を作ってやるのは親の役目(自分の問題)。だけど子どもがどれだけ学ぶか、結果を出すかどうかは 、子どもの問題。

自分の力の及ぶ範囲で問題を解決するために最善を尽くしたと思えるなら、あとは神様の問題に分類する。

誰かが私が過去にしたことや私の存在そのものに腹をたてているとしても、今の時点で私にできることがないなら、それはもう「私の問題」の箱にいれておく必要はない。

ケイティさんの本は、私が最初に読んだときには日本語版は絶版になっていたのですが(もうはや10年以上前!)、その後、水島広子さんという有名な精神科医の方の翻訳で日本語書籍『探すのをやめたとき愛はみつかる』が出て、この『Loving What Is』の日本語版らしい『ザ・ワーク』という書籍も刊行されていて、さらに日本語版のウェブサイトも出来てました。

私自身はクリスチャンなんですが、前回書いたように、これは本当に無色透明といっていい実際的なエクササイズなので、宗教を持っている人にも、無宗教の人にも、スピリチュアルな傾向に興味のある人にも、まったくない人にも、まんべんなく役に立つツールだと思います。



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2015/04/24

今すぐ不幸をやめるための、かなり確実な方法 その1

(執着中)

「あなたは、あなたの考えに執着しているか、そうでなければその考えを「検証」しているか、のどちらかです。

そのほかの状態というのは、ないのです」

「考えというものは、私たちがそれを真実だと信じ込まない限りは、無害なものです。考えそのものではなく、私たちの自分の考えへの「執着」が、私たちを苦しめるのです」

Byron Katie(バイロン・ケイティ)という人の著書『Loving What Is』を知ったのは、ハワイにいた頃、2004年くらいだったか。

当時、鬱の治療のために通ってた精神科医がすすめてくれた本です。

離婚して子どもを抱えて、身軽になってはみたものの、一人で生きていけるだけの技量が自分には欠けていると思い、自分がいかに頭の悪い何も出来ない女であるかにつくづく嫌気がさしていた頃でした。

この本は本当に目から何枚もうろこを落としてくれました。 

アメリカの書店にはセルフヘルプの本が何千冊も並んでいるけれど、このケイティさんの本は、今すぐ、どんな状況でも、どんな人にも使える、不幸であることをすぐにやめるための確実な方法として、真剣に誰にでもおすすめできます。

どんな年齢でも、どんな宗教の信仰を持っていても、どれほど根が深く深刻な問題にでも、きっとよく効く方法。

なんていうと胡散臭いキワモノのようですが、このメソッドは、この本を紹介してくれた精神科医によると、ごくシンプルな「認知行動療法」の一種なのだそうです。



自分がとらわれている「考え」を、何歩か下がって「点検・検証」してみる。

そしてその考えがなければ自分はどんな生活が送れるだろうか、と想像してみる。

たったそれだけです。

無理矢理に自分を「コントロール」したり、「とらわれないようにする」ことは人間には不可能、とケイティさんは言ってます。確かに、自制しようとする努力は無理が空回りしてしまうことの方が、多いようです。

(以下、『Loving What Is』より拙訳)

<自分の思考をコントロール出来た人は一人もいません。
自分はこうしてコントロールした、と話す人はいるかもしれませんが。

私が思考を捨てることはありません。理解をもって向き合うのです。そうすると、考えの方で、私を離れていくのです。

思考とは、そよ風や、木々の葉、天から落ちる雨粒のようなものです。ただそのように現われる考えを精査することによって、私たちは思考と仲良くなることが出来るのです。

あなたは雨粒と口論するでしょうか? 雨粒は誰かに属するものではありません。考えも同じです。私たちを苦しめる考え方をひとたび理解することが出来れば、次にその考えが現れた時には、興味をもって眺めることが出来るかもしれません。

かつて悪夢だったものが、次には興味深く、その次には面白いものとして見え、またその次には、その考えに気づくことさえないかもしれません。それが、あるがままを愛することの力です。 >


ケイティさんが薦めているこのメソッド、「WORK」は、ごくごくシンプル。

 まずは、「Judge Your Neighbor Worksheet (他人を批判するワークシート)」。
自分が今、イライラしていたり、怒りを感じていたり、モヤモヤしている事柄について、その怒りのほこ先が向かっている相手のことを書き綴ります。


あの人のここが悪い、あの人はこうするべきだ、こうしなくてはいけない。

夫はもっと家事を手伝うべきだ、上司は仕事の仕方を変えるべきだ、あの人は人に責任をなすりつけるべきじゃない、などなど…

言いたいことを全部書いたら、今度は自分に対して、4つの簡単な質問をしてみる。

「Is it TRUE? (それは、本当のことですか?)」(答えはイエスかノーのどちらか)

「Can you absolutely know that it is true? (それが絶対に真実だと、確実に言い切れますか?)」

「How do you react, what happens, when you believe that thought? (その考えを信じこんでいるとき、あなたはどう反応しますか?何が起こりますか?)」

「Who would you be without the thought? (その考えがなかったら、あなたはどんな人になりますか?)」

質問に答え終わったら、今度はその答えを「ひっくり返して」みる。

たとえば、「上司は仕事の仕方を変えるべきだ」だったら、「わたしは仕事の仕方を変えるべき」「上司は仕事の仕方を変えている」など。主語を自分と入れ替えたり、「べき」を「べきではない」や「(すでに)している」に変えてみたりする。

これは、自分がどうしても離れることのできないでいる考えの習慣から自分を引き剥がして、ちょっと違った観点から眺めてみるための、とても強力なツールです。



「自分の考えが現実と衝突していることに気づく」ことが肝心、とケイティさんは言います。


(以下、『Loving What Is』から拙訳)

<私たちが苦しむのは、ありのままの現実と食い違うことを信じている時だけです。心に一切の曇りがない時には、ありのままの現実と、私たちが求めるものは同じです。

 現実と違うことを求めるのは、猫にワンワン吠えるように教え込もうとするようなものです。何度やったところで、おしまいに猫はあなたを見上げて「ニャア」と啼くでしょう。

今ここにあるのと違う現実を求めても、望みはありません。一生を費やしても、猫に吠え方を教えることは出来ません。

しかし注意深く観察してみれば、自分がそれと同じような考えを毎日何十回も抱いていることがわかるでしょう。「皆もっと親切にするべきだ」「子どもは行儀よくすべき」「お隣はもっと芝生の手入れをこまめにするべきだ」「スーパーのレジの列はもっと速く動くべき」「夫は(妻は) 私に同意すべき」「私はもっと痩せている(綺麗である、成功している) べきだ」。こうした考えは、ありのままと違う現実を求めるものです。

気が滅入る考えだと思いますか? その通り。私たちがこうむるすべてのストレスは、現実(リアリティ)との衝突が引き起こすのです。>


以前、わたしはかなりの時間をくよくよと悩んだり腹を立てたりすることに費やしていました。

マイナスの感情に引きずられている時間というのは不毛で消耗するだけ。
何も生産しません。

本当に無駄で何の足しにもならないことに延々と時間を費やしていることにあるときはっと気づいて、だんだんとそういう無駄な習慣を遠ざけ、考え方を切り替える新しい習慣をJ徐々に身につけられたのは、この「WORK」のおかげでした。

長くなったので続く。

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2015/04/22

Chick-fil-A が来た

 

 シアトル近郊の町、ベルビューとタコマに、待望のChick-fil-A が出来たそうです。

ジョージア州発の、メニューはチキンのみ、牛肉なしのファーストフード・レストラン。

2年前、アトランタに行ったときに初めてYちゃんに連れてってもらった。
フレッシュレモネードもあるし、ファーストフードにしてはきめ細かくてなかなかおいしいのです。

 

(アトランタで撮った写真を探してみました。やっぱりあった、笑)

どっちの店でもオープン前に徹夜行列ができたというニュースを聞いて、なぜチキンサンドイッチのために??と思ったら、「新しい店の最初の100名には1年間毎週無料のサンドイッチを贈呈」というプロモーションでした。

みんなほんとにテント持参で並んでるwww
これでニュースになるんだから安いものですね。
でもいくらタダだとはいえ、これだけの人が集まるのはすごい。
「チキンサンドイッチ界のクリスピークリーム」というほど根強いファンベースがあるんだそうです。

「EAT MOR CHICKN」(もっとトリをくぇ)という主張をかかげるウシたちが出演するここのテレビCMも、強烈におかしくて好き。


バーガーを食べていると、どこからともなく現れたウシに、うらめしそうに無言で見つめられるの巻。

ここの創業者は熱心なクリスチャンの人で、だからファーストフード店には珍しく、というよりも全米チェーンのお店ではあり得ないほど珍しいのですが、毎週日曜日は全店休業です。

これは創業時から変わらない方針で、ウェブサイトでは、「信仰上だけでなく、実務的にも理にかなったこと」として、「従業員がしっかり休みをとり、家族や友人と過ごし、希望するなら教会に行く時間を持てるようであるべきだから日曜は休み」といっています。

これはほんとに素晴らしい方針。ちょっと不便でも、みんな国民の祝日や日曜日は休みでいいよ!(といいながら、開いていれば日曜の深夜にスーパーで買い物しちゃうんですけどね)

ここのCEO(創業2代目)はしかし、2012年に同性婚について否定的な見解を述べて大炎上していて、各地の大学で学生がChick-fil-Aの出店を阻止するなどの痛い目にもあってます。

一大LGBT拠点でもあるシアトル市内への出店はあるのでしょうか。

ベルビュー店は混みすぎて交通渋滞を引き起こしているという話も。もうちょっと空いたら行ってみよう。

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2015/04/19

日本の美:「繊細」「丁寧」「緻密」「簡潔」な包装アート


先日、猫パパPご夫妻に日本からのおみやげを頂きました。

美しい京都のお煎餅。

空気のように軽いお米のふわふわぱりぱりな食感も素晴らしいんですが、それより何より目を剥いたのは、出来上がりはきわめてシンプルながら超絶技巧の包装。

お煎餅が入っている円筒形の缶が、一枚のふつうの紙で包んである。


こうやって。

長方形の紙で円筒が包めるのか! しかも、使ってあるシールは1枚だけ!
余計なテープがベタベタと貼ってあるようなシロモノではありません。

…日本に住んでたらきっと全然普通のこととして見過ごしていたのかもしれないけど、四角い箱のキャラメル包みしかできない私からみると神々しくさえ見えるこの匠の技に、えらく感動してしまいました。


今、原研哉さんというデザイナーさんの『日本のデザイン』という新書を日本からNちゃんに送ってもらって読書中なんですが、その中で原さんは、日本には「繊細」「丁寧」「緻密」「簡潔」という、長い伝統に根づいた価値観が行き渡っている、これは世界でもきわめて特異なことだ、といってます。

これには激しく同意。
ほんとにこんなに何ごとにも丁寧な国民ってたぶん、世界のどこにもいないと思う。

アメリカのカスタマーサービスに慣れた後で日本に一時帰国すると、毎度毎度激しいカルチャーショックを受けるゆえんです。

この缶を包む紙の形は、まさに「繊細」「丁寧」「緻密」「簡潔」の粋。

これは間違いなく、風呂敷でものを包む、キモノという単純な形の衣服で身を包む、という生活の美意識が生んだものなんだなあ、としみじみ感慨にふけってしまいました。

「第二次対戦後、高度成長期を経て日本の街並みはひどく醜いものになり、家の中には醜くて要らないモノが溢れるようになったけれど、この辺で仕切り直して、日本にもとから根づいている美意識を社会の資本として活かし、要らないものを減らし、ほんとうにうまく機能する美しいデザインを世界に打ち出していってはどうか」、というのが原さんの主張です。


無駄といえば、日本のお菓子やらの包装って、過剰としか思えないものが多いです。
「丁寧」「繊細」を常に求める日本の消費者の要求に合わせようとするあまり、過剰な無駄が膨れ上がってしまっているように見えます。

たとえば一口サイズのお煎餅やクッキーに、プラスチックの個別包装、プラ材の成形材、プラスチックの外袋、と二重三重の袋がかけられていて、中身の5倍くらいの包装材がゴミとして出る、というのは、「緻密」であっても「簡潔」ではないです。

この洗練を極めたお煎餅缶の包装のように神々しいほど簡潔な美しさを持ったものが、もっと日本からどんどん出てきて、世界を驚かせてくれるといいな、と思います。


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2015/04/16

LUCY&草薙少佐




 ひだまりの日の猫たち。

久々に、一眼レフを出してきてみました。



先日、だいぶ前だけど『LUCY』を見ました。
すごく面白かったです。

前知識なしで見に行ったんですが、リュック・ベッソン監督の映画だったんですね。

話の内容に対してアクションは派手すぎだと思ったけど、説得力ありすぎの韓国ヤクザとフランス人刑事がすごく良かった!

この監督はこういうアウトロー的な男を色っぽくみせるのがほんとに上手だなあ。さすがフランス人。
韓国マフィアは北野たけしの映画のヤクザより怖かった。(たけし映画のヤクザには色気がない)

人間は脳の潜在的な力の10パーセントしか使っていないというけれど、100パーセントを全開で使えてしまったらどうなるか?
という話でした。

(以下、ネタバレ注意)




これは人工知能の話ではないけれど、いつか確実に人間の能力を超えていくと考えられている人工知能も、最後にはこの映画のルーシーちゃんの完成形みたいな感じの存在になっていくんではないかという気がします。30年後だか、100年後だか、300年後だかに。

脳がどんどん発達して、自分の体の組成や、自分以外のものの組成も思うままに変えられるようになってしまうルーシーちゃんは、

「私たちは時間の中にしか存在しない」

と言うのです。

「We do not really die」


とも。


そして最後には時空を超えて、原初の「ルーシー」(全人類と遺伝子的につながっているという類人猿のルーシー)と出会います。
(時空を超えていくときに座ってたのはハーマンミラーのエンボディチェアでした!)

 
凄い勢いで脳が発達していく中で、頭にどんどん入ってくる知識と見識を一体どうすればいいのかわからない、というルーシーちゃんに、モーガン・フリーマン演じる教授は、こう助言します。

これまでにすべての生命がしてきたのは、受け継ぐことと、分かち合うことの2つでしかない。
ぜひ、あなたが今得ているその見識を、我々にも分かち合ってほしい。

そして最後に、脳の最大キャパシティに達したルーシーちゃんは「情報」をのこして、すべてのものの中に溶け込んでしまう。

いってみれば「スピリット」みたいな存在になった、ということなんでしょう。あるいは、ある意味「情報」そのものになったということか。

スカーレット・ヨハンソンは、『ロスト・イン・トランスレーション』で最初に見たときには美人だと思わなかったけど、奇妙に色っぽい女優さんですね。最近、すごく好き。

ハリウッドで制作が進行中という『攻殻機動隊』の草薙素子少佐役にスカーレット・ヨハンソンが決定しかかってるという話をどこかで見ましたが、ほんとか??

コアなファンの人からは猛反発が出てるらしいですが、どういう映画になるのか興味しんしん。
アニメ版の実写化ってことなんでしょうね。

ということで手元にある士郎正宗さんの『攻殻機動隊(1)』を20年ぶりに読み直してみました。
そしてびっくり。

最後のほうに出てくる、電脳空間で自我を芽生えさせる「生命体」の「人形使い」というのは、映画の完成形のルーシーちゃんと同じようなモノではないか!

以前に読んだときにはきっとほとんど理解できてなかったと思う、ていうか覚えてないのですが、

「物質宇宙は沈殿物のような部分でしかない」
「遺伝子や模倣子は君が消えたあとも成長を続ける…ドーナツ状に」
「上へいくほどレベルは巨視化し決定論的にふるまう。逆に下は微細構造にいく程非決定論的になる」
「ネットワークは超宇宙サイズで無限の深さを持つ」
「生命はその枝の先に成る果実」


…というこの世界観は、このところとってもリアルに感じられているものでした。『攻殻機動隊』初版は1991年、まだ一般にインターネットも普及していなかったことを考えると、ここに出てくる情報やネットと意識の捉え方は恐ろしいほど時代に先がけてます。

このマンガの舞台は2030年。それまでに日本を巻き込む戦争が起こる可能性は少ないと思うけれど、人工知能やウェアブル端末(サイバーパンクの予言どおり、本当に人体への「埋め込み」型になってもまったく不思議じゃない)の発展で、15年後の世界では「個人」の捉え方が大きく変わってくるのだろうなあと思います。部分的なサイボーグ化も、草薙素子少佐ほどの義体はまだできないにしても、だんだんと進むのだろうし。


ていうか、「2」が出てたの知らなかった!

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八重桜の並木


今年のシアトル、ソメイヨシノは4月の声を聞くか聞かないかのうちに終わってしまいましたが、今は八重桜が満開です。

うちのアパートがある町内では両側に八重桜の並木という豪華な道があって、今日あたりは桜吹雪でした。


こっちは色の薄い種類。最近植えられたもののようで、まだ若い木です。

ここだけでなく、庭に桜を植えている家も多いし、学校や公園にもたくさんあるし、シアトルの人は桜がほんとに大好きなんですね。

3月はずっと暖かかったのにまた急に気温が10度C以下に下がって、季節が少し逆戻りしたような陽気です。



ツツジの上に桜が散っているという、絢爛豪華な色。



今回も、iPhone写真でした。


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2015/04/15

NEO POPのカオスとKawaiiの空白


先日、ボランティア公園のシアトル・アジア美術館に「NEO POP」展を見に行ってきました。4月5日まででした。

日本人アーティスト「Mr」の展覧会。 入り口から、もう萌えてます。
左側の帽子をかぶった男の子キャラはファレルだそうです。


ビデオでコラボレーションをしておられる。


展示室の入り口に突然あるのがこのゴミの山。


ああ、なんかこのカオスは見覚えがあるよ。というのが、第一印象。

ウチの弟Aの部屋が少しこんな感じだったし、ほかにもこういうカオスの部屋は何度か見たことある。

解説には、このインスタレーションは「東日本大震災にインスピレーションを得た」と、ありました。

A reminder of the debris that blanketed the Tohoku area in the aftermath of 3.11 tsunami and earthquake, the installation embodies the post-disaster fear and frustration of the Japanese people since the catastrophic events.

(3月11日の津波被害により東北地域を覆った瓦礫を思わせるインスタレーションは、この天災の後に日本の人びとの心に長くのこる恐れとフラストレーションを体現するものなのです)

ううううーん、そう? 

私はこのインスタレーション自体は面白いと思ったけど、大震災にそういう形で直結させちゃうのはちょっとどうなの?やや安直じゃないの?と思わずにいられませんでした。
だってこの部屋、見たことあるもの、昭和の末に。

震災うんぬんは後付けじゃないかと思うなあ。分かった気になってもらいやすい説明、て気がするんですけど。


むしろこのカオスは「数十年来の、僕の頭の中の状況です」って言うほうが、迫力あると思うんですけど。


このカオスは、天災を再現しようというものとは感じられないのです。
形あったものが天災でひっくり返された、という状況ではない。
だんだんに増えてきたモノが収集つかなくなって崩れてしまった、というさまに見えます。

自分の中に前から巣食っていたものが、震災を機に、明るいところに出てきてしまいました。という意味なのだったら納得できる。



そしてこの汚部屋、カオスは、たぶん昭和の日本に生きた人の中には、程度の差はあれいくらかずつは埋め込まれているのではないかと思うのですよ。

天災に対してではなくて、もとからあったこの片付けようのないカオスにいいようのないフラストレーションを感じる。

でもそのイライラさせるところが素直に面白かった、インスタレーションでした。


この風景も見たことがある。昭和の悪い夢の中でw

ところどころにある三文印鑑のケースは、匿名性というか、だれにでも所有可能であること、または無名性、の象徴ってことなのかしら?  


このMr.という人の名前は、この展覧会について知るまでまったく聞いたことなかったのですが、村上隆氏の「お弟子さん」で、最近注目されてるのだそうです。


美術館での単独の展覧会はこれが初めて。


ほかの作品は「大きなパネルに描かれた、とても良くできた萌え絵」でした。


アニメな女の子のキャラはすごく可愛い。可愛さに隙がないけど間が抜けててイノセントで元気はつらつ。
非常に優秀で洗練された萌えキャラです。

しかしこの画面への情報の盛られ具合には、冒頭のインスタレーションと同じような圧迫感があります。


昔の雑誌の表紙のような体裁のこの2つのパネル絵にも、よく見ると脈絡のない看板だとか80年代的なロゴだとかが隙間のないほどに盛られている。

あのインスタレーションのゴミの山と同じような、たまりにたまって捨てられないでいる消費物、シンボル、標識、標語、意味のない情報の数々。

主役の女の子は可愛くてキラキラしているのだけど、その世界を構成しているのはなんだかとてもドロドロしたカオス。

たしかにこれは日本の「カワイイ」の世界です。日本のバラエティ番組のよう。

ハイパーで明るくて、この閉じた文脈の中では完璧に洗練されていて、何もかも予定調和の中にきれいに着地していて、水も漏らさないほど完成されているのだけど、中身はからっぽ。

この「からっぽ」こそ、でも、「カワイイ」の正体なんだなと思ったのです。


会場でもらったパンフに、「カワイイと萌え」についての解説がありました。
<シュールレアリスム運動のリーダーであったアンドレ・ブレトンがアーティストたちに対して無意識を解放せよと奨めたように、Mr.のメンターである村上隆はMr.に「可能な限り本当の自分自身に近づいて」作品の中に複雑な心理を解放するよう奨めました。>

<「キュー ト」という意味の「カワイイ」は、日本のポップカルチャー、特にマンガやアニメにおいて中心的位置を占めます。本展で展覧しているMr. の一連の近作は、日本のポップアートにおけるカワイイを「萌え」という新たな次元へもたらすものです。Mr.が表現する「萌え」な少女たちは、プラ トニックな理想像であり、従来的な感覚でのエロスではなく、思春期の少女のイノセンスに向けられた誇張されたファンタジーを体現しています。フィクション の可愛らしいキャラクターが表現する「萌え」は、若さや若々しい活力への希求を物語っています。これは日本の若者のサブカルチャーが生んだ概念であり、ファン タジーとバーチャル体験を重視し、権威、社会が期待するあり方、あるいは政治的な活動などに反抗する姿勢をあらわしています。>(拙訳)

温泉街で草間彌生の水玉カフェに行き、そのあとグラバー由美子さんの個展を見て以来、「カワイイ」と「萌え」についてずっと考えているんですが、カワイイや萌えが権威への反抗(rebellion)というこの解説はピンと来ませんでした。

ヲタク青年たちを思い浮かべると、それは「反抗(rebellion)」というような積極的な態度ではなくて、関与を拒否(refuse)または無視(ignore)くらいではないか、と最初思ったのですが、カワイイの主人公である少女たちについて考えてみると、「からっぽ」であること、あくまでも上っ面だけの存在(カワイイだけ)に徹すること、というのは、権威の否定といえばいえる。

これまでの社会、従来の規範が要求する「ナカミ」の重要性を否定すること、ナカミなんて意味がなくなるほど上っ皮が圧倒的に完成されていること。

期待されている「ナカミ」というのは、社会の文脈に従った成長ということ。カワイイというのはそんな期待どおりの成熟を拒否することが前提になっていて、従来の価値観をすべて(すくなくともその一瞬)チャラにすることができるカードなのだな、とも思ったのでした。

ゲームのほかのルールをすべて無効にしてしまう、ジョーカーのようなカード。これを出すと、それまでの世界がぐらっと変わってしまうのです。 

その力は本質的には「エロス」であるはずなんだけど、そうストレートにはいかないのがカワイイの世界。


驚いたことに、ドーナツを頭につけた女の子たちが見にきていました。
なにかのコスプレ、なのか、オリジナルなのか不明ですが、全身萌え萌えでした。

この展示は、Mr.が作った短編映画『誰も死なない』に使われた衣装。

この映画は会場で上映中だったものの、席がなかったのでちょっとだけ見て出てきてしまいました。


「萌え」についてはほんとに人それぞれ勝手な見方ができますよね。

男性アーティストが「女性美」を描いた作品には19世紀のものからこの「萌え」に至るまでイラっとさせられることが多いです。が、それはまた別の機会に。



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2015/04/13

懲りずにドリアン




いい加減な年をして、変なおやつを見つけると買わずにいられないのはなぜなのか。


以前に黒ゴマアイスクリームが大当たりでおいしかったシアトルのアイスクリーム屋さんPINK'S の「ドリアン」風味をスーパーで見つけてしまいましたよ。

しかも他のフレーバーは5ドルくらいなのに、これだけ7ドル以上の高額商品。

えー高っ!と言ってたら、Mちゃんが買ってくれた。ありがとう。いただきます。


蓋を開けると、さっそくほのかなLPガスの匂いが。

その瞬間、思い出した。あの真夏の中西部ドライブでのドリアンウエハファース事件を。

2スクープ食べました。おいしいと思う。思うけど、匂いはガス。

食べ終えたお皿をしばらくそのまま目の前において映画を見ていたら、映画が終わる前に頭痛がしてきました。

[Extremely Pungent ]と断り書きがついているだけに、かなりの実力があります。


息子と、遊びに来ていたそのガールフレンドにも勧めてみました。

2人とも蓋をあけてくんくん匂いを嗅ぎ、すぐに蓋をした。

「プロパンくさい」

といって、食べてくれません。


おいしいのに。
カボチャ種とドライパパイヤでトッピングしてみた。
トッピングの味がわからない。

いまTomozo家に遊びに来ると、もれなくドリアンアイスを御馳走しますよ。
(なかなか減らない)

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